『いいか、右の拳のあとには必ず左の拳を続けるんだ』
子供の頃、そう言った酔っ払いがいた。
見知らぬ大人だ。呂律も回っていない。
『左の拳のあとには必ず右だ。そして右のあとは左だ』
そう言って行った四連撃は、少なくとも子供の目には信じられぬ速さだった。足取りも怪しいのに、その四撃だけは別人のようだった。
酔っ払いが誰であったのかは今でも知らない。高名なボクサーであったのかもしれないし、無名であったのかもしれないし、あるいは別の格闘技、果ては少し心得がある程度のただの酔っ払いであったのかもしれない。しかし、少年の心に染みついた。
右、左、右、左。反応など許さずに立て続けにいつまでも打ち込み続けたならば勝てる相手などない。少年の頃の、机上の我流最強理論としてそれは形成されたのである。
まずは空手をやった。中学生の頃にはボクシングも。
旨くはいかなかった。なにせ求めていたものは非現実的な速度で終わりなく、なのだ。本当に実行しようとすれば下半身や体幹のほとんど生かされぬ、強めにじゃれた程度の拳打を結局現実的な速度で、としかならない。
もちろん、ボクシングを始めた頃には既に理解していた。子供の我流理論などよりも、長い時の中で洗練されてきた空手、ボクシングの基本の方が強い。
だが、<魔人>は理不尽を行う。十七歳の誕生日、我流理論を失う直前に得た新たな自分は、人間の正当を覆した。
要は速さと強靭さだ。脚から腰、肩を伝わって放たれる真っ当な一撃を、打撃の反動まで利用して左右を切り替えながら息もつかせぬ連打と成す。速くなった。真っ当に打ちながらありえぬ速さ、連撃を得た。
そして人ではたとえ速さを成し遂げたとしても生じた歪みに耐えられぬであろうものを、<魔人>の肉体は苦もなく捻じ伏せる。
拳打はさながら篠突く雨、二つの拳は離れることなく互いの周囲を回り続ける連星のように。
<連星>の連打は、届く範囲において未だ不敗である。剣や刀など、より遠間から倒されたことはあるが、純粋な殴り合いで遅れをとったことはない。
景色が背後へ駆け去る。
拡大してゆく処刑人の姿は今も淡々と、歩みを進めるのみだ。それだけで息が詰まる。その周囲が爆ぜた。ぞっとするほど滑らかな切り口を見せるアスファルトが舞い、幹を断たれた左右の街路樹も次々と倒れ行く。
それは<贋金>の仕業だ。いかなる理屈によってかを<連星>は知らないが、遠間よりあらゆるものを断つ攻撃を仕掛けることができるとだけは承知していた。
籠手に覆われた処刑人の右腕が動く。打ち払う動きと同時に後方の地面が細切れになり、その頬から血飛沫が舞う。
その光景を<連星>は確かに見た。
防いでなお、効いている。先ほどまでのように無傷ではない。傷を与えることが可能であるならば、斃すことも可能であるはずだ。
しかし同時に、かすり傷でしかない。<贋金>の斬はクラウンアームズに包まれた肉体の内側すら理不尽にも断ち切ったことすらあるというのに。
分からない。
自分たちと並みの<魔人>の間にある差が、処刑人と自分たちの間にもある。そう結論づけはした。だがこの二つの関係は決して相似していない。
前者の差は単純な身体能力や出力の差によって生じる。例えば横山誠、最後まで献身の届かなかった彼と比べたならば、筋力も速度もそれぞれ五倍以上勝る自信がある。この能力差だけで圧倒してしまえるのだ。脆く感じるのは、大人が赤子を攻撃しているようなものだからである。
<魔人>の得られる戦格の限度は人であった頃の能力に比例するとはいうが、成って即座にその上限に至れるわけではない。大抵は基本の戦格から始まり、能力を伸ばしながらより上位のものへと進化してゆく。
ただし<魔人>の能力は伸びにくい。その成長はある段階に至って初めて形となり、一息に積み上がる。それまでは全てが徒労に思えてくるものだ。大半の<魔人>が天井を越えられない理由はそこにある。その一方で、才なのか、また別の見えざる何かなのか、成って間もないのに双格並列にまで到達するような例外もあるにはあるのだが。
<連星>はかつて、<剣王>新島猛と手合わせをしたことがある。騎士派からの移籍、それも財団派の切り札となるべくして、となれば心穏やかにはいられない。自分たちは不甲斐ないと言われているようなものだからだ。
だから納得したかった。彼にそれほどの価値があるのだということを。
そしてそれは証明された。
<剣王>は強かった。何をしても、どう仕掛けても凌がれ、攻略される。
そのときはそれだけだった。自分とは格こそ違うが同じ領域にいるつもりだった。
その認識が思い違いであることはまもなくして理解できた。
<剣王>は本当に強かった。自分が一進一退の攻防を繰り広げた相手を一刀の下に切り伏せてのけた。
力に大きな隔たりがあるとは思えない。速さが倍もあるわけではない。技術は、確かに数段上の階梯にあるのかもしれないが。
クラウンアームズの格にも違いはあった。しかしこれも一回り、二回り程度に過ぎない。
普通の人間同士であれば先に致命傷を叩き込んだ方が勝ちだ。ほんの少しの差が一撃で生死を分け得る。しかし自分たちは<魔人>なのだ。結果的に為すすべもなく敗北することはあろうとも、一撃でやられるはずがないのに。
だが事実は違う。彼らと自分たちの間には埋めがたい力量差が存在してしまっている。
それはどこから来るものなのだろう。
疑問は、もう遅い。
彼我の距離はもはや、<魔人>にとっては一足一拳とでも言うべきところまで近づいてしまった。
<連星>は何もかもを忘れた。<夜魔>のことも、<贋金>のことも、約束の少女のことさえ放棄して敵だけを見た。
ただ、打つ。最速で、二つの拳を連星と化し、防御をこじ開けるのだ。それだけを思った。
防いでなお傷を受ける攻撃を防げなかったならば、それこそがきっと唯一の光明となるだろう。もちろんそんなことも考えず、<連星>はついに間合いに踏み込んだ。
まずは左。これは巨大な籠手を嵌めた右掌によって内側に流された。ならば右を踏み込み、そのまま渾身の右を放つ。
放たなければならない。
だというのに、身体が泳いでいる。流された左は、そのまま手首を掴まれ、引き込まれていた。最速で放ち最速で戻す初撃が完全に捉え切られていた。
引き込む流れは触れているだけとしか感じられないのに、離岸流の如く抵抗ごとまとめて呑み込んでゆく。
いつしか添えられているのは左手となり、<連星>の左腕は完全に伸び切って、導かれた先に待ち受けるのは右肘。
玄妙の交叉法による一撃が眉間を直撃した。
衝撃はあれど痛みは既になかった。全身が冷たくなった。
死ねない。
<連星>は強く願った。あの少女にもう一度だけ会いたい。約束を守りたい。絶対に屈さない。
無尽の生きる意志は、不屈の心は、しかし既に訪れていた死の前に消滅する。
呆気なく、あまりに呆気なく、これが終わりであった。
<贋金>は幼い頃よりイラストを描くのが好きだった。
友人に請われるまま漫画やアニメのキャラクターを次々と模写する日々のうち、徐々に真似ではない自分自身の絵が生み出されていった。
好きこそ物の上手なれ。知識も仕入れ、独学ながら技術も磨き、中学を卒業する頃には歳にそぐわぬ腕前に至っていた。
命よりも大事だと嘯いた。本気だった。少なくともそうだと思い込んでいた。
高校に入学して、性質の悪い輩に目をつけられた。
いや、その程度で済まされる人格ではなかった。それは幼さゆえなのか、社会への恐れをまったく持ち合わせていなかったのだ。
恐喝された。万引きをさせられた。傷害の手伝い、そして果ては殺人にまで及ぼうとして、ようやく拒否した。
懲罰は残酷だった。絵か、命かを選ばされた。
<贋金>は生きたがる。あのとき、命よりも大切であるはずの絵描きを捨ててでも守った命、絶対に侵されてはならない。
そのためならば何でもするのだ。人よりも遥かに強靭な<魔人>に迷わず成った。死ぬ可能性の方が高いのに、矛盾には気付かない。
命より大切なものよりも大切な命。堂々巡りをそうであると認識できない。
犯罪行為は皮肉にも慣れたものだった。最後の一線として守ったはずの殺人にも、毫も迷わなかった。最初の標的は勿論、決まっていた。復讐などではない。自分を脅かす存在と認定していたものを排除しただけだ。
<闘争牙城>にいたのは安全だったから。危険を制御できるあの閉鎖空間はただ生き延びるにはいい。
<夜魔>に大人しく従っていたのは安全だったから。嗅覚がそう嗅ぎ取っていた。
もっとも、大局的には判断を誤ったと言わざるを得ない。
駆け行く<連星>の先、忌まわしい死が在る。
全身を震えが走った。恐怖であり、憎悪である。死は必ず排除しなければならない。
ありったけの敵意が力を収束させる。
<贋金>はもう絵を描けない。捨ててしまったあのときから、描くべきものが失われた。
だから今、できるのは否定することだけ。
目の前の情景に線を描き加え、存在している空間ごと対象を断ち切るのだ。
手には何の変哲もない鉛筆。絵は心から失せ、肉体が人でなくなっていようとも、技術だけは魂に刻まれ残っている。
『入り』から『抜き』は鮮やかに。情景の中の処刑人を線で二つに分けた。
<破界断層>。
これは設定した位置に直接作用する。その瞬間、その場に身を存在させないことで避けることはできても、防ぐことはできない。クラウンアームズ以外の全てを両断してきた。
だから、処刑人の防御行動も無意味でなければならなかったのに。
打ち払いによって線そのものが破壊された。
そのまま消え去りはせず周辺を切断こそした。処刑人もさすがに無傷では済まなかった。しかし絶対であるはずの技が、ただの飛斬に等しい扱いだった。
「<魔人>、<魔人>か!」
腹の底から笑いが漏れる。
「お前らこそが<魔人>なのか、それとも<魔人>を超えているのか!」
恐ろしい。絶対に排除しなければならない。
<贋金>の<生きたがり>は逃避ではない。媚びも乞いも攻撃であり、死の可能性を排除するための手段のひとつに過ぎない。
だから惑いなどまったく存在していなかった。
<連星>が死ぬ。それを為すために処刑人は初めて全身の動きを用いた。
この瞬間だけが勝機、防御など間に合わせない。<破界断層>に必要なのは線を引く時間だけ。
<贋金>の鉛筆は処刑人の首に削除の線を書き込んだ。
その情景が歪んだ。水面を揺らがせ、映る景色を壊してしまったかのように。
いや、<破界断層>は効いた。処刑人の首からは激しく鮮血が溢れた。
そしてそれだけだった。赤は幻だったかのように灰色に薄れ、傷も即座に消え去る。
何もかも折込み済みだったのだろう。こちらを見た双眸に情動がない。冷徹に計算して、ああすることが最も効率良く自分たちを片付ける手順であると結論づけ、実行したのだ。
それは同時に、一度受けただけで<破界断層>の術理を解してのけたということでもある。
津波と評した己の勘に<贋金>は笑った。全てを呑み込み、砕き尽くしてしまうのだ。
<贋金>は諦めない。
それでも結果は変わらなかった。
残るは<夜魔>、ただ一人。