アルビオンは、ハルケギニア大陸西方の外洋に浮遊する空中大陸である。何故に大陸が浮遊しているのか、ハルケギニアの学者達の間では諸説紛々ではあるが、一応大まかなところで「風」の精霊の力が影響しているのであろう、という事で落ち着いている。
ルイズとフェイトは、その下半分が真白い霧で覆われている大陸を、空中を帆に風をはらんで飛ぶ「船」の甲板から見上げていた。
「前に一度、姉さま達と一緒に旅行に来たことがあるの」
「そういえば、姫殿下にそう仰っていらっしゃいましたね」
「最初に見た時は驚いたわ。やっぱり聞くと見るとでは全然違うって。今見ていてもすごいと思うもの」
「そうですね。私も驚いております」
風にその暖かみのある金髪をたなびかせながら、フェイトが穏やかな表情で上空を見上げている。ルイズは、これから敵地を通り抜け、エッジヒル付近に陣を構えるという王党派軍まで行かねばならない、という前途思い表情を厳しくした。
「それで、本当に右腕は大丈夫なの?」
「はい。本当に運が良かった様です」
風に桃色がかった金髪が顔にかかるのを抑えながら、ルイズは、フェイトの瞳を見つめた。あいも変わらず光の無い深い深淵をたたえている瞳。
どうして彼女は本当の事を自分に話してくれないのだろう?
そうルイズは、最近よく考える。確かに自分も彼女の事を信頼していない。でもそれは、フェイトがいつも自分に黙って勝手にいろいろやっているからであって。彼女は自分をある一線から向こう側へは、絶対に踏み込ませようとはしない。
「さすがは「白の国」と呼ばれるだけの事はあるね」
「なるほど、あの白い霧のせいですか」
ワルドが、グリフォンを連れてルイズとフェイトに近寄ってくる。
「ああ。アルビオンは、年間のほとんどが霧に包まれていると言われる国でね。だが、その霧が河となって空に降り注いでまた霧となり、ハルケギニアに恵みの雨をもたらしてくれているのさ。おかげで、さほど広いとはいえず川の数も少ないトリステインでも、作物が豊富に実ってくれる」
ワルドは、そこまで語ったところでにやりと笑った。
「それでは諸君、これからが本番だ」
アルビオンの港街であるスカボローは、もっぱらトリステインやガリアから渡ってくる「船」を相手にした商業で繁盛している街である。今の時点では反乱軍が支配下におき、戦争需要を見込んだ商人や傭兵やらでごった返していた。
ルイズ達三人は、スカボローの貴族向けの宿「黄金の杯」亭に宿をとった。貴族向けだけあって、そこそこ悪くないつくりと装飾の宿である。ルイズを宿に残すと、ワルドとフェイトは街へと情報を集めに出かけていった。二人が戻ってきたのは、もうたっぷりと日が暮れてからであった。
その日の夜、宿の二階の一番奥の部屋で、三人は机の上に広げられた地図を前にこれからについて話し合っていた。
「反乱軍は、エッジヒルの南方三〇リーグにあるケアンズに集結しつつある。先日のレキシントンの戦いで反乱軍四万と王軍二万五千がぶつかり、両軍とも一万五千づつの損害を出して王軍がエッジヒルまで後退することとなった」
ワルドは、まるで見てきたかのように地図の上を指差しながら説明する。
「街で見た通り、どうやら勝ちの見えてきた反乱軍に参加しようという傭兵が、ぞくぞくと集まりつつある。あと一週間もしないうちに反乱軍は倍に膨れ上がるだろうね」
「それでも一週間は時間があるわけですね。このスカボローから東部のアサートンを経由する形で迂回しても、馬で三日もあれば到着できるでしょう。今、アサートンを抑えているのはどちら側かわかりましたか?」
「それが、どうやら反乱軍らしい。奴らはエッジヒルを三方から包囲し、今度こそ王軍を完全に撃破するつもりのようだ」
ワルドは地図の三箇所の街を指差した。確かにそこからエッジヒルまでまっすぐに街道が延びている。
「そうしますと、アサートンまでは馬で行き、そこからこの森と湿地帯を抜けてエッジヒルまで歩くというのでいかがでしょう?」
「反乱軍も、トリステインの貴族を相手に無茶はしないとは思うが。確かにそちらの方が安全といえば安全だろうけれどもね」
ワルドは、ちらとルイズの方を見やった。確かに女連れで森と湿地帯を抜けるのは、色々と無理がありすぎる。
だがルイズは、胸を張ってきっぱりと言い切った。
「大丈夫よ、ワルド。こう見えてもこの三ヶ月、フェイトに徹底的にしごいてもらったんだから!」
何をやらかしたんだ?
ワルドは、その鷹の様な鋭い視線をフェイトに向けた。
「いえ、一日に障害物ルート込みで五リーグの走りこみと、まあ、各種の体力の練成ですが」
「……君は僕のルイズをどうするつもりなんだ?」
「お嬢様のたってのご要望でしたので」
多少の不機嫌さを交えたワルドの視線に、フェイトはいけしゃあしゃあとそう答えた。
そんな二人の間に割って入るように、ルイズは、毎晩風呂に入る直前に最低でも一時間に渡って続けてきた訓練のことを、嬉々としてワルドに語った。
普通に草地を走るのは当然として、木板でできた垂直の壁をロープ一本で駆け上ったり、はしごが渡してある空中を両腕でぶら下がって渡ったり、ロープが一本通っているだけの空中を片足だけ下に伸ばしてバランスをとって渡ったり、砂地に打ち込まれた多くの杭の間に張り渡された針金の下を匍匐前進したり、軟泥の傾斜面を駆け上ったり、腰まである池を駆け抜けたり。
「ええ、懸垂なんて酷いのよ。「姫殿下に一回! 魔法学院に一回!」って。ちゃんと顎が鉄棒の上に出ないと許してもらえないんだから」
いかに自分が虐待に等しいしごきを受けてきたか、何故かそれはもう嬉しそうに語るルイズ。
ワルドといえば途中から、頭痛が痛い、といわんばかりの表情で右手で額を押さえている。
「判った、判ったよルイズ。だからもうこの話は終わりにしよう」
「えー、まだ「無限腕立て伏せ」の話が残っているのに」
「……その話は、エッジヒルについてからゆっくりを聞かせてもらうよ」
折角いい調子で話が弾んでいたところをワルドに手を振って止められて、ルイズはむうと不満そうに黙った。
実は同じ訓練をキュルケも一緒に行っているのだが、胸が揺れて邪魔になるのか、最近はタイムでどうしてもルイズにかなわなかったりする。相変わらずタバサは近くで本を読んでいるだけで、一緒に参加しようとはしなかったし、フェイトは二人が一周する間に平然と三周してみせて、格の違いを見せ付けてくれたりしていたが。
「判った。君達の体力に問題がないなら、僕に異存はない。より安全なルートでエッジヒルに向かうとしよう」
ワルドは、心底疲れた表情でそう結論を述べた。
「了解いたしました。それでは子爵様、少しお時間をよろしいでしょうか?」
「何かね?」
「いえ、森と湿地帯を抜けるための服を用意してきたのですが、ミスタ・グラモンの身体のサイズに合わせたので、子爵様には多少小さいかと。丈を直しますので、一度お召しいただけますでしょうか?」
スカボローを出てアサートンの森に到着するまで、三人は特に問題もなくグリフォンと馬で旅路をこなす事ができた。途中でフェイトが何度も山賊化した傭兵を事前に発見し、ワルドが魔法でそれを蹴散らかしはしたが。
「しかし、その望遠鏡は大したものだね」
「研究所の試作品ですが」
森や傾斜地があると、まずフェイトが先行して肉眼と望遠鏡で周囲を確認し、安全を確認してからグリフォンにまたがっているワルドとルイズに知らせる。その繰り返しで実質的に二日でアサートンの森まで到着できたのである。
ルイズはといえば、自分の魔法を実際にワルドに見せる機会がなくて、少々残念そうではあった。
「しかし、一メモリが一〇〇〇メート先で一メートか。相手の大きさが判っているならば距離が出せるし、距離が判っているなら大きさが判別できる。それに、この曲線に目標を合わせる事で、大体の距離が判る。本当に大した発明品だよ」
できる事なら僕も一本欲しいくらいだ。
実際に望遠鏡をのぞいて、ワルドは何度も感心した様子でうなずいている。
フェイトが前路斥候に使用している望遠鏡は、ミルメモリと一緒に、目標の長さを一五〇サントとした場合に、直線と曲線の間に挟む事で大まかな距離を測ることができるメモリも入った物であった。しかも望遠鏡内の二番目の反射鏡にメモリが刻まれているため、焦点を変えても画像の外周部分のメモリがぼやけたり歪んだりもしない。
「あとは、レンズの反射率を下げるコーティングですね。日光の反射でこちらの居場所が敵に知られては元も子もありませんから」
「君はそこまで要求するのか! すごいな。これがあれば、砲兵隊の威力は倍増しそうだ」
ワルドは何度も感心したようにうなずくと、フェイトの肩を叩いた。
「トリステインに戻ったら、是非これと同じものを僕にも一本作ってくれないか? 魔法を攻撃に使う身としては、これはとても役に立つよ」
「承りました」
そんな二人を見ていて、ルイズは、またも胸の中にもやもやした何かが広がるのを感じた。
ワルドとフェイトは決して仲が良いというわけではない。互いに互いを値踏みするような視線をしょっちゅう交わしているし、歓談しているように見えて、二人とも目だけは笑っていない。
なのに、二人が話をしているのを見ていると、なんというか機嫌が悪くなってゆく。
「ここからは徒歩ですね。それでは、そこの森の中で着替えましょう」
ワルドから望遠鏡を返してもらったフェイトは、馬の鞍に縛り付けてあった荷物を降ろし始めた。
「しかし、本当に君は用意がいいな。このスーツだが、茂みの中だと、本当に二〇メートも離れたら全く判らなくなるね」
「そのためのスーツですから」
ルイズ達三人は、緑や茶や黒といった色々な色の端切れが縫い付けられた網でできた、頭の上から足首まで一体化したスーツを身につけていた。ちなみに靴の上から、焦げ茶色の麻でできた靴袋をはいてもいる。フェイトが背負っていた背嚢の中には、フェイトとルイズの分の他にも、ギーシュの分もそのスーツと靴袋が入っていたのだ。
そして、革のケースの中から取り出した狙撃銃「バルディッシュ」。これにもぼろ布が巻きつけてあり、周囲の風景に溶け込むようにしてある。
フェイトは森の中の随道を進む時も、自ら前路斥候をかって出ていた。着替えた服や残りの荷物といえば、背嚢の中にしまわれてワルドのグリフォンの背に結び付けられ、若干小さめではあるが、似たような端切れ付の網がかけられている。
「そろそろ湿地帯だ。僕も「風」の魔法使いだ。誰かいるならば風が教えてくれる。開豁地ならば、僕の方が斥候には向いているだろう」
「了解いたしました。それでは背後から支援いたしますので」
「よろしく頼む」
ワルドは、この一日の徒歩での移動で、フェイトの歩き方や身のこなし方をすっかり学んでいた。木の根から根へと移動してできる限り足跡を残さないようにし、腰をかがめてできる限り藪や茂みから上へ顔を出さないようにする。移動する前には必ず周囲を確認して、安全を確かめてから移動する。佩いてきた剣に似た造りの愛用の杖にぼろ布を巻きつけて、日の光に反射しないようにし、手に持つ。
「ワルドって、陛下を直接護衛する魔法衛士隊の隊長なのよ。それこそ宮廷では、将軍や元帥にだって劣らない格式なのに。それがなんであんな格好であんな真似をしているのかしら」
なんか色々なものが心の中でがらがらと崩れていっているらしいルイズが、フェイトに向かってぼやいた。
「戦場では、より早く学び、学んだ事を活かすことが出来る兵士が生き残ります。子爵様はそういう意味では、非常に優れた兵士なのでしょう」
「なるほどね。二十六で隊長になっただけのことはあるのね」
「二十六歳、ですか?」
フェイトが、「バルディッシュ」を構えた格好で周囲を警戒しつつも、何故かぎょっとした表情で小声で聞き返す。
「そうよ。私より十歳年上だから、二十六歳。すごいでしょ?」
「いえ、その、私よりそれなりに年上の方かと思っておりましたものですから……」
「……あんた、今年で歳いくつ?」
「……三十になります」
「!? 嘘、二十くらいにしか見えないわよ?」
さすがに大声は上げなかったが、びっくりした表情でぽかんと口をあけるルイズ。
なんとなく気まずそうな表情でフェイトは、周囲に向けている視線を動かさず、弁解するように呟いた。
「私の住んでいた世界は、基本的に長命の人間が多く、私もその種の一人ですので」
「……あんた、本当に異世界から来たのね」
「はい」
そんなこんなで気まずい沈黙が漂う中、ワルドが戻ってきた。面を隠している布をめくると、その下から厳しい表情が現れる。
「敵が哨所を設けている。人数は二十名程度。騎馬銃兵だ。指揮官は杖を持っていた。メイジは二人か三人だな。見つからずに通り抜けるのはさすがに難しいようだ」
空は雲ひとつない快晴で、さんさんと初夏の日差しが周囲を照らしている。
ワルドは、森の奥へとルイズとフェイトをうながし、適当な木陰に横になった。
「夜になったら湿地を抜けよう。さすがに今は無理だ。君達も横になって体力を回復しておきたまえ」
上手くいかないときはとことん上手くいかないもので、その日の夜もすっかり晴れ渡り、満天の星空であった。重なっていた月も分かれ、湿地帯をこうこうと照らし出している。
フェイトは、中腰になったまま背に「デルフリンガー」を背負い、「バルディッシュ」を構え、ワルドとルイズから数十メート離れた前方をところどころ生えている葦の陰をゆっくりと進んでいく。初夏の陽気のせいだろう、カエルやらなんやらの鳴き声が、三人と一頭の足音を消してくれている。ワルドのグリフォンも心得たものか、鳴き声一つあげず主人の後ろをゆっくりとついてくる。
哨所の見張りといえば、まさかこんなところを誰かが通り抜けるとは思ってもいない様子で、時々あくびなどしながら眠そうな様子で適当に周囲を見ているだけであった。
まずはフェイトが湿地帯を抜け、森の中に駆け込む。そして、全周警戒を行い、森の中の安全を確認すると、ルイズとワルドに手振りでそれを知らせた。
ワルドが軽くルイズに向けてうなずき、葦の茂みから茂みへと足早に移動しつつ、フェイトの通った後を進んでいく。ルイズもその真似をし、出来る限り物音を立てないようにして、葦の茂みから飛び出した。
その瞬間であった。
「ゲコ」
「へ?」
「ゲコゲコ」
「いやああああああああぁぁぁああああっっ!!?」
葦の茂みの中から、ルイズの顔に一匹のカエルが張り付く。体長が二十サントはあろうかという、見事なヒキガエルの成体であった。
実はルイズはカエルが大嫌いであった。それこそ小さなアマガエルであっても、突然目前に現れれただけでびいびい泣き出してしまうくらいに。まして自分の顔に張り付いたのが、馬鹿でかく醜いイボだらけのカエルともなれば、パニックを起こして絶叫し、大暴れしても仕方がないというか。
ただし、今が敵の目をかすめて隠密行動をしている最中でなかったならば、という但し書きはつく。
「ぃやあぁああ!! とって、とってぇえぇっっ!!」
「ルイズ!!」
慌てて戻ってきたワルドが、暴れるルイズの顔からヒキガエルを引き剥がし、放り捨てる。そして、泣きじゃくるルイズの手を掴むと、ピッと口笛を吹き、グリフォンを呼び寄せた。
そのままルイズをグリフォンの背中に乗せ、フェイトの待っている茂みへと飛び立たせる。
と、鋭い轟音が響き、一メートはある火線がフェイトの構えている「バルディッシュ」から伸び、哨所からマスケット銃を構えようとした兵士の頭部を吹き飛ばす。続く轟音とともに、もう一人の哨兵も左胸を撃ち抜かれ、背中から血煙を吹き出しながら地面へと転がり落ちる。
「奥へ!」
フェイトはグリフォンに小さく、しかし鋭く命じると、ワルドが茂みに駆け込むまでさらに二人、飛び出してきた哨兵を射殺した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣きじゃくりながら、ルイズは、ひたすらフェイトとワルドに謝り続けていた。
三人はひたすら森の茂みの中を駆け続け、少しでも哨所から離れようとしていた。
「謝罪はエッジヒルについたらいくらでも聞きます。今は黙って走って下さい」
普段の柔らかさや甘さを一切感じさせない鋭い口調でルイズを黙らせ、最後尾を走るフェイト。時々止まっては地面に耳をつけて、後を追ってくる敵の足音を探っている。ルイズをグリフォンに乗せ、その横を走っていたワルドが、フェイトの横に移って語りかけた。
「どうだ? あとどれくらいで追いつかれる?」
「短くて半刻」
「森の中に隠れてやり過ごすとすると、少なくとも二日は犠牲にするな」
「この先、どこかで待ち構えて迎撃するというのは?」
「この夜闇の中では、一度に全員を倒すのは僕でも辛いな。他に何か方法はないか?」
厳しい表情のワルドが、手持ちの魔法での攻撃方法の手順を頭の中で一瞬のうちに組み上げたのだろう。即座に否定的な意見を返す。
フェイトは、一瞬だけ厳しい視線をルイズに投げ獰猛な笑みを浮かべる。それからワルドに視線を戻した。
「お嬢様に尻拭いをしていただきましょう」
森の中に幅の狭い随道が走っており、そこのまがり角の茂みの中に三人と一匹は隠れていた。
フェイトは、一切の感情のこもらない声で、彼女が急いで掘った掩退壕の中でべそをかいているルイズに向けて指示を下していた。
「私の合図とともに、最大威力の魔法を詠唱開始してください。何小節になります?」
「……「地震」六小節……」
「了解しました。目標は、あの地面に突き刺さった小枝です。見えますね?」
「……うん」
大体、五〇メートほど離れた場所に、皮をむかれ白い地肌をさらしている小枝が刺さっている。
再度地面に耳をつけたフェイトは、今度はワルドに向き直った。
「子爵様、爆発の瞬間、目をつむり、耳を両手でふさぎ、口を開けておいて下さい。爆発の衝撃波で鼓膜を破られる恐れがあります」
「判った。しかし、本当にルイズで大丈夫なのか?」
ワルドも、杖を構え、いつでも魔法の詠唱が出来るように用意している。
フェイトは、わずかに口の端を歪めて笑みらしきものを浮かべると、ほんのわずかだけ自慢気に小声で答えた。
「お嬢様の成長振りを、とくとご覧下さいますよう」
それだけ言って、フェイトは狙撃位置へと移動した。そのまま茂みの中に掘った掩退壕に這いつくばり、銃床の前方の二脚を下ろし、銃床をしっかり肩付けし、頬を銃床に当てる。そのまま、木々の間を流れる風に呼吸を合わせ、一切の気配を絶つ。
それからしばらく経ってからであった、闇の奥から十数騎の騎兵がマスケット銃を背負い駆けてくる。
「詠唱始め」
フェイトの声に、ルイズは、それでもとちることなく、小声で呪文の詠唱を始める。
それと同時に、ワルドは敵の状況を確認してから、フェイトの指示通り両手で耳をふさぎ、口をあけた。愛用の杖は、すぐに引き抜けるように左手の袖口に差し込んである。
「大地よ、我の心の震えのままに揺れよ! 「地震」!」
ルイズが呪文を完成させた瞬間、丁度騎兵らが地面に突き立つ小枝を乗り越えようとしたところであった。
真っ白の閃光とともに、まず爆風が周囲の木々をなぎ倒し、大地をえぐり騎兵らを空中高く放り上げる。人馬揃って身体をばらばらに引き裂かれ、血やその他の体液や内臓を振りまきながら、周囲数十メートに渡って降り注ぐ。続いて轟音が衝撃波となって森を駆け抜け、爆風になんとか耐えた木々を押し倒した。
ワルドは爆発と同時に目をつむったものの、まぶた越しに目を焼かれ、しばらくは視界が戻らなかった。さらに、爆音の衝撃波に耳が聞こえなくなり口からなだれ込むそれに内臓が揺さぶられる。三半規管が麻痺したのか、しばらく自分が立っているのか座っているのか、それとも寝転んでいるのか、それすら判らなくなる。
徐々に視界が戻り、耳鳴りも収まってきたところで、ワルドは、左袖の杖を引き抜いて立ち上がった。
だがワルドは、今更杖を振るう必要が無いことを十分に思い知らされた。
爆発の中心には直径三十メートのクレーターが出来ており、さらにその周囲百メート四方の全ての木々がなぎ倒されている。追跡してきた騎兵達は跡形もなく消え、周囲には土砂に混じって肉塊がそこここに転がっている。最後尾を走っていたために、一瞬で命を失う事はなかった敵は、全てフェイトがとどめを差し終わったところであった。それも、「バルディッシュ」ではなく、「デルフリンガー」によって心臓を突き刺されえぐられて。
「いや相棒! こいつはちょいと派手な葬式になったな!」
「一瞬で死ねたか、意識を失えただけ、まだマシだったでしょうね」
「そりゃそうだ! 内臓をぶちまけても意識が残っていたら、そりゃあ死んだほうがマシってもんだからな!」
呆然としてそんな情景を見ていたワルドに向かってフェイトは、「全員処分しました」と一言報告すると、ルイズの方へと近づいていった。
ルイズは、フェイトが作った掩退壕の中でうずくまって泣いていた。その掩退壕の中は、吐瀉物と排泄物のすえた臭いで満ちていた。
「大丈夫ですよお嬢様。もう全て終わりました」
「フェイト……」
涙にくれ、ぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ルイズは呟いた。身体を起こすと同時に、肉片交じりの土砂が背中から地面に落ちる。
そんな汚れた姿のルイズを、まるで気にせず優しく抱きしめると、フェイトは優しく言葉を続けた。
「立派なメイジぶりでした。おかげで皆の命が助かりました。本当にありがとうございます」
「……ふぇいとぉ……」
ルイズは、そのままフェイトにすがりつくように抱きつき、わんわんと泣き続けた。
フェイトは、ルイズに腰の水筒の栓を抜くと手渡した。
「さ、口の中をゆすいで下さいませ。出発いたしましょう。明け方にはエッジヒルです」
エッジヒルは、アルビオンの中央部から北部よりにある街道の集結点でもある街である。東西南北四方に街道が通り、普段は多くの商人でにぎわう商業都市でもあった。
だが街は、今では約八千の王軍が駐屯する前線拠点となっていた。
フェイト達は、アサートンの森を夜通し駆けて抜けると、わずかな休憩を挟みつつ街道をエッジヒルへと向けて進んだ。その甲斐もあってか、途中山賊に襲われる事もなく昼過ぎにはエッジヒルの街に到着できたのであった。
途中の村で井戸を借りて旅の汚れを落とし、再度貴族らしい格好に戻った頃には、ルイズはすっかり普段の態度に戻っていた。
「とりあえず、反乱軍が進撃を始める前に到着できて良かったわ」
アサートンの森での戦いで受けたショックは、すでにルイズの面には残ってはいないように見える。
だがワルドには、それが彼女の必死の虚勢であることが見て取れていた。初めて人を殺した時というのは、どれほどショックを受けていないように見えても、必ず心の奥深いところに傷跡を残す。まして、あれだけの凄惨な光景を作り上げたのだ。わずか十六歳の少女の心に傷が残っていないはずがない。
ワルドは、主人の心にそんな傷をつけて平然としているフェイトへの警戒心をさらに深めていた。だが、当のフェイトといえば、まるで何事も無かったかのように、いつも通りの何を考えているのか判らない微笑を浮かべて、ルイズとワルドの後ろを背嚢を背負ってついてくるだけである。
「さて、王軍の検問所だ。正式に名前と身分を名乗って、皇太子殿下に取り次いで頂こうじゃないか」
「ええ。ここまでなんとかやってこれたんですもの。きっと手紙だって返して頂けるわ」
ルイズ達三人が名乗ると、以外なほどあっさりとエッジヒルの城壁の門は開かれ、街の中央にある市庁舎へと通された。白地に赤い竜のアルビオン王国の国旗がひるがえるそこは、どうやら今や王軍の総司令部となっているらしい。
そして、通された市長用の応接室には、本来は王立空軍本国艦隊司令長官として北部にあるダーダネルス港にいるはずの、ウェールズ・テューダー皇太子がいたのであった。
「私が、アルビオン王立空軍大将、本国艦隊司令長官、ウェールズ・テューダー皇太子だ」
歳の頃は二十台半ばであろう。凛々しい金髪の若者である。長いこと空の上で過ごしてきたためか肌は浅黒く焼け、その金髪も色彩が抜けかけている。
「遠路はるばるアルビオン王国へようこそ、トリステインからの大使殿。さて、御用の向きをうかがおうか」
そう言って、ウェールズはルイズ達に席を勧めた。そしてまずは自分が席につく。
「トリステイン王国のアンリエッタ姫殿下よりの大使、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと申します」
立ったまま王族向けの礼式にかなった優雅な一礼をすると、ルイズは、興味深そうにウェールズを見つめた。
「アンリエッタ姫殿下より、密書を言付かって参りました」
「ふむ、姫殿下とな」
同じように興味深そうにルイズのことを見やると、ウェールズは、ルイズの後ろに控えているワルドとフェイトの方にも視線を向ける。
「ミス・ラ・ヴァリエール。差し支えなければ、後ろのお二人も紹介を願えるかね?」
「はい、皇太子殿下。こちらがトリステイン王国魔法衛士隊、グリフォン隊隊長、ワルド子爵」
ルイズの紹介に合わせて、帽子を脱いでいたワルドも、優雅に一礼する。
「こちらが、わたくしの使い魔で、フェイトと申します。殿下」
フェイトは腰を四十五度の角度に曲げて、王族に対する礼をする。
そんな二人のことをしばらく見つめていたウェールズは、破顔一笑すると席から立ち上がった。そして、ワルドとフェイトに次々に握手を求める。
「アサートンの森で起きた爆発は君達の仕業だね!? まったく、君達の様な立派な貴族があと十人も私の親衛隊にいてくれたならば、レキシントンの戦いでも負けることは無かったろうに! して、その密書とやらは?」
ルイズは、胸のポケットからアンリエッタの手紙を取り出した。だが、それをウェールズに渡すのをわずかにためらってしまう。
「あ、あの……」
「なんだね?」
「その、失礼ですが、何故こうもわたし達を簡単に謁見下さったのでしょう? 反乱軍は、皇太子様のお命を狙っておりましょうに」
ウェールズは笑った。
「ああ、それか。君がはめているその指輪だよ。見てご覧、私の指輪は、アルビオン王家に伝わる「風のルビー」だ。その指輪はアンリエッタがはめていた「水のルビー」だ。そうだね?」
ルイズはうなずいた。
「君達が身分を明かした陣地の指揮官はね、昔トリステインで王太后陛下の指にその指輪がはまっていたのを見たことがあるんだ。だから、早速僕に伝令を送ってよこしたわけさ」
それからウェールズは、ルイズの手を取ると自らの「風のルビー」と「水のルビー」を近づけた。二つの宝石は共鳴しあい、虹色の光を振りまいた。
「水と風は、虹を作る。王家に間にかかる虹さ」
「大変、失礼おばいたしました」
ルイズは一礼して、手紙をウェールズに手渡す。
ウェールズは愛しそうにその手紙を見つめると、花押に接吻した。それから慎重に封を開き、手紙を広げると、読み始めた。
真剣な顔で手紙を読んでいたが、そのうちに顔を上げた。
「姫は結婚するのか? あの、愛らしいアンリエッタが。私の可愛い……、従妹は」
ルイズは無言で頭を下げ、肯定の意を示した。再び、ウェールズは手紙に視線を落とす。最後の一行まで読むと、微笑んだ。
「了解した。姫は、あの手紙を返して欲しいとこの私に告げている。何より大切な、姫から貰った手紙だが、姫の望みは私の望みだ。そのようにしよう」
ルイズの顔が輝いた。
「それでは、私の居室にまでご足労願いたい」
ルイズたちは、ウェールズに付き従い、庁舎内の彼の居室へと向かった。庁舎の最上階の一角にあるウェールズの居室は、皇太子の部屋とは思えない、質素な部屋であった。
木で出来た粗末なベッドに、椅子とテーブルが一組。壁には戦の様子を描いたタペストリーが飾られている。
ウェールズは椅子に腰掛けると、机の引き出しを開いた。そこには宝石が散りばめられた小箱が入っている。首からネックレスを外す。その先には小さな鍵がついていた。皇太子は小箱の鍵穴にそれを差し込み、箱を開けた。蓋の内側には、アンリエッタの肖像が描かれている。
ルイズたちがその箱を覗き込んでいることに気がついたウェールズは、はにかんで言った。
「宝箱でね。いつも持ち歩いている」
中には一通の手紙が入っていた。それがアンリエッタが返却を願った手紙らしい。ウェールズはそれを取り出し、愛しそうに口づけたあと、開いてゆっくり読み始めた。何度もそうやって読まれたらしい手紙は、すでにぼろぼろであった。
読み返すとウェールズは、再びその手紙を丁寧にたたみ、封筒に入れると、ルイズに手渡した。
「これが姫から頂いた手紙だ。この通り、確かに返却したぞ」
「ありがとうございます」
ルイズは深々と頭を下げると、その手紙を受け取った。
「あと数日もすれば、反乱軍との決戦だ。明日の朝にでも、トリステインに帰りなさい」
ルイズは、じっとその手紙を見つめていたが、そのうちに決心したように口を開いた。
「あの、殿下……。王軍に勝ち目はないのでしょうか?」
ルイズはためらいがちに問うた。しごくあっさりと、ウェールズは答える。
「ないよ。我が軍は八千。敵軍は五万を超える。いかな戦争の天才といえども、これをひっくり返すことは不可能だろう。ならば我々に出来ることは、勇敢に戦い、栄光ある敗北を迎えるだけだ」
「殿下の、討ち死になさる様も、その中には含まれるのでしょうか?」
「当然だ。私は真っ先に死ぬつもりだよ」
そのために、僕はダーダネルスからこの戦場に来たんだ。
後ろでやり取りを見ていたフェイトは、軽く溜め息をついた。そんな使い魔の仕草に決心が固まったのか、ルイズは、深々と頭をたれてウェールズに一礼した。
「殿下。失礼をお許しください。恐れながら申し上げたいことがございます」
「なんなりと申してみよ」
「姫殿下と皇太子殿下は、恋仲ではございませぬか?」
ウェールズは微笑んだ。そして、ルイズに向かってゆっくりと諭すように言葉を続けた。
「そう、君の想像している通りだ。今しがた君に返したその手紙も、アンリエッタが私に送った恋文だ」
そこでウェールズは一息つく。
「この恋文がゲルマニアの皇室に渡っては、非常にまずいことになる。なにせ彼女は始祖ブリミルの名において、永久の愛を私に誓っているのだからね。知っての通り、始祖に誓う愛は、婚姻の際の誓いでなくてはならぬ。この手紙が白日の下にさらされたならば、彼女は重婚の罪を犯すことになってしまうだろう」
そして、ウェールズの面に陰が差す。
「ゲルマニアの皇帝は、重婚を犯した姫との婚約を取り消すに違いない。そうなれば同盟は成らず、トリステインは一国にて、あの恐るべき簒奪者どもに立ち向かわねばならなくなる。それに、我が軍が今までなんとか戦い抜けたのも、ゲルマニアの援助があってのこと。アルビオンとトリステインが二国揃ってゲルマニアを愚弄していたと知られれば、それこそ両国の信義は地に落ちよう」
ルイズは、それでも熱っぽい口調で、ウェールズに言った。
「敗北に栄光があるのでしょうか?」
ウェールズは、遠くを見るような目で語りはじめた。
「我々の敵である反乱軍は、「レコン・キスタ」を名乗り、ハルケギニアを統一しようとしている。「聖地」を取り戻す、という理想を掲げてね。理想を掲げるのはよい。だが、あやつらは、そのために流されるであろう民草の血のことを考えぬ。荒廃するであろう国土のことを考えぬ」
ウェールズの瞳に、悲しみとともに強い怒りの灯が点る。
「だからこそ、我らは勝てずとも、せめて勇気と名誉の片鱗を反徒どもに見せつけ、ハルケギニアの王家たちは弱敵ではないことを示さねばならぬ。奴らがそれで「統一」と「聖地の回復」などという野望を捨てることはないだろう。だが、それでも誰かが最初に奴らに示さねばならぬのだ」
「何故でございます!?」
ルイズの悲鳴のような問いに、ウェールズは、毅然として言い放った。
「何故か? 簡単だ。それが我らの義務だからだ。王家に生まれた者の義務なのだ。内憂を払えず、国土を戦火にさらした王家に、最後に課せられた義務なのだ」
黙ってしまったルイズに、ウェールズはその目をまっすぐに見据えて言った。
「アンリエッタには、今言ったことは伝えないでくれたまえ。いらぬ心労は、美貌を害するからな。彼女は可憐な花のようだ。ミス・ヴァリエール、君もそう思うだろう?」
そしてウェールズは目をつむって言った。
「彼女には、ただ、こう伝えてくれたまえ。ウェールズは、勇敢に戦い、勇敢に死んでいったと。それで十分だ」
ウェールズは、侍従のバリーという老人を呼ぶと、ルイズ達を客室へと案内させた。
ルイズは、バリーが去ってすぐ、フェイトとワルドに向き直った。その瞳には、耐え難い哀しみと寂しさに満ちている。
「……どうして、どうして死ぬことしか考えないの!? わけわかんない。姫さまだって、きっと皇太子様に逃げて欲しいって、そう手紙に書いたでしょうに。なのに、なんでウェールズ皇太子は死を選ぶの?」
「男にはね、意地を見せないといけない時があるんだ、ルイズ」
これまでずっと黙っていたワルドが、ようやく口を開いた。
「確かに、ウェールズ殿下をはじめとする王党派の貴族が外国に亡命するのはありだろう。だが、残された臣民はどうなる? 理想を掲げる反乱軍は、その理想故に貴族平民を問わずに王党派狩りを始め、さらに多くの悲劇を招くことになる」
淡々と、まるで見てきたかのようにそう語るワルド。
「殿下は、名誉と勇気を臣民に示すことによって、これから起こるであろう弾圧と虐殺に立ち向かう勇気をお与えになるつもりなのだろう」
はっとして、ルイズはワルドの瞳を見つめた。そこには、沈鬱な色を浮かべた、戦火の中をくぐり抜け生き延びてきた一人の兵士がいた。
「フェイト、あんたはどう思うの? あんたならば、判ってくれるでしょう!?」
「私も、殿下や、子爵様と基本的には同じ意見です」
きっ、と使い魔をにらみつけるルイズ。しかし、フェイトはそれを軽く受け流すと、相変わらず光の無い深い深淵をたたえた瞳で言葉を続けた。
「ただし、私ならば、この数日後に起こる戦いを決戦になどはしませんが」
「どういう事?」
「最後まで、戦い続けるだけです。それこそ、上官が戦友が部下が全て失われ、両手両足を失い、この歯で噛み付くしか戦う方法がなくなっても、それでも戦うでしょう」
ルイズは呆然とし、ワルドは、ほう、と感心したような表情になった。フェイトの瞳の深淵だけがさらに深くなる。
「あんた……」
「お嬢様。戦争というものは、それだけの覚悟があって初めて起こすことが許されるものです。ならば反乱軍に対して、本当の戦争の恐怖というものを徹底的に教育してやらねば。それを、たかだか六対一の戦力比だからと諦めるのは、余りにも甘ったれているというもの」
フェイトは、その言葉とは裏腹に、表情にも口調にも全く激したところが見られない。
「戦争とは、情け容赦の無いものです。残忍で邪悪なものです。破壊と荒廃をもたらすものです。瓦礫と死体の山を築き上げ、焦土と化し血に赤く染まった大地を前に、反乱軍を恐怖に打ち震えさせること」
ルイズは、呆然として、フェイトの感情のこもらない声を聞き続ける。
「戦争の恐怖とおぞましさを、徹底的に教育してやること。それこそが皇太子殿下の完遂されるべき義務に他なりません。それであってこそ、初めてその名誉は伝説となり、人々に艱難辛苦に立ち向かう勇気と覚悟を与えましょう」
ぱちぱち。ワルドは、それはもう嬉しそうに拍手をした。その瞳が歓喜に輝いている。
「素晴らしい。本当に素晴らしい! 僕はどうやら君を見損なっていたようだ。僕の謝罪を受け入れてくれるかい?」
「いえ、謝罪をしていただくわけには。口先ではいくらでも風呂敷を広げられますから」
フェイトは、わずかに肩をすくめてみせた。
「いや、今なら判る。君は徹底しているんだ。戦うということに。人を殺すということに。生き残り、次の戦いにのぞむことに!」
ワルドは、心底嬉しそうに声を高める。
そんな二人のやりとりに、ルイズは、ただただ呆然と見ているしかできない。
「何故アサートンの森で、ルイズに手を汚させたか、今なら判る」
「子爵様」
初めて、フェイトの声に感情がこもった。それは殺気の込められた警告の声であった。
「判ったよ。今日はもうこれで休もう。君も疲れているだろう? ルイズ」
「……ええ」
それでは、また後で。
ワルドは、そう挨拶すると部屋を出て行った。ルイズは呆然としたまま、ただその背中を見つめているしかできなかった。
別の客室に通されたワルドは、ソファーに深く腰掛け、軽く目をつむっていた。
その面はあくまで厳しく、とてもくつろいでいるようには見えない。そして、目前の机に置かれている剣を模した愛用の杖。それは綺麗に磨き上げられてあった。
そんなワルドの耳に部屋の外から足音が聞こえ、そして部屋の扉の前で止まる。
「開いているよ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、ワルドの予想通りフェイトであった。自分のソファーの前に手を指して座るようにうながす。フェイトは一礼すると、ワルドの前に座った。
「で、何の用だい?」
「夜長の無聊をお慰めに」
「ルイズという婚約者がいる僕を誘惑かい?」
「いえ、僭越なれどもお話し相手にでもなれればと思いまして」
ワルドは、目を開くと、その鷹の様な鋭い視線でフェイトを射抜いた。それを正面から受け止めてフェイトは、わずかに微笑みに近い表情を浮かべた。
「質問をお許し頂けますでしょうか? 子爵様」
「内容による」
「ウェールズ殿下を、いかが思われていらっしゃいます?」
「勇敢で、名誉を重んじ、信義に篤い方だな」
だが、言葉の内容とは裏腹に、ワルドの面に浮かんだのはあくまで嘲笑でしかなかった。それを判ってか判らないでか、フェイトはさらに言葉を続ける。
「では、「レコン・キスタ」については?」
「高潔な紳士諸君の集まりだな」
それこそ汚物について論評するような口調で、ワルドは、吐き捨てた。
ワルドは一度としてそらさなかったフェイトを見つめる視線を、さらに細め、殺気すらこもった厳しいものとする。
フェイトは、より微笑みを大きくして、ささやくように言葉を続けた。
「それでは最後に。子爵様がどこまでマザリーニ枢機卿猊下に命じられているのか、確認させて頂きたく思いまして」
「ルイズを護り、密書を取り返す。それが僕達の任務だ。違うのかい?」
「了解いたしました。それでは同盟の「障害」は私が「排除」いたしますので、ルイズお嬢様のことはお任せいたします」
フェイトの面に微笑みというよりは、嘲笑に近い何かが浮かび上がる。ワルドは、黙ってフェイトを見つめ続けた。そのまま二人の間に沈黙がわだかまり、徐々に部屋の空気が冷たく硬くなってゆく。
最初にその沈黙を破ったのは、フェイトだった。
「どうやら我々は、共通の基盤に立って話をする機会を得られなかったようですね」
そのまま背を向けて部屋を出ようとするフェイトを、ワルドは、半ば怒りのこもった声でさえぎった。
「お前は、俺からルイズを奪ったのみならず、獲物までも奪うのか」
「お嬢様は、子爵様の婚約者でいらっしゃいます。それに、猊下からの命令は違うのでしょう?」
「……いいだろう。互いに手札をさらすとしよう。まずは俺からだ。お前が疑っている通り、俺は反乱軍、もっとも連中は「レコン・キスタ」と名乗っているがね、彼らから接触を受けている。依頼された任務は、ウェールズの暗殺と、密書の奪取だ」
ワルドの右手がわずかに上がった。二人の間にある机の上の杖に指が触れるまで、あと少し。
「ゲルマニアを経由して、王党派に武器を流していたのは私です。おかげさまで、ようやく「レコン・キスタ」の背後にいるのが誰だかわかりました」
「後学のためにも是非聞いておこうか」
「ガリア王ジョゼフ」
杖に伸びかけたワルドの右手が止まる。
「何故かは判るか?」
「子爵様がトリステインを裏切る理由が、最後まで判りませんでした。あと二、三年もすればお嬢様と結婚なさり、ヴァリエール家とマザリーニ枢機卿の力を背景に、国政の深いところまで食い込めますものを」
「……俺には望みがある。「聖地」だ」
「ジョゼフ王は、系統魔法を使えません。私は「虚無」の使い手ではないかと疑っております。多分、アルビオンの「虚無」の使い手の発現を促そうとしているのではないかと」
フェイトは、ゆっくりと何かを考えつつ、呟くように答えた。
「「レコン・キスタ」の指導者、クロムウェルは、「虚無」に目覚めたと自称している。事実、その力で死者を何人も蘇らせて見せた。俺もそれは見ている」
「それで、お嬢様と比較して、いかがでした?」
「嘘だな。ルイズの持っている圧倒的なまでのオーラが、奴にはない。もっとも、使い魔は連れてはいたが」
「それは?」
だがワルドは、それは答えず、あくまで小さな声で別の話を始める。
「お前は、「聖地」がなんだか知っているか?」
「始祖プリミルの降臨した土地でしょう? そこは、砂漠の民エルフに奪われて数百年経ちますが」
「俺は、この世界が、何故にこの在り方で存在するのか、それが知りたい。そのためならば、「聖地」へと連れて行ってくれるのであれば、誰にでも忠誠を誓う」
「それで「聖地回復」を掲げるレコン・キスタに参加なされたわけですか」
「そうだ」
フェイトは腰を上げた。それから優雅に一礼すると退去の辞を述べる。
「つたない語りで貴重なお時間を使わせてしまいました。それでは今宵はこれにて」
「少々待て」
ワルドはフェイトを待たせると、羊皮紙と羽ペンを取り出し、何やら手紙を書き始めた。そして、手紙を巻くと、杖を振り、蝋で留め花押を押す。
「マザリーニ枢機卿にこれを渡してくれ。最後の奉公だ」
「確かに、承りました」
恭しく一礼すると、フェイトはワルドから手紙を受け取り、服の隠しにしまう。
「密書はくれてやる。ウェールズは俺がやる。お前は邪魔をするな」
「承りました。そのための「バルディッシュ」だったのですが、無駄になってしまいました」
最後に、困ってしまいました、と言わんばかりの微笑みを浮かべてフェイトは小首をかしげた。そんなフェイトに向かってワルドは、つまらなさそうに鼻を鳴らしてみせた。
「何、ウェールズの生存こそ、トリステインとゲルマニアの同盟の最大の障害だ。ついでに「レコン・キスタ」も、空軍の提督として砲兵の運用に熟達している上、兵の人気の高い彼を最大の障害と認めている。しかも「風」の使い手であって「虚無」の使い手ではない。結局、誰にも生き残ることを望まれてはいないのだよ。それが不運といえば不運だったな」
エッジヒルの市庁舎の敷地の北側には、礼拝堂がある。始祖プリミルの威光をあまねく大地に照らす義務を負う教会の寺院は、市庁舎からかなり離れたところにあり、公式に儀典でもあるのでなければ役人達がそちらに礼拝に行くことはあまりない。しかし、王軍に市庁舎が接収されてからは、市の役人達は別の建物に移動し、そちらから近い教会に礼拝に行くようになっていた。
そうした理由から今では、礼拝堂はもっぱら国王ジェームス一世や、時々王軍の将軍達や提督達を交えた御前会議のために訪れるウェールズが祈りをささげるために使われるようになっていた。
ルイズ達が到着したその日の夜、ウェールズは、礼拝堂で一人始祖プリミル像の前で祈りを捧げていた。
と、礼拝堂の扉が開かれ、一人の少女が入ってくる。ルイズであった。
「これは、失礼いたしました!」
礼拝堂の正面のステンドグラスから差し込む月明かりの中で、ウェールズが独り祈りを捧げているのを見て、ルイズは慌てて外へと退出しようとする。礼拝堂の中には、他には明かりもなければ人もいない。
「構わないよ。祈りは済んだところだ」
「申し訳ございません、皇太子さま」
「ウェールズで構わないよ、勇敢で優しいお嬢さん」
ウェールズは破顔し、ルイズを手招いた。ルイズは、ととと、とウェールズに招かれるままに近づく。
「眠れないのかい?」
「……はい」
「僕もさ。少し話を聞かせてくれるかい、ミス・ヴァリエール。そうだね、アンリエッタのことなど」
ルイズは、最初はとつとつと、そして途中からあふれ出る言葉をなんとか押さえ選びつつ、アンリエッタとの思い出を語った。
王宮で遊び相手を務めたこと。ごっこ遊びをしていて、どちらがお姫様役をやるかでひと悶着起こしたこと。アンリエッタがウェールズと密会を重ねていた間、実は影武者をつとめていたこと。
そんなルイズの語りをウェールズは、時に笑い、時に懐かしそうに聞き続けていた。
「アンリエッタは、そんなおてんばだっただなんて、知らなかったよ。本当に女の子は猫をかぶるのが上手だね!」
「いやですわ、ウェールズさま。姫さまは、ウェールズさまには、可愛いと思っていただきたかったのですから」
「なるほど。見栄を張るのは男だけじゃないわけだ」
「猫をかぶるのは、女の方が上手ですもの」
感心したように微笑むウェールズに、はにかんでルイズは答えた。そしてルイズは、抑えきれなくなったように寂しそうな表情になって呟いた。
「ワルドとフェイトに諭されました。ウェールズさまは、民にこれから「レコン・キスタ」が行う弾圧と虐殺に立ち向かう勇気をお与えになろうとしているのだ、と」
「そうか、あの二人は判ってくれたのか」
心底安堵したように大きく息をつくウェールズ。そこには、もう何の懸念もない、という晴れ晴れとした笑顔があった。
「口にするべきことではなかったからね。だが、己の想いを判ってくれるものが三人もいるとは。これで本当に心おきなく戦いにのぞめる」
それからウェールズは、ルイズの手を取ると軽く口付けした。
「本当に、心から礼を言う。最後に僕は、真の理解者を得て、その者らに従妹姫を任せることができる。これほどの幸せをもたらしてくれた使者である君に、心からの感謝を」
そして、ちょっと照れたように付け加えた。
「君は、僕とアンリエッタにとっての「天使」だね」
「そんな……」
「本当さ。これでゲルマニアに嫁ぐ彼女へ、心からの祝福を送ることができる。君達がいれば、いつか「レコン・キスタ」の野望も打ち砕かれるだろう」
礼拝堂を出たルイズは、天高く輝く月を見上げていた。そうしていないと、涙があふれ出てきて止まらなくなりそうだったのだ。
そんなルイズの前に影がさした。
「ウェールズさまに姫さまを託されたわ。フェイト」
「そうですか」
何故かフェイトは儚げな微笑を浮かべていた。本当に、心からルイズのことを思いやるような、優しく慈愛に満ちた、でもわずかの風だけでも消えてしまいそうな、儚げな微笑。
「愛にも、色々な形があります」
「みたいね」
「でも、私は、そのどれ一つとして、自分のものとする事ができませんでした」
「……………」
「お見届けられるべきものがあります。どうなさいます?」
フェイトの言葉は、初めて聞く優しい気遣いに満ちたもので、ルイズは切なくなった。それがなんなのか、多分過去の幸せだった時代を最後とするものであることは判る。
だが、ルイズは、一歩を踏み出した。
「見届けるわ」
礼拝堂の長椅子の一つに座って、ウェールズは、今しがたルイズが聞いたアンリエッタの事を一つ一つ反芻していた。過去の彼女とのわずかな触れ合いでしか知らなかった彼女ではなく、生き生きと喜び、怒り、哀しみ、楽しそうに日々を送る恋人だった女性のことを。
そんなウェールズの感傷に満ちた時間は、長くは続かなかった。
「そろそろいいだろう。出てきたまえ」
「御前にまかりこします。ウェールズ殿下」
礼拝堂の闇の中から長い影が差す。現れたのは、ワルドであった。相変わらずつばの広い帽子を目深に被り、黒いマントを身にまとっている。月影に隠れ、その表情はウェールズからは見えない。
「さて、君は僕に祝福を贈りに来てくれたわけではない様子だね」
あくまで穏やかさと余裕を失わない態度で、ウェールズはワルドに向き合った。
「殿下にお聞きしたき儀が」
「聞こう」
「「始祖ブリミル」が残した王権の象徴たる秘宝について」
「……そうか、「レコン・キスタ」が狙っているのはそれか」
すっとウェールズの中に殺気が満ちる。だがワルドは、ほんのわずかに首を左右に振ってその言葉を否定した。
「これはあくまで小官自身の疑問に過ぎませぬ。何故始祖は四つの指輪と四つの秘宝、そして王権と教権という四本の杖を残したのか。そして、集まりつつある「虚無」の使い手とその使い魔達」
「……君は「レコン・キスタ」の一員ではないのか?」
「今は「レコン・キスタ」に身を投じるつもりでおります」
「なるほど、「聖地」に赴けば、その答えが得られるからか」
「ご賢察のほど、心より感服いたします」
ウェールズとワルドは、互いに自身の杖に右手を徐々に近づけている。礼拝堂の中は、すでに殺気に満ち、それは少しづつ冷たく、重くなってゆく。
「ひとつ聞きたい」
「何でしょう? 殿下」
「何故、疑問を持った?」
「……お答えしようがありませぬ」
そのワルドの言葉には、諦観にも似た響きがあった。
ウェールズは、初めて目の前の男に哀れみを感じた。
「そうか。始祖は、聖地の奪還を望み、果たせず死んだ。ブリミルは己の妄執をいかにして長く後世に残すか、それを考え抜いたのだろう。だから、力を四分割し、簡単には発動しないようにして、神話として、伝説として、権威として、宗教として、残したのだろう。僕はそう考えている」
「この世界は、あくまでブリミルの妄執の産物だと?」
「僕はそう考えているが?」
ウェールズとワルドが杖を抜いたのは、ほぼ同時であった。ほんの半呼吸だけ速かったワルドの杖から、「空気の槍」がウェールズの左胸を貫かんと飛ぶ。だが、ウェールズの放った「雷撃」の方が一瞬早くワルドの胸に直撃し、全身を焼く。ワルドの放った「槍」はウェールズの左腕を貫いたに終わる。
「ここで死ぬわけにはゆかぬのだ」
勝利を確信したウェールズが、とどめの一撃を放とうとした瞬間、その胸を背中から青白く輝く杖が貫いた。
「「偏在」!」
「はい。恐れながら殿下のお相手をするのに、手段を選べるほど小官に余裕はありませぬゆえ」
ウェールズの背中には、もう一人のワルドが立ち、ウェールズの胸をその杖で貫いている。ワルドは、杖を引き抜くと、一振りして血糊を飛ばし、次の呪文をつむぎ始める。
ごぼっ、と、口から鮮血を吐き、床に崩れ落ちるウェールズ。だが、身体が床に落ちる瞬前、最後の力を振り絞って放った「空気の鎌」がワルドの首筋を襲った。
ワルドも身をひねってその見えぬ刃を避けようとするが、「風」のトライアングルメイジの中でも有数の実力を持つウェールズの刃は、ワルドの見切りよりもほんの数ミリ深かった。
ワルドの放った「空気の槍」と、ウェールズの放った「空気の鎌」に、二人の間に血煙が立ち上る。
「……妄執の産物、か。確かにありえるやもしれぬ」
果たして、ウェールズとの戦いによって二人のワルドが消えて後、三人目のワルドが始祖ブリミル像の影より現れた。一言呟いた彼は、ウェールズに近づきすでに事切れているのを確認すると、その手から「風のルビー」を抜きとる。
そして、礼拝堂の入り口に向かって声をかけた。
「さて、どうする? 僕の小さなルイズ」
ルイズは、目前に繰り広げられた光景に頭の中が真っ白になってしまっていた。
何故二人が殺しあわねばならないのか、それが判らない。そして判らない故に、思考が停止してしまっていたのだ。もし自分の手をフェイトが握っていてくれなかったならば、そのまま意識を失ってしまっていたかもしれない。
そんなルイズの意識を引き戻したのは、ワルドの言葉だった。あのラ・ヴァリエールの屋敷の小さな池でかけてくれたワルドの優しい声。
「なぜ?」
「会戦が始まってからでは遅すぎる。かといって、手紙を返してもらう前では早すぎる」
ワルドの声は、あくまで昔の様に優しい。
「おいで、ルイズ。僕は世界を手に入れる。そのためには、君が必要なんだ」
「……ごめんなさい、ワルド。憧れていたわ。それは恋だったかもしれない。……でも、今は違うわ」
「僕には君が必要なんだ。君の能力が。君の才能が」
ワルドは両腕を広げ、ルイズを迎え入れようとしている。その面にどんな表情が浮かんでいるのか、ステンドグラスから差し込む月光の影になって、ルイズには見えない。
「私は、世界なんて、いらない」
ルイズは右手で杖を抜いた。そして、左手を肩より上に上げる。フェイトが「デルフリンガー」の柄を握らせ、ルイズの耳元に何かをささやく。
ワルドは、天を仰ぎ、そして叫んだ。
「全く! これが俺の「運命」だというのか!」
哀れみのこもった声で、ルイズはたずねた。
「昔のあなたは、こんな風じゃなかった。何があなたを変えてしまったの?」
「月日と数奇な運命の巡り合わせだ。それが君が知る僕を変えたが、今ここで語る気にはなれぬ。話せば長くなるからな」
一瞬の激昂を、まるで無かったかのように消し去り、ワルドはあくまで冷たい感情のこもらない声で答える。
ルイズは、ゆっくりと息を吸い、そしてはっきりとした声で視線だけはワルドに向けたまま背後に控える使い魔に命じた。
「これは決闘よ。手を出すのは許さない」
そしてルイズは、ワルドに向けて駆け出した。
ワルドは、「風」の系統のスクエアメイジである。
メイジのランクは四つに分かれ、ドット、ライン、トライアングル、スクエア、と下から呼ばれている。何故にこの名称となったとかといえば、ドットはその系統の魔力の呪文を一つで構成される魔法しか使えないのに大して、スクエアともなれば、その系統の魔力の呪文四つで構成される魔法を行使できるからである。それに、自分の系統以外の魔法も構成要素として編みこむことが可能となり、その操れる魔法はまさに千差万別多岐に渡る。
そのワルドの二つ名は「閃光」。
彼は、いかな高度な呪文といえども一瞬で組み上げ、放つことができる才能を有していた。魔法使い同士が戦う時、どうしても呪文詠唱の時間が弱点となる。それ故に、スクエアレベルの呪文すらドットレベルの呪文のごとく詠唱し放つことができる彼は、一対一の魔法戦に関しては、文字通り無敵とすら言えた。
そして、彼の得意とする「風」の魔法「偏在」。風の吹くところならば、その魔力の許す限り自分自身の分身を作り出し、自立的意思を持たせ、自分と同じ魔法を行使させられるという、恐るべき魔法であった。
なるほど、確かに魔法学院の「風」の教師ギトーが、「風」の系統こそ最強と吹聴するのも判らなくも無い。
事実ルイズは、ワルド本体も含めて、三人のワルドに翻弄されていた。
三方から包囲され、自らが一小節の魔法を唱えて攻撃をしかけても、三方から魔法が飛んでくる。ルイズの戦い方は、素早く移動しながら呪文を詠唱を行い、相手のいる空間を丸々爆破するやり方である。だがワルドは、礼拝堂に並ぶ多数の長椅子をルイズの移動の障害として利用し、自らは椅子から椅子へと飛び移りながら、ドットレベルの攻撃呪文を三方から間断なく浴びせかけ、ルイズの魔力を削り取ろうとしている。
全身をずたずたにされ、血まみれになりながらも、それでもルイズは呪文を唱えることを止めず、そして、素早い身のこなしで少しでもワルドの魔法の直撃を避けようとしていた。
だが、十年以上にわたって戦場に在り、ありとあらゆる魔法戦闘に熟達したワルドを相手にしては、いかなルイズの爆発魔法が強力であったとしても、あっという間に決着がついていたであろう。ルイズがここまで持ちこたえられたのには理由があった。そう、絶対的なアドバンテージがあったのだ。
「左後ろ! 「ウインド・ブレイク」!」
的確に三方より襲い掛かる魔法を読み、ルイズに警告する「デルフリンガー」。ルイズは、「デルフリンガー」を指示通り左後ろに振り切り、飛び来る「ウインド・ブレイク」の呪文をその刃に吸収させる。
「デルフリンガー」
この口の悪いインテリジェンスソードは、三六〇度どの方向からの攻撃であっても察知し、警告を発すると同時に、それが魔法攻撃であるならば、自らの刀身で吸収できるという能力が付与されていたのだ。
フェイトにそれを教えられ、ワルドの攻撃を必死になってさばき続けるルイズ。今やワルドとルイズ、どちらが先に魔力と体力が切れるか、という消耗戦となっていた。
すでに礼拝堂の中は瓦礫の山となり、わずかでも気が緩めばそのまま残骸に足をとられ転びかねない。そして、その事実こそが、徐々に、本当にわずかづつルイズに戦いの天秤を傾けつつあった。
刃渡り一メイルを越す大剣である「デルフリンガー」を振り回し続けることは、並の成人男性にとっても極めて困難である。だがこの三ヶ月、フェイトにほとんど虐待に近いやり方で体力練成を叩き込まれてきたルイズにとっては、ただ振り回すだけならば、「デルフリンガー」の重さはさして苦にはならない。
礼拝堂の床が残骸で埋まり、足の踏み場が無くなっても、あらゆる種類の障害を踏破し駆け抜けさせられてきたルイズにとっては、つま先に目がついているようなものである。
どれほど多くの魔法がワルドから放たれてきたとしても、それに即座に反撃する魔法を唱えられる。何しろルイズの魔法は絶対に「爆発」という結果を生み出すのだ。一小節の魔法であっても、直撃であれば、たとえワルドであっても重傷はまぬがれ得ない。しかも、連日の放課後の特訓によって、ルイズの魔力はその容量を徹底的に増大させられ、今や無尽蔵に近い魔力を有しているといっても過言ではないのだ。
それに対して、ワルドの面には、汗が浮かび始め、ほんのわずかではあるが、焦りの色が見えてきていた。
そう、ワルドは初手を間違え、逆にルイズの得意とする消耗戦に引きずり込まれてしまったのだ。
最初に「雷撃」なり「空気の槍」なりで三方から奇襲をかけていれば、一瞬で決着はついたであろう。だが、なまじルイズの強力な魔法と「デルフリンガー」の存在に気をとられ、奇襲のタイミングを逸してしまったのが今の均衡を招いてしまったのだ。
場の流れを変えるべく、瞬時に三人のワルドがルイズから距離をとる。
ルイズは、足を止めると、汗で濡れ火照った身体にわずかな休息を許した。ゆっくりと息を吸い、全身に酸素をいきわたらせる。暖気が終わった身体はまだまだ動くし、魔力も尽きる気配もない。精神は澄み渡り、礼拝堂の中全てが五感で感じられるような気すらする。
「見事だ、ルイズ」
戦いが始まってから、初めてワルドが口をきいた。
彼女に向けられる視線は相変わらず氷の様に冷たく、そして一切の感情の熱が無い。だが、それでもワルドは、初めてルイズを自分と対等の相手として認めたのだ。
そのことを女としての勘で知ったルイズは、息を整えると、気を緩めはせず呪文を詠唱し始める。
「そう、それでいい。語りは決着がついた後で行うものだ」
ワルドも次の呪文を詠唱し始める。
最初に呪文を完成させたのは、ワルドであった。三方より「雷撃」の呪文が飛び、白熱する雷光がルイズを襲う。そして、同時に着弾した雷光は、周囲のありとあらゆるものを帯電させ、そして爆発させる。ルイズの周囲はもうもうたる白煙がたちこめ、視界をさえぎる。
だがワルドは、そこで気を抜かず、次の魔法を詠唱しつつ、ルイズに向かって突進する。そして放たれる「空気の鎌」。三方より同時に着弾するそれは、いかな俊敏なルイズが「デルフリンガー」を振るっても避けきれない至近距離から放たれた。
その「鎌」が杖から放たれた瞬間であった。かつてルイズがいた場所が大爆発を起こす。ワルドは、なまじ至近からの必殺の一撃を加えようと近づいていただけに、その爆発を避けきれず、礼拝堂の壁まで吹き飛ばされ、叩きつけられた。二体の「偏在」は消え去り、ワルド本体は瓦礫の中に倒れている。
「語りは、決着がついた後でするのでしょう?」
爆発の中心には、仰向けになり「デルフリンガー」を盾のごとく上に向けているルイズがいた。
最後の「雷撃」が襲ってきた瞬間、ルイズはそれを避けきれぬと察知した。瞬時に床面に寝転がり、「デルフリンガー」を盾のように左腕と右足の裏で支えて「雷撃」の爆発を吸収させる。と同時に背中から伝わる振動で、ワルドが自分に向かって近づいてくるのを知り、自分の目前に立ちこめる白煙に「竜巻」の魔法をかけたのだ。その魔法は見事爆発の渦となって爆風を周囲にまき散らかし、ワルドに向かって無数の瓦礫を散弾のごとく叩きつけたのである。
ルイズは、「デルフリンガー」を杖のように床に突き刺して立ち上がると、ワルドに向かって歩き始めた。
「ワルド、信じていたのよ、あなたを」
「信じるのは、そっちの勝手だ」
ワルドは、全身を襲った瓦礫の礫に血まみれになり、右腕も二の腕あたりで引きちぎれてどこかにいってしまっている。顔の半分を血に染めながらも、ルイズを見つめるワルドの瞳に光は失われていない。
ルイズは、足元に転がるワルドの杖を見つけると、それを拾った。
「殺せ。それで全ての決着がつく」
淡々とルイズに向かって語るワルド。その身体から流れ出る血で、徐々に血溜まりが広がっていく。
ルイズは、「デルフリンガー」を構えようとして、そして下ろした。
「殺せ」
ワルドの声には、わずかに懇願の色が混じっている。
「とどめを刺してやれよ、お嬢ちゃん。どうせ長くはもちゃあしねえ」
「デルフリンガー」もルイズにそう忠告する。
だがルイズは、「デルフリンガー」を床に突き立てると、自分のブラウスの袖を引きちぎり、ちぎれたワルドの右腕の止血を始めた。
「……なんて、無様な」
「違うわ」
ワルドは、己の不甲斐無さに自嘲の哂いを洩らした。だがルイズがワルドを見る目には、はっきりとした意思があった。それは肯定の意思であった。
「憐みならやめろ。そこまで落ちぶれてはいない」
「それで、あなたの野望はどこへゆくの?」
淡々とワルドの傷に、ちぎったブラウスを包帯代わりに巻きつけてゆくルイズ。
「……俺は、君がまぶしかった。君の可能性が羨ましかった。君なら天高く飛翔し、どこへも飛んでいけると思っていた。だから、君が欲しかった」
そこで息をつくワルド。顔色はすでに蒼ざめ、体力の限界が近いことを示している。
「俺は、結局、空高く飛ぶ君を、地面にはいずって、見ているしか、できなかった」
「違うわ」
ルイズは、ワルドの残った左手に彼の杖を握らせる。
「あなたには野望という翼がある。今はそれは傷ついているかもしれないけれど、また必ず飛び立てる」
自らもワルドの魔法でずたずたにされ、ワルドの傷の治療にブラウスのほとんどを引きちぎってしまったルイズは、ほとんど半裸に近い血まみれの姿であった。だが、ワルドの目には、そんなルイズの姿があまりにもまばゆく、美しかった。
「そうか。ならば、必ず君のところへ飛んでゆく。俺自身の翼で」
ワルドも、杖をつき、なんとか立ち上がった。そして、左手にはめていた指輪に念を込める。それは風石と呼ばれる、「風」の精霊の力の結晶体であった。
「お別れだ、ルイズ。愛している」
「さようなら、ワルド。愛していたわ」
ワルドは飛び立つと、月光の差し込むステンドグラスを割って闇夜へと消えていった。
そんな彼を、ルイズはずっと見つめ続けていた。彼女の頬を一筋の涙が伝う。
「さようなら。初恋の人」
礼拝堂の入り口で事の成り行きをずっと見守っていたフェイトは、ずっと微笑んでいた。その暗く澱み、邪悪ささえたたえた表情は、だが微笑みとしか形容のしようがないものであった。
そんな二人の元に、武装した王軍の部隊が現れたのは、ワルドが去ってすぐであった。