旧い家に二卵性の女子があった。
妹は愛らしかった。何でもできた。
けれど姉は、何もかもが妹を凌駕していた。
太刀打ちできぬとやがて妹は諦めた。諦めて、しかし腹の底に煮える妬みだけは不吉に色を濃くしていた。
それでもいつしか、妹は居場所を見つけた。
日のあたる場所とは言いがたかった。素行のよろしくない少年たちだった。それでもいつしか、得たのだ。
荒んだ心でも令嬢を取り繕うことはできた。妹はそこでだけ至高の姫でいることができた。
少年たちは本当に碌でもなかったが、幸福であると錯覚はできた。
それも、彼らが姉の存在を知るまでだったが。
――――残り八時間
今日になって呼ばれたのは五度目だった。
相馬小五郎は薄暗い部屋の中、<夜魔>と向かい合っていた。
時刻としては夕方、それでも暑さとともにカーテンの隙間から射し込む光はまだ強い。
「これを見てちょうだい」
そう言って渡されたのは紙、ルーズリーフの束。小五郎も全員を覚えているわけではないが、下僕たちの名が連ねられているのが判った。よく見れば組み分けされ、時間帯と地域も付記されている。見回りの予定表だ。
「……俺はただの剣であって、他人を動かす心得なんかないんだがなあ」
「それでもいいわ。素直な感想を聞かせて」
<夜魔>の言葉は呪縛となる。こうなると嘘はつけない。
「少し待て」
溜息一つ、確認を始める。
そのつくりは騎士派に近いだろうか。元々白兵戦を得意とする<魔人>が多いこともあって、どんな状況にも対応できるようにとはいかないものの、なるたけ均等な戦力になるよう考えられていると見えた。
特筆すべきは、単に力量からだけで組んだのではなく互いの関係性も加味して協力し合えるチームを形作っていることだ。<夜魔>が個々人に興味を持っているようには到底思えなかったというのに。
「よくできているとは思うが」
「あなたならチーム一つくらいは片付けられる、といったところかしら」
「そうだな」
「単純な実力はどうしようもないわね」
小さく、皮肉げに笑う<夜魔>。
ここに来て少しばかり予想を上回り始めた、と小五郎は内心舌を巻いた。
「他人なんぞABCDE程度にしか識別できていないもんだと思ったがなあ」
探りのために煽る。
知ってか知らずか、<夜魔>の湛えた笑みに荒んだ色と嘲りが濃く映った。
「否定はしないわ。ただ、そうであることと力や交友を把握しておくことはまた別」
器用と評するのも不適だろう。まるで虚構のキャラクターのデータだけを頭に入れているかのよう。歪と言うべきだ。
その歪みがどこから来たものなのかは小五郎には分からないが、やはり本来の頭の良さ自体はかなりのものなのだと知れた。
「<剣王>の力量は読み間違えたようだが」
狭い部屋の中に二人きり、首を獲るには絶好の機会。しかし成せない。
「今日はよく喋るのね」
品良く椅子に腰かけた<夜魔>は、昨日とは違って小五郎から一切注意を逸らさない。ただでさえ呪縛のせいで成算が立たないというのに。
しかしその上で小五郎も平然としたものだった。
「呼び出し過ぎだ。他の奴がいくらでもいるだろう。この期に及んで俺を篭絡する気でもあるまいに」
「あるわけがない。でもあなたが一番強くて、しかも詳しいのだから仕方がないでしょう」
交わす言葉、語調には冷ややかなものを秘めつつ、互いに距離を測るように。
仕方がない、とは言うが、<夜魔>の自分に対する態度は他の者たちへのものと比べたならば明らかに別格である。これが他の者であったなら雑談めいたことは言わない。すべてを支配しているかのように一方的に通達するだけだ。
だからこれはおかしいのだ。自分が秀でるのは戦いくらいなものだ。<剣王>に執着していたように<夜魔>は確かに戦闘能力を重視してはいるのだろうが、ここぞというときに逆らって戦力にならなくであろうことが明らかである自分に入れ込む理由が分からない。今しがたの答えの通り、色恋でもあるまいに。
無論、下僕たちに冷たいことはありがたい。それを除けば<夜魔>は美貌といい肢体といい纏う雰囲気といい、尋常ならざる領域にある。もし少年たちに優しければ、どうしようもなく引き寄せられてしまう者が後を絶たなかったことだろう。
<夜魔>は男を憎んでいると言う。だがそれだけの単純なものではないのは確実だ。
馬鹿な犬だと思っている、その割には言うことを聞く利口なはずの犬に興味が薄くはあるまいか。服従を迫りながらその実、太鼓持ちに興味はないらしい。
理想はおそらく、総じては従いつつも恐れず意見し、かつ強いこと、そのあたりではなかろうかと小五郎は見当をつけた。<剣王>には、そういう存在になってくれるのではないかと期待していたのだろう。
と、考えてみても違和感は抜けない。これではやはり自分はそぐわない。
不意に横山誠を、<夜魔>を思う少年のことを思い出した。
「……お前は弱い男は嫌いなのか?」
空気が緩んだ。より張り詰めるかもしれないと思った問いであったのに。
<夜魔>はあどけない表情を見せていた。きょとんと、よく分からないことを訊かれた幼子のように小首をかしげていた。
「考えたこともなかったけれど……」
声も素直に響いた。
それから考え込み、駆け引きも何もなく返答があった。
「別に嫌いじゃないわ」
「そうなのか」
小五郎も毒気を抜かれていた。
嘘とは思えない。だがそれで結局男を憎んでいるというのだからわけが判らない。
無論のこと、人の心というものは矛盾する要素すら複雑に絡み合い、共存しているものだ。それでもあまりに理解しづらかった。
<三剣使い>、最上素也ならと考える。
己の剣となった三人の少女の心を救ったあの少年ならばあるいは、<夜魔>をも救い得るのだろうか。
救い出してのけるかもしれない。
そしてその後できっと、この女に奈落へ引き擦り込まれるのだ。救われた者がそのまま心安らかに居続けられるわけではない。いくらでも移り変わってゆくものなのだから。
表面的には不安定な暴君でしかない<夜魔>の水底に、小五郎は空恐ろしいほどの深さを覚えてならなかった。
部屋を出る。
歩哨役は滲む疲れとともに惰性でそこにいる。ただ無反応に廊下の壁を見つめていた。
元財団派の一人だ。あまり話したことはなかったが。
そして今も話しかけることはしない。ここでの声は聴力を増強するまでもなく室内の<夜魔>に届いてしまう。万が一にも刺激するようなことを口にされると困るのだ。今はこのまま時を浪費させておきたい。ただでさえ少し建設的になってしまっているというのに。
一歩を踏み出したときだった。
「小五郎さん!」
駆け寄る足音とともに、声。
向き直れば、さすがに<魔人>が息を切らせることもなく誠がいた。
「あんたに頼みがある、俺を鍛えてくれ!」
「……また唐突だなあ」
ぼやくように呟き、半呼吸だけ思案して顎をしゃくった。
「ともあれ場所を変えよう。屋上だ」
――――残り七時間
茜色の世界が目に痛かった。
吹く風は朝と同じようにシーツをはためかせ、朝より強く抜けてゆく。
熱を預けて夜へ向かうのか、不意の肌寒さは錯覚か。身を震わせたのか否かも自覚はなかった。
「……黄昏、なあ」
ぼそりと小五郎が呟いた理由は、誠には分からない。
そんなことよりも続きを聞かなくてはならないのだ。
「それで結局、俺を鍛えてくれるのか?」
「結論から言えば、断る」
ここまで連れて来ておきながら返答は冷たいものだった。だが、朝には欠けていた張りがあった。夕陽を背に見下ろす巨躯の眼光は静かながら鋭い。
しかしその程度のものに怯む誠ではなかった。
「<夜魔>は俺が護りたい。俺がもっと強かったらきっともっと言うことを聞いてくれる。頼むよ小五郎さん、あんただけが頼りなんだよ!」
進言を弾かれるのはいつものことだ。決して頭はよくないが、言っていることは少なくとも媚を売っているだけの輩よりもましであるはずなのに、それでもまったく聞き入れてもらえないのは力量によるものだと誠は考えていた。
今までも気にはしていたのだ。鍛えようともしていた。だが、効果的な方法を思いつかなかった。
<魔人>として最低限である誠でさえ、バイク程度の質量は負荷にもならない。走り続けることも何ら苦にならない。実戦を経験すればいいのだろうが、わざわざ誠が戦わされることないし、誰も手を貸してはくれないし、私闘は禁じられている。まずはやり方から手に入れなければ始まらないのである。
しかし、鍛えてみたところで他の者たちとの差はそうそう埋まるものではない。そして今まで、夜魔に半端な力量の自分など不要だと思い、諦めていたのだ。
ところが今朝、尻に火がついた。たとえ半端であっても、少しでも<夜魔>が力を認めて自分の言を容れてくれたならと思い立った。
「どうして駄目なんだ、理由を教えてくれ!」
「挙げられる理由はいくつもある。今のお前から一月や二月じゃあ、付け焼刃にもならん。あとは……」
「少しでもいい、それで<夜魔>に俺の声が届くなら!」
一歩、無意識に踏み出していた。
掴みかからんばかりの勢いで迫り、しかし変わらず揺るがぬ瞳に止められる。
「届かんだろうなあ」
「何を根拠に……」
「<夜魔>は弱い男が別に嫌いでもないそうだ」
「……はあっ!?」
誠は目を剥いた。
<夜魔>はあんなにも<剣王>を支配下に置きたがっていたではないか。見た目だけなら既にいる下僕からだけでも選り取り見取りだというのに。
やることなすこと的を外すのは誠にとって慣れたことだが、今回ばかりは自分の愚かさゆえではない。
「……訳が分からない」
「だろうな。俺にも分からん」
小五郎が苦く笑い、それからひどく冷たい声になった。
「だが、ひとつ予測できることはある」
「何か<夜魔>にあるのか!?」
誠はただひたすらに<夜魔>を思う。だからその冷たさが自分に向けられたものであることに気付かない。
「お前の言葉が届くようにはならない。お前が<夜魔>を翻意させることはほぼ不可能だ」
誠は最も古くから<夜魔>の傍にいる。だから彼女は少年たちの中でも誠について最もよく知っている、少なくとも本人はそのつもりでいるだろう。そして誠は本心から<夜魔>のために動いている。それでも通じない。軽んじるのだ。
<夜魔>は強さについて幾度となく言及することがあった。足りないとすればそこであるはずだった。
だというのに力量を気にしていないとなればもう、言うことなど根本的に受け入れるつもりがないということではなかろうか。
「つまり、お前に協力することは俺にとってメリットにならない」
元々誠と小五郎の目的は正反対である。しかし<夜魔>が心変わりし、少年たちを解放させることができたならば互いの益になるというだけのことだったのだ。しかも一方的に与えるばかりである小五郎に主導権は握られている。
誠は息を呑んだ。それでもここで引くわけにはいかない。<夜魔>の首を狙い続ける小五郎は本来、一番の敵であるのだろう。しかし皮肉なことに、今もって最も頼れる相手なのだ。
「……ならメリットを示せばいいんだろう」
「どうやって?」
沈みかけた陽は小五郎の顔を照らさない。逆光の中、まなざしだけが射抜いてくる。
今更ながらに背を悪寒が走り抜けた。
相馬小五郎。<竪琴>財団派の最古参にして屈指の強者。誠程度であれば素手でも縊り殺せるだろう。
誠は小五郎を恐れてはいない。想いの強さが背を支えている。だが今は、その支えごと圧し折りそうな気配があった。
歯を食いしばり、耐えた。
「まだ分からない、けど俺の全てを懸けて<夜魔>を止めてみせる!」
気合だけ、想いだけ、言葉だけである。具体的な展望は何もない。
小五郎は一度、貫く視線を強め、それから少しだけ緩めた。
「……一月。どうせあと一月で終わる」
それが偽りの期限であることを誠は知らない。
「ならそれまでに何とかすればいいんだろう! 見てろ、度胆抜いてやる!」
言い捨てると、そのまま屋内へと駆け出す。
干しておいた洗濯物を取り込まなければならないことは忘れていた。
そして姿が完全に消えてしまってから、小五郎は溜息をついた。
「実際には三週間。一応、期待はしてるんだがなあ……」
そして。
自室で<夜魔>は、草臥れた小説を手に麗しい眉を顰めていた。
その気になれば<魔人>は聴力も遥かに人を超える。雑多な音の洪水になってはしまうが。
元々人間には自分の興味のある音を拾い上げる能力があるものの、こうも雑音が多すぎてはそうそう発揮することはできない。
だが、<夜魔>は人であった頃に、小さな音を拾い上げ弁別することが得意になった。
それは今でも変わらない。聞こうと思えば少年たちが陰で何を言っているかもこの部屋にいながら全て把握できる。
だから屋上での会話は筒抜けだった。
「……三週間ね。油断のならないこと」
それをひとまず意識に置いて、考えるのは誠のことである。
どうやら小五郎に利用されようとしているようだ。相も変わらず落ち着きがない。
背筋を悪寒が這い登ってくる。
吐息が震えた。
「気持ち悪い」