「エステル殿、ヨシュア殿。お待ちしていましたよ」
予期せぬ軍人将棋勝負で時間を取られた兄妹が、グランセル城一階にある侍女控室を訪ねると、シアと祖母孫ぐらい歳の離れた女性が渋顔でエステル達を出迎えた。
この妙に威厳を感じさせる老女がメイド頭のヒルダ夫人。シアから大佐に捕まった事情を伺い遅刻に理解を示した彼女は、女王宮の見張り役の特務兵を欺く準備に時間を掛けると空中庭園に向けて出発した。
◇
「なあ、ヨシュア。やっぱり止めようぜ。これって100億パーセントばれるだろ?」
「……わたくしもかなり無理があるかと存じます」
庭園の柱の影から入口を守護する二人の黒装束をチラ見したエステルは、義妹にミッションインポッシブルを陳情。ヒルダ夫人は鉄面皮を維持しながら同意する。
濃紺のワンピース、フリルのついた白いエプロンドレス、頭部には白いフリル付きのカチューシャ、俗に言うメイド服をエステルは身に纏っている。
特に化粧もなく私服の上からドレスを被せただけの雑な変装。長駆で筋骨逞しいエステルをX染色体(♀)と見間違えてくれるのはドロシーぐらいしか思い浮かばず、もし第三者に見咎められたら自殺物の辱め。この場に辿り着くまで知人に遭遇しなかったのは奇跡みたいなものだ。
「だから、当初のヒルダさんの予定通りにヨシュア一人で面会を…………」
「それじゃ意味ないのよ、エステル」
こちらは居酒屋アーベントのバイトでお馴染みの完全無欠のメイド姿を披露するヨシュアがその言葉を遮る。そもそも単にラッセル博士の手紙を手渡すだけなら、武術大会を制覇するなどという面倒臭い手順を踏まずとも、漆黒の牙なら即日に終えられた任務だ。
全てはエステルをアリシア女王に直接対面させ、義兄の顔を売り込んで王家にプロデュースする目的でここまで骨を折ってきたのだから、この土壇場でのリタイアなど以ての外。
「私にちゃんとした秘策があるから任せておいて。けど、このメイド服の裾の長さじゃ少し心許ないわね」
「うーん」と床下にまで届きそうなスカート丈と睨めっこすると何を思ったのか、アヴェンジャーを取り出しジョキジョキとスカートを引き裂く。
「よしっ、このぐらいで良し」
唖然とするヒルダ夫人の前で、スカート丈を普段愛用のミニスカ並に切り揃えたヨシュアはエステルにその場に隠れているように指示すると、メイド頭と連れ立って入口の階段を登る。
「これはヒルダ夫人。こんな遅い時間に陛下に御用ですか?」
銃を構えたまま油断なく挨拶する二人の特務兵に紅茶と食器類を持参した旨を伝えると、デュナン公爵の命令で補充した侍女見習いを紹介する。
「ほう、これは美しい」
「まるで金色の髪から光の粒子が振りまかれているようだ」
武術大会の優勝で一躍有名になった黒髪娘の素顔を偽れるように、今のヨシュアは金髪碧眼メイドに扮装している。8人の遊撃士を手玉にとったカリンモードは、職務に忠実な衛士達の鉄の心すら揺さぶる強烈なフェロモンを発するようで、仮面下の剥き出しの頬に赤みが射している。
「侍女見習いのカリンと言います。宜しくお願いします、ご主人様」
ヨシュアが満面の笑顔を浮かべながらクルリと半回転すると、ほとんどエプロンそのもののミニスカートがフワリと捲れあがり、チェックのリボン付きの純白の下着が露わになる。
「「おおっ!」」
年頃の娘のあまりのはしたない行いに夫人は声を上げられず、ハードボイルドな勤務の連続で長時間の禁欲を強いられた特務兵の視線はヨシュアの下着に釘つけになる。
(今ね!)
二人の黒装束の心のガードが決壊した隙を逃さずに、ヨシュアは魔眼を真っ赤に光らせてカラコン効果でブルーの瞳が紫色に変化。
そのまま一回転しながら態とらしくスカートを抑えて、一連のアクションを自然な形で完結させたヨシュアは階段を降りると、柱の影で様子を伺っていたエステルを強引に引っ張りだした。
「お、おい、ヨシュア?」
「うふふ、実は私と同じ侍女見習いはもう一人いるのですが、この娘恥ずかしがり屋だから。ほーら、レナちゃん。出てらっしゃい」
さっきは完全に目をハートマークに時めかせていた黒装束が無言の威圧感でこちらを睨み、エステルは心臓を凍らせる。
(あっ、やべ。俺、死んだかも……)
こんな怪しいを通り越して変質者そのもののなんちゃってメイドが女王宮に出現したら、問答無用で実弾で撃ち殺されても文句は言えないとエステルと夫人の見解は一致したが。
「ほーお、これまた可憐だ」
「シャイな割りには、ツインテールに分けた髪形が活発で朗らかですな」
「へっ?」
エステルは素っ頓狂な声をあげる。このオカマにすら成りきれない怪物侍女が黒装束達の瞳には普通のメイド少女に映っているようで、チェックをパスした三人は女王宮の内部へと素通りした。
◇
「ヨシュア。お前、一体どんな魔法を使ったんだ?」
「うーん、エステルが美少女に見えるように魔眼で認識を操作しただけだけど」
女王宮の二階にあがり、外にいる特務兵に声が届かない位置で足を止めると、単に羽織っただけのメイド服を脱ぎ捨て普段着姿を取り戻したエステルが疑問をぶつけ、上記のようなとんでもない返答が齎せる。
明確な好意でなくとも、一時的にハートを鷲掴みすれば簡単な暗示を刷り込むのは可能。それが態々絶対領域を解除してまでパンチラサービスした理由。
「露出する布面積でいえば下着も水着と大差ないし、むしろスカート無しでモロに全開な分だけブルマなんかの方がよっぽど恥ずいしね」
少しばかり頬を染めながら、ヨシュアがお茶目に舌を出す。
使命の為に心を殺した闇の眷属もX染色体(♂)である以上は魔性の少女の魅力に抗えなかった。「最近の若い子ときたら慎みが足りませんね」と嘆息したヒルダ婦人はアリシア女王の部屋をノックし、兄妹をこの国の最高権力者へと取り次いだ。
◇
「ふふっ、ようこそいらっしゃいました。わたくしの名はアリシア・フォン・アウスレーゼ。リベール王国第二十六代国王です」
満月を背景に窓外の広大なバルコニーに佇む一人の貴婦人。
高価だが決して派手ではない絹のドレスを纏い、クローゼと同じ血統の紫色の髪を束ねる。その瞳は深海のように深く穏やかで、年相応の顔皺はあれど血色の良い肌は活力に漲り、身体全体から発する神々しいオーラにエステルは気押される。
『そう、人はここまで美しく老いることができる』
まさしくアリシア女王とは、人間の気高さを己が長い人生で表現した至高の芸術品。
「そうですか。ラッセル博士はそのような伝言を貴方たちに託されたのですね?」
女王の脇に控えるヒルダ婦人が給仕役を務めて、テーブル越しに並んで椅子に座った兄妹はハーブティーとお茶菓子をご馳走になりながら、これまでの経緯を説明する。
あらゆる導力現象を停止させる漆黒のオーブメントこと福音(ゴスペル)に話が及ぶと、アリシア女王は心当たりについて話してくれた。
「十数年前、このグランセル城直下の地底深くから、巨大な導力反応が検出されました。その時に調査を依頼したラッセル博士が率いる中央工房の科学班は、広域導力波の規模から測定し未だに機能を失っていない古代文明の遺跡が丸々埋まっているのではとの仮説を立てました」
博士は発掘に意欲満々だったそうだが、場所が聖域の上に大スポンサーたる女王の意向もあり泣く泣く諦めた。
どうやらリシャール大佐の目的はゴスペルを使って地下に埋まった超弩級の古代遺産(アーティファクト)の機能を復活させることにあるみたいだ。非公式に行われ、調査チーム全員に国家第一級守秘義務の課せられた地下都市の実態をどうやって嗅ぎつけたのか女王は不思議がる。
「なあ、ヨシュア。大佐の狙いはもしかして……」
「私の視界が感涙で曇りそうになるぐらいにエステルにしては鋭いわね。そうね、セプト=テリオンの与太話が少しだけ現実味を帯びてきたかしら」
オリオールという単語に眉を顰めた女王陛下にリシャールとの軍人将棋勝負で得られた情報をかい摘んで補説する。
リベールの地下に古代ゼムリア文明の遺跡が眠っているのなら、至宝の一つが奉納されている可能性はゼロではない。
所詮は当て論法に過ぎないとはいえ、そう仮定すれば女王と兄妹が持ちよったデータが綺麗に一つのラインで繋がるのでインテリ軍人の妄執と笑い飛ばすのは叶わなかった。
「現地点で決めつけるのは早計かもしれませんが、お二人の想像した通りなら何としても大佐を止めなくてはなりません」
王家に代々語り継がれる伝承を知るアリシア女王が、悲痛な表情で瞼を閉じる。
『輝く環、いつしか災いとなり人の子らの魂を煉獄へと繋がん。我ら人として生きるが為に、昏き闇の狭間にこれを封じん』
そう言い伝えられている。どう楽観的な翻訳を施しても、あまり明るい未来図とは結びつかない。
アウスレーゼ王家の祖先は七の至宝の一つを管理する一族だったと唱えるアルバ教授のような考古学者もいる。古代ゼムリア文明を滅ぼした大崩壊の原因に至宝が関わっているとしたら、オリオールを蘇らせるのは危険すぎる。
「大佐が本気で至宝の存在を信じているのなら、きっと城のどこかに地下深くに続く縦穴でも掘っているのかしらね」
だとすれば、王城の占拠こそがクーデターを起こした真の目的かもしれず。もはや一刻の猶予もないが、アリシア女王は先走る兄妹を宥めるように首を横に振ると、この件にこれ以上深入りしないよう薦める。
「えっと、女王様。それって、どういう意味ですか?」
今こそ王家の残存兵力たる親衛隊と遊撃士協会(ギルド)が力を合わせて情報部の陰謀に立ち向かわなければならない火急の時にその援軍を削ぐような女王の真意を図りかねるが、心優しき陛下はかつてカシウスがレナを失った件で未だに心を痛めていて更に一人息子の身に何かありでもしたらと憂慮している。
「もうこれ以上、誰にも傷ついて欲しくはないのです。どうか、ロレントのお家に戻ってカシウス殿の帰りを待ってください」
「で、でも、女王様…………」
(この女、さっきからどういうつもりなのかしら?)
ヨシュアは碧眼の瞳に値踏みするような色を浮かべアリシア女王を吟味したが、どうやらポーズでなく本気で一個人の身を案じているらしいと悟り、その善良さに感動するよりも甘ちゃん具合に呆れ返った。
「女王陛下、私はレナさんの実子ではないので、エステルと異なりさっきの勿体ない御言葉を頂戴する資格がないので、意見させていただきます。私は生粋の無精者ゆえ帰れと命令されれば喜んで戻りますが、当然リシャール大佐の計画を阻止する算段をきちんとお持ちの上での発言ですよね?」
アリシア女王が手持ちのカードを全て封じられているのを承知で、敢えてヨシュアは厳しい現実を突き付ける。かつて寄付金騒動でテレサ院長を説き伏せた時にも相手を突き放すような形で憎まれ役を演じたように、一国の最高権力者でもヨシュアの対応に変化はない。
「もし、何のプランも持ち合わせていないのに、単なる私人としての感傷でギルドの遣いに手を引けと仰せなら、どうやらこれ以上ここでだべっていても時間の無駄みたいなので、これで失礼させていだだきます」
リベール国王を前にしての慇懃無礼な物言いの数々に唖然とする一堂の中で、ヨシュアは思い出したように付け加える。
「そうそう、恐らくはエルベ離宮に捕らえられている王太子殿下のことなら何のご心配にも及びません。彼は利己的な私が損得勘定を抜きに動くに値する数少ない大切な友達ですから、こちらの方で勝手にお助けあそばしますので」
「おい、ヨシュア! いくら何でも無礼にも程が…………」
「エステル殿。わたくし達の国主を見縊らないで下さい!」
義妹の非礼を咎めようとしたエステルだが、会談中ずっと口を噤んでいたヒルダ婦人にピシャリと窘められ、「へっ、俺?」と困惑しながら亀のように首を窄める。
「ヨシュア殿のお言葉が何の道理もない単なる感情的な侮辱であるなら、この不躾な小娘の横面をわたくしが引っ叩いておりました。ですが、わたくし達の主(あるじ)はどれほど耳に痛い諫言であれ、理ある忠言から耳朶を背けたことは一度たりともありません」
かつてヨシュアは、身分差に惑わされずに他者の意見を受け入れる度量をクローゼの長所として数えたことがあったが、その姿勢は偉大なる祖母から学んだらしい。
誇らしくヒルダ婦人が宣誓したように、アリシア女王は賢しげな小娘の罵倒に感情を害した風も無く、むしろ優しげな瞳で場を包み込んだ。
「ありがとうございます、ヨシュアさん。クローディアルのことをそこまで想っていただけて。貴方のような良き友人に恵まれただけでも、我が孫は本当に果報者です」
「流石は女王様。テレサ先生クラスの菩薩の領域だな…………って、ヨシュア、お前、何時の間にこの国の皇子とお知り合いになっていたんだよ? グランセル地方に来て一週間も経っていないのに手が早すぎるだろ?」
「この期に及んで、エステル、あなたって本当に大物ね」
「誤魔化すなよ。そもそも、お前が算盤無しで働く友達って、ティオやエリッサ以外にもいたのかよ?」
「失礼な言い草ね。まあ家族は別枠にしても、この旅の間で同性の友人は結構増えたけど、異性は今のところクローディアル殿下一人かしらね」
「おい、色々問題があるオリビエが鴨から昇格できないのは仕方がないにしても、せめてクローゼぐらいはその中に含めてやれよ。ルーアンではあれだけ仲良かったのに、ぽっと出の王子様に負けるなんて可哀相…………俺、何か可笑しなこと言いましたか?」
目の前で繰り広げられた兄妹の漫才劇に、アリシア女王はおろか堅物っぽいヒルダ婦人も必死に笑いを押し殺しているので、エステルは小首を傾げる。
クローゼを挟んだ兄妹の問答は陛下の心の風通しを良くしたようだ。目に溜まった涙を拭き取ったアリシア女王は覚悟を決めた表情で二人に話しかけた。
「エステルさん、ヨシュアさん。あなた達をギルドの窓口と見込んで、改めてリベール王家からクエストを申し入れます」
女王陛下の依頼内容はあくまで王太子殿下の救出のみで、自身は含まなかった。
塩の杭事件で崩壊した旧ノーザンブリア大公国のように、国王が城を捨てて逃げ出しが最後。民の信頼を失い国が崩壊する現実を理解していたからだ。
「思えば今回の簒奪劇はわたくしが甥のデュナンでなく、孫のクローディアルを次期国王に推挙しようとしたのが全ての始まりでした」
馬鹿公爵と聰明で誠実な王太子。
両者の人柄と能力を知る者なら、ほとんど必然の選択ではあるが。他者の思惑に踊らされることなく祖母の平和思想に共感するクローゼは、軍需拡大路線を信奉する大佐にとって傀儡とするには都合が悪い人物像だ。
「リシャール大佐が単なる野心家ではなく、この国の未来を憂いる愛国者なのは疑う余地はありませんが、その遣り方が正しいとも思えないのです」
何も軍備を増強するだけが、国を守る唯一の道ではない。技術交流や経済交流、更には交換留学や現地派遣などの人材交流などを通じて、他国と協調する外交努力を続けるのが大切だとアリシア女王は熱っぽく訴える。
「うんうん、そうだよな。お互いが信じ合わなくっちゃ何も始まらねえよな」
エステルは女王の政治方針に心から同調したが、隣にいる義妹の態度が気になった。
大佐との政軍討論で判明したように、ヨシュアは軍拡論の全てを否定している訳でない。逆に言えば、アリシア女王の理想論に無条件で賛同していないのは明白。
常日頃のようなシニカルな茶々を入れることはないが、実に無感動な瞳で女王の熱弁を聞き流している。「利害打算を伴わない国家間での信頼や協調って、何それ? 食べられるの? 美味しいの?」などと内心で不埒な考えを巡らせているのかもしれない。
◇
「いやー、何ていうか、流石に女王様って貫祿を感じさせる貴婦人だったな」
女王との面会を終え、既定としていた王太子の救出クエストを勝ち得た兄妹は様々な後始末を済ませて、侍女控室から割り当てられた部屋へと戻る最中に思い出話に耽る。
「確かにあれほど『綺麗な人』とは思わなかったわ。けど…………」
アリシア女王の風格を手放しで褒めちぎるエステルと打って変わって、義妹の方は含むところがあり、少しだけ迷った後に素直な心情をカミングアウトする。
「私は少し苦手かな。一国を担う権力者にしては良い人すぎるから」
エステルは居心地悪そうに、ヨシュアの述懐を受け止める。義妹が基本的に同性と折り合いが悪いのは昨日今日に始まったことではないが、自分達が崇める女王が人格者であるのに何の不満があるのだろうか?
「お前、ルーアンでは院長先生の人柄の良さを讃えていなかったっけ?」
「テレサ院長と女王陛下では立場が違いすぎるわよ、エステル」
ぶっちゃければ、テレサはマーシア孤児院の子供らだけを守ればよいお気楽な御身分なので世俗の塵芥に塗れずに清廉潔白な己を維持するのが可能だが、アリシア女王は全てのリベール臣民に責任を負わねばならずに彼女のか細い双肩に王国の未来が託されている。
「昔から清濁併せ呑むのが理想的な君主像とされているけど、あの女性からは異常なくらい影の部分が見出せなかった」
『最大多数の最大幸福』または『大の為に小を切り捨てる』のが基本的な政治の倫理であるが、『小を助ける為に大を危険に晒す』ような危うさを陛下からは感じさせる。
例えば逃げ場のない船上で致死性の疫病が蔓延し、船員が全滅する可能性すらある緊急事態が発生した場合。鉄血宰相と名高いオズボーンならば躊躇うことなく感染者を纏めて処分して被害を最小限に食い止めるだろうが、アリシア女王ならどうするか?
『快晴の空の元では誰もが名キャプテン』という諺があるように、順風満帆の船旅でなくリベール号という名の船が沈む危機を孕んだ大嵐に遭遇した時にこそ、真にアリシア船長の器量が問われるのかもしれない。
「誤解しないで欲しいけど、女王陛下の全てを否定している訳じゃないわよ、エステル。民想いで善良なのは結構なことだし、特に臣下に嫉妬しないのは得難い資質だと私は思っているから」
古代より王宮とは陰謀の温床。武勲目覚ましい者は文官武官を問わずに貶めれるのは日常茶飯事だ。
ましてや、救国の英雄など上位者の保身感覚を最も煽る危険なフレーズ。アリシア女王が猜疑深い暗君なら自らの立場を脅かす反乱予備軍と見做されカシウスなど謀殺されても不思議でなかったりする。
「私の趣味には合わないけど、良心的な君主というのも悪くはない。後は汚れ仕事を引き受ける暗部を抱えていれば完璧で、リシャール大佐も当初はその闇の部分を担当しようとしていたのでしょうね」
今日までの旅路で情報部の特務兵は、単なる諜報活動に留まらない極めて反社会的な破壊工作に準じたのを度々目撃しており、女子供の一般市民に手をあげたことさえある。
それがリベールを救うと信じたが故に心を鬼にして非情に徹してきたのだ。別段、彼らの魂が木石で出来ている訳でないのは、女王宮の番人の黒装束の失態で確認済み。
情報部の凄惨な実状を知った陛下が汚れ仕事の中止、または情報部の解体を示唆したことがリシャール大佐を失望させて、協調し合えば理想的だった聰明な君主と有能な高級軍人との間に決定的な垣根を作った要因なのではとヨシュアは睨んでいる。
「まあ、色々世知辛いお説教をしたけど、私は別に大佐の味方じゃないから。ただ、物事には様々な側面があり、俯瞰的な視点から眺めると今までとは違った光景が見えたりすることを覚えておいて」
多数派(マジョリティ)に迎合するのが国家の論理だとしても、力なき少数派(マイノリティ)を護る為に全力を尽くすのが遊撃士協会(ギルド)の基本理念。これでもヨシュアはギルドに与する遊撃士(ブレイサー)の一員のつもりであると宣言して話を締め括ると、宿泊予定室の扉を開ける。
小難しい上に不快成分が多めに含まれた良薬を処方されたエステルは、煮え湯を飲まされた表情で苦虫を噛み潰すが、部屋の内情を見て唖然とする。
「おいおい、兄貴。一体何をしているんだよ?」
目を閉じ両掌を膝の上に置き、その巨体でミシミシとベッドを軋ませながら一人胡座をかいている。
ベッド上で座禅を組んだジンの奇抜な姿にエステルは目を瞬かせるが返事はない。不安に駆られて肩を揺すろうとしたがヨシュアに止められる。
「触っては駄目よ、エステル。あれは瞑想(メディテーション)しているのだから」
「メディテーション?」
鸚鵡返しして訝しむエステルにジンの本意を解説する。
東方にはあらゆる煩悩を打ち捨てて心身をリラックスさせ治癒効果を高める呼吸法がある。良く観察すると、『養命功』の闘気が武闘家(ウーシュウ)の身体を覆い、体内にも充満している。
「今のジンさんは完全に無意識(トランス)な状態だから、何をされても朝まで目覚めることはないでしょう。頼もしいわね。まだ戦いが終わってないことを悟っていて、真・竜神功で反動をきたした自分の身体をベストコンディションに引き戻すつもりなのよ」
流石はA級遊撃士というべきか、兄妹が何か目的を携えてジンチームに潜り込んだのに薄々気づいていたようだ。女王との会見まで見抜いていたかは不明だが先輩遊撃士らしく最後まで後輩の面倒を見る心積もりらしい。
「そっか、兄貴がついていてくれるなら心強いな」
「ジンさん自慢の鋼の筋肉も今だけは子供が小突いてもダメージを受けるぐらい脆くなっているから気をつけないとね。けど、ここまで無防備な姿を晒されると顔面に落書きしたくなる誘惑に駆られるわね」
水で洗っても落とせない油性ペンを片手に、ワクワクしながらジンの顔を覗き込むヨシュアからエステルは身体を張ってガードする。
万が一の賊の襲撃の他にも義妹の魔の手から瞑想中の兄貴分を守護するのが今夜のエステルに課せられた使命のようで、大事な決戦前に少しだけ寝不足になってしまった。
こうしてリベール王家から『王太子救出作戦』の依頼を任された兄妹はアリシア女王との面談を無事に終わらせて、ラッセル博士から託された『女王陛下への伝言』のクエストをようやく全うした。
だが、終焉のサイクルは王都グランセル全域を舞台とした未曽有の攪乱の始まりの鐘の合図に過ぎなかった。