「君の影、星のように、朝に溶けて消えていくー。行き先を失くしたまま、想いは溢れてくる」
商業都市ボースとの連絡口であるヴェルテ橋の関所とロレント市を結ぶミルヒ街道を、一組の男女が歩いている。ブライト家の名物兄妹、エステルとヨシュア。
自身の倍近い高さの立方体の重そうな荷物を背負ったエステルは、ゼハゼハと息を切らす。反面、ヨシュアは身一つで身軽そう。義兄の恨みがましい視線もどこ吹く風。
「強さにも弱さにも、この心は向き合えたー。君とならどんな明日が来ても、怖くないのに」
T字路に差し掛かる。
『←ヴェルテ橋・関所 ↓パーゼル農園』
立て札にはそう記されていたが、確認するまでもない。二人にとって馴染みの道。進路を南に変更。
野原を結構な数の魔獣が徘徊しているが、何故か兄妹の存在を無視し素通りする。
その秘密は、遊歩道に定期的に配置された街道灯の導力器(オーブメント)にある。オーブメントに組み込まれた幻属性の結晶回路(クオーツ)の迷彩効果で、歩道の真ん中を歩く旅人の姿を魔獣から認識し辛くしている。
「二人歩いた時を、信じていて欲しいー」
背中を老人のように九の字に曲げ、荒縄でギュウギュウに荷造りされた立体物に押し潰されそうなエステルの苦悶する姿に全く頓着せず、ヨシュアは両手を豊満な胸に重ねて歌を奏でる。
よく通る澄みきった歌声が、ミルヒ街道を駆け巡る。音程に合わせる様にヨシュアがクルクルと回転する。腰まで届く黒髪が宙を舞い、太陽の光に乱反射してキラキラと輝く。
甘い蜜のような歌声に誘われて、複数の小鳥がヨシュアの風に靡く黒髪を追い掛けるように飛び回る。鳥と戯れる美しい歌姫。目の前で実に幻想的な光景が展開されているが、義妹に対して最大限バイアスがかかったエステルの眼には、船を沈めるセイレーンの呪いに魅入られた憐れな船乗りの犠牲者の姿にしか映らない。
「真実も嘘もなく、夜が明けて朝が来るー。星空が朝に溶けても、君の輝きはわかるよ」
エステルの穿った観察眼は、満更、錯覚でもなかったらしい。歌声に誘われるのは何も鳥や人だけではない。
赤茶玉蟲と呼ばれる魔獣が、街道灯の効果を振り切って、鋭い歯を唸らせてヨシュアに襲いかかる。次の刹那、ヨシュアは電光石火の早業で虫型の魔獣を解体。エステルの目前に複数の赤茶玉蟲の残骸がボタボタと零れ落ちる。
鳥たちは魔獣の襲来にも、何時の間にか抜刀し再び鞘に納められた双剣の存在にも気づかずに、呑気にヨシュアの黒髪との追っ掛けっこに興じている。
「愛してる、ただそれだけで、二人はいつかまた会えるー」
演奏を終了したヨシュアがスカートの裾を掴んで挨拶すると、鳥たちは満足したように飛び去る。左手で前髪を搔き分け、眩しそうに空高く羽ばたく翼を見送る黒髪の美少女。儚くも美しい光景ではある。
少女の足元に散らばる魔獣の亡骸を無視できるのなら。
「ご機嫌だな、ヨシュア。確か『星の在り処』だっけ?」
もはや荷物の重さをアピールする気力も失せたエステルは、額からダラダラと滴り落ちる汗を拭いながら尋ねてみる。男女の労働均等を訴えるのは別の機会に譲るとして、幼馴染みとの一件が気になるからだ。
「そりゃ、そうよ。だって、久しぶりに心の友に会えるのだもの」
「昨日会ったばかりじゃないか。やっぱり、まだ根に持っていたのかよ?」
「私は日曜学校には通っていないから、ティオとは二週間もご無沙汰よ。ところで根に持つって何? 私はティオとお話しがしたいだけよ」
「だから、それだよ、それ。俺の耳には脅迫としか聞こえな……」
幼馴染みの処遇についてあれこれ問答を重ねている内に、準遊撃士の資格取得試験の目的地、パーゼル農園に辿り着いた。
◇
バーゼル農園は、七耀石を産出するマルガ鉱山と並ぶロレント地方の名産。
主に隣都市のボースマーケットに商品を出荷しているが、良質で美味の野菜や果物を作ると国内でも専らの評判。エステルの幼馴染みの一人エリッサの実家、『居酒屋アーベント』のように直接農園と契約して野菜を仕入れている飲食業者は多い。
今回の依頼に紐解く迄もなく、パーゼル農園の歴史は外敵との戦い。広範囲に渡る肥沃した土地確保の必然性から、安全な市の城塞内に農場を構える訳にもいかず。家族経営という人数の都合で、農作物はおろか、時には住民の生命そのものが脅かされてきた。
十数年前にアリシア女王から寄贈された、街道灯と同効果を持つ灯柱が農園を覆うように配備されたことにより、魔獣襲来という長い間続いた悪夢から開放された筈だった。
しかし、経緯は不明ながら再び魔獣が出没した。
農園の平和を守る為、純武力的には既に正遊撃士相応の力量を備えたブライト家の兄妹が派遣されてきたが、現在エステルが着手しているのは、戦闘でも見回りでもなく単なる農作業。
「済まんな、エステル。ここ数日、魔獣の対応に追われて、出荷が滞っているんだ」
ティオの父親で農主のフランツが申し訳なさそうに頭を下げる。
本日中に配送しなければいけない野菜があるが、収穫が全く追いついておらず、妻娘共々一家総出で刈り入れ作業をしている最中。農園に着き、事情を悟ったエステルは、荷物(※中身はエステルも知らない)を倉庫に放り込むと、真っ先に助っ人を買って出た。
元々身体を動かす仕事が大好きで、パーゼル一家とは幾度となく農業を手伝ってきたご近所さんの仲。
エステルとは逆に、力仕事と汚れ作業が苦手なヨシュアは、ハンナ婦人から末の双子の世話と夕飯の支度を頼まれたら、渡りに舟とばかりにウィルとチェルに両手を引かれて家屋に消えていく。
まずは、ヨシュアをティオから引き離そうとしたエステルの作戦は成功した。
「そっか、また駄目だったんだ」
ティオとエステルの二人は、収穫作業に勤しむ傍ら、ヨシュア対策の密談を行う。
「けど、常に冷静沈着が売りのヨシュアが、あんな揺さぶりで動揺するとは意外だったな。町の男連中からチヤホヤされているみたいだけど、意外と告白されたのは初めてなのか?」
「ちっちっち、そんな訳ないでしょ、お兄ちゃん」
私服のスカート姿に土で汚れた作業用の大型エプロンを纏ったティオは、大胆な大股開きで踏ん張って、地面から一気に複数のさつま芋のツルを引き抜く。
「容姿端麗、頭脳明晰、料理も裁縫もプロ級で、性格もお上品でおしとやか(※単なる猫被りですけど)と、まさに大和撫子を体現したような存在だけど、殿方の庇護欲をくすぐる術を知り尽くしているから、スペック程に高嶺の花を感じさせないヨシュアを狙っている男の人は多いわよ。告白して玉砕した男性は数知れず、中には結婚前提でプロポーズした兵もいるとかいないとか。ちなみにソースは『クルーセちゃん通信』ね」
「クルーセちゃん通信って、・・・ああっ、あのませガキか」
義妹のハイスペック振りについてはウンザリする程思い知らされているので、今更説明されるまでもない。彼女の親友讃歌に適当に相槌を打ちながらも、エステルの視線は体育座りしたティオの無防備なデルタゾーンに注がれていた。
(ちっ、やっぱりスパッツを履いてガードしてやがるのか……って、いけね。ガキの遊戯(スカート捲り)は、もう卒業しただろ?)
エステルは煩悩を打ち払うように軽く頭を振ると、邪な想いを気取られる前に視線を顔の方に固定する。
ティオと目が合う。頬杖した少女は、エステルの目線に気付くとにっこり微笑む。
ヨシュアと同じ黒髪ながら、やや色艶に欠ける。潤いが足りない素肌も、ボサボサでショートの髪の毛も泥まみれで、万人受けする義妹の美貌に比べたら、お世辞にも垢抜けているとは言い難い。それでも、こういう素朴で健康的な明るい田舎娘にも、ヨシュアのような都会の薔薇とは趣の異なる魅力があるのだと心中で擁護する。
「告白慣れしているなら、どうして、ヨシュアはあんな策で、隙を見せたんだ?」
「ちょっと、エステル。それ、本気で言っているの?」
照れ隠しに囁かれたその一言は、少年の幼馴染みに最大限の衝撃を与えた。
「ニブチンなのは重々承知していたけど、いい加減、犯罪の域に達してない? 動揺するか否かは、告白された相手によるものでしょう?」
「告白された相手? なんじゃそりゃ?」
卵から孵ったばかりの雛鳥のような無垢な瞳で、質問を鸚鵡返しするエステルの姿に、ティオは頭を搔きむしる。
「はあー、ブレイサーってこんなお馬鹿に務まる脳筋な職業なわけ? あーっ、もう、じれったい。それは、ヨシュアがエステルを……ひきゃあー!」
突然、ティオは素っ頓狂な悲鳴を上げる。何時の間に真後ろに忍びいっていたヨシュアが、彼女の背中の性感帯に合わせて、指をツイっと這わせたからだ。
「ヨシュア、何時からいたの? まるで、気配がしなかったんだけど?」
「人知れず背後を取るのは、私の七十七の特技の一つ。知っているでしょう?」
「ウィルとチェルの世話をしていた筈では?」
「二人は仲良くお昼寝中よ。あの年頃の子は身体を動かす遊びよりも、頭を使う運動をさせた方が疲れるのが早いわよ」
「そんな、あの二人を寝かしつけるのに私は何時も苦労しているのに、こんな短時間で……」
子守の技量も、七十七の特技に含まれるのだろうか?
尚、ヨシュアの多芸振りを最も熟知しているエステルも、四十ぐらいしか把握していないので、残りの半数近いスキルの正体は謎だ。
「とりあえず、栄養ドリンクを作ってきたからここに置いておくわね。私はこれから夕飯の準備をしなければいけないから、これで失礼するわ」
それだけを伝え、町の男衆はまず見られないレア表情のジト目で二人を睨み付けると、忍者のように忽然と消失する。跡には予告通り人数分のペットボトルだけが残されていた。
「ヨシュアの奴、少し虫の居所が悪かったみたいだが、気のせいか? で、ヨシュアが俺をどうしたって、ティオ?」
「えっ? 私、そんなこと、言ったっけ? あははははっ」
例の件には一言も触れなかったが、ヨシュアが釘を刺しにきたのは明白。彼女との友情と何よりも己が身の安全の為、ティオは自分でも不自然だと感じる愛想笑いで空素っ惚けることにした。
ストローをちゅうゅう吸い込みながら飲料を一気飲みしたエステルは、幼馴染みの豹変に違和感を覚えただろうが、生来の気質に応じてあまり深くは考えないことにした模様。与太話で潰した仕事の遅れを取り戻すべく、二人は農作業に集中する。
◇
「ふうっ、何とか間に合いそうだな。本当に助かったよ、エステル」
人海戦術の甲斐あり、日が完全に落ち周辺が真っ暗になった頃、ようやく作業が一段落した。ただ、朝一までに隣のボース市に商品を送り届けねばならず、フランツは夕飯を取る間もなく、荷台一杯に収穫した野菜を詰め込んだトラックのエンジンを始動させる。
「お弁当を作っておきました。運転の邪魔にならないよう、食べ易く工夫してみたので、良かったら」
「ありがとう、ヨシュア。ブライト家の人達には何時も世話になりっぱなしだな。いつか、この借りを返せる時が来るといいのだが」
「借りだなんて、水臭いこと言わないで下さい。私たちは家族みたいなものじゃないですか」
フランツは運転席の車窓から、実の娘を慈しむような温かい表情で、ヨシュアの頭を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす黒猫のような可愛らしい仕種で、ヨシュアは目を細める。
「ティオが男の子だったら、ヨシュアに嫁に。いや、ウィルとの年の差カップルもまた」
無邪気な感想を漏らすハンナ婦人とは逆に、黒髪の魔女の正体を知る二人は、苦笑いしながら互いに目配せする。
「あの気配りと愛嬌が、男心を擽る秘訣とかいう奴か? けど、ああいう異性に媚びるような真似ばかりしていると、同性から嫌われないか?」
「当然、浮きまくっているわよ。まあ、私も女だから、ヨシュアに嫉妬する気持ちは良く判るけどね。というか、私も昔はヨシュアのこと大嫌いだったから」
◇
ヨシュアが夕飯に持て成した、新鮮な野菜をふんだんに使った大皿料理は、余人全てを唸らせる会心の出来栄えだった。農園でご馳走になる都度、苦労して編み出したレシピを完璧に盗み、忠実に味付けを再現する味覚センスには、料理自慢のハンナ婦人も白旗を上げるしかない。
「いやぁ~、本当にヨシュアは俺の自慢の可愛い義妹だよな」
シチューを五杯もお代わりして満腹になったエステルは、満足そうに左手でお腹を摩り、余った右手でヨシュアの黒髪をナデナデする。人間の三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲)に極めて忠実なエステルは普段はヨシュアの粗探しばかりしている分際で、恩恵を授かった時だけは実に調子が良い。
ヨシュアは「褒めても何も出ないわよ」と憎まれ口を叩きながらも、頬に赤みが射している。ただ、正面に座っているティオがニヤニヤしながらこちらを眺めているのに勘づいて、慌ててエステルの手を払った。
やがて眠りの妖精が魔法の粉を撒き散らしたかのように、パーゼル一家の四人は机の上に伏したまま深い眠りに墜ちていく。食後のハーブティーにヨシュアが一服盛ったらしい。魔獣騒ぎによる連日の睡眠不足に加え、今日一日中、野良仕事でクタクタに疲れているので、ゆっくり休んでもらった方が良いという判断だ。
「確かにこれからのドンチャン騒ぎに巻き込んで起こしても悪いからな。なら一緒にパトロールに行くとするか、ヨシュア」
「ええ、いってらっしゃい、エステル」
「いってらっしゃい?」
「忘れたの? 私はシェラさんから極力手を出さないように厳命されているから、家の中でエステルの仕事ぶりを、高みの見物……いえ、暖かく見守らせてもらうわ。はい、スーパー生姜紅茶。フランツさんに持たせたのと同じで身体の芯から温まる上に、脳が活性化して眠気が一気に覚めるわよ」
満面の笑みで懐中電灯と魔法瓶を手渡されて、バタンと扉が閉ざされる。ピューと吹く北風が、エステルの身体と、何よりも心を寒くする。
「あんにゃろめ。何時も要領よく、一人だけ楽しやがって。やっぱり、あいつは可愛くねえ義妹だ」
先とは掌返して、ヨシュアを毒づきながら、エステルは一人孤独に、闇に包まれた極寒の農園をうろつく羽目になった。