ガリア王国の空海軍の拠点であるサン・マロン軍港を出航した戦列艦「シャルル・オルレアン」は、王女イザベラとそのお付きのシラノ・ド・ヴェルジュラックとロクサーヌとを乗せ、一路アルビオンに向かって飛行していた。サン・マロンからアルビオン南部の港ロサイスまでは、二泊三日の旅である。
ガリア空軍旗艦である「シャルル・オルレアン」は、全長二百メート、砲門数二百十六門という、世界最大最強の戦列艦である。排水量は四千トンを超し、乗員は三千名を越えるという、それ自体が一個の城塞とすらいえるガリア王国空軍の誇る巨艦であった。
「歌って、夢見て、笑って、死に、
独立独行にして不羈奔放、炯々たる眼光、朗々たる音吐
斜めに頂く鍔広の毛帽子、一言の諾否にも命を賭けての果し合い」
その「シャルル・オルレアン」の甲板上で、イザベラは軽やかにステップを踏みつつ、シラノの吟じた詩に適当な歌詞をつけて歌いつつくるくると踊っていた。甲板上にはロープや木箱や諸々の構造材があったが、まるでそれらが無いかのように踊っている。
「独創にあらずんば筆を執らず、腕一本に値打ちあり、
他人をたよりの蔓となるのは真っ平御免、
樫や菩提樹にはなれず、高い位には上がるまいが、痩せても枯れても独り立ち!」
その姿を何故か「シャルル・オルレアン」搭乗している貴族士官らはできるだけ目を向けないようにしている。というより、目を合わせようとしていない。
そんな士官達をシラノとロクサーヌは、哀れみをこめた目で見つめていた。ちなみに、自分の吟じた詩を歌ってくれるのは嬉しいが、なにもその詩を歌わなくても、とはシラノの溜め息でもある。少なくとも一国の王女、それも薔薇の如き華麗な美少女が歌う詩ではない。
「どうやら皆、我輩と同じ目に遭ったようですな」
「あの……、シラノ様、大丈夫なんでしょうか? 姫様、ただでさえよろしくない噂が立っていますのに」
「……うむ、王女殿下御自ら「イカサマ、仕込み、どんな手を使ってきても許す」と宣言してから勝負を受けてたたれましたからなあ。あれは、勝負を受ける方が悪いとしか」
遠い目をしてシラノは、宙に視線を泳がせた。
さて、何故に貴族士官らがイザベラから目をそらすかというと、それは昨日の晩餐の後、ガンルーム(士官室)で起こった珍事のせいである。
イザベラは艦長も交えての晩餐に臨席した後、ガンルームに顔を出すと「暇ですのでどなたかゲームに付き合ってはいただけないでしょうか?」と猫を被って現れたのであった。当然、貴族士官らは王女にお近づきになる絶好の機会とばかりにこぞって志願したのであるが、これが悲劇の始まりであった。
イザベラは、いかにも淑女らしい物腰でそれを受けるとサイコロを取り出し「艦隊ではこちらが流行っているとお聞きしました」と、ゲームを決め、かつ「そういえば、賭けはお金をかけないと面白くないとか。どうせです、イカサマ、仕込み、どんな手を使ってもかまいませんですよ?」と宣言して、貴族士官らを相手にしたのである。
それから起きた阿鼻叫喚の地獄については、あえて語らぬのがガリア王国空軍の貴族士官の名誉のためにもよいであろう。少なくとも最後のひと勝負の直前、ガンルームにいた士官らは、一人残らず下着一枚にひんむかれ、最後の最後に何故かイザベラが衣服と掛け金とを全て賭けた上で負けなければ、大変な事になっていたのであるから。
「あー、いい運動になったよ」
甲板上を踊るのにも飽きたらしいイザベラが、シラノとロクサーヌの元へと戻ってくると、旅の間の居室として提供された長官室へと二人を連れて戻った。
長官室に戻った三人は、被っていた猫を脱いだイザベラがぐたーっとした格好でソファーに座り込み、その向かいにシラノが座り、ロクサーヌがお茶の用意をしている。
「あー、そのですな、殿下」
「なんだい?」
「やはりイカサマを使われたのですな?」
「当たり前だろ? こっちが「イカサマ、仕込み、なんでもあり」と言ったんだ。あれは、わたしが「やる」と宣言したのと同じなんだから」
平然と全く悪びれもせず言ってのけるイザベラ。シラノもロクサーヌもさすがにドン引きである。ちなみにシラノも、下着一枚にひん剥かれた口である。そんな二人に蒼い視線を向けたイザベラは、ふふんと鼻で笑った。
「別に士官連中をひん剥くのが目的じゃなかったのさ。ちょいと腕が鈍っているかどうか試してみただけでね。最後に金も服も返してやったろう?」
「……つまり、今回のアルビオンとの交渉でサイコロ博打を使われると?」
「まさか」
あっさりと否定してのけるイザベラ。もはや何がなんだか訳判らんという表情で見合うシラノとロクサーヌ。イザベラは、遠くを見るような目つきになると、憎々しげに吐きすてた。
「わたしはね、ある女を思い出すからサイコロ博打は大嫌いなのさ。ただ、サイコロ博打に使うイカサマの手がね、必要なんだよ」
「くしゅん」
「大丈夫、タバサ?」
突然くしゃみをしたタバサを見て、彼女の部屋で教科書とノートを開いているルイズが心配そうに訪ねた。季節の変わり目であるこの時期、どうしても風邪を引きやすいわけであり。
「噂されてる」
「タバサ、あなたそんな迷信信じてるの?」
タバサのベッドにごろんと横になって二人を眺めているキュルケが、身体を起こして少しだけ驚いたようにたずねた。
「信じていない」
ずこーっ、とずっこけるルイズとキュルケ。どうやらタバサなりの冗談であったらしい。とりあえずすぐに復活したキュルケが、タバサの部屋の本棚の上にあるそれに視線を送った。それは、サイコロとサイコロを振るための壷。申し訳程度の大きさの衣装棚がある他は本棚で壁一面が埋め尽くされ、床にも本が山積みとなっているこの部屋では、どうにもそぐわない代物ではあった。
「そういえばずっと不思議に思っていたのだけれど、なんでサイコロがあるわけ?」
キュルケがタバサにたずねる。
「貰い物」
「へえ、あんたサイコロゲームなんてやるんだ」
タバサにアルビオンに行っていた間の分の勉強を教わっているルイズが、心底驚いた様子で聞いた。タバサは、黙って本棚の上に置いてあるサイコロと振り壷を杖を振って取り寄せると、無造作にサイコロを壷の中に放り込んだ。
「三」
サイコロの目は一と二。
「四」
サイコロの目は一と三。
「五」
サイコロの目は二と三。
「六」
サイコロの目は三と三。
「七」
サイコロの目は三と四。
「「えええええぇぇぇえええっっ!!?」」
ルイズとキュルケは、心底仰天した様子で机の上に並ぶサイコロに見入っている。タバサはサイコロを壷に入れると、もう一度杖を振って元の場所に戻した。二人は口をパクパクさせたまま、呆然とした様子でタバサを見つめている。
「あ、あなた、今のは偶然じゃないわよね? イカサマ? もしかして?」
キュルケの呆然とした様子に、タバサはこくりとうなずいた。口をぱくぱくさせ呆然としたままであったルイズが、我に返ると、叫ぶようにたずねた。
「ど、どこで習ったのよ!? てゆーか、それ、本職レベルじゃないのよ!!」
「昔」
呟くようにルイズに答えると、タバサは、ルイズに視線で勉強を再開することを伝えた。
「へっくしゅん!」
「風邪でも引かれましたか?」
盛大にくしゃみをしたトマに向かって、フェイトが声をかけた。閉じられたカーテン越しに、初夏の日差しがラグドリアン商会本店の最上階にある会議室内をぼんやりと明るくしている。トマは、ばつの悪そうな表情をして、ハンカチで鼻を押さえた。
「失礼。いえ、ちょっと鼻がむずむずしましたもので。誰かが私の噂でもしたのでしょう」
「季節の変わり目だからね。根詰めすぎて倒れるんじゃないよ? なにしろ仕事は山積みなわけでさ」
ロングビルが、憎まれ口なんだか心配しているんだか、判らない言い方をする。もっとも彼女の場合はこれが相手を気遣う言い方なわけであるが。
「そうです。風邪は万病の元なんですから。ちゃんと滋養をとって、暖かくして寝ないといけません」
元は修道女として貧民を相手に病の看病もしていたことのあるリュシーが、厳しい表情でそうたしなめる。
「いえ、本当に大丈夫ですから。それでは、説明を続けます。ラ・ヴァリエール銀行ですが、本店はトリスタニアに開設しますが、それは建物や職員の手配は済みました。今、南部半島諸国、ヴェニティア、フィレンティア、ジェネヴァ、ミラノの各国の首都と、ガリアのリュティスとトロサ、ゲルマニアのヴィンドボナ、これらの都市に支店を置きます。特にヴェニティア支店は、本店と同規模のものとし、いつでも本店業務を移行できる体制を整えます」
すぐにラグドリアン商会の総支配人の顔に戻ったトマが、分厚い書類綴りをめくりながら淡々と説明を続ける。それにフェイトが、いくつかの質問を行う。
「ラ・ヴァリエール銀行ですが、ラ・ヴァリエール化学工業や、今度立ち上げるラ・ヴァリエール製薬との提携による、経営支援業についてはどうです?」
「はい。それにつきましては、すでに何家からか問い合わせが来ており、他の金融商会からの借金の借り換えについて相談を受けております」
フェイトがラ・ヴァリエール銀行を立ち上げるにあたって、ラ・ヴァリエール公爵と相談した上で商品として売り物としたのは、化学肥料を用いた新農法による生産量の増大や、各種の商品作物の育成の支援、さらには各種薬品の原料となる薬草の成育など、収益の増大を期待できる換金作物の育成技術の指導があった。
これに魅力を感じた家屋敷を維持するので手一杯な貧乏貴族らが、こぞってラ・ヴァリエール銀行からの融資を求めて列をなしつつあり、さらにはそれらの貴族と商売上の付き合いのある商会が次々と口座を開こうと問い合わせが相次いでいる。
なにしろ、今やトリステイン最大の貿易商会となりつつあるラグドリアン商会の系列銀行であり、その意味もあって各国の商会からもこぞって口座開設の問い合わせが来てもいたのだ。
ラグドリアン商会の系列企業として、ラグドリアン醸造所、ラグドリアン郵船、シュナイデル工業、シュナイデル製鋼所、ラ・ヴァリエール化学工業、ラ・ヴァリエール製薬、などがある。そして魔法学院研究所の最大のスポンサーであり、ゲルマニアのアルゴー商会やゲベール工房との提携もあって、文字通り飛ぶ鳥を落とす勢いの一大財閥となりつつあるのだ。
しかもそのバックにいるのが、トリステイン最大の貴族であるラ・ヴァリエール公爵家であり、宮廷勅使として勢力を張るモット伯である。
この大財閥の総帥であるフェイトが、ラ・ヴァリエール公爵の名代として度々閣議に臨席する事となったのも致し方なかった。それほどにアンリエッタ王女にとって、親友のルイズとその使い魔のフェイトは、宮廷内に信頼できる味方のいない彼女にとって頼もしい味方であったのだ。
「現状、各社の経営計画は順調に軌道にのっております。あとは、営業の重点をトリステインからどの国に移すか、でしょう」
そうトマは締めくくった。確かにトリステインの経済規模は決して大きくは無く、あまり無茶な経営拡大を行えば、あっという間に他の商会が敵に回る事になる。
「それにつきましては、私の方でいくつか心当たりを当たってみます。当てができましたら報告しますので、今は各企業の本格的活動が可能になるよう、着実に計画を推進してください。
そうフェイトは結論づけると、会議を終了させた。
「さてと、それじゃしばらく休みを貰うよ」
散会してからロングビルは、フェイトにそう言って肩を揉んだ。さすがにここしばらく研究に打ち込みすぎたせいで、全身に疲れが溜まっている。シュナイデル工業と製鋼所が本格稼動すれば、その技術指導でまた忙しくなるのである。今のうちにゆっくりと休みをとっておきたかったのだ。
「連絡は絶やさない様にして欲しいわ」
「ああ。自分の脳みその価値は、自分が一番判っているつもりだからね」
「ええ。貴女は今では同じ重さの金塊よりも貴重なのだから」
本当は護衛をつけたいのであろう。だが、それでは心身ともにゆっくりと休めての休暇にはならない。まあロングビルとて元々は、「土くれ」のフーケとしてトリステイン中を騒がせた大怪盗である。生半可な相手では、手も足も出ないメイジではあるのだ。
「ま、久しぶりに顔を出して安心させないといけない相手がいるんでね。そこでゆっくりとしてくるよ」
「それで「貧窮院」の方はどういう状況ですか?」
商会の会頭室で、フェイトはリュシーにお茶を勧めつつ、今ではリュシーが担当している「貧窮院」計画の進捗状況についてたずねていた。
「今度、ミス・エレオノールとの共同研究で開発した、新しい出産療法について試験運用の予定です。もし研究成果が正しければ、産褥で死ぬ子供や、産後の肥立ちが悪くて死ぬ母親の数は劇的に減るでしょう」
「それは素晴らしいですね。どういう研究成果が上がっているのですか?」
リュシーの答えは、フェイトの予想を超えていたのであろう。さすがにびっくりしたように目を見開いて話しの続きを促してくる。
「簡単です。まず出産時に母体に麻酔薬の投与と、出血を抑える血栓材の投与を行えるようにします。次に、産児の薬用アルコールによる全身の消毒と、産着の煮沸消毒を行います。これらの技術を、トリスタニアの産婆らに広めることができれば、と、そう考えております」
エレオノールは「風」の高位メイジであり、「風」が運ぶ疫病について非常に詳細な知識を有していた。またリュシーは「水」の高位メイジであり、人体を巡る血液他の「水」について非常に詳細な知識を有している。この二人の知識が合わさったとき、いかにして人が病にかかるか、いくつかの仮説があがったのであった。
そして、出産時にどのような状況で母体に負担がかかるか、産児が産褥で死ぬか、トリスタニア中の産婆らを回って聞き込みを行い、統計をとり、それを元に二人でいかにして妊婦にかかる負担を減らし、また産褥で死ぬ確率を減らすか、それを考えたのである。
「……今進んでいる農業生産技術の向上とあわせるならば、トリステインの人口は近いうちに爆発的に増大するでしょう。下手をしますと、海外に殖民しなくてはならなくなるかもしれません」
「そうかもしれません。ですが、「貧窮院」を職業学校をはじめとする各種教育機関として発展させていけば、海外に出て行かざるを得なくなる人々は、殖民した先で必ず新しい生活を確立できると信じます」
リュシーの固い決意に、フェイトは心底驚いた表情のままである。そして、暖かい微笑みを浮かべると、フェイトはリュシーの両手をとった。
「私は、これまで多くの人の命を奪ってきました。その人数の十倍、いえ、百倍の命を救えるのであれば、こんな幸せなことはありません。是非その研究を全力で推進してください。予算に糸目はつけません」
アルビオン南部のロサイス港に入港した「シャルル・オルレアン」は、市民の熱烈な歓迎と護国卿直属の親衛隊「鉄騎隊」の儀杖兵と軍楽隊による出迎えを受けていた。王族乗座旗をひるがえした巨大な戦列艦の入港は、戦争の惨禍からの復興ままならず貧困にあえぐ人々にとっては、まさしく希望の象徴に見えたのである。
「シャルル・オルレアン」の舷門から下ろされたタラップを、わずか二人の供だけ連れて降りてくるイザベラに、市民の万歳の声と軍楽隊の演奏する音楽とが交じり合って、なんとも形容のしがたい喧騒が押し寄せてくる。それに対してにこやかに右手を振って答えつつ、イザベラは用意された馬車にシラノとロクサーヌを連れて乗り込んだ。
「さて、これからが本番だよ」
馬車の窓越しににこやかに笑って群集に手を振って応えつつ、イザベラはごく小さな声で呟いた。シラノと言えば、特になんでもない様子で腕を組んでイザベラの向かいの席に座り、ロクサーヌは、群集のあまりの喧騒に震えながらシラノのすぐ隣に座っている。
「で、本当によろしいのですな?」
シラノが、厳しい視線でイザベラにそう問いかける。
「ああ、打ち合わせ通りにやっておくれ。特にロクサーヌを頼んだよ」
「あ、あの、イザベラ様、本当に大丈夫なんでしょうか?」
両手を顔の前に寄せて、ふるふる震えながらたずねるロクサーヌ。それに対してイザベラは、鼻で笑って答えた。
「大丈夫。なんたってわたし達には、父上から頂いた御守りと、ガリア一の騎士がついているんだからね」
三人が案内されたのは、ロサイス港から百リーグほど北へと行ったアルビオンの首都ロンデニウムのハビランド宮殿であった。途中サウスゴーダの街で一泊し、迎賓のための晩餐が供されてからの入城であった。
ハビランド宮殿では、アルビオン共和国の首脳が一堂に会してイザベラを出迎え、僧服のクロムウェル自らが彼女を案内するという歓迎振りである。アルビオン側が、いかにこのガリアとの交渉に期待しているかあまりにも判りやす過ぎて、イザベラは、王女らしいにこやかな微笑みを崩さないようにするのに精一杯の努力が必要なほどであった。
「王女殿下、この度の来訪、アルビオン共和国の国民一堂を代表して歓迎いたします。今回の会談が実りあるものとなることを、神と始祖に願うばかりです」
王族に向けての礼をして歓迎の辞を述べるクロムウェル。
「……かくしてここは、わたしの狩場となる、か」
「は?」
「いえいえ、あまりにも丁重な歓迎ぶり、ガリア王国王政府を代表して、あらためて感謝いたしましますわ」
イザベラの誰にも聞かせるつもりのない呟きに、クロムウェルは一瞬足を止めた。それに、あくまでにこやかに微笑んで答えるイザベラ。そのイザベラの態度に、クロムウェルは再度にこやかに笑いかけると、慇懃な態度でもう一度腰を曲げた。
「それでは客間へとご案内いたします。御用がありましたら、なんなりとお申し付け下さいませ」
イザベラ一行が案内された客間は、元々は王族の私室であったのであろう、南向きに面した日差しの良い豪華な調度の部屋であった。そこには何人もの侍女が控え、イザベラの要求にすぐに応えられる様に並んでいる。
イザベラは彼女らを丁重に追い出し、ロクサーヌに持たせてきた荷物を広げさせた。中には、公式な晩餐会様の召し物一式と、私室用の簡素な服、そして各種の化粧品などや変装道具までもが収まっている。ロクサーヌも、侍女というより女官としてのドレス一式や化粧品、さらには影武者としての変装道具を持ってきていた。
そしてイザベラは、会談に先立って身支度を整えると称して風呂に入ることを要求したのであった。
彼女が案内された浴場は、やはり王族用のまるでプールとも思えるほどの大理石の大浴槽がしつらえられ、香水で香りのつけられた湯がこんこんと湧き出てきている。
その浴槽内でゆっくりと身体を伸ばし、旅の疲れを癒しつつ、この旅の直前に父親であるジョゼフ王から聞かされた情報を思い出していた。
ジョゼフが「レコン・キスタ」を支援する見返りとして、アルビオン産の高級羅紗生地の優先的購入の権利を認めさせていたこと、そしてクロムウェルに与えた各種の「支援」について。あと、旅のお守りとしてくれた蒼い「宝玉」。
「さてと、クロムウェルが、どこまで「真実」を幹部どもにしゃべっているか、だねえ」
まだまだ青さが残るとはいえ、十分に女らしい曲線を描く肢体を彼女は存分に湯の中で伸ばした。
そして浴槽から出ると、全身を石鹸とブラシで脂を落とし、その蒼い長髪も用意させた卵白で艶やかに磨き上げる。
イザベラは再度浴槽に身を沈めると、もう一度十分に身体を暖めなおした。そのままぼんやりと「シナリオ」について段取りを確認する。
「でも、あそこまでボンクラどもばかりだと、そのまんま喜劇で終わりかねないけれどもねえ。ま、いいか。その時は「レコン・キスタ」をわたしが乗っ取るだけだし」
ハビランド宮殿の円卓の間で、クロムウェル護国卿以下の閣僚達が勢ぞろいしてイザベラを待っていた。
イザベラは、たった一人でその場に現れ、居並ぶアルビオン共和国首脳に対して淑女としての礼をしてみせた。そして彼女が顔を上げたとき、クロムウェルの後ろに控える二人と視線が交じった。
一人は、ウェールズ王子暗殺に成功した功績を認められ、クロムウェルの親衛隊に参加する事となったワルド子爵。もう一人は、漆黒のローブを目深にまとい、全身を隠している朱色の唇の女。
イザベラは、二人の視線から、自分の「シナリオ」が予定通りに進むであろう事を確信した。そして、ドレスの隠しに入れてあるメモの内容を再度脳内で繰り返す。そう、脱衣所でドレスの中に仕込まれていた一枚のメモ。本当にウォルシンガム卿は良い仕事をする。
「それでは王女殿下、早速両国間の国交回復について話し合いを始めさせて頂きたく思いますが、よろしいか?」
かつてはジェームズ国王が座していた席に座っているクロムウェルが、そう会議の開催を宣言しようとした。だがイザベラはにこやかに微笑みみつつ、立ったまま問いかけ始めた。
「護国卿。王室を裏切り、国土を焦土に変えて手に入れたその椅子の座り心地はいかが?」
「は?」
「あ、そう」
イザベラが何を言い出したのか、耳に聞こえはしても、理解ができずぽかんと口をあけているクロムウェル以下の閣僚達。
「護国卿。ガリア国王に恵んでもらった金で編成した軍隊で手に入れた、その椅子の座り心地はいかが?」
「は?」
「あ、そ」
イザベラは、あくまでにこやかな表情を変えず、歌うように言葉を続ける。
「護国卿。ガリア国王との密約も果たせず、恵んでもらった「アンドバリの指輪」と「ガンダルーヴ」でのうのうと座り続けているその椅子の座り心地はいかが?」
「な、何を言われる!」
思わず立ち上がって叫んだクロムウェルを無視して、肩をぽきぽきと鳴らしつつ、イザベラは顔に貼り付けた微笑を大きくし、両手を広げて嬉しそうに声を高めた。
「素晴らしいわ! なんてステキなんでしょう! あなた方がこうも上手く踊ってくれませんでしたら、ハルケギニアはいまだ固陋な秩序のまま、夢の中でまどろんでいましたわ!」
閣僚達は全員が立ち上がり、一斉に杖に手をかけている。しかし、その視線は、クロムウェルとイザベラの間をいったりきたりするばかりである。その混乱の中で、黒いローブの女は嘲るように口の端を歪め、ワルドは呪文を口中だけで唱えている。
「じゃあ、用が済んだらちゃっちゃとおっ死ね、「虚無(ゼロ)の使い手」!!」
彼女が偽りの微笑みを消し、蒼い宝玉を掲げて嘲けりの笑みを浮かべた瞬間、彼女の周囲を膨大な魔力が竜巻のごとくに渦を巻く。その蒼い魔力はイザベラの身に収束し、彼女を蒼い魔力で編まれた鎧となって包み、その右腕に彼女の身長ほどもある巨大で歪んだ盾となって構成される。
まるで死体のごとく青緑色に濁るその盾は、中央に蒼い宝玉が輝き、盾の両端はねじくれた角と化して分かれている。盾の縁は研ぎ澄まされた刃となって鈍く輝き、盾自身には正三角形の頂点に丸い魔方陣が描かれた、ハルケギニアではわずか数度しか見られたことのない魔法陣が光を放っている。
その盾の二股の角がクロムウェルに向けられ、魔力が収束し蒼い光球となっていく。
「ご冗談はそこまでにしておいて頂けると、まことにありがたいのですが。イザベラ殿下」
自分達の盟主を護るためではなく、恐怖から杖をイザベラに向けた貴族らを、心底嘲るような笑みとともに皆殺しにせんとした彼女の斜め後ろに、ワルドの「偏在」がこめられた魔力に輝く杖を彼女の首筋に突きつけて立っていた。そして同じく斜め後ろにローブの女が立ち、巨大な爪のついた右手を突きつけている。
「あらま、腑抜けばかりじゃ無かったんだねえ」
その口調とは裏腹に、心底嬉しそうに視線だけワルドとローブの女に向けるイザベラ。
「人材というものは、いないのではなく、見出されないだけなのです」
「それは勉強になった。礼を言わせて貰うよ、「閃光」」
「小官の二つ名をご存知とは、まことに光栄に存じます」
あくまで杖を突きつけたまま、帽子を脱いで胸に当てて一礼するワルド。そんな彼にイザベラは、降参したように盾と鎧を消した。そして彼女の手の平の中で輝く蒼い宝玉。
「どうも御身体の具合がよろしく無い様子でいらっしゃいます。長旅でお疲れになられたのでしょう。今しばらく当宮殿で静養なされてはいかがでしょう?」
あくまで丁寧な口調のままワルドは、それでも杖を突きつけたまま、イザベラの手の中にある宝玉を取り上げた。それを見て、全ての閣僚達が腰を抜かすかのごとく椅子に座り込んだ。
そんな貴族らの醜態を軽蔑するように鼻を鳴らすと、イザベラはワルドに向けて振り返った。
「それじゃあ、部屋に案内しておくれ」
「うん、悪く無い部屋じゃないさ」
そこは、鉄格子のはめ込まれた窓が高みにあるだけで、一応は天蓋付の寝台と、椅子と丸机だけが置かれている部屋であった。お世辞にも、一国の大使、それも王族を迎え入れるには相応しくはない部屋である。だがイザベラは十分満足した様子で、何度もうなずいていた。
そして、ワルドの目の前にも関わらずさっさとドレスを脱ぐと、下着姿で寝台の中にもぐりこむ。
「ついでだ、眠るまでの間、話し相手くらいはしていっておくれ」
「承りました、殿下」
帽子を脱いで恭しく一礼すると、ワルドは椅子を寝台の近くに寄せて座った。そして、杖を一振りし、「風」の魔法である「サイレント」をかける。これで室内で何が語られても、外に漏れることは無い。
「さて「閃光」、お前はクロムウェルの正体が何者か気がついていたのかい?」
「護国卿が「虚無」の使い手を僭称していたのには、気がついておりました」
「それは大したもんだ。どいつもこいつも騙されっぱなしだっていうのにね」
毛布に包まったまま、くすくすと笑って手の甲を口に当てるイザベラ。そんな彼女の姿を見つめつつ、ワルドは足を組みなおした。
「それで殿下は、小官も含めたこの哀れな道化どもをいかがなさるおつもりです?」
「うん? まあ、アンリエッタがゲルマニアで独自の影響力を発揮するようになるまでは、無事を認めてやってもいいんだけれどもね」
「あくまでアンリエッタ王女に、トリステインとゲルマニアとアルビオンの三つの王冠をかぶせるおつもりですか」
「さあて、ね。ま、わたしは父上の道具の一つに過ぎないからね。父上がどんな構想をお考えであるか判らないし、それに異を唱えるわけにもいかないのさ」
かけらもそんなつもりはない口調で、イザベラはワルドに肩をすくめてみせた。
「わたしの望みはね、生きて王位を継承し、最後には子や孫に囲まれて大往生を遂げることさ。少なくともここで果てるつもりはないし、アンリエッタに殺されてやる義理もないね」
「なるほど。まあ、護国卿閣下は殿下を脅すことはできても、毛筋一つほどの傷をつけることはできませぬ。ご安心頂いてもよろしいかと」
「わたしが心配しているのはね、フェイトの方さ。あの女の構想が判らない上、あいつの手は長いからね。正直言って、いつ殺されるかひやひやものなんだよ。お前ならば判るだろう?」
瞳に昏い炎を灯して、凄みの効いた声で呟くイザベラ。その彼女の感情の動きにワルドは、その鷹のように鋭い眼を瞬きもせず見つめている。
イザベラは、毛布の中から伸ばした手の指に挟んだメモを、ワルドに渡した。その中身に目を通し、彼は彼女の瞳を鋭い視線で射抜く。
「なるほど。それで小官にいかにせよ、と?」
「それは任せる」
「一番困るオーダーですな。つまり殿下は、小官を試されておられるわけだ」
にやりと笑ってイザベラは、楽しそうに呟いた。
「何、お前には先ほどの三文芝居に付き合ってもらった借りがあるからね。いざとなったらあたしのところへ来るといい。ただし、どの程度仕事ができるかは、見せてもらわないとね」
「一体全体、あの小娘は何がしたかったんだ!」
「我らを愚弄しよって、あれでも大使か「我侭姫」め!」
イザベラがワルドの「偏在」に連れられてホールを退出してしばらく経ってから、閣僚達は喧々囂々の大騒ぎになっていた。最高評議会の議長であるクロムウェルは、それを苦虫を噛み潰したような表情で黙って見ているだけである。すでに日は落ち、会議場は「ライト」の魔法が作る明かりの影が黒々と床を染めている。
「閣下! 王女の言っていた「ガリア王との密約」とは一体なんなのです!?」
「そうです! しかもなんとかの指輪と「ガンダルーヴ」を貰ったというのは、どういう意味なのです!?」
「そもそも我らは腐敗した王政府を打倒し、ハルケギニアを統一して聖地を奪還するために立ち上がったのです! それが打倒するべき国王から援助された金で戦争をやっていたなどと、まさに道化以外の何者でもありませぬ!!」
閣僚達の矛先は、この場にはいないイザベラから、クロムウェルに向けられていた。
なにしろクロムウェルは、一介の司教の立場から「虚無」に目覚めたと称して数々の奇跡を披露して聖地奪回運動を提唱し、数多くの貴族を巻き込んで王室に対する叛乱を起こした男である。元々が一介の僧侶でしかなかったという事実が、今になって大貴族らで構成される最高評議会の閣僚らの不信感を爆発させたのであった。
「「ガリア王との密約」か。これは高度に重要な外交機密ゆえにここで明らかにするわけにはゆかぬが、決して「レコン・キスタ」の理想を汚すようなものではないことは名言する」
「ならば、せめて概要だけでお教え下さい!」
「そうです! このままでは、閣下が常に仰られている「鉄の結束」にほころびが出ますぞ!!」
言を左右にするクロムウェルに、閣僚達の感情がさらにヒートアップしてゆく。なにしろイザベラに散々コケにされて傷ついたプライドが、その怒りの矛先を求めて爆発しているのだ。生半可なことでは、収まりそうに無い。
クロムウェルは激昂している閣僚らを冷たい眼で見渡すと、後ろに控えている黒いローブの女に合図をした。
「彼女が余の召喚した「ガンダルーヴ」であることは、彼女が証言してくれよう。そうだな、「ガンダルーヴ」」
「はい、クロムウェル様」
女は、ローブの覆いを外すと、首を一振りしてその背中まである長い金髪を後ろに垂らした。そして、ローブの下で何やら服を脱ぐと、左手を高々と掲げた。その手の甲に輝くのは、はるか古代のルーン文字で書かれた「ガンダルーヴ」の紋章。
「私は、クロムウェル様の使い魔である「ガンダルーヴ」。これ以上の証明が必要でしょうか? 皆様?」
女の口が嘲笑に歪み、その眼が細められる。翡翠色の瞳に浮かぶのは、獲物を前にしたかのような肉食動物の愉悦であった。
そして、右手の鉤爪が音を立てて伸びると同時に、掲げられた紋章が輝きを増す。
「さて、とりあえず皆様にご納得頂けたご様子ですが?」
「ガンダルーヴ」はローブの下に両腕を戻し、服を身に着けると、ローブの覆いを被りなおす。
「では、ガリアからの大使をいかにお相手するか、それについて議論しようではないか」
毒気を抜かれた閣僚らに向かって、クロムウェルはあくまで苦虫を噛み潰したような表情のまま、議事を進行させた。
そして日付も変わろうかという時であった。
「失礼いたします!! 緊急事態であります!!」
ハビランド宮殿の警衛士官が、閣議の場に飛び込んできた。
「なんだ、何が起きたのだ!?」
ホーキンス将軍が、長時間の会議の疲れを見せぬよう、飛び込んできた警衛士官に精一杯の威厳と冷静さを込めた声で問いただす。
「しゃ、「シャルル・オルレアン」の艦長が、王女殿下の身柄の安全を確認させよ、と、通告してまいりました。「シャルル・オルレアン」は現在ロサイス上空に滞空中、全砲門が開かれているとのこと! さらに、イザベラ王女殿下のお付の騎士が、王女殿下に会わせよ、と、暴れております!」
さて時間は少しさかのぼる、シラノは懐中時計を見ながら、何かぶつぶつと呟いていた。どうやら詩を吟じているらしい。そんな彼を見つつ、ロクサーヌはふるふると震えていた。今しがた出て行ったイザベラ王女のことを思うと、怖くて怖くて仕方が無いのだ。イザベラが何をやろうとしているか聞かされたとき、そのあまりの乱暴さに思わず気が遠くなってしまったくらいである。いかにガリア王国の王女といえど、そこまで一国の閣僚をコケにして、とても無事に済むとは思えない。
「あの、シラノ様」
「うむ? 何かなロクサーヌ?」
「イ、イザベラ様は、本当に大丈夫でしょうか? あ、あんな無体な事をなさって……」
シラノは、その巨大な鼻からぶはっと大きく息を吹き出し、かっかっかっかと豪傑笑いをした。
「ご安心召されよ、お嬢さん。このシラノ・ド・ヴェルジュラックがおる限り、姫殿下にはアルビオンが腰抜け騎士ごときには指一本触れさせはいたしませぬ。この「フランムディウス」も今宵は鞘の中で期待にかたかたと鳴っておりますわい!」
ロクサーヌは、こわごわと近づいてシラノの隣に座ると、ドレスの隠しから一枚のハンカチを取り出した。そして、恥ずかしそうにうつむきながらシラノにそれを差し出す。
「あの、お守りといってもお役に立つかどうか判りませんが、せめてこれを私の代わりにお供させてくださいまし」
莞爾と笑ってロクサーヌからハンカチを受け取ったシラノは、ロクサーヌの前にひざまずいてその右手をとり、貴婦人に対するがごとく軽く唇をつけた。ロクサーヌは、突然のことに「ひゃっ!!」と声を上げて仰け反り、真っ赤になった顔を両手で隠しながら、おそるおそるシラノのことを見つめている。
「確かにロクサーヌ殿の御身代わり、お預かりいたしましたぞ。なに、ガリア一の益荒男が受けたお約束、決して違えることはありませぬ」
それでは時間が参りましたが故、姫殿下に拝謁を賜って参ります。
羽帽子をそう言って胸にあてて一礼すると、シラノは堂々とマントを翻して部屋を出て行った。
「これ、そこのお女中。いつまで経っても姫殿下がお戻りになられぬ。ちとご尊顔を拝したいのだが、会議の席はどこか判るかな?」
廊下に出たシラノは、近くを歩いていた宮殿付の侍女をつかまえると、そう一礼して丁寧に訪ねた。訪ねられた侍女は、突然現れた異相の男にそう尋ねられて思わずびっくりしてしまい、思わず「円卓の間はあちらです」と答えてしまったのであった。
再度一礼すると、シラノはずんずんと足音も高く会議の行われているはずの円卓の間に向けて歩き出した。
「お付の騎士殿、これより先は許可無く入ることはまかりなりませぬ!」
着剣したゲベール銃を持ってロビーの警衛に当たっていた鉄騎隊員二人が、銃を交差させてシラノを止めようとする。その交差された銃剣をあっさり跳ね除けると、シラノはにやりと獰猛な笑みを浮かべて大音声で言い放った。
「我輩は、ガリアにその人ありと言われた無双の剣客にして詩人「炎」の使い手エルキュウル・サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ヴェルジュラック! 我が杖を捧げし主の元へと向かうに邪魔立てするとは無粋の極み! 是非にもあらずというならば、この「炎剣」の二つ名にかけて受けて立ちますわい!」
その大音声に不穏なものを感じたのか、多数の衛兵が着剣した銃を手に集まってくる。
「ほう、あくまで我輩の邪魔立てをするというか! その意気やよし! だが木っ端衛士が何人集まろうとつまづきの小石にもならぬわい!!」
シラノが腰の大剣を電光石火の速さで引き抜き、その抜き打ちで目前の鉄騎隊員が構えていたゲベール銃が両断される。返す剣でもう一人のゲベール銃を叩き斬り、あいている左手の拳で二人を殴り倒してひっくり返してしまう。
「ええい! 主従揃ってなんたる無法ぶり! 構わぬ、横隊組め、威嚇射撃用意!!」
駆けつけた警衛士官が、集まった二十名ほどの兵士を横隊に並べ、シラノの頭上に向けて射撃を命令する。
「がっはっはっ! 遅い遅い! そんなざまで我輩の相手をするなど、しゃらくさいにもほどがあるわい! そうれ「フランムディウス」! 我輩の心意気を炎と成して吹き上げい!!」
シラノが大剣を右手で一振りすると、その周囲に真っ青に燃え上がる炎の竜巻が吹き上がる。その竜巻の勢いに煽られてか、「フランムディウス」の柄元に結び付けられているロクサーヌより貰ったハンカチがはためいている。
数十メート離れていても輻射熱で燃え上がりそうな炎に、鉄騎隊員らは慌てて警衛士官の命令も待たずに三々五々発砲してしまった。だがその銃弾は、轟音を上げて巻き上げられる炎と上昇気流にことごとくあさっての方向に飛んでいってしまった。
「ほうれ! 次は我輩の炎が飛ぶ番だな! 何、命まではとらぬゆえ、せいぜい頑張って避けてみせい!! 「フランム・フォウコン」!!」
青い炎の竜巻から、数十もの炎でできた鷹が飛び立ち、鉄騎隊員達めがけて曲線軌道を描いて襲い掛かる。隊員らは、その鷹に追いまくられ、宮殿ロビー内を必死に逃げ回っている。もはや部隊としての統制もへったくれもない警衛隊員らを無視し、シラノは、ちまちまと「水」の魔法を打ってくる警衛士官に向けて一呼吸で間合いを詰め、一瞬だけ炎の竜巻を外して左手の拳でぶん殴って四、五メートも吹き飛ばし、のしてしまう。
あまりの騒ぎに、そこら中から警衛隊員や士官らが集まってくるが、シラノが吹き上げる青い炎の熱と勢いに恐れをなして、近づくこともできないでいた。何名かの士官が、火事にならぬよう慌てて「水」の魔法で周囲を濡らしている。
「ええい、何をしている! 貴様らそれでも護国卿閣下の親衛隊か!!」
閣議には出席していなかったスキッポン将軍が現れ、長剣状の杖を振り回して兵士らの統制を回復させようと怒鳴りまくる。だが、圧倒的なシラノの炎の勢いに、誰も恐れをなして彼に近づくこともできない。
「ほほう。腰抜け騎士どもばかりかと思えば、少しは骨のありそうな輩が現れたわい。我輩は、ガリアにその人ありといわれた、無双の剣客にして詩人「炎」の使い手シラノ・ド・ヴェルジュラック。さて、我が主の元へと案内を頼もうか」
巻き上がっていた炎の竜巻を下げてその姿を現すと、シラノは斜めにかぶった羽帽子を脱いで胸にあて、スキッポン将軍に向けて一礼した。
その余りにも人を食った仕草に、もはや怒りで言葉も出なくなったのであろう、スキッポン将軍は手にしていた長剣をシラノに向けると、矢継ぎ早に「エア・スピア」の呪文を打ち込む。しかしその空気の槍は、再度巻き上がった炎の竜巻に飲み込まれ、ことごとく雨散霧消してしまった。
「ふむん。貴族同士が杖を交わすのに、名乗りも挨拶も手袋もなしとは、無粋もここに極まったわい。これがテューダー王家に杖を向けた叛逆者というものか。こいつはまともに相手をしても面白くはないわい」
その巨大な鼻を高々と突き上げて鼻息を鳴らすと、シラノは無造作に左手の手袋を脱ぎ、スキッポン将軍へ向けて放りつけた。
「この場にお集まりの紳士淑女諸君! この通り我輩はこの無粋者に決闘を申し込むわけだが、ただこの坊やを串刺しにしても見世物にもなりはせぬ。よって、即興でバラッドを作り、最後の行(くだり)でぐっさりといって見せ申そう!!」
宮殿内の侍従や侍女や使用人らが何の騒ぎかと見に来てみれば、宮殿を護る鉄騎隊が右往左往して火事にならぬようロビーの中を水の入った桶を持って走り回り、この異相の騎士を恐々とまわりから包囲するばかりで、手も足も出ないでいる。あげくにこの男は、龍騎士隊の司令官であるスキッポン将軍に手袋を投げつけ、決闘を申し込むという。
あまりのことに、この場にいる誰もが唖然として次に起こる事を見守るしかできないでいた。
「当ハビランド宮殿においてベルジュラックの君、腰抜け貴族と果し合いのバラッド」
「貴様、何のつもりだ!!」
「そりゃ外題に決まっているだろうさ」
ふふん、と、口ひげをひねって笑って見せたシラノに、スキッポン将軍は怒り心頭に発して「風」の攻撃呪文を唱える。だが、その呪文のどれもがシラノの身を護る炎の竜巻に飲み込まれ、吹き飛ばされてしまう。
「帽子をみやびに、さらりと投げ出し、
足手まといの でっかいマントを
しんずしんずと かなぐり捨てて、
拙者は剣(つるぎ)を すらりと引き抜く。
伊達な姿は、セラドン裸足、
スカラムッシュの すばやい身ごなし
耳掻っぽじって 聞けやいちょび助、
反歌の結びで ぐっさり行こうぞ!」
シラノは、一瞬でスキッポン将軍との間合いを詰めると、竜巻を上空へと上げて「フランムディウス」を将軍の杖に叩きつける。その速さと剛力に思わず杖を飛ばされそうになる将軍。しかし、なんとかそれだけは防ぎ、足を踏みしめて返す一撃をシラノの胸に向かって突き入れる。
「弱虫いじめは 本意じゃないが、
何処を刺そうか 七面鳥野郎?
どてっぱらかよ 羽交いの下か?
胸か、藍染め たすきの下か?
剣が交わりゃ りんりん鳴るわい!
拙者の切尖 飛鳥の早業!
太鼓腹めがけて 狂わぬ腕前、
反歌の結びで ぐっさり行こうぞ」
スキッポン将軍の突きを、「フランムディウス」の波打つ刃に絡めとり、軽々と弾くシラノ。その返しの一閃で、将軍の鋼鉄製の胸当てを×印に切り裂いてみせる。
「韻を踏むのが そろそろ難儀だ
一飛び逃げたか 腰抜け貴族?
がたがた震えて 血の気もうせたぞ!
貴殿の太刀先 発止と受け止め
一刀両断 糞でもくらえ。
誘いの隙だぞ その手は食らわぬ
なまくら刀を 落とすな阿呆奴!
反歌の結びで ぐっさり行こうぞ」
怒りのあまり突きを入れる速度がすさまじい勢いになっていくスキッポン将軍。しかし、その突きを軽々と受け、流し、避け、ちょいちょいと将軍の胸当てに×印をつけていくシラノ。
「反(かえし)歌」
にやりと笑って勿体つけて唱えると、シラノの身体が一瞬沈み、スキッポン将軍の視界から消える。
「始祖に御容赦の 願掛け頼(たも)れ!
切尖はずして 手元に飛び込み、
電光石火に……
えい! そら! どうだ!」
視界から消えたシラノに、一瞬動きが止まったスキッポン将軍の腹に「フランムディウス」が突き刺さる。シラノは、どさりと倒れた将軍に向かって優雅に一礼すると、呆然として見物していた周囲の者達にも帽子を脱いで一礼をして回る。
「かくして、反歌の結びで、ぐっさりといったわけでござぁい」
おおう。思わず拍手と歓声が沸き起こり、遠巻きに見ていた警衛士官達が慌ててスキッポン将軍を治療するために駆け寄る。
アルビオンでも特に精兵として知られる龍騎士団の司令官を軽々とあしらって倒してみせたシラノの強さに、もはや誰も彼に立ち向かおうという人間すらいない。そんなロビーの有様の中、一人の男が足音すらさせずシラノの前に進み出た。深めに羽帽子をかぶり、黒いマントをまとっている。
「お見事ですな、ベルジュラック殿。拍手をもって賞賛させて頂きたいが、この通りの隻腕でね」
「貴公は?」
一見して、油断ならぬ相手と見抜いたのであろう、シラノはそれまでの半ばからかう様な態度を改め、鋭い視線を相手に送った。
「ああ、自己紹介が遅れました。僕はジャン・ジャック・フランシス・ワルド。まあ、あえて言うならば、クロムウェル閣下の雑用係ですか」
右の二の腕の中ほどから切断されたらしく、袖がシラノの炎の竜巻に煽られはためいている。左手で深々と被っていたつば広の羽帽子を脱ぎ、軽く一礼するワルド。辺りを煽る炎の熱をまるで感じさせもせず、無造作にシラノへと歩み寄る。
「ほう、トリステインにその人ありと噂された「閃光」殿か! これはこれは。我輩はエルキュウル・サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ヴェルジュラック。全く歯ごたえの無い連中ばかりで退屈しておったところですわい。それでは貴公が本命という事ですな!!」
にやりと、心底嬉しそうに歯をむいたシラノが、右手の「フランムディウス」を無造作に左肩に担いだ。左手は、剣の柄底にあてられている。
だがワルドは、軽く肩をすくめると、シラノの発する殺気を軽くいなした。
「まことに申し訳ないが、かくの如くかたわでね。貴公と正面からやり合っても勝てる見込みが無いのですよ。というわけで、闇討ち、卑怯討ち、何でもありでしたらお受けするにもやぶさかではないのですが」
「そりゃ面白い。と、その前にその右腕、差し支えなければ失った経緯をお聞かせ願えんかね?」
「婚約者にふられましてね、その折に」
「そいつぁ、まことに失礼おばいたした」
炎の竜巻を収め、謝罪のつもりか羽帽子を脱いで一礼するシラノ。
どうやらシラノの暴威が収まったらしい事に、ロビーに集まっていた皆が安堵の溜め息をついた。
「では、貴公との果し合いは次回のお楽しみ、という事にいたすとして、姫殿下の元にお連れ頂けんかねい」
だがワルドは、深々とシラノに向かって頭を下げた。
「まことに申し訳ないが、それができないのです」
「なんと! 貴公をしてまだその様な戯言を申されるか!?」
「いえ、そういうわけでは。それではどうぞこちらへ」
ワルドは、シラノを促すともう一度深めに羽帽子をかぶり、彼の前に立って歩き始めた。
「なるほど、これでは姫殿下にお会いできませぬなあ」
シラノは、案内された先の部屋、先ほどイザベラがワルドに連れられ軟禁された部屋に来ていた。
「しかし、先ほどの連中も腰抜けどもの集まりではあり申したが、ここまで阿呆の集まりとは思ってもみませんでしたぞ」
「それについては、クロムウェル護国卿閣下に代わり、謝罪申し上げます。現在「鉄騎隊」が総力をあげて捜索中であり、すぐにお迎えに上がれるかと」
シラノが溜め息とともに見つめた先、白い漆喰の壁には、こう大きく書かれていた。
「イザベラ王女殿下、確かに領収いたしました。「土くれ」のフーケ」