――ここに来るのも卒業以来か。
人で溢れかえるキャンパスを武也は歩いていた。
峰城大学大学祭、最終日。
屋台で声を張り上げる者、何かのコスプレをして歩いている者、チラシを片っ端から配っている者……。
そんな光景を懐かしく思いながら、歩く。
今日は依緒も雪菜もいない。
三人にとってこの場所は“NGゾーン”の最たるものであったし、大学祭というイベントは特にまずい。
武也も進んで訪れようとは思わなかったのだが、今年は少し事情が違っていた。
「えっと、十三時の回で合ってるんだよな」
受付で貰ったパンフレットと記憶を照合させる。
ステージイベントのライブ参加者リストの中に、目当てのバンドはあった。
野外ステージの客席は、すでに満員だった。
漏れ聞こえる声から判断するに、このバンドを目当てに訪れた客もちらほらといるようだった。
『今年のステージは、あの曲をやるらしい』
大学内のミニFMで、未だ根強い人気を誇る、冬の定番曲。
本学のOBである超有名バンドが在学中に作った歌だとか、有名なピアニストが作曲しているらしいとか、数年の間に真偽入り混じった尾ひれが追加され、かといって大学の外にまで届くわけでもない微妙な知名度のまま、あの曲は今も聴かれ続けているらしい。
結局空席を見つけられなかった武也は、客席後方で立ち見をすることにした。
時刻は、十三時三分。
やや押している状況の中、前のバンドの演奏が終わる。
実行委員に追い立てられるようにして彼らが撤収し、とうとうそのバンドがステージに上がる。
バンドは、たった二人だった。
ボーカルの女の子と、ギターを持った男の子。
まるで、いつかのバレンタインコンサートのような構成のバンドは、配置に付くと、お互い目配せをし、ステージの裾に目線を送った。
聴き覚えのあるイントロが流れ出す。
一拍の間を置いて、客席からまばらに歓声が上がった。
『ほら、あの曲だよあの曲!』『ほんとにやるんだぁ』などと声が聴こえてくる。
男の子がギターを弾き、
そして女の子が歌い始める。
誰かが誰かに片想いをする、そんな不器用な歌を。
客席の温度は徐々に上がっていく。
歌が進むにつれ、曲を知らない客までもが手拍子を始め、歓声を送り出す。
ヒートアップしていく客席に、緊張気味だったボーカルの表情も次第に変わっていく。
歌うことが心底楽しくてたまらないといった表情で、彼女はギターに目線を送る。
だが、ギターは自分の演奏に夢中なのか、手元を注視しているため、それに気が付かない。
ちょっと不満そうなボーカルは、わざわざギターの傍まで歩み寄ると、彼の背中に自分の背中を合わせ、彼を挑発するように耳元で歌い続ける。
そのことに動揺したギターの手元が怪しくなり、客席から笑い声が上がる。
明らかに練習不足のギターと、特別上手くはないボーカル。
演奏もとちる。ボーカルはすぐ調子に乗って彼にちょっかいをかける。
原曲の知名度と打ち込みに助けられている感じは多分にあるものの……
そんなアクシデントすら味方につけて、客席は間違いなく今日一番の盛り上がりを見せていた。
「……」
自分が今、どんな表情でステージを観ているのか、武也にはわからなかった。
※ ※ ※
大きな拍手に見送られて、バンドはステージを降りていった。
持ち歌は一曲のみ、ステージMCすらない。飛び入りに近い参加だったのだろう。
武也は客席を迂回して、ステージ横のテントに向かう。
「お疲れ、小春ちゃん」
「……飯塚先輩」
このステージを影から支えた、舞台の下の脇役を労うために。
「良かったよ、ステージ」
「……『良かったよ、演奏』とは言わないんですね。いいんです。わかってますから」
「褒めてんだから素直に喜びなよ……」
「やっぱり、二週間じゃ無理があったんです。なんでギリギリになるまで練習しなかったんだろあの二人。もっと早く声をかけてくれれば色々とやりようがあったのに……」
「まぁ小春ちゃんのおかげで何とかなったんだし、客席はすげぇ盛り上がってたし、結果オーライだって」
結果的に見れば大成功だと思うのだが、小春は納得がいかないらしい。
「……あ」
考え込もうとしていた小春は、顔を上げて武也にぺこりと頭を下げる。
「打ち込みデータ、ありがとうございました。おかげで何とか形になりました」
「今や誰も歌わなくなっちゃった曲だからさ、小春ちゃんたちにカバーしてもらって良かったと思うよ」
杉浦小春から連絡があったのは二週間前のこと。
ステージに参加する友達から泣きつかれ、小春は迅速に行動を開始した。まったく出来上がっていなかったオリジナル曲を諦めさせ、三曲あったセットリストの中から一曲に絞り、それが“あの曲”に決定するやいなや、武也に連絡を取って打ち込みデータの提供を依頼した。
シンセの操作方法を一から覚え、難しいギターパートも打ち込みで補い、ボーカルの練習にも付き合って、何とかこの日に間に合わせたのだった。
――ほんとに、そっくりだよな。
この怒涛の仕切り能力。そしてお節介根性。
大学生最後の年だというのに未だグッディーズのバイトも続け、そんな状況の中で、最大限のサポートをしてのけた。
「もっとこう、先輩たちの時のような、すごいステージにしたかったんですけど……」
それは、三人のライブのことを指しているのか、二人のライブのことを指しているのかはわからないが、一人ではどうしたって限界があるだろう。
あのステージの成功は、音楽以外の要素がいくつも重なった結果だ。
同じ曲を用意したからといって、すべてを再現できるわけでもない。
「……それで、飯塚先輩はおひとりですか?」
「……四捨五入してもまだ二十代の俺だから許すけど、色々と誤解を生む発言だから今後は控えるようにな」
さっきの会話中も、小春の目は武也の周囲をきょろきょろと落ち着きがない。
「雪菜ちゃんも依緒も来てないよ。孝宏君は……って、それは君の方が詳しいか」
「小木曽は来てませんよ。去年くらいから何か、大学祭自体に来なくなっちゃって」
「ま、そりゃそうだろうな……」
孝宏にも孝宏なりの傷があるのだろう。
「柳原朋は会ったことあるよな? あいつも今日は来てないし、それから雪菜ちゃんの御両親も……」
「あの、さっきから意図的に特定の人物を避けてません?」
「意図的に人物を特定しない質問をしておいてそれを言うか……」
「……っ」
「あいつは来てないよ。ていうか今は海外」
「転勤ですか? 海外ってどこですか?」
「ウィーンだよ」
後半の質問にだけ答える。
嘘は、言っていない。
「ウィーン……それって、えっと……」
何やら考えこみ始める小春。
――しまった。ヒントをあげすぎちまったかも。
慌てて話を逸そうと思い、
「ねぇ、あなたさっきのバンドの人?」
闖入者が、その役目を買って出てくれた。
「わたしは、裏方ですけど……」
「ふーん。なるほどなるほど。あの二人とはどういう関係? 同じサークルだよね? 同級生?」
「い、いえ。あの二人とは同級生ですけど、わたしは単なる助っ人で」
「自分でステージに立とうとは考えなかった? あの男の子、かなりテンパってたけど、助けたいとは思わなかった?」
「……あの、どこかでお会いしませんでした?」
質問攻めの動揺からようやく立ち直った小春が、闖入者の女にようやく質問を返す。
「んー? ああ、あたしここのOBだから。ちょっと前まで学生だったし」
「いえ、そうじゃなくて。以前にもこうやって丸め込まれたような気がして……」
「あたし講義にもゼミにもあんまり出てなかったし、接点はないと思うけどなぁ。……あ、もしかして、あなた舞台とか観にくる人?」
「いえ全然」
「……ちょっとショックだわ。あたしの知名度もそんなもんか」
蚊帳の外に置かれている武也も、この女の顔にどことなく見覚えがある気がしていた。
小春もしばらく考えこみ、やがて、
「――お前、瀬能か!」
「――先輩の彼女の振りをしていた人! 和泉さん!」
同時に、違う名前を叫んだ。
「……だいぶショックだわ。ホームグラウンドだったはずなのに」
期待した答えではなかったらしく、宇宙人は微妙にプライドを傷付けられた顔をしていた。
「ほんとにコーヒーだけでいいの? なんでも奢っちゃうよ」
ハンバーグを切り分けつつ、千晶が言う。
「遠慮しとく……」
テーブルの上に続々と並べられている料理は、空腹のときの武也でも食べ切れないほどの量だった。見ているだけで胸焼けしそうだ。
学園祭当日のグッディーズ南末次店は三時を過ぎても混んでいた。長居するのは気がひけるので早く帰りたい、と武也はぼんやり思う。
そもそも、この宇宙人とはそれほど親しかったわけではない。わけではないのだが、なぜだか強引に連れ込まれてしまった。
武也のむすっとした視線をよそに、千晶はものすごい勢いでハンバーグを口に運んでいく。
「よく食べるな……」
「そう? 公演前はいつもこれくらいだよ。たくさん食べないとすぐ痩せちゃうんだもん」
「公演? ……ああ、そうか、演劇続けてんのか」
人生のすべてが演劇のためにあるような奴だったのだ。続けていない方がおかしい。
「そうそう。ここ」
千晶が二枚の紙切れを取り出す。
それは、武也が知っているほど有名な劇団のプラチナチケットだった。
「お、ここすげー人気のとこだよな。知ってるか? 峰城大の学生サークルが前身になってるらしいぜ」
「あー、知ってる知ってる。今日学園祭に来たのもその関係。気が進まなかったんだけど、思わぬ収穫があったから来て良かったな」
「あのライブか?」
「そうそう。あの二人見た? ボーカルの娘はギターの方しか見てないし、ギターの子は、舞台袖の方にずっとアピールしてた。あの舞台裾に誰がいるのかなーって気になっちゃって気になっちゃって」
「……あの娘に迷惑かけたら許さないからな」
「わーかってるって」
千晶はチケットを武也の方に滑らせる。
「いいのか?」
「うんうん。女の子とでも行くなり、……親友のカップルにあげるなり、好きに使ってよ」
「お前……」
――どこまで知っているんだ。この女は。
「やだなー。そんなに睨まないでよ。あたしも色々あって、ちょぴっとだけ大人になったというか、人間ぽくなってきたんだから」
「……」
「なに? 喧嘩? ようやくくっ付いたと思ったのに、またこじれたとか? 冬馬かずさはやっぱり忘れられなかったってこと?」
本当に、何者なのだ、こいつは。
「色々あったって、言ったでしょ?」
千晶は意味ありげに微笑む。
「しょうがない。あれから何年も経ったから教えてあげよう。ここ奢るから怒んないでよね」
千晶の語った内容は、武也の想像を大きく越えるものだった。
付属から大学まで、三人を遠くから観察していたこと。
文学部に転部したあいつに近付いて、役作りのインスピレーションを得ようとしていたこと。
「……でも結局、こりゃあもうあたしの出る幕はないなーと思って、身を引くことにしたの」
そして、それを諦めたこと。
あのとき、二人におせっかいを焼いていたのは、武也たちだけではなかった。
「演目は結局、別のに変えた。小木曽雪菜も冬馬かずさも、最後のところの感情を自分のものにできなくてさ。あれは悔しかったなぁ」
目的はどうあれ、影から見守っていた人が他にもいたのだ。
方々で厄介ごとに首を突っ込んでは、いつのまにか協力者を増やしてるような奴だったから。
……それをまとめて裏切ったのも奴だったが。
「……で?」
「なんだよ」
「今度はそっちの番。あたしにも物語の続きを聞かせてよ」
「……」
「ふぅん、黙っちゃうんだ」
千晶は唇をとがらせる。
「いいよ。じゃあ、あたしの中の飯塚くんに聞いてみよう」
「……は?」
「あのあと一度はハッピーエンドを迎えたと仮定しよう。あそこまで物語が進んで上手くいかないはずがない。でも今はタケヤくんがひとりだけ。冬馬かずさの再登場によって二人の関係にヒビが入る可能性は充分あった。でも、水沢さんすらいないのはなぜ?」
テーブルを見つめながら、千晶はぶつぶつ呟く。
舞台上で見かけた、あの目をして。
「……やめろ。わかった。話すからやめてくれ」
自分のモノマネなんて、見たくもない。
「お前やっぱ宇宙人だよ。ていうか鬼。雨月山の鬼」
「あたしの解釈だと、その二つってイコールなんだけど」
重たい口を開き、武也は語り始めた。
ハッピーエンドから続く、思い出したくもない過去。
そして、崩れつつある最近の関係を。
※ ※ ※
「ねぇ、あんた、最近付き合い悪くない?」
「そりゃあ年末だからな」
依緒の文句に、武也は携帯を眺めながら生返事をする。
今年もまた、十二月になった。
雪菜の家からの帰り道を、白い息を吐きながら二人で歩く。
一日中曇っていた天気は回復することなく、このまま夜を迎えそうだ。
「確かに、ここんとこ雪菜はギターの練習ばっかりで、なのに武也にはもう教えることがなくなってきてるけどさ」
「お前、どうしても俺をオチにしないと気が済まないわけ?」
今週もまた、部屋で黙々とギターを鳴らし、楽譜と睨めっこをするだけの雪菜を見守る時間を過ごしていた。
「でも、今は大事な時期なんだよ。雪菜が立ち直れるかどうかの大事な」
「わかってるって」
――そのために、今だって……。
十年来の付き合いであるその顔を、改めて見る。
これから先、ずっと忘れないために。
口うるさくて、遠回しにアピールしても絶対に振り向いてくれなくて、直接アピールしてももっと振り向いてくれなくて。
何でこんな女に惚れてしまったのかと、何度も後悔したけれど。
「ねぇ、今日ずっと携帯見てるけど、どうしたの?」
「ん? ああ、これか」
着信を確認して、携帯を仕舞う。
「彼女だよ。最近うるさくってさ」
「……っ!」
――こんな、最低男の気分を味わってまで、三人の関係を維持しようとしているんだから。
『だったらさ、飯塚君が彼女を作っちゃえば良いんじゃない?』
『あなたが彼女を作れば、水沢さんは“親友”になる』
『“三人”とは無関係の彼女なら、小木曽さんも悩まなくて済む』
『ほら、三人の出来上がりだよ。ちょっと歪だけどね』
『あたし、彼女のふりって得意だし。……詮索しすぎる誰かのせいで、一度は見破られたけど』
『でも、気をつけてね。あたしと共演した男は、例外なく――』
「……どういうこと?」
「そのままの意味だよ。彼女、できたんだ」
「それって、えっと……何曜日の彼女?」
「違う。そういうんじゃない」
雪菜がいて、依緒がいて、武也がいる。
依緒が雪菜を慰めて、武也はあちこちの女の子と遊んでいて、それでも雪菜の傍にずっといる。
大学に入った頃の、あの関係に似ているけれど。それでも、決定的に違う。
もう、舞台の上に憧れたりしない。
舞台の上にいる彼女を、舞台の下からずっと支え続ける。
小春の活躍を見て気が付いたのだ。
――俺はやっぱり、こっちが向いてるんだよな。
覚悟を、決める。
「雪菜ちゃんも少しずつ前向きになってきたし、そろそろ俺も、自分のことを考えても良い時期かと思ってな」
「あんた……何言ってるかわかってんの?」
「もちろん、これからも雪菜ちゃんをサポートしていくのは変わらねぇよ。最近、付き合い悪くてごめんな」
「……武也は、頑張ってるよ。少なくともあたしと同じくらいには。……違う。そうじゃなくてっ」
「お前には迷惑かけっぱなしだけど、二人で雪菜ちゃんを支えていこう。これからも――親友でいてくれよな」
台詞だけを見れば、親愛の証。
しかし、依緒にとっては、決定的な決別の宣言。
十年越しの片想いを、
ひょっとしたら……だったものを、
自分の手で、粉々に砕く。
「……っ。武也ぁ」
依緒の顔を見ることが出来ずに、視線を上に向ける。
曇り空からとうとう降りだした一粒が、武也の頬に当たり、雫となって落ちた。
――ああ、これが、最低男の気分か。
「武也……っ。あたし、あたしは、とっくに……」
「じゃあ、またな」
依緒の表情を見たくなくて、歩き出す。
依緒は、追いかけて来なかった。
――なんで、
――なんでこんな酷いことができたんだよっ! あいつは!
※ ※ ※
「お疲れさま……で、良いんだよね?」
しばらく歩いたところで、物陰から千晶が現れる。
「演技の参考にはなったか?」
「それなりに、ね」
宇宙人には皮肉すら通じない。
「本職から言わせてもらうと、台詞が嘘臭い。やっぱり本心から出てない言葉って、言わされてる感じがしちゃうんだよね」
「そりゃそうだろ……」
「ま、今回の場合はむしろそっちの方が良いんだけど」
「なんでだよ」
「希望が残るから」
あっけらかんと、千晶は言う。
「彼女が出来たのは嘘かもしれない、まだ私のことが好きなのかもしれない、わざと身を引いたのかもしれない……。そうやって脚本に行間を持たせることで希望を残せるでしょ? 半信半疑のままなら、水沢さんも壊れたりしないだろうし。……逆に言うと、ずっと生殺しにするってことなんだけどね」
――この女、そこまでわかってて、それでも……
「生殺しがどれくらい続くのは、彼女次第、かな」
千晶は、一枚のメモを取り出した。
「頼まれてた連絡先、見つけておいたよ」
「……早いな」
「うちのスタッフに、昔仕事した人がいてね。大変だったよもう。今のところ開店休業状態で、取材も依頼も全部カット。事務所の番号にかけてもタライ回しにされるだけだからさぁ」
「悪い」
礼を言うのは癪だが、助かるものはしょうがない。
武也は携帯を取り出す。
「お、早速かけるの? せっかくのデートなんだからさぁ、何か奢ってよ。ダーリン♪」
「それ、もう一度言ったらブチ切れるからな俺」
「……あたし結構がんばったのに扱い酷くない? これでも演劇界ではそこそこのアイドルなんだけど」
千晶のメモに書かれている番号をコールする。
個人の携帯番号。
「――もしもし。はじめまして。飯塚武也といいます」
“工藤美代子”という唯一の手がかりに。
「冬馬かずさの――友達です」
※ ※ ※
「珍しいじゃん、雪菜からカラオケに誘うなんて……って、無邪気に喜んでた数時間前のわたしに言ってあげたいわね。『断れ』って」
げっそりとした顔で朋が言う。
「久しぶりに雪菜の歌が聴けるのは嬉しいし、そりゃオンステージでも構わないけどさ、せめて他の曲も歌わない?」
「ごめんね?」
同じ曲ばかり二時間も聴かされ続けた友人に詫びつつも、リモコンは決して手放さない。
「どうしてもこの曲を練習したくって。……で、どう? どんな感じだった?」
「耳が慣れちゃって細かいところなんかわからないわよ……雪菜の歌はいつも最高だし」
「もう、参考にならないんだから……」
技量的にもファンの欲目的にも、レッスンの講師には全く適していない人選だった。
「ていうか、今どき何でその歌? 最近はずっとギター練習してなかった?」
「この歌を絶対にモノにしたいの。ギターも、歌も」
「へぇ、弾き語りでもやるわけ? だったら今から小屋を押さえるけど?」
「そういうんじゃないよ。すごく個人的な……うん。届けたい人がすごく限定されてる歌なんだよ」
「……まさか、それってさ」
「……うん」
はぁ、と溜息をつく朋。
「あれからもう、だいぶ時間が経ってるんだよ? 向こうだって雪菜のことなんか忘れてるかもしれないし、第一連絡なんて取れないだろうし、連絡取れたとしても向こうだって迷惑――」
「――朋」
「……ごめん。関係ないわたしが言って良いことじゃなかった。でもさぁ、いつまでも引き摺るなんてさぁ……!」
「ごめん。ごめんね、朋」
「謝らないでよ」
「違うの。……あのとき、酷いこと言って、ごめん」
あのときの――
『わたしたちの……“三人”の問題だよ。あなたたちは、関係ない』
あの言葉を、ずっと後悔していた。
“三人”は、雪菜にとって特別だったけれど、その周りの世界を蔑ろにするような言葉を吐いたことを、ずっと後悔していた。
朋が、その言葉にずっと傷付いたままでいることを知っていた。
「……謝らないでよ」
「朋も、武也君も、依緒も、みんなを傷付ける言葉だった」
「謝るなら、訂正してよ……っ! “わたしたち”に入れてよ……っ! 親友だって、踏み込んでも良い関係だって、言ってよ……!」
「……うんっ!」
雪菜に傷付けられても、雪菜が傷付いても、こうして、傍にいてくれる友達。
あの“三人”とは、形が違うけれど。
こういう関係も、生涯の親友と呼ぶのかもしれない。
みんながいるから、雪菜はまた、こうして歌うことができる。
「でもさ……なんでギターなの? あの人に聴かせるんだったら、一番得意なものだけで伝えた方が良くない?」
「朋、知ってる?」
親友の質問に、雪菜は答える。
得意そうに、少しだけ格好を付けてギターを構えながら。
「ギターって――好きな女の子を口説くための道具、らしいよ?」
「……女の子?」
※ ※ ※
『ですから、困るんですよ。どこでこの番号をお聞きしたかはわかりませんが、取材の申込みなら事務所の方にお願いします』
「ですから、何度も言っているように取材じゃないんです。冬馬かずさの友達として、冬馬曜子さんにお話があるんです。……胡散臭く思う気持ちはわかりますが」
『ですから、かずささんは現在ウィーンにいらっしゃいますので、連絡はそちらに取ってくださいとお願いしてるじゃないですか』
それが出来たら苦労はない。
――仕方ない。
武也は手持ちのカードを切ることにする。
「冬馬さんの体調が優れないのはわかっています。それでも、どうしても連絡を取りたいんです。メールでも、手紙でも構いません。でも、絶対に本人に届けると約束してほしいんです」
『……』
一瞬言葉が詰まった。が、墓穴を掘るような事は言わない。
優秀な人だ、と武也は思う。
日本に永住することを宣言した冬馬曜子だったが、それ以降、コンサートは一度も開かれていない。それでも、病気のことは決してマスコミに嗅ぎ付けられることはなく、ベスト版のCDや、過去のコンサートのブルーレイを少しずつ販売することで、冬馬曜子は徐々に“過去の人”になろうとしていた。
この戦略はおそらく、工藤の手によるものだろう。
どこかの誰かと違って、武也は交渉事にはまったく向いていない。だが、これまで“ある程度の数”の女性と接してきた経験がある。察しの良い女性に腹芸を挑むことは逆効果だと知っていた。
「峰城大学病院にいることも、病気のことも知ってるんです」
『……それは、脅迫ですか?』
「違います。本来なら知り得ない情報をこちらが知っているということをわかってほしかったんです」
だから、包み隠さず、持っているカードをすべて切る。真正面からぶつかる。
もう、嘘を付くことには耐えられなかったから。
「あれだけ厳重に秘匿している情報を知っているってことは、冬馬かずさの友達以外にあり得ない。そうでしょう?」
『これは、社長から言付かってることなんですが。――あの娘の友達だと名乗る人の面会はすべて断って良い、と。どんなに真に迫っていても、友達という時点で嘘だから、だそうです』
「……それは、自分の娘をよく理解してますね」
妙な方向に信頼されていた。
「ですから、申し訳ないんですが……」
「待ってください。俺は、俺は――」
まだ、まだ何かやれるはず。
こんなとき、“あいつ”だったら……。
大きく、息を吸う。
脳裏に浮かぶのは、あの日の、冬の公園。
“あいつ”と、決定的に、道を違えた瞬間。
最後のカード。
切りたくなかったジョーカーを、取り出した。
「北原春希の――元親友です。そう伝えてください」
※ ※ ※
「えっと、水沢依緒さん、だよね?」
「…………うっそ、瀬之内晶?」
「や〜っとその名前が出たか。ホッとしたよ。最近ちょっと自信なくしててさ」
「なんで、あたしの名前を?」
「そりゃあだって、飯塚武也の彼女だもん」
「え……」
「……ねぇ、水沢さん。あなたは、彼を待てるかな? いつまでかかるかわからないけど、小木曽雪菜が立ち上がって、少しだけ強くなって、あなたたちを応援できるくらいになるまで」
「さっきから、何言ってんのかわからないんだけど……?」
「その時まで待てるっていうのなら、あなたにかかった魔法を解いてあげる」
――ほんと、あんたの周りって面白いね、春希。
――色んな人が、男も女も、自分を犠牲にしてまで誰かに与えようとする。
「まぁ、たまにはハッピーエンドの脚本も良いでしょ?」
※ ※ ※
「言われた通り、手紙を預かってきたんですけど……本当によろしかったんですか?」
「ええ。その子たちは例外」
峰城大学病院。
政治家や芸能人もよく利用するため、個室も非常に多い病院である。
ネームプレートのない部屋のベッドに、彼女はいた。
「なんなら、ここに直接来て貰っても良かったのに」
「駄目です。何のために面会謝絶にしてると思ってるんですか」
美代子の言葉に、曜子は肩をすくめる。
「……一発くらいなら、殴られても良いかなって思ってたんだけどね」
美代子には届かない声で、呟く。
「ま、どんな恨み辛みが書いてあっても、受け止めるしかないわよね。……これも、罰、かしらね。一度は、娘を見捨ててしまった事への」
手紙を開封していく。
「……これって」
「社長?」
「美代ちゃん。ノートパソコン取ってくれる?」
※ ※ ※
そして、二月十四日がやってくる。
「……よし、それじゃ行ってみようか」
「頑張れ、雪菜……特訓の成果、見せてやれ」
「ついでに……今の自分のことも、存分にな」
朋も、武也も、依緒も、孝宏も、久しぶりに揃ったその日。
「うん、ありがと。それじゃ……」
雪菜は、ギターを胸に抱えた。
部屋の片隅にある写真立てを一瞬だけ見る。
『二人とも、迷ったらあたしの音だけ聴け。なんとか導いてやるから』
もう、三人ではない。
『音を忘れたら、俺のギターの音を聴いて。歌詞を忘れたら……その時は笑顔で誤魔化して』
もう、二人ではない。
そして……
もう、一人ではなかった。
「POWDER SNOW」
何度も何度も、この日のために練習した曲を、奏でる。
『WHITE ALBUM』も、『SOUND OF DESTINY』も、『届かない恋』も、今の雪菜には歌えない。
だから、みんなで作り上げたこの一曲を、遠い空の向こうへと、届ける。
もう二度と、二人の世界には入れないわたしだけど。
一度は、あなたの世界一になれたわたしを。
一度は、あなたの親友になれたわたしを。
歌っているわたしを、見てほしいから。
雪菜の周りの世界は、雪菜が不幸でいることを許さなかった。
誰も彼もが、寄ってたかって彼女を幸せにしようとする。
そんな世界が、二人の世界の外側にあることを知って欲しかった。
二人の世界を包み込むように広がっていることを、知って欲しかった。
“わたしたち”の範囲には、その世界も含まれていることを、知って欲しかった。
歌と、ギターと、
「元気ですか? わたしは、今でも歌ってます」
ドイツ語に、ちょっぴりの悪戯心を込めて。
――わたしたちの世界は、繋がっている。
※ ※ ※
ウィーンの、とある一室。
そこには、日本から持ってきた、彼女の数少ない宝物が飾ってある。
犬のぬいぐるみ、英語の参考書、眼鏡とコーム、古雑誌。
そして――写真立て。
写真の中の三人は、これからもずっと、変わらずそこに居て、未来の彼らを見守っている。