出会ったとき、彼女は怯えていた。
攻撃的ではあった。言葉を交わすよりも早く、状況も判らぬままぼろ雑巾のようにされた。
しかし覚えている。彼女は怯えていた。怖いから、攻撃せずにいられなかったのだ。
そして自分は下僕となり、彼女は壊れたように空へ笑い続けた。
――――残り二十七時間
横山誠は<夜魔>の下僕の中で最も古く、最も弱い。
他の者がある程度の実力を見込まれた上で屈服させられたのとは違い、最初に会った<魔人>だったからというだけで成ったからだ。
力の程は、下層を占める大多数。<魔人>全体として見たならば同程度の者はたくさんいるが、まさに有象無象のひとりであるだけだ。
だから与えられる仕事も、大抵は他愛ない調達の類である。
夜道を行く今も、まさにアイスクリームを手に入れて来いと言われてコンビニエンスストアに向かっている。
街灯の明かりが誠の影を作る。行くにつれて消え、また別に現れる。
いつまでこんなことを続けていられるだろうか。まだ冷えることのない生温い空気の中でそう思う。
与えられる仕事は本当に下らない雑用でしかないものの、これでも誠は力量の割に重用されていると言ってもいい。<夜魔>の行動に反対することがある、しかも弱い、などという下僕などとうに捨てられていてもおかしくはなかったはずなのだ。
同時に、残念ながら大事にしてくれているわけでもないことも分かっていた。ある種のトロフィーなのだろうと誠は思っている。初めて自分の力で屈服させた記念品だ。さして気に留めてはいなくともわざわざ廃棄したりはせず、何となく飾ってあるのだろう。
諫言は通じない。誠が命じられた調達も、金を渡されていないため実際には強盗になる。こんなことをしていればやがて破滅する。
誠はあまり難しいことを考えているわけではない。ただ、子供の頃から染みついた倫理観が、悪をなすものは裁かれることになるのだと告げている。もちろん、結局は強盗をしてしまう自分も含めてだ。
「……ないな」
呟く。
拠点としているビジネスホテルは駅前近くにある。当然コンビニエンスストア自体は付近に複数存在しているのだが、騒ぎを起こすと飛び火して来かねないとのことでわざわざ遠くまで出張っているのだ。
誠は今、住宅街にいた。窓に映る明かりは夜の団欒か。家族の仲というものは必ずしも良好でもないことを知ってはいても、それでもきっと安らぎはあるはずだと思う。
それが羨ましい。自分にはなかった。
彼女はどうだったのだろうか。
<夜魔>のことを考える。
あれほど怯えていた彼女には、人だった頃に一体何があったのだろうか。
支えてやりたいと思う。今もまだ、触れるだけで崩れ去ってしまいそうに誠には見えるのだ。
口にしたことはない。彼女は嘲笑するだけだろうから。あるいは傷つけてしまうかもしれないから。
それ以外にも、<夜魔>はどうにも浮世離れしている。ホテルを占領したのだから現金自体はあるはずなのに、たかが一個数百円以下であるアイスを強奪させる意味が分からない。
もしかすると彼女にとっては、欲しいものは下の者に頼めば自動的に手に入れられるのが当たり前だったのかもしれない。
その浮世離れは間違いなく隙であり、利用して好き勝手している者まである。
「くそ……」
嫌な予感がする。
彼女には本当の意味での味方がいない。適当に機嫌を取るだけの下僕は機会があれば何の迷いもなく裏切るであろう輩ばかりだ。事実、<剣王>によって追い詰められたとき、動いたのは自分と<妖刀>だけだった。
あの何を考えているのかも分からない<妖刀>以下なのだ。以前からの懸念が事実であると証明されてしまった。
無論、彼らの方が普通なのだと理解してはいる。それでも許せない。
話はするだけ無駄だ。軽く見られている自分の言葉など聞こうともしてもらえないだろう。
唯一希望があるとするなら、<双剣>相馬小五郎である。
<夜魔>を止めようとするのは自分以外には小五郎だけだ。そればかりではなく、彼は他の下僕たちをよく庇う。誰かが失言したときに<夜魔>の注意を自分に引いて仕置きを代わりに受けたり、残忍な所業は止めるにもかかわらずやるとなれば率先して手を汚すのだ。
つまりは自分のことよりも他人を優先している。なんとかして<夜魔>を今の生き方から引き剥がすことに協力してもらえるかもしれない。小五郎にとっても悪い話ではないはずだからだ。
具体的な案はないものの、それこそ小五郎と相談すれば何か活路が見出せるかもしれない。
しかし、急がなければとの思いは強い。破滅の臭いがする。平穏と言ってもいいこの二週間が嵐の前の静けさに見えて仕方がない。
誠は人だった頃から取り立てて得意なこともないが、ただひとつ、この嫌な予感にだけは自信があった。自覚してからは二度しか外していない。
「<夜魔>……」
呟く。
この想いは、恋なのだろうか。
自問への答えを胸に秘め、横山誠は悪になる。
コンビニエンスストアの明かりを、見つけた。
――――残り二十五時間
帰宅した水上春菜はベッドにぐったりと身を投げ出した。
築二十年のマンションの五階、賃貸ではあるが一応の我が家だ。
蒸し暑い。それでもエアコンの電源を入れる気にはなれない。
体の芯から震えが止まらない。
勤めている会社で横領があった。犯人は直接の上司だ。
それだけならば、怖いねと同僚と囁き合うだけで済んだのだろうが。
件の上司は自分に濡れ衣を着せる気だったと、そう聞いて肝が冷えた。
特に睨まれていたつもりはなかった。どうして自分だったのかも分からない。
だが、こんなはずじゃなかった、ありえない、ばれるはずがない、理不尽だと、まるで西から昇る太陽を見たかのような異様な雰囲気で喚きたてていた上司が怖くて仕方なかった。
吐息も震えている。
ここ一月、碌でもないことばかり聞くことになっている。
近所で変質者が捕まること三回、コンビニ強盗もあった、目の前で交通事故も起こった。
まるで呪われてでもいるかのようだ。
「……お兄ちゃん……」
こんなときには兄を思う。去年の春に、珍しくも友人と旅行に行って、その先で事件に巻き込まれて行方知れずになった兄を。
<災>が出現したのだという。周囲の木々が薙ぎ倒され、アスファルトが砕けて岩が破壊されていた。もしそれを人が為したのであれば戦車を数両持ち込むしかないほどなのだと。
友人ともども遺体は見つかっていないが死亡として扱われている。
そして春菜自身も、認めたくはないがそう思ってしまう。
あの兄が、物心つく前から守ってくれていたひとが、生きていたなら自分の前に現れないはずがない。
普段は塗り込められている喪失感が大きな口を開け、意識を飲み込んでゆく。
覚えがある。幾度も体験した。
目が覚めるのは明日の夜だ。
ひらひらと虹色の蝶を見た気がした。
水上の家は、ひとつの戦闘技術体系を伝えてきた。
武術などと真っ当に呼べるものではない。それは己が身を盾として貴人を守り、死ぬ前に襲撃者を道連れにするという、現代どころか当時でさえ異様であったろう理念の下に作られた。
他者を護る、そのような素晴らしいものだと勘違いしてはならない。あるのは生々しい生計、ただの商売である。
だがあり得なくはない。命と武力を対価に土地を得る、安堵されるという方式は、広義には一般の武士たちの在り様と同じだ。
この体系の要となるのはふたつ。
まずは耐久。苦痛も不調も、すぐ傍に寄る死もすべて捻じ伏せて行動できなければならない。
そして、不自由な状態からでも即座に相手を屠れなければならない。状況を選ばない前提となるため、無論のこと素手で行う。
これを成し遂げようとすると、出来上がるのはひどく歪な体系だ。後者など現代では、見つからないという理由で獣相手にすら実践が難しい。
そして耐え続け、鍛え続けたところで活かされるのは必然的に一度だけ。その後は、死んでいるか四肢の一本も失っているか。
かくも碌でもない上、とどめとばかりに銃の台頭によって存在自体がほぼ無意味となった。小口径の粗悪な拳銃ならともかく、れっきとした軍用小銃を相手取ってはいかんともしがたい。この体系に大きく身をかわす、あるいは身を潜めるという選択肢は存在しないのだから。
にもかかわらず、時代遅れとなっても伝えられるものは変わらない。伝わってきたものだから伝えるという因習だけで現代にまで至ったのだ。
無意味だと春菜は思った。兄も祖父も無意味だと理解していたはずだった。
それなのに兄は教わり、祖父は教えた。どうしてなのか尋ねてもはぐらかされるばかりで。
兄は朝早く起きて修練をした。それが終われば勉強もしていた。学校へ行き、帰ってきて修練して、よく食べて修練して、勉強して寝ていたように思う。時折自分をどこかへ連れて行ってくれるとき以外には遊びなどとは無縁だった。
学業成績は学年でも屈指だったはずだ。春菜もよく解法を聞きに行った。
友人は、もしかすると高校に入るまでいなかったのではなかろうか。しかも紹介されたことのある友達というのが同じ高校ですらなく、遥か500キロメートルは西に住んでいるというのだから尋常ではない。傍から見ればなんとも兄とは噛み合わない印象だったが、当人同士は気が合っていたのだろう。その友人と知り合って以来、兄の修練に普通の拳法のようなものが混じるようになったのを覚えている。そして素人目にも、力量が大きく増したことが感じられた。
――――本当のことを言うならば。
自分のために兄が家伝の術を習い覚えているのだと、幼い頃からおぼろげに察してはいた。
ただ嬉しかった。
それはそうだろう。強くて頼もしい、自分には優しいお兄ちゃんが自分のために頑張っているのだ、嬉しくないわけがない。
中学校へ上がる頃には兄を縛ってしまっているのではないかと自責の念に駆られたこともある。
だがこれも本当のことを言うならば、嬉しかった。縛ってしまっていることに背徳的な喜びがあった。いけない子だ。
恋などではない。兄は兄だ。むしろあやふやでしかない他人より、決して切れぬ繋がりを持つことこそ何にも替え難い。
高校生の頃は幾分冷たく当たった。けれど兄は変わらず優しく、そうであろうと自分は確信していたのだ。
夢幻にたゆたう春菜の意識は筋道立てた思考を行わない。次から次へと、絡むような、孤立するような記憶が現れてはまた姿を隠す。
いずれも懐かしく、恋しい記憶だ。
あの頃はそうとは知らずに幸せだった。周りの全てに守られていた。怖いものはすべて父や母や、何より兄が打ち払ってくれた。
今は、もう、誰も、いない。
ひらひらと、ひらひらと虹色の蝶が飛ぶ。
それは閉ざされた窓をすり抜け、月光の中を彷徨う。ふらふらと、ふらふらと海の方へ。
夢幻の蝶はその存在に纏う時間すらあやふやだ。いつにでも、どこにでもいるようだ。
だが不意にそれが軌道を定めた。敵を感知したのだ。
その足掻きは容易く潰される。
ロングコートの影から伸びた右手が、目にも留まらぬ速さで蝶を捕らえた。
「逃がすものか」
平らな声。ただし、内の激情を押さえつけたがための平坦だ。
双眸が怨霊もかくやと輝いている。
それ以上は何も声にしない。
人であった頃にすら150キログラムを超えていた握力が蝶を握り潰した。