「やあ、僕だよ。敬愛な幼馴染みよ。今どこにいるかって? おお、よくぞ聞いてくれました。実は只今、僕は屈強な大男達に漁船に拉致されて、大海原の真っ只中に…………。えっ? 宰相の手の者に落ちたのかって? 目下、高速飛行艇で国境付近の海域を航行中だから、直ぐに救助隊を編成しレベルD(殺傷認定)の装備許可を申請して………………って、待った、待った。相手は猟兵団(イェーガー)じゃなくて気性が荒いだけの普通の漁師なんだから、正規軍に手荒な真似されたらリベールとの外交問題に発展してしまうよ」
「何で一般の漁船に潜り込んでいるのかって? ああ、これには聞くも涙、語るも涙の物語がありまして…………。えっ? もしかして、前回の美人局の延長かって? ふっふっふっ、鋭いな。流石は心と身体が繋がっている僕の半身だけはあるね。実際は当たらずとも遠からずといった所なんだけどね」
「男所帯の魚臭い漁船の空気に僕のデリケートな神経はそろそろ限界でさ。近くを飛んでいるのなら、是非迎えに来てちょうだ………………えっ、放っておく? なして、どうしてなのさ、魂を共有する者よ? 何々? それこそが、こちらからミラを支払ってでもお前に味わせたかった下々の苦労だから、精々馬車馬のようにこき使われてこいって? そりゃないよ。ブルーカラーは僕の主義に反するのは承知しているでしょうに」
「………………ちょっと失礼。何か凄い勢いで波が迫り上がっているのだけど。ちゅうちゅうたこかいな、ちゅうちゅうたこかいな…………わおっ、とっても、でっかいオクスパスですよー。いやあ、クラーケンって迷信でなく本当に実在していたんだね。それとも、例の結社の何たら工房とやらで生み出された生物兵器だったりするのかね?」
「落ち着きたまえ、皆の衆。漂白の詩人オリビエ・レンハイムの神々の調べをとくとご覧あれ。ジャンジャカジャーン、『人魚の子守歌』。さあ海の底へ帰りたまえ、哀れな迷い蛸よ。あれっ、全然効果がない?」
「失敬な、僕の演奏にミスがある筈ないでしょうに。そもそも、あんな眉唾な古文書を鵜呑みにするからこんな羽目にって…………責任の擦り付けあいをしている場合じゃないか。赤い壁がどんどん狭まってくるし、なんかマジでヤバくないですか?」
「S.O.S、 S.O.S。このままじゃ漁船もろとも海の藻屑にされてしまうから、今直ぐスクランブル戦闘モードでこちらに…………えっ、クラーケンなんて御伽噺で現実にいる筈がない? 何時もみたくおちょくっているだけだろうが、もっと信憑性のある法螺を吹けって? はっはっ……何だが狼少年になった気分だね。やっぱり普段の生活態度を改めないと、いざっていう時に信用してもらえなく………………って反省している時じゃない。たとえ九十九回の偽情報に踊らされても、たった一度の真通報を逃さない為に無駄骨を折り続けるのが警察であり軍人であり親友でしょう。今度は本当なんだから信じておくれよ。多くの人間の命が懸かっているんだよ」
「とにかく、僕はまだこんな所では死ねない。リベールを旅して、学園祭を心ゆくまで堪能し僕は確信した。人は国はその気になればいくらでも誇り高くあれるし、学童時代からずっと目をつけていたアレはやはり大変素晴らしいものだった。だから、僕は帝国からブルマを廃止した冷血にして大胆不敵な改革者の鉄血宰相を退治し、帝国の学舎に再びブルマを復活させ祖国の同胞のブルマニストに人の気高さを取り戻し………………あれ、切れた?」
「もしもし、今のは冗談……でもなくてわりかし本気だけど、ピンチなのはマジなんだってばさ。お願いだから切らないでおくれよ、心の友よ。もしもし? もしもーし!?」
◇
エステル達がツァイスに旅立った前日のこと。
バレンヌ灯台から逃走した黒装束の二人は視界と足場の悪いクローネ山道に逃げ込み追跡者を巻こうとしたが、アガットはセンサー付きの魚雷のように標的を見失うことなく二人を追い続ける。既にこの鬼ごっこは一昼夜ぶっ続いて、周囲は完全に日が落ちている。
「はあはあ、何てしつこい女だ」
「常人には想像すら及ばぬ過酷な訓練に耐え抜いてきた我ら特務兵が振り切れんとは。そもそもあんなバカでかい大剣を担ぎながら、どういう足腰しているのだ?」
「はっ、鍛え方が違うんだよ。元々獣道は俺の庭場みたいなものでお前らは最初っから戦略を見誤ったんだ」
アガットの宣告通り、こちらの体力は限界に近いが女遊撃士の息づかいにはまだ余力が感じられる。体力馬鹿のエステルにも匹敵する無尽蔵のスタミナ振り。
二人がかりでの迎撃も考えたが、一人は片腕を負傷しており実質はタイマンのようなもの。疲れ切った彼我のコンディション差を考慮すると真っ向勝負は分が悪い。
最悪、負傷した側が自決覚悟で食い止めようと悲壮な決意を固めた次の瞬間、彼らのよく知る声が希望を齎した。
(お前たち、ここは自分が食い止める。そのまま駆け抜けて合流地点に向かうが良い)
「た、隊長、来て下さったのですね」
「了解であります、隊長!」
姿が見えぬ声の主に感謝の意を捧げると、黒装束の二人は迷うことなく山道を切り抜けて、今度は平地に乗り出した。
「へっ、今更まっ平らな道に戻っても遅いぜ。このままペースアップして一息に捕まえ………………何?」
突然、中空から出現した複数の銀色の短剣がアガットの周囲に突き刺さる。柄の宝玉の部分を真っ赤に光らせた刹那、銀色のフラッシュがアガットを包み込む。
「何だ今のは? 新手の敵の伏兵か?」
反射的にクロスにガードした両腕を開くと、得物のオーガバスターを展開させて臨戦態勢に入るのと並行しメディカルチャックを行う。身体には特にダメージは感じられないが、それもその筈。
銀色の光が駄々漏れていた所から幻属性の導力魔法(オーバルアーツ)を喰らったと推測される。現在普及している旧型の戦術オーブメントに幻系攻撃アーツは存在しない。逆に言えば何らかの精神攻撃を受けた可能性が高い。
突如、正面に人影が出没する。
アーツを詠唱した敵本体かもしれないが、既に『カオスブランド』のような混乱系魔法に嵌まっている危険もある。無辜の一般人を敵と誤認しないように慎重に正体を見極めようと目を凝らすが、そんなアガットの警戒心は一瞬にして吹き飛んだ。
「テメエ、何でここにいやがる?」
燃えるような真紅の長髪。黒曜石のような黒い瞳。踝まで届く茶色のロングスカートに巨乳を押し隠したダボダボの灰色のカジュアルセーターを着込んだ十代の長駆少女。
学園祭でエステルがぶつかった若い女性と同じ服飾。顔つきも酷似しているが、こちらの方が十歳近くは幼い。
両者に共通しているのはどこか怯えたような瞳でオドオドと周囲を見渡している所。その仕種がアガットを苛つかせる。少女はアガットの苛立ちに全く頓着せず。というよりも彼女の存在をまるで認知していない素振りで、たどたどしく口を開いた。
「だ、大丈夫よ、ミーシャン。直ぐに王国軍の兵隊さんが助けにきてくれるから。善良で慎ましく生きる私たちをエイドスが見捨てる筈が…………」
「止めろおー!」
自らの力で何も成そうとせずに他者の善意に縋って諦観し切った態度にぶち切れると、オーガバスターで少女を真っ二つに斬り裂いた。
「テメエが何時もまでもそんな他力本願な態だから、ミーシャンは俺の弟は…………」
ゼエゼエと血走った目で息を切らずアガットの面前で、斬り伏せられた少女がスーっと蜃気楼のように泡影する。やはり少女の姿は攻性幻術が見せた夢現のようだ。暗い木々の隙間から微かな気配が漂い品評するような声が聞こえてきた。
「フフフ、己の無力さに打ちのめされて抑えきれぬ激情を以って剣を振るうか。どうやらお前は俺と似た過去を所有するらしい」
今度は幻影ではなく、オーバルアーツを唱えた当人が堂々と姿を現す。
先の黒装束と似た恰好をしているが、赤と黒の入り交じった特殊な仮面を装着し、得物として異形な剣を握り込んでいる。恐らくは特務兵達が隊長と敬った人物であろう。
「俺には白面やあの娘のような相手の心を見通す便利な魔眼など持ち合わせてはいないゆえ、シルバーゾーンの幻惑で何を敵と見做したのかは知らんが、先の狂態振りから察するにお前にとっての真なる仇讐は他者などでなく、かつての脆弱な己自身のようだな」
仮面の男の言葉には初耳の固有名詞が多数含まれており、半分も内容を理解出来なかったが、己が本質を見抜かれたのを思い知らされて歯噛みする。
「はて、お主とはどこかで出会ったような気がするが、記憶違いか?」
「ふざけるな、こちとら犯罪者の知り合いはいねえ!」
仮面の男は軽く首を傾げる。これ以上得体の知れない敵に主導権を握られるのを畏れたアガットが吼えるが、拭えぬ在りし日の亡霊が思いがけもしない形で彼女に降り注ぐ。
「お前、もしかしてアガティリアか?」
その言葉に一瞬アガットの心臓が止まりそうになる。アガットという名はクローゼと同じく本名を捩っただけの単なる愛称であるが、彼女の真名を知る者は故郷の村に僅かに残すのみで、遊撃士協会(ギルド)の同業者にすら存在しない筈。
「テメエは一体何者だ? 何で俺の実名を知ってやがる?」
「ふっ、お前のいたラヴェンヌ村と俺のハーメル村とは姉妹村として交流があり、幾度となく顔を逢わせて会話も交わしている」
ハーメルという固有名詞を聞いたアガットの胸が騒めく。ある予感に彼女の奥深くに引き籠もっていたアレが強引に目覚めようとしている。
「まあ、ここまで思わせ振りな鎌掛けを試みた以上、素顔を見せるのが礼儀というものだろうな」
そう宣言すると、男は後頭部の留め金をカチリと外して、本当に仮面を脱いだ。
アッシュブロンドの灰色の金髪。吸い込まれそうな深い色の瞳に彫りの深い顔。
まだ若く、アガットと同年配。暗がりでも目立つ男の美顔が外界に晒されると、彼女の黒い瞳孔が極限まで見開いて思わず言葉が漏れる。
「レオンハルトさん?」
◇
昔日のラヴェンヌ村。
今では廃坑に処されたラヴェンヌ鉱山は盛りさかりで、村の収入源は果樹園の果実と鉱山から掘られる金耀石(コルティア)で賄われている。
幼い頃に両親を流行り病で失くしたクロスナー姉弟も、この素朴な村で暮らしていた。
身寄りもなく、小さなほったて小屋に二人暮らし。村の人達はこの幼い姉弟に良くしてくれており、生活に困窮することはなかった。
早朝、目を覚ました少女は弟を起こさないように気を遣いながら、そっと寝床を抜け出すと井戸の底から何度も地下水を汲み挙げる。
両肩に極太の樫の木を抱えて、棒の両端には木の実のように十個以上の水樽が括りつけられている。その重い水樽を担いだままラヴェンヌ山道を幾度となく往復して、鉱山まで工業用水を送り届けるのが少女の日課になっている。
発掘作業が長引くときは、一日に十往復以上も険しい山道を走破する。嫌が上でも足腰は鍛えられて、二の腕にも少女が望まぬ逞しい力瘤が造られる。
本日分の仕事を完済させた少女は、何時にも増して早足で村へ帰宅する。今日は月に一度の特別な日で、あの少年が村へやってくる。少女の二つの大きな隆起物の下に秘められた想いがキュンと疼く。
エレボニア帝国との玄関口のハーケン門からアイゼンロードを下って、東ボース街道からボース市をバイバス。西ボース街道からラヴェンヌ山道を渡り歩いて、一日がかりで村に辿り着いたハーメルからの旅人は住民から手厚い歓待を受ける。
国は違えど古くから姉妹村として友誼を結んでいた両村は、ミラを媒介せずに昔ながらの物々交換に近い形で各々の名産品をバーターする。
少年はハーメルの女たちが編んだ反物や毛織物を持ち寄り、代わりにリュック一杯の果物と僅かな空の七耀石の欠片を受け取る。
少年は村で一晩明かすのが習わしとなっており、月の小道亭に荷物を落ち着けると、来客の身分に甘えずに律儀にも果樹園の仕事を手伝う。
少女は軽く頬を染める。アッシュブロンドの笑顔の似合う爽やかな少年を木の影から半身を乗り出しながらそっと見守る。
今日こそは思い切って声を掛けてみよう。そう決心しながらも、従来の引っ込み思案の性格が災いし後一歩の勇気が絞り出せず。もう二年近くもこんなストーカー紛いの真似を続けている。
結局また駄目なのかと溜息を吐いて身を翻そうとした刹那、何者かに背中をドンと押されて木陰から弾き出されて思わず尻餅をつく。
振り返ると弟のミーシャンが、しししっと笑いながら逃げていく姿が目に映る。手を振り上げて抗議の声を張り上げようとしたが、少年と初めて目線を合わせてしまい陸に上がった人魚のように声帯を奪われる。
更にはロングスカートで大股開きという、あられもない自分の姿に気づいた少女は髪色に劣らず顔全体を真っ赤に染め、必死こいてスカートの乱れを直しながらチョコンとその場に正座する。
少女の狂乱振りを至近から拝まされた少年は狐に摘まれたような表情をしていたが、やがてクスリと微笑む。気弱な少女はますます縮みこんでしまう。
それ以降、少女は想い人の少年と二人で話をする機会を多く設けられるようになり、少しばかり恥ずかし思いを強いられたものの、弟の粋な計らいに感謝する。
少年はよく自分や自身の村の出来事を語った。
十六歳の誕生日を迎えたら帝国全土を旅して遊撃士の資格を取り、世の悪を懲らしめ剣の理(ことわり)を極めんという壮大な夢や、故郷の村にいる綺麗な黒髪に琥珀色の瞳をした姉妹など。
その幼馴染みの姉の名が出る度に少年の瞳に宿る感情を鋭い女の勘で悟った少女はチクリと胸の奥が疼いたが、元より自分のような長駆な田舎娘には分を過ぎた願いなのだと自らを戒めた。
更にはまだ五歳にも満たない妹の方が織物の精巧な刺繍を担当していると聞いた時には、その幼子の手先の異常な器用さに心の底からぶったまげたものである。
いずれにしても、少女は一月に一度の少年との逢瀬を心から楽しみ、このささやかな幸運が何時までも続くと信じていたが、突然悲劇は訪れる。
十年前に国境紛争を境に発生した百日戦役によって。
◇
「本当にレオンハルトさんなの?」
アガットは険のない澄んだ瞳でそう呟いた後、「あっ?」と自分の口元を抑える。
目の前の青年には在りし日の少年の面影は……もはやない。
夢と希望で彩られた瞳は昏い情念に縁取られ、闊達な笑顔はシニカルな笑みに染まる。あの戦争の痕が彼の有り様を変質させてしまったのは疑いなく、かつて恋した少年の堕落に胸の奥がズキリと痛んだ。
「かつてのなだらかな俺を知る者がいれば今のお前のように同一人物かと疑うか、あるいは落魄れたと嘆くであろうな。だが……」
アッシュブロンドの青年は端正な顔を僅かばかり歪めて、苦笑する。
「流石に今のお前の変貌振りには負けるか、アガティリア。女は化けると良く聞くが、あの内気な少女がこのような成長を遂げるとは想像だにしなかったぞ」
決して嘲る意図ではなく冷然たる事実を指摘し、俯いたアガットから野太い声を漏れる。
「それがどうした?」
先程までの女言葉や気弱な態度は消え、再び面をあげたアガットはエステル達が良く知る覇気と攻撃性に満ち溢れていた。
「生憎と女なんて代物はとうの昔に捨てた。ミーシャンのいないこの世界にまだ何の未練があるのかアイツは時たま彷徨い歩いているみたいだが、あの泣き虫の過去なんざ俺には関係ねえ。テメエが単なる悪党に成り下がったというのならブレイサーとして斬り伏せるだけだ」
再びアガットは得物のオーガバスターの刃先をレオンハルトに向ける。
「ふふっ、果たして本当にお前に出来るのかな? 女も過去も捨てたという割には未だに剣に迷いを抱えているように見受けたが」
「ほざけ!」
アガットは大剣を振り回して正面から襲いかかり、レオンハルトも初めて異形の剣を構えた。
「力で叩きのめさるのが所望というのであれば、その望みを果たしてやろう」
「なっ?」
電光石火。本当に一瞬、そして僅か一撃であった。
一合と打ち合うことすら及ばずに、アガットの大剣は弾かれる。クルクルと回転しながら後方の地面に突き刺さり、逆に切っ先を喉元に突き付けられる。
「ば、馬鹿な」
決して失ってはならない大切なモノを二度と手離さない為に身につけた筈の力がまるで及ばない現実に愕然とし、同時に大切なことを思い出した。
アガティリアの恋したアッシュブロンドの少年は剣の天才という歴然の事実を。
あれから十年の年月を重ねて少年はかつて目指した理(ことわり)ではなく、修羅ともいうべき凄まじい剣の業を身につけたみたいで、アガットはレオンハルトの太刀筋を見切ることすら叶わなかった。
アガットの死命を制したレオンハルトは急に興がそがれたかのように剣を鞘に納めると、クリルと背を向ける。
「待て。何で、止めを刺さな…………」
「本当に女を捨てるつもりなら、俺のように修羅と化して全てを捨てる覚悟が必要だ。だが、まだ女として生きたいのなら怒りと悲しみは忘れるが良い。さらばだ、アガティリア」
それだけを言い捨てるとレオンハルトの姿はその場から消え去り、後には強い敗北感と喪失感を抱かされたアガット一人だけが取り残された。
「畜生…………忘れろだと? そんな事…………そんな事が………………………………」
「…………そんな事、出来る筈ないじゃない」
再び険のない表情に戻ったアガットの瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
アガットなのか、或いはアガティリアなのか。
赤毛の女は地面に伏してメソメソと泣きだし、女の啜り泣く声を街道に木霊した。
「どうしよう、ミーシャン。レオンハルトさんが敵なんだって……。お姉ちゃん、どうすれば良いのか、判らなくなっちゃったよぉ。ねえ、私はレオンハルトさんに何が出来るのか教えてよ、ミーシャン?」