音楽は世界を繋ぐ。
たとえ生まれた国が違おうと、喋る言葉が違おうと、音は人々の間で弾み、踊る。
それは雨になる。焼け付く日差しとなる。海を泳ぐ魚、雪山を舞う鳥へ変わり、自由に駆け巡る。
万雷の拍手が聞こえる。蒼天を衝く歓声が聞こえる。
フルートを手に世界を行く。
音楽は人々を繋ぐ。その実感をもって少年は行く。
隔たりなどない。争いなど要らない。すべての人が友となれば、口喧嘩くらいはするだろうけれども、平和に、幸せにいられる。
この笛は、笛の音はそれを成せる。確信があった。
無邪気を打ち据えるものはほどなくして現れた。
会場に仕掛けられた爆弾。音楽を掻き消す悲鳴、飛び散る肉片。人々は我先に逃げ出し、ぶつかり合っては無意味に諍いを起こす。
少年は信仰を得た。これは試練だ。負けてはならない。
そして戦いが始まった。
いっそ無力であったならよかったのかもしれない。為すすべもなく打ちのめされてしまえば、諦めたのかもしれない。
しかし少年の才はまさに天賦のものであった。そしてそれが些末事にしかならぬほど、笛の音には魂が込められていた。
少年は、全てではなくとも争いを止めることができてしまった。
だから止まらない。己が正義を信じ、邁進した。
それでも死んでゆく者はなくならない。積み重なり続ける。少年が収めるよりも生み出され続ける。
赤が目に染みつく。鉄錆びた臭いを乗せた風は紅に染まって映った。
音楽は世界を、人を繋ぐ。少年の信仰は揺らがない。何もかもを理解できてしまっても、信仰だけが揺らがない。
信仰と心が乖離する。助けを求めて来る手に何もできぬうち、死が呑み込んでゆく。
己が正しさの確信が、痛む心を捻じ切ってゆく。
やがて少年にも銃弾が死を届けた。
<魔人>と成るとき少年は願った。
正義を成すための揺らがぬ心を。
今度こそ正義を成し通せる己を。
そのために得たものがあり、失ったものがあった。
もう日が変わる。
『商品』を抱え、烈火は砂浜を駆ける。
後ろについてくるのは鏡俊介である。
まさかこんなことになろうとは予想だにしなかった。
俊介は言った。
『本当はね、命を売り買いするのはいいことじゃないと思うんだ。でもそういう仕事があって、それを必要とする<魔人>がいることまで僕は否定できない』
この一言で、烈火は今まで俊介に感じていた違和感の正体を悟った。
この男は人間を愛玩動物と認識しているのだ。だからあんなにも優しい。猫好きが猫という猫を可愛いと言うように、人間という人間を可愛いと思っているのだ。
眩暈がする。今までに出会った最高の狂気が何でもない顔をしてそこにいる。
いや、これは幸運と言うべきなのだろう。覚悟していた死を免れたどころか、この絶望的な状況に頼もしい戦力を手に入れたに等しい。今『商品』を眠らせているのも俊介の力だ。疲れるだろうからね、と言って少女の頭を撫でた途端に安らかな寝息を立て始め、以降まったく目覚める気配がない。
あまりにも便利すぎ、そして他力本願なのはこの際気にしないことにする。形振り構ってはいられない。
「あと少しだ」
連絡は昨夜の時点で来ていた。指定された地点は海上、正確にはそこに浮かぶ巨大船舶だ。送迎にクルーザーが近くまで来ているはずである。
なるほどと思う。海は<魔人>の機動力を大幅に削ぐ。疑似的な飛行を可能とする者はあるが稀であり、そうでなければ泳がなければならなくなる。<魔人>の身体能力をもってすれば溺れる可能性は低いにしても、地上のようにゆくわけもない。鳥船派を別として、さしもの<竪琴>も手出しが難しい。
しかしそれは同時に、何かあったときに烈火も逃れられないということを意味する。そして、何か、とは<スィトリ>こそが引き起こす可能性も高いのである。
とはいえ俊介さえ味方であってくれればどうにかなりそうだった。
その気の緩みを、責められはすまい。あるいは緩んでいなくとも、結果は変わらなかった可能性が高い。
烈火はここで死んだ。繊細に少女だけを避けながらも豪放に空を裂く長大な太刀に首を刎ね飛ばされ、死んだ。
それが現実であるはずだった。
甲高い音が鳴り響いた。
首を刎ねたはずの太刀は、赤の輝きを放つ剣によって受け止められていた。
現実が、改変された。
赤の剣で防いだのは無論のこと俊介であり、太刀の持ち主もまた知った顔だ。
「改めて無茶苦茶だな、てめえ」
荒々しく牙を剥き<大典太光世>がそこにいた。
「なっ……」
一瞬気が遠くなった感覚しかなかった烈火は敵の唐突な出現に狼狽える。
何が起こったのか、どうすればいいのか訴えかけるように俊介の背を見やれば、果たして読んだように返答はあった。
「行って! これはちょっと簡単には退治できない!」
「分かった!」
まさに脱兎、死に物狂いで駆け出す。襲われたということは気づかれ、見つけられたということだ。
取り囲まれる前に<スィトリ>と合流し、その懐に入り込んでしまうのが今は最善だろう。
俊介の方は問題ない。出会ったときからこれまでの流れを見れば、<大典太光世>にすら勝てると考えて間違いなさそうである。
何者なのかという当初からの疑問がいっそう深まりはしたが。
風を切り行けば、迎えのクルーザーと人影が見えた。
<赤旋風>の一切は暴き立てられている。
どのように対処すべきか、とうの昔に確立されている。
最初の障壁は、半径400メートルにも及ぶ<魔人>感知範囲。しかも<竪琴>所属か否かまで弁別する。これにより、迂闊に近づけば先手を取られる。それだけで大抵の<魔人>は死ぬことになる。
しかし穴があるのだ。能力の大半を<僭神>がこなしている<赤旋風>であるが、<魔人>を感知すること自体は自前で行っている。むしろ本来は恐るべきことというべきなのだろう。だが、ここに付け入る隙がある。
<僭神>の効果範囲はほんの数メートルだ。<赤旋風>自身を強化することで感知範囲の情報取得をより精密にしているだけなのである。つまり、感知範囲そのものは400メートルから広がることはない。深く考えたならば自身の強化による範囲拡大も可能であっておかしくないように思えるが、それを行った記録は一度もない。
ともあれそうとなれば手は単純、範囲外からの攻撃、あるいは強襲をすればよい。
光次郎は高速機動を得手とはしないものの、それは自身の内側においてはだ。音の速さを超える程度であれば容易い。
烈火がどこへ向かうのかさえ分かっていれば<赤旋風>の動きも知れる。なれば一望できる高所に陣取ることもまた、容易である。
そして仕掛ける。
狙うのはむしろ烈火の方だ。そもそも攫われた少女を救い出すのが第一の目的である。<赤旋風>はその性格上、烈火さえ死ねば解放された少女を追うことはない。そこから改めて勝負に持ち込めばいい。
振るった刃は確かに烈火の首を落とした。
落としたと、そんな幻覚を見たかに今は思えてしまう。
「改めて無茶苦茶だな、てめえ」
赤き光の向こう、<赤旋風>鏡俊介を睨めつけ、呻く。
腹の底が抜けてしまったかのように冷たい。
強襲はあくまでも先手を取らせないための手段だ。これで斃すことはできないと、これも最初から分かっている。
夜討ち朝駆けは兵法の基本。常在戦場を謳ってみたところで人の意識に波は生じる。警戒の緩む隙は必ず存在し、それを突くことは堅実な勝利への一手となる。戦術をかじった者が浅はかに語り、老獪な古強者が実行する。
しかし<赤旋風>にこれは通用しない。油断をしているとき、害されることを想定していないときにこそ、<僭神>は最大の防護能力を発揮している。戦いに持ち込むことで攻撃にでも意識を割かせないことには、光次郎の剛剣をもってしても傷つけることすら難しい。
短いやり取りを交わし、少女を背負った烈火が瞬く間に姿を消す。
そう、確かに殺したはずだった。<僭神>はそれを防ぎ切ってしまった。ここまでの力があるのだという実感が今、光次郎の意識を侵していた。
「お前を斃してあの子を救い出す」
宣言は己への鼓舞だ。
鏡俊介の一切は暴き立てられている。道理だの倫理だのを説いたところで完全に無意味であることも明らかになっている。
かつて天才フルート少年は、死の間際に己が正義を貫く強さを望んだ。
しかし正義など立場を変えれば容易く裏返るものだ。それぞれに道理があるならば、対立する正義を理解することは不可能ではない。そして理解すれば、いかなる強靭な意思をもってしても揺らぐことはあるだろう。
鏡俊介は<魔人>となる際、知性の一部を失っている。己の正義に沿わぬ現実を認識できない。理解もできない。言葉は怪物の喚き声に、景色はよく分からぬものにしか感じられない。
自身がそう望んだわけではなく、<魔人>としたリュクセルフォンがそう設定したわけでもない。己が正義を己の絶対とする唯一の手段として、そうなってしまったのだ。
この欠落こそが少年を化け物にした。
<僭神>の万能性と出力とが両立しているのは、この凌駕解放が致命的な欠陥を抱えていることを代償としてのものである。
無意識の思うがままに改変されてゆく現実を疑ってはならない。それがどれほど都合の良いことであっても、それこそが現実であると確信しなければならない。わずかにでも疑えば、その疑念を映して<僭神>は本来の現実へ還すために自己崩壊する。
鏡俊介はむしろ周囲こそが現実を理不尽に改変しているかのように認識しているはずだ。以前邂逅したときの一合、斃したはずだったのに不思議な力でただの傷に抑えられてしまったとでも思っているに違いない。
こちらを見るまなざしは冷えている。<赤旋風>にとって<竪琴>は狂人の群れだ。
人間を愛玩動物として捉えることもまた、欠落によるものである。
知性は無駄を好む。生命を維持し、子孫を残すために不要なことにも価値を見出す。
<魔人>は既存の生命とはまったく異なる存在だ。人間ではない。かつてヒトであった記憶が、せめて延長線上にあるように錯覚させているだけ、正しいのは鏡俊介の方なのだ。
ヒトが他の生命の生殺与奪の権を握ることを是とするならば、<魔人>がヒトを好きにすることも是としなければ理屈に合わない。
俊介はこの事実を素直に受け入れ、己がものとした。だから守りたい存在は当然のように<魔人>となり、人間は同じ言葉を喋るだけの犬猫の同類となった。
その観念は理論武装によるものではなく、当たり前に持ち合わせた感性として息づいている。そこに潜む真正性は仲間たちに感染、拡大し、最終的には<竪琴>を挙げての無人島での大殺戮劇となった。
<赤旋風>は、鏡俊介は殺すばかりではない。善意と優しさから疫病を振り撒く。容易く手綱をとれるように思えてその実、制御することなどできはしない。<無価値>すらこれを扱いかねて飼い殺しにせざるを得なかったのだ。動き出してしまったからには今度こそ息の根を止めなければならない。
「その首貰うぞ、鏡俊介!」
光次郎は踏み出した。