ただ一つの、圧倒的な事実。
それを前に、あらゆる生物は例外なく膝をつく。
どんな幸福な人生も。
どんな名誉ある生涯も。
それの前ではあらゆるものが等価値であり、無意味。
――それは、死。
死ぬ、ということ。
陽が落ちる、それは理の必然。幾度となく繰り返された、不変的な現象であり日常。
大気は冷やされ、温もりを失い。北風はたちどころに人々の体温を奪い去る。無機物で構成された鉄筋コンクリートに暖かさなど望むべくもなかった。効率と便性。建設コストを突き詰めればそこに愛情などというものは存在せず。計算され尽くされた構造物としての付加価値が存在するのみだ。
夜を恐れる人間は、科学の光が闇を取りさった現代となっては、数少ないのだろう。
路地を歩くに、街灯やネオンの瞬きが眼に届き、僅かばかりの安心を提供し、雨に濡れたアスファルトは無機質にたまりきった水を排水溝へと流して、日々の生活を維持し続ける。
時代を経るごとに、成長し拡大し、人間がより暮らし易く、より安全に、不自由なく過ごすことのできる、牢獄。
文明が流入しようとも人間共は変わらない。何時の時代だろうとも、その本質は変わることはない。
光の照らしだされる大通りとは違い、裏路地では薄暗い影がその主役の座に収まっている、光を好む人間もいれば、影を好む人間もいる。たとえば妖しげな薬を売り買いする若者の溜り場、人目につきたくない時にはそうした場所が必要になってくるのだ。絶えず人は、影を求め続けるものなのだ。本心を隠す暗がりを。
光が射せば、影が伸びるように。その影もまた濃くなっていく。それでも、影の中にあっても覆い隠すことがでないものがある。
例えば。硬い靴音を、響かせながら街を往く、一人の男のがその一例だろう。
影に飲み込まれることなく、光を拒むわけでもない。その存在は人型の虚とでも呼ばれるべき、濃縮された闇。
昔話に語られる魔法使いを思わせる装い。夜すら塗り潰せるほどの苦渋で染め上げられた丈の長い外套。上着、そして中着も同じく黒色、首元から掛けられた数珠。
年は四十か、身の丈は二メートル近く、服の上からでも分かる鍛錬と調練の成果たる、頑健な身体。
だが、それも仮初めの肉体にすぎず、元来の肉体を模した人形でしかなく、内包された魂の有無だけが男を男たらしめている証左。
そして。
奈落の底よりもなお暗い、しかし何者にも負けぬ意志を宿した瞳。
この世の苦悩を背負いながら瞑想をしている修行僧を思わせ。足取りは、急ぐでもなく。刻まれるはメトロノームの如く一定した歩み。
一歩、一歩を踏みしめる。迷いもなく。高度成長期に建てられた高層建築群の残骸の合間を行く。
必要以上に作られ、誰のためでもなく朽ちていく存在は、卒塔婆のようにも見えるのだが、そんなものを必要とする物好きな人間も、極わずかだがいるのだ。
魔術師と呼ばれる、今に魔導の業を伝える人種が。
その中でも極めつけの最異端。時計塔と呼ばれる学び舎で顔を合わし、共に学び、卓越した人形制作技術を持ち、凡庸な己と違いその血筋も受け継がれた純血種として申し分のないものを持ち合わせた。
人間の肉体を通じて世界の真理へと到ろうとし、完璧すぎる人体を創り上げる事に成功。本人すらも望まぬ封印指定を受けるはめになろうとも、未だに研鑚を続けている。世界に五人しか存在しえない『赤』の称号を持つ魔法使い。
黒が。歩みを止める。
暗い視線の先には地上四階建ての、外装すら施されず雨ざらしとなった、なんのことはない外見からは単なる廃墟にしか見えない。
秘術を隠匿し研究する為には相応の施設が必要だ。部外者を排除し、黙して研究に没頭することのできる自己の領地。それが魔術の工房。幾重にも張り巡らされたルーン文字による人払いの結界は、一般からすれば知覚するのは無論のこと、此処へ立ち寄る意識すらさせない。
結界とは即ち己の心の魂の在り様を映す鏡。固たる意志を以て拒絶する、その概念で創り上げ、編み上げられた魔力の網。それが結界の本質だ。
極論すれば、意志が強ければ、強いほどに結界の強度、密度は増すのだ。無論、術者本人の技量にも左右される。
二世紀に及び結界術を研鑚し続けた僧の眼には、見事に研磨された宝石を思わせる、ある種の美しさに満ちていた。それは才能が産み出す美しさだ。
己には望むべくもない、生まれ持った超人としての賜物。隔絶した越えようもない血。
己には才能が存在しない。故に、積み上げ続けることに没頭し続けた。
己には、それしかできない。それだけを、それをのみを。己を研磨し続けた。
――――カチン。
扉を目前。
独りでに、鍵が開いた。
ゆるりと手を伸ばす。握り、真鍮製のドアノブは静かに金切り声を上げながら、捻られ、一歩。踏み入る。
剥き出しの荒いコンクリートを。重く、確かな足取りで歩む。大きな靴が踏みしめる度。細かな砂利がすり潰される囁きにも似た軋みが、鼓膜を震わせる。
眼を右へ、左へと回し、散在した人形たちが出迎えた。
奇妙な来客を見入るかのように、魂のない瞳を向けてきた。どれもが精密。だれもが空洞。人の似姿を模しただけの、空の器。
不足しているがゆえに、完成されている、不完全な肉体。
いくつもの電源の切れたアナログのブラウン管が出迎えるも、興味はないと一瞥にされる。それもそう、今。この場所に興味があるのではない。
視線の先には、工房をを占有する主。態度は不遜。雑多な書類、古書、珍妙な品々に不法占拠された業務机に両脚を乗せた、女。十代後半だろう、妖精の如き妖しさを含めた人形師は客人を出迎えるでもなく、依然、体勢を崩すことなくつろぎ白のワイシャツに、皮のパンツを着こなす様は見事に堂に入っている。学院より出奔した才女は口元に煙草を燻らせながら、久しき学友に言葉を告げた。
「来たのか、荒耶」
生きることに飽いた、気怠さと。賢者が持ち合わせる思慮深さを足したならば、このような声が造られるのか。紅色の唇から伝わる呼気は静かに、大気を媒介に来訪者に向けられる。彫像の如く佇む男は、わずかばかりに顎を引き、その意に対して肯定する。
それを見、女は僅かに誰彼にも聞かれるように溜息を吐いた。そうするのにも理由があるからだ。
通常、魔術師と呼ばれる存在は生まれながらの異端だ。
あるものは生まれながら殺人衝動を持ち。あるものは破壊のみに特化した魔法を駆使し。己の肉体を蟲へ換装し長寿を得るものもの。死徒とよばれる生きた死人に成り下がる輩――等々、例を上げればきりがないほどに他種多様だ。
ひとつだけ、永久に変わらないルールがある。
魔術の隠匿。「魔法」が人間へと手渡された時から続く、不文律。中世時代に魔女狩りと言う言葉が生まれたのは、戒律を破った魔術師のみせしめの意味を込めているのだと、今は亡き祖父が教えてくれた。
神秘の源流から分かれた力の支流こそが、肉体に宿る回路を通して発現される。支流は太ければ、太いほどにその力を増していき。細ければ力を失う。かつて魔術は、魔法であったのだ。時代をへて魔法を知る人間が増えたことで、魔術へと格下げされたのだ。
衰退を防ぐべく。設立されたのが学院と呼ばれる。魔術師による魔術の為の相互監視による管理体制を布いた。仮に、魔術の魔の字もしらない一般人が、魔術を目撃した時。彼――あるいは彼女――の運命は。
処理だ。
シンプル、そして確実。至極、分かりやすく、迅速。魔術とは神秘であり、神秘であり続けるから魔術なのである。
白磁の指先に挟まれた、煙草に灯を燈す。肺を通して豊かな紫煙をゆるりと味わう。手製のものであるからひとつ、ひとつ僅かな違いを楽しめるのも密やかな楽しみだ。もっとも、目の前に在るこの堅物にとっては興味のない事。
表情ひとつ、眉ひとつ動かさずに佇む男は、開口した。
「約定の儀、失念してはいないようだな。蒼崎」
自分が諦めた道を、迷いもなく進む。意志の怪物に忠告など焼石に水。私が何をしようが止まらない、無駄だと知りながら、無意味と知りながら私は、知りうる限りの情報を擦り切れたテープレコーダーの如く、再生を始めた。
「荒耶、お前ほど根源を求め、お前ほど根源に嫌われた存在が、願望機たる聖杯に選ばれる――――皮肉にも程があろうよ」
眼を細め、男の右手には確かに、聖杯に選抜された証。三画の令呪が刻まれている。
渦を巻く螺旋、力を秘めた紋様は圧縮された、無色の魔力の塊。供する事でサーヴァントへの絶対的な命を下せる、三回限りの切り札。伝説の願望機が呼び出す、七騎の英霊を従える為の楔。
「名門アーチボルト家より『神童』ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。若年にして降霊科の講師も務める天才だ、お前も知らぬ名ではあるまい? 風と水の二重属性を持つその道のエキスパート、純粋な競い合いならば誰であれ引けを取るまい、参戦した目的はただ拍を付けたいがための名誉欲か」
唯、頷き。脳裏へと焼き付ける。
「イタリア、イグナチオ神学校を主席で卒業した経歴を持つ、聖堂協会より言峰綺礼。異端殺しが専門の『第八』に所属していた元代行者、父親は言峰璃正、聖堂教会第八秘蹟部所属、第三次聖杯戦争に引き続き、第四次聖杯戦争の監督役を勤め、今現在では冬木の地の管理者。遠坂家当主、遠坂時臣の師事し鍛錬に励む――――か。」
大凡の検討は付く。監督役ごと抱き込み表向きは敵対関係を装うのだろうが、手を結んでいる公算が高い。
そして。
「始まりの御三家。アインツベルンの傭兵、衛宮切嗣」
その名を口にした瞬間、僅かに眉間に皺が刻まれる、誰とは、言わない。
すでに抑止力は働いている。一抹の慈悲もなく魔術師全ての望みを打ち砕いてきた、力。ある者は老いに。ある者は志半ばに凶弾に倒れ。ある者は目的を見失い、手段を目的と履き違える者。延命に明け暮れ、延命し続ける者。
その力には決まりきった形は存在しない。この私でさえ辿り着けず『諦めた』のだから。それでさえも釈迦の手の平の猿のようなものだ。絶対に勝てないモノ。それが抑止力。
高位魔術師、代行者、極めつけは魔術師殺し。未知数の魔術共全ては、荒耶という存在に対する力の具現だ。
それでも尚、此奴は止まらない。度を越えて真理を求めた過程で得た、ほぼ不死身とでも呼べる肉体を以てして尚、敗北し続けるのだから。
椅子へもたれ掛った体勢のまま、何処から出したのか手にした黒い匣を――――投げた。
弧を描いて、飛ぶモノはいつか重力に引かれて墜ちていく。何であろうと覆すことのできない理。永遠に飛び続けられるとすれば夢物語に語られる魔法使いぐらいのものだろう。
何処ぞの神話にこんな話がある。空を目指して蝋付けされた翼を手に入れた若者が、太陽に近づき過ぎた為に、地に落ちるという話。落ちるしかなく、落ちるしかない。終点の果てへと至る鍵を、太い指は確りと握りしめる。
「それならば、お前の望む英霊を呼べるだろう。お前に相応しい、最弱の英霊をな」
最弱。
それに付けられた忌み名。
選ばれし七騎、その中で最弱と呼ばれる魔術師の座。
魔術戦においては最高峰の腕前を保有しているが。白兵戦、肉弾戦については虚弱の一言。苛烈な戦闘に活用することのできない英霊。
ホームグラウンドがものを言う陣地でこそ難敵だが、戦場が火力のぶつけ合いとなった途端にその脆弱性を露呈してしまう。脆い術師。
三騎士のような火力はないが、その分魔力消費が少なく扱いやすいクラスと言える。
何かと穴の多い能力を持つ荒耶の力量を考えれば、それが最適なのかもしれない。
その解に返すように、男は語る。
「弱い英霊など存在しない、強い英霊もまた存在しえない。扱える者が弱いか、強いか。それだけでしかない」
なるほど、確かに。この男ならば、どの英霊を招来しようとも同じことだろう。
「荒耶、お前は聖杯に頼ってまで、一体なにを望む?」
私は何も望まない、男は言った。人間に絶望し、誰ひとり救えず、尚も諦めきれない人間の成れの果ては、言った。
「私の行為が、無意味であることは知っている。行為が無に帰そうと、愚行であろうと、無為であることより私には耐えられる。抑止の力であろうとも、排除する」魔術師は断言する。己の勝利を。真理への到達を。
「ああ、そして。いつもの様にお前は負けるのだろうよ、荒耶宗蓮」人形師は予言する。彼の未来を。敗北への道を。
自己矛盾の塊は踵を返し、背を向け、ただ、一言。
「――――――――――――勝とう」
荒耶は静かに、低く言った。その声は重く、響き、どこまでも空虚だった。