ちょうど日が沈み出した時分に武術大会本戦一日目が終了。オレンジ色の夕焼けの下、トンボを抱えた複数の係員がタットの地震魔法で荒れ果てた闘技場の整地化に精を出す。
綺麗な緑の芝に復元される作業を鉄格子のゲート越しに眺めながら、勝ち残った蒼の組の遊撃士達は審判役からいくつかの注意事項を伝達されるとようやくお開きの流れとなり控室を後にする。
まずはクルツチームの四人が退出。少し時を置いてから、ようやくトーナメントの緊張感から開放されたジンチームも続いたが、扉外に刺客が待ち伏せていたとは誰一人想像しなかった。
「パパのかたきー、かくごー!」
私怨を抱く何者かがそう叫びながら、先のヨシュアの如く三角飛びで大きく壁を蹴って流星キックを仕掛けてきた。迂闊にも油断していたジンの後頭部にマトモにヒットしたが、なぜかダメージゼロ。
それもその筈、そのリベンジャーの正体はまだ身長1アージュちょいの幼女。ジンの頭に肩車のように取りつき、「この、この」とポカポカ殴る様は見ていて微笑ましい。
「こらっ、止めないか、ルチア。すまねえな、ジンさん。娘がオイタしたみたいで」
他のレイヴンの面々と共に駆けつけてきたシャークアイが、先の死闘でボコボコに歪んだ醜面で叱りつけながら、女の子の襟首を掴んでジンから引き離す。
捏造過去回想で彼には五歳になる娘がいると語られており、どうやらシャークアイのご息女らしい。お子様用の海賊仮装に身を包み、健康な左目を真っ黒な眼帯で隠して隻眼(パパ)を気取っているチャームさはアネラスが誘拐衝動に駆られる程に可愛い。
「気にするな。この歳で親の仇を討とうなんざ健気じゃないか」
無論、寛容なジンは気分を害することなく、少女の頭をドクロマークつきのバンダナ越しにナデナデする。ルチアはムーッと頬を膨らませて、「あだのくせに、なれなれしくするなー」と背伸びしながらプンスカする。
「ルチア、パパは正々堂々とした決闘で負けたのだから、根に持ったりしたら駄目でしょ」
「ママー!」
幼女はパッと表情を輝かせると母親の胸元へと飛び込み、エステル達は互いに怪訝な表情を見合わせる。
娘のヤンチャ振りからしても、てっきりレイヴンのヤンキー娘と職場の出来ちゃった婚で引退したのかとプロファイリングしていたが。
「この人の妻のソフィアと言います。主人かお世話になりました」
一人娘を抱き上げながら、礼儀正しく頭を下げたその女性はまだ二十歳前後と若い。清楚な白のブラウスとタイトスカート姿に水色の短髪を整えて眼鏡かけた姿は実に理知的で、とてもアンダーグラウンドと縁があったようには見えないが、おしとやかそうな振りして昔は結構……というパターンなのだろうか?
「あっ、どこかで見た顔だと思ったら、騎馬戦でメイベル市長とブルマ姿で取っ組み合っていた写真の女性!」
エステルが大声を張り上げる。ヨシュアは一瞬義兄の正気を疑った後、ナイアルに渡した学園祭PR用スナップの中の少女が目の前の女性と確かに酷似しているのを得意の瞬間記憶能力で記憶の井戸の底から掬い上げた。
「野郎のことなら三年付き合っても三日ですぐに忘れちゃう癖に、本当に女性関係の記憶力だけはピカイチね」
ヨシュアはジト目で呆れるが、エステルが見抜いた通りにソフィアはジェニス王立学園に在籍していた。メイベル市長とはクラス委員と生徒会長のポストを分け合い、体育祭でも共に赤白の大将騎を勤めて競い合う首席の座を巡る良きライバル関係だった。
「リベール通信にメイベルさんのオマケで、私の学生時代のブルマ姿が掲載された時は少し気恥ずかしかったけど、とても懐かしかったですわ」
ルチアに頰擦りされたソフィアは照れ臭そうにはにかむ。
こうして母娘並べて鑑賞すると、幼女のルックスは美人の母親と瓜二つ。運動神経の良さは父親譲りだろうから、遺伝子の良い所取りをしている。
尚、その写真にノスタルジーを刺激されて娘と一緒に久々に学園祭を尋ねたら、旧友のメイベルと五年ぶりの再会を果たす。そのままメイド共々自宅に泊めてルーアン地方での仮宿を提供したりと、エステル達がダルモア市長と抗争していた裏で暖かいホームドラマを展開していた。
「今回はパパの雄姿を見にルチアと王都を訪れたけど、現役時代みたいでとっても素敵でしたわ、あなた」
「凹られても、パパはルチアのせかいいちだよー」
「そうかそうか、お前ら。でへへへ…………」
妻子に煽てられたシャークアイは腫れ顔を弛ませてデレデレし、レイヴンの取り巻き連中は高嶺の花を射止めたチンピラ希望の星を羨望の眼差しで見上げる。
にしても、かつてボース市長と肩を並べた程の才媛がどうして硬派番長のもとに降臨したのかエステル一行は首を捻るが、例の『アパッチ』襲撃の際に路地裏でモヒカン達に襲われそうになった所を助けられたという実にテンプレ的な出会いが交際の馴れ初め。
「不良と委員長の学歴差カップルも、ラブストーリーの定番ネタよね」
ヨシュアは脳筋の家族をチラ見した後、自身の境遇に当て嵌めて美女と野獣の組み合わせに一定の理解を示す。
勉学一筋で暴力にまるで免疫が無かった箱入り娘は、まるでインプリンティングの如くワイルドな漢の魅力に惹き込まれる。自由な外界を知り、親元から巣立った小鳥はレールに敷かれた一生と決別。いずれは市長職を目指して政界進出する人生設計は大幅な軌道修正を余儀なくされる。
当然、財界人の両親との間で一騒動あったが、様々な迂曲を経て和解した。今では孫のルチアが遊びに来るのを一日千秋の思いで待ち焦がれている。
「まあ、本人たちが幸せなら、他人がどうこう言う筋合いはないわよね」
三馬鹿中央にいるディンが左腕を三角巾で吊っている姿を確認したヨシュアは、そう達観する。
学校も中退し、しがない漁師に嫁いだかつての秀才を凋落と見做す向きもあるだろうが、似たような政治的野心を胸に抱いて秘書業務に就いたギルハートの末路と可愛い娘と逞しい夫と仲睦まじく微笑んでいるソフィアの現状を見比べると、女の幸福は単純な社会的成功だけでは図れない一面もあるのかもしれない。
「とはいえ、メイベル市長と同級生ってことはソフィアさん、シャークアイさんとは十歳近い歳の差があるってことですよね? それなのに五歳の娘がいるって、どう思う兄貴…………って?」
「負けた…………」
ルーザールーズ中は決して揺らぐことが無かった巨体が崩れ落ちる。『不動』の称号が瓦解しエステルは言葉を呑み込んだ。
「俺は別に好きでストイックな魔法使いを続けてきた訳じゃない。そりゃ、武道(ウーシュウ)に生涯を捧げた身ではあるが、飲食以外にももっと私生活の充実もあってしかるべきじゃないのか? 同じ三十路で一回り年下の幼妻に可愛い娘………………だと? あれか、ひたすら一心に修練に明け暮れるよりも、昔はチョイ悪で荒れていた方が女人とお近づきになる秘訣だというのか? 真面目な人間が一つ悪さをすると「良い子振っているが、それがあいつの本性だ」と積み上げてきた信用が一瞬でパーになるのに、普段から悪さばかりしている人間が一つ善行を施すと「あいつ実は良い奴かも」とは、何と世の中は理不尽な…………」
四足動物のように両手の掌を地面につけながら、レイプ目で何かブツブツ呟いている。「なんかよくわかんないけど、とりあえずパパのかちー」とルチアは金太郎のように熊さんの背中に踏み乗りながら、エイエイオーと勝鬨をあげる。
「落ち着け、兄貴。俺も何に絶望しているのか判らないけど、兄貴は物理屋であってアーツ使いじゃないだろ?」
「もう止めてあげて、エステル。ジンさんのプライドはもう零よ」
兄貴分をフォローするつもりが却って追い打ちをかる非道を、ヨシュアは琥珀色の瞳に涙を溜めながら引き止める。
エステル、オリビエ、シャークアイなど行く先々で次々と野郎同士の熱い友情を築いてきた漢の中の男がその反面、この歳になるまで異性からの浮いた話が一切無いという思わぬアキレス腱が発覚した瞬間だ。
「まあまあ、兄貴にはキリカさんがいるじゃないっすか?」
あれからジンが落ち着いた頃合いを見計らってエステルは同郷美人の名を挙げてみたが、シャークアイの嫁さんの若さに当てられ珍しくやさぐれているジンは「ふん、あんな婆なんて……」と心にもない命知らずの一言を呟いてしまう。
「ねえ、パパァー。ルチアもぶじゅつたいかいにでたいー」
「後五年経ったらな。幼年の部の出場資格は十歳~十二歳らしいからな。それよりも、ジンさん。これから俺達と一緒に一杯やらないか?」
元よりそれが目的で蒼の組控室の前で待ち構えていた。武術大会に敗退した以上、保護観察中のレイスらは明日にはルーアンに戻って、遠洋漁業に復帰しなければならない。今夜はせめてもの無礼講ということで、居酒屋『サニーベル・イン』を貸り切ってレイヴン一堂で飲み明かすつもりだ。
「そいつは是非とも、ご相伴に預かりたい所だか……」
闘技場で先に誘ったのはジンの方だし、お祭好きの大酒飲みとしては何ら異存はないが、チームの財布の紐を握る軍師殿に縋るような視線を注ぐ。
「別に行ってきて構わないわよ」
大会期間中に特訓したり、ましてやプライベートタイムを拘束する気のないヨシュアはあっさりゴーサインを出す。更には奢られるのも漢の面子に関わるだろうからと、お小遣いとして一万ミラも持たせてくれた。
「かたじけない、恩にきる」
ジンは片膝をついて両拳を胸の前で握り締める最高礼のポーズで感謝の意を示すと、シャークアイ達と連れ立ってグランアリーナを後にする。
「ふっ、マダム&マドモアゼル。是非ともエスコートを……」
「あら、これはどうもご親切に」
「わーい、ルチアもいくのー」
紅一点のソフィアやマスコットのルチア、更には何故かオリビエまでもが自然な動作でレイヴンの群の中に紛れており、さぞや楽しい宴会になることだろう。
「よいしょっと…………、これで後は湿布しておけば大丈夫よ」
「悪いな」
ヨシュアは整体の要領で自ら脱臼させた肩の骨を綺麗に嵌め直してあげると、頭を下げながら仲間に合流していくディンをエステルと共に見送る。
一応酒が飲めない(?)未成年ということもあるが、性格が不器用なロッコあたりは兄妹が一緒だと気まずそうなので敢えて参加しないことにし、これからの行動を思案する。
「さてと、俺は一端ギルドに戻るけど、お前はアネラスさんと約束が…………って、何やってるんだよ、ヨシュア?」
『た、頼む、何でもするから見逃してくれ! 私には守るべき妻と可愛い娘がいるんだ!』
『この泥棒猫! 返して、私のアーサー君を返してよぉ!! うわああぁあーん!』
『ユニちゃん、君とっても可愛いね。ハァハァ。ペロペロキャンディをあげるから、おじさんと…………!? ち、違うんだ、ヨシュア君。私はロリコンでは……』
『よーし、こんなったら、パパ、お好み焼き屋始めちゃおうかな?』
『まあまあ、兄貴にはキリカさんとかがいるじゃないっすか? ふん、あんなババアなんて……』
隠しポケットに密かに忍ばせておいたボイスレコーダーを再生しており、先の愚痴文句がきちんと録音されていたかを確認する。
他にもどこかで聞いたような先輩遊撃士の生声や、やばそうな生々しい修羅場も含まれていた気がするが、こうやって他者の弱みを握って脅迫のネタにしているのだろうか?
「習慣でつい反射的にスイッチを押したけど、考えてみればこんなもので強請る必要も無かったわね」
基本、寛大なジンは大概の頼みごとは二つ返事でOKしてくれる。その不動が首を縦に振らないような不条理な要求なら、どんな脅迫にも屈しないだろうからナンセンスの極みだと気づいたが、それでも音声を消去しようとはしないヨシュアである。
「そうだ、エステル。そろそろあの人が私たちに絡んでくる見頃だと思うから、一つ頼まれてくれないかしら?」
ヨシュアは一枚の写真をエステルに渡し言伝てを託すと、アネラスとの待ち合わせ場所に向かう為にエーデル百貨店の方角に消えていった。
◇
「よう、会いたかったぜ、心の姉弟たちよ」
ギルドに着いた途端、『お前の物は俺のモノ、俺の物も俺のモノ』というジャイアニズムという哲学を産み出したシンガーと似たような台詞を口にしながら、ヨシュアの予測通りに無精髭を生やした胡散臭そうな中年男性がエステルを出迎えた。
「この王都でも相変わらず愉快そうな騒動の中心にいるようで何より…………って、ヨシュアはいないのか?」
リベール通信の自称敏腕記者ナイアル・バーンズだ。得意のハイエナじみた嗅覚で、兄妹の武術大会参加を嗅ぎつけた。
来客用ソファから立ち上がったナイアルは煙草の吸殻を携帯灰皿に押し付けながら、顎先に手を当てて算段する。
「まあ、考えようによっては都合が良いか」
常にセットで行動している義姉の不在を不審がったが、守秘義務の境界線が緩い脳筋弟の方が情報を引き出し易いと踏んだのかニンマリとほそく笑む。
「どうだ、エステル。これから一緒に飯を食わねえか? もちろん全部俺の奢りだぜ」
編集部近くのかつてジンが早食いイベントで食い繋いだコーヒーハウス『バラル』に誘われる。試合後で腹ぺこのエステルとしては否応ある筈もなく、受付のエルナンに大会の進捗を報告すると晩飯をご馳走になりに同行した。
◇
「なあ、エステルよ。以前、ヨシュアが語っていた情報部黒幕説はどうやらマジみたいだな」
激辛の匠風大盛りライスカレーを五杯もお代わりしたエステルの大食漢振りに今更ながらに驚嘆しながらも、食後の濃縮エスプレッソを煙草と一緒に味わいながらナイアルは天を扇ぐ。
専制国家にしては珍しく王家批判も含めて比較的報道の自由が保障されていたリベールにおいて、最近軍の検閲が異常に厳しくなった。親衛隊逮捕における情報部の小学生レベルのお粗末な対応を紙面で指摘しようとした同業者が立て続けに逮捕され、その雑誌は発禁処分を受けている。
アリシア女王の沈黙を良いことにグランセル城の主人気取りで好き放題のデュナン公爵と、その後見人として実際の政務を執り仕切っているリシャール大佐。
グランセルの市民人気は未だに根強いようだが、既に反逆者一歩手前の地位まで登り詰めていると記者として長年の勘が告げており、困ったことにこういう悪い予感は外れた試しが無かった。
「なあ、エステル。こいつはもうスクープ狙いとかそんなちっぽけな話じゃなくて、王国の存亡に関わる大問題だ。俺で出来ることなら何でも協力するから、お前達が現在掴んでいるネタを教えてくれ。頼む……」
ナイアルはヤニ臭い顔をエステルに近づける。普段はハゲタカのようにギラついている目に何時にない真摯な光を称えて思いの丈を訴える。
「分かったぜ、ナイアル。ヨシュアほど理論整然とした説明は無理かもしれないけど」
エステルはしばらく迷ったが、彼の熱意に絆されたようで、そう前置きしてからポツリポツリと情報を漏らし始める。ナイアルは表情こそ変えなかったが、机の下で密かに左拳をガッツポーズで握り締めている。やはりヨシュアに較べればエステルの方が断然チョロかった。
「…………ってな感じで、俺が把握しているのはこのぐらいだ」
エステルが物語った真相の数々に基本的に物怖じしないナイアルも内心でぶったまげる。
飛行船誘拐に孤児院放火事件は既出だが、中央工房襲撃と親衛隊冤罪の自作自演に、モルガン将軍の軟禁と情報部による軍部の完全支配。
それが全て事実だとすれば、政権も実質はデュナン公爵でなくリシャール大佐の掌の上にあるようなものなので、政軍両権を掌握した事実上の独裁者ということになる。
「何か頭がクラクラしてきたな……」
まさしくフューリッツア賞が現実味を帯びる程の生涯最大級のスクープが目の前にぶら下がっているが、リアリストの彼は一介の新聞記者の手に余る諸刃の剣であることも弁えている。単身、功を逸って記事にしようものなら、翌日にはヴァレリア湖に身元不明の水死体が浮かび上がる光景を想像し寒けを覚えた。
「生前は貧乏無名で没後に世に作品を認められた絵画の巨匠たちも、あの世から一千万ミラの法外値をニヤニヤ楽しむよりも、生命のあるうちに十万ミラの小金を手に入れ生身で贅沢を堪能したかっただろうぜ」
ミラと名声は生きている間に授けられてこそ意味があり、死後、殉教者として祭り上げられる栄誉に何らの価値も見出していないナイアルは極めて小市民的な選択をする。
「よし、決めたぜ、エステル。約束通り、ギルドでも調べられない情報を俺が独自のルートで調査してやらぁ」
ようするにナイアルが見込んだ英雄姉弟がリベールを揺るがす災厄に挑むのを影ながら支援し、導かれし者に恩を売ることだ。
一般人にも平気で刃を向ける猟兵団(イェーガー)紛いの情報部を敵にするわけだから身の安全は保障されないが、リスクとリターンが一致するなら幾らでも危険を犯せる性分だし、『ペンは剣よりも強し』の信念だけはシニカルなナイアルの胸の内に今でも根付いている。
「なら、ヨシュアからナイアル充ての案件を伝えておくぜ。学園祭で俺たちと一緒に連んでいたクローゼ・リンツって生徒を覚えているか?」
預かっていた写真を手渡すと、聖誕祭で再会を期したクローゼが既に王都に到着していないか調べて欲しい旨を伝え、ナイアルは明らかに興醒めした表情を隠せない。
あのヨシュアのたっての頼みというから、てっきりリシャール大佐を始めとした情報部幹部の経歴でも探らせるものと身構えていたが、美形の優等生とはいえ今更、単なる一学生の動向を追跡しろとは拍子抜けにも程がある。
「確かに異性受けしそうなイケメンではあるな」
学生服姿のクローゼの御尊顔はハンサムだが、ボーイズラブの趣味はないナイアルは気が削がれた態度で何気なく写真を引っ繰り返し、途端に目を見張る。
「どうした、ナイアル? 急に固まって…………」
「おい、エステル。お前はこの裏面の一文を読んだのか?」
「いや、見てないけど…………って写真の裏に何か書かれていたのかよ?」
エステルは慌てて覗き込もうとするが、ナイアルは即座に懐に仕舞い込むと、「この依頼、確かに承った」と急にやる気を漲らして伝票を掴む。
「じゃあ、またな」とそそくさと挨拶し、エステルを置き去りにし席を立つと勘定を済ませて店を出た。
「うぅー、気になるー。たった一文でナイアルが豹変するなんて、どんなメッセージが篭められていたんだ?」
好奇心を刺激されて蛇の生殺し状態で取り残されたエステルは軽く溜息を吐きながら、甘いアイスを溶かしたアイスエスプレッソを自棄飲みする。
「後でヨシュアに聞いても多分、教えてくれないだろうな……」
また恒例の秘密主義の除け者にされた訳だが、今回は参加するチャンスが与えられていた。
少し注意力を働かせれば簡単に閲覧可能な裏情報を見落としたのは、海千山千を心掛ける遊撃士としては手痛い失策。エステルが自力で気づけるか仕掛けられたテストに落第した以上、悶々とした夜を過ごすのは自業自得だろう。
「くっくっくっ。やはり義姉は義弟よりも、多くの事柄を見据えているみたいだな。ただし、あの腹黒娘からこれ以上のネタを搾り取ろうと思ったら、こちらも相応の働きを示す必要があるか」
リベール通信社の本部ビルに帰参したナイアルは銜え煙草に火をつけると瞳に好奇の色を称えて、扉を潜る前にもう一度写真の裏面を眺める。
『クローディアル・フォン・アウスレーゼ』
そこには唯一行、その姓名だけが達筆で書かれていた。