キンコンカンコン。
学舎独特のチャイムが校舎内に鳴り響き、学園生活二日目の一時限目の授業が終了した。三人の遅刻男性はようやく罰ゲームから解放され、表面張力ギリギリまで水を溜め込んだバケツを地面に下ろす。
クローゼとハンスは両腕を痺れさせて、互いの肘の部分をマッサージし合うが、体力自慢のエステルはこの程度の負荷で堪える筈もない。三人分の六個のバケツを悠々とお手玉しながら、中に溜まった水道水を捨てに洗面所に足を運ぶ。
ずば抜けた膂力に加えて並みはずれた平衡感覚を持つエステルは、バケツの水を頭から被るお約束のボケをかますことなく目的地に辿り着く。空になったバケツを用具入れに仕舞い込むと、憂鬱そうに溜息を吐く。
教室に戻って二時限目の授業が始まれば、また精神的拷問が始まる。これならバケツを一ダース抱えて、一日中でも立ち惚けていた方がマシだ。
エレボニアの諸々の高等学校と比較しても高い偏差値を誇るジェニス王立学園に、義務教育レベルの学歴者が編入するのにそもそも無理があるので、授業内容を理解できないのは別段エステルの責任ではない。
その日曜学校の成績もあまり宜しくなかったというかほとんど寝て過ごし、講師役のデバイン教区長からしょっちゅうチョークを投げつけられていたのは目を瞑るとして。
「やれやれ、俺たちは芝居の助っ人に参戦したんであって、勉強しに来た訳じゃねえだろうが。十八番の授業中の居眠りはヨシュアに禁止されてるし。あれっ、そのヨシュアはどこにいったんだ?」
教室の前扉を開くと、ヨシュアどころかクラスの女子全員が不在。残った男子生徒は、大急ぎで制服を脱ぎ始める。
「次の体育の授業に備えて、女子生徒は更衣室に着替えに行ったんですよ、エステル君。
はい、これが君の分の体操服です」
Yシャツを脱いで上半身裸になったクローゼは、購買部で購入したばかりのLLサイズの新品を手渡す。透明袋の中には白のTシャツと青の短パンがセットで入ってる。
「体育って、確か球技や陸上みたいな身体を動かすスポーツのことだよな?」
「ええっ、そうですけど。あと靴は下駄箱に置いてあるストレガー社のスニーカーで」
「よっしゃあー!」
突如覚醒したエステルは、魔獣の咆哮のような雄叫びでクローゼの説明を遮る。闘気を全面解放して、着替え中の生徒をびびらせる。
まさに地獄に仏。ついにエステルが主役になれる日が到来した。既に色んな意味で王立学園の立役者となっている気もするが。
「体育ー、体育ー」
陽気な鼻唄を口ずんで、大慌てで制服を脱ぎ散らかす。勢い余ってトランクスまで降ろした所で、クローゼが注意を促す。
「エステル君、今日は水泳の授業じゃないので、下着まで脱ぐ必要は」
ガラッ……。
「ふーう、教室に忘れ物をしてしまいましたわ」
「フラッセ、今の時間はまだ男子が着替えている筈では?」
「お黙りなさい、レイナ。初なネンネじゃあるまいし。殿方の半裸なんて、水着と大して変わらな……いっ、いやぁー!」
「これは、これは、結構なモノをお持ちのようで」
教室での不幸な突発事故により、フラッセという女生徒が目眩を起こし倒れ込み保健室へと運ばれ、お付きのレイナが授業を休んで看病する次第となる。
またエステル伝説の新たな一ページが加速したが、今回ばかりはエステルに非はないだろう、多分。
◇
「あの姉ちゃん、何で気絶したんだ? 貧血か何かだとしたら、鉄分やカルシウムが足りてないんじゃないか?」
体操着に着替えたエステルは、グランド中央で膝をへの字に曲げて屈伸運動を行いながら、教室での逆ラッキースケベ現象を反芻したが答えは出てこない。
「朝礼でのコリンズ学園長の長話で卒倒した児童じゃあるまいし、エステルの裸を見たからに決まっているだろう」
ハンスが若干オブラートに包みながら、呆れたように真実を指摘するも、ますます困惑の度を深める。
「おいおい、異性の裸体なんてどちらも見慣れたもんだろうよ。十二歳までは日曜学校でも男女一緒に着替えていたし、ティオやエリッサと一緒に十歳まで川や湖で素っ裸で水浴びしたもんだしな」
更なる田舎のジェンダーフリーを暴露。初潮前の幼少期の微笑ましいスキンシップとはいえ、己と無縁の青春を謳歌したエステルにハンスは地団駄踏んで悔しがる。
「ハンス、いい加減に一々羨ましがるのは」
「ヨシュアとは十三歳まで一緒に風呂に入ったっけ? 今でこそボインボインだけど、それまで本当に洗濯板だったからな、あいつ」
ハンスを窘めようとしたクローゼは、エステルのさらなる告白にピクリと眉を動かす。
「そうか、そうか。メス共は、おっぱいが膨らみ始める頃から、ヤローの視線を意識して、裸を見られるのに抵抗を感じるわけか」
カラカラ笑いながら、両手を胸に当てて架空の二つの膨らみを、恒例のやらしい手つきでにぎにぎする。一瞬、狼狽しかけたクローゼは、辛うじてポーカーフェイスを維持して体面を保とうとしたが、左手が禁断症状のようにブルブル震えていた。
「女三人寄れば姦しいというけど、さっきから男が三人揃って何を喧しっているのやら」
「どうせHな話題に決まっているわよ、ジル。エステルの頭の中には、それしかないのだから」
聞き慣れた声色での馴染みの嫌味節。以前と似たパターンにエステルが振り返ると、やはり体操着に着替えた我が義妹がジルと連れ立って出現する。
再びエステルが生真面目な表情でヨシュアを見下ろすが、前回で懲りたのだろう。何の期待もせずに、授業の邪魔にならないように長い黒髪をゴムで束ねるが、次の一言は少女の合理的な思考フレームを以てしても想定外。
「何だ、ジェニス王立学園の女子は、パンツで体育をするのかよ?」
「なっ?」
思わず赤面する。ヨシュアに限らず、隣にいるジル他、女子生徒は全員、上半身は男子と同じ白のTシャツだが、下腹部は短パンと異なる。太股を100%露出させた黒のショーツを履いて、お尻のラインがくっきりと浮かび上がる。
「ブルマぁを知らないのか、君はー? エステルー、お前は人生の半分を損してきたぞ!」
先の闘気が霞むような凄まじい剣幕で己が半生を否定したハンスのえも言わぬ迫力に、エステルはたじたじになる。
「ふっ、田舎のいちゃいちゃパラダイスも騙るに落ちたな。所詮ブルマのない生活など、論ずるに足らず」
「さっきから、ブルマ、ブルマって、何だよ、それは? あれはセクシーな黒下着じゃないのかよ?」
「そっちこそ、パンツ、パンツって馬鹿みたいに連呼しないでよ、エステル。本当にパンツ一丁で授業を受けている気分になって、恥ずかしくなるじゃないの」
エステルはジロジロと義妹の体操着姿を視姦する。ヨシュアは顔を真っ赤に染めながらシャツを縦に伸ばしてブルマを隠そうとしたが、その行為は一段と周りの男子生徒の劣情を煽る結果にしかならず、ますます縮こまって地面にしゃがみ込む。
「これがブルマとやらの持つ魔力か? クラブハウスでスカートを捲られてもまるで動じなかったヨシュアが照れてやがる。よっしゃ、日頃の怨みを晴らす絶好のチャンス。穴があくまで、お前のブルマ姿を目に焼き付けて」
「止めろぉー、ブルマを露骨な厭らしい目で見るなぁー! 廃絶されてしまうだろうがー!」
人としての器が知れる実に情けない遣り口で復讐鬼と化したエステルに、ハンスが血走った目で詰め寄る。その異常なまでの気迫に、魔獣相手に後退経験のないエステルをして反射的に後ずさりさせる。
ブルマとは、エレボニアを発祥とする女性専用の体操着。そのショーツ型の形状は極めて軽量かつ機能的で、どんな動きに対しても身体に密着し、運動性能は申し分ない。帝国内の全ての教育機関で着衣を義務づけていた時期もあった。
問題となったのは性能面以外、パンツ然とした独特の形状から、一部というよりはかなりの数の男性の好事家から性的フェティシズムの対象となったこと。ブルマの盗撮や窃盗等の事件が相次ぎ、被害者となった女子生徒を中心に『ブルマ廃止運動』が帝国各地で巻き起こる流れとなる。
結果、女子の体操着は男女共に短パンに統一される。開闢の地エレボニア帝国でブルマが姿を消し、リベール王国やレミフェリア公国などの他の小国にのみ細々と語り継がれるという皮肉な顛末となる。
そのリベールでさえも、ブルマ廃止運動の気運が王国を席巻し、絶滅の危機に瀕した。反対運動リーダーの当時の副会長ルーシー・セイランドと真っ向から対立した時の生徒会長レクター・アランドールが、多くの署名を集めてアリシア女王への直談判に持ち込むのに成功する。
「古きが新しきに取って替わられるのは時代の流れかもしれませんが、小国ぐらい大国が捨ててしまった古き伝統を大事にしていきたいものですね」
若人の熱い情熱を肌で感じ取った寛大な陛下は、目茶苦茶良い台詞ながらもどこか微妙に論点がずれた結論を出して女性側の訴えを退け、王立学園は女子生徒のブルマの着用を義務づけて今日までに至る。
「ああっ、偉大なるアリシア女王陛下よ。この世界にブルマを残してくだされたかつてのあなたの英断に敬意を表し、自分がリベール臣民であることを心から誇りに思います」
「はははっ」
キラキラと瞳を輝かせながら、片膝をついて両掌を胸元に置く最高礼のポーズを王都のグランセル城の方角に向かって捧げるハンスの姿に、「こんなしょーもないことで感謝されても、お祖母様は嬉しくないだろうな」とクローゼは乾いた笑いを浮かべる。
「裏切り者の分際で、何他人事みたいなしたり顔しているんだよ、クローゼ? 本来ならお前にヨシュアちゃんのブルマ姿を愛でる資格はないんだが、罪を憎んで人を憎まずが陛下の教えだからな」
かつて賛成派と反対派で、男女が真っ二つに別れたブルマ廃止運動。その中で男子生徒で唯一人、女子の味方をしたのがフェミニストのクローゼ。当時はユダ扱いされたものだ。
クローゼの立場からすれば、間違ってもハンス達のような、『ブルマ廃止反対』とか書かれた鉢巻きを頭に巻いた自分の姿を王宮に晒すわけにはいかず、選択の余地はない。実際にハンスは例の鉢巻き姿の写真をリベール通信の社会欄に掲載されて、危うく王都にある実家から勘当されそうになったし。
「そりゃ、女子が恥ずかしがっている格好を、無理やり押し付けるのは、男児としては」
「もし、反対運動側が勝利して女子のユニフォームが短パンにすり替わっていたら、ヨシュアちゃんのブルマ姿も拝めなかったわけだぞ?」
そのハンスの言葉にクローゼは、羞恥に震えるヨシュアの姿をマジマシと眺める。
冷然とした通常時と異なる魅力を発散し、何よりも普段のミニスカ姿が大人し目に錯覚するぐらい白い太股をダイレクトに露出させたブルマの魔性の脚線美に、クローゼの頬が真っ赤に染まる。
「すいません、ハンス君。僕が間違っていました」
「もうっ、クローゼまで」
あっさりと前言を翻して自身の過ちを認めて頭を下げたクローゼに、「ブルータス、あなたもなの」という諦観した表情で、ヨシュアは右手で掴んだシャツでブルマ隠しを持続しながら左手を高く振り上げ抗議する。
「いやー、最近良い感じにクローゼ君のキャラが壊れ始めてきたわね。これも君ら兄妹の影響かしらね、エステルお兄ちゃん」
カモメカモメのように欲情した男子生徒に取り囲まれて、「ヘルプ・ミー」と救助を求めるヨシュアを非情にもぼぉーっと見殺していたエステルに、ジルが声をかける。
入学当初のクローゼは花崗岩のように他人を寄せつけないオーラを発散しまくっており、ハンスやレクター前生徒会長との交流で少しずつ態度を軟化させたが、それでもジルからすれば未だに肩肘張った部分が抜け切らない。
「クールなクローゼ君も悪くないけど、こういう変化なら私は大歓迎よ。リベールの将来の為にもね」
なぜ、クローゼの人格形成がこの国の未来に関わるのかエステルは訝しむが、ジルはその疑問に答えることなく逆に質問する。
「ねえ、エステル君。あなたの義妹さんは何者なの?」
形だけの編入試験を担当したミリア先生から聞いたところ、エステルは全教科零点の偉業を達成したが、ヨシュアは入試に換算しても歴代五指に入る好成績で余裕で合格ラインをぶっ千切っていた。
「悪いけど、それには答えようがないな。我家で取り決めたルールで、あいつが養女になる前の過去は聞かないことにしているからさ」
エステルは頭を振る。ヨシュアの利発さは既に承知していたが、まさか高等数学とかを扱う王立学園に素で合格できる学力を保持していたとは驚き。今ならロレントで日曜学校を全てボイコットした横柄な態度にも合点がいく。協調性がないと罵られ同年代の子女から隔離を抱かれる要因になろうとも、義務課程の授業など馬鹿らしくて参加する気にはなれなかったのだ。
「ふーん、色々あるみたいね、君たちも」
ジルは眼鏡の縁をキラリと光らせる。好奇心旺盛な彼女はブライト兄妹の禁断の秘密に興味をそそられた。現在ヨシュアは女子寮でジルの部屋を間借りしているので、今夜あたり質問責めに遇うだろう。
「逆に聞くけど、ジルはヨシュアと付き合うのに抵抗ないのか?」
「どうして? 態々敵にまわすよりも、味方につけた方がどう考えてもお得じゃん?」
むしろジルの方が不思議そうに鸚鵡返しする。彼女自身、王立学園ではクローゼと首席を争う並ぶ者ない才女だが、腹黒完璧超人を相手に無駄に張り合うよりも即効で白旗を揚げる道をチョイスした。
同性と折り合いが悪いとされるヨシュアであるが、実際には思春期の少女たちからの嫉妬を一身に搔き集めているだけ。ティオの母親のハンナ夫人のような出産経験のあるおばさんや同郷のユニや孤児院のマリィやポリィのようなお子様には懐かれており、結局は受け取る側の女性の器量の問題なのかもしれない。
「お前ら、何時までくっちゃべっているんだ? そろそろ二時間目の体育の授業を始めるぞ」
ジャージに身を包んだエフォード先生がピーッと笛を吹いたので、生徒は慌てて男女別に整列し、ヨシュアはようやく男子の輪から解放された。
身長順に『前へならえ』した結果、ヨシュアは女子列の最前列で両手を腰に当て、エステルは男子列の最後尾から両手を前へ翳して、全員を見渡せる好位置を確保したが、チビのヨシュアの後ろ姿は列の中に埋没して確認できなかった。
「あれっ、そういえばハンスはどこにいったんだ?」
まずは準備運動前のランニングに、グランド十週を申しつけられる。エステルはクローゼと並走してトップの位置をキープしていたが、何時の間に雲隠れしたもう一人の悪友の不在に小首を傾げる。
「ハンスなら、さっき急な腹痛を起こしたとかで、保健室に駆け込んで行きましたよ」
「はあ? 今のあいつなら、トラックと正面衝突したって休まねえだろ?」
「僕もそう思いますが、何か怪しい気配がしますね」
彼が愛したブルマ女子がこれほどゴロゴロしている中、週に二度しかない貴重な体育の授業をハライタ如きでリタイアしたことを訝しむ。
◇
「ふっふっふっ、黒髪天使という、ルーシー先輩以来の逸材が学舎に来ているこの千載一遇の好機。授業なんか受けてる場合じゃないっての」
先のエステル達の疑惑は正しい。校舎の屋上から、一眼レフカメラを構えたハンスが、ビューの部分をカメレオンの舌のように前方に伸ばし、ファインダーにヨシュアの姿を納める。
このカメラは『ポチ君プロトタイプ』という愛称で、王都で仲が良かった天然お姉さんからジェニス学園入学の餞別として貰い受けた逸品。彼女がアマチュア時代にずっと愛用していたかなりの年代物だ。
そのお姉さんは去年、リベール通信社の専属カメラマンの座を目指して入社試験を受けたみたいだが、撮影技術は紛れもなく天才だが一般常識ゼロのあの人のこと。試験に落とされて泣きべそ掻いたりしてないか心配だ。
色々ノスタルジーに浸りながら、ハンスはかつて金髪天使を撮影したきり、ロッカーの中に死蔵させていた骨董品を発掘し、ヨシュアのブルマ姿をカメラに納め続ける。言う迄もなくこれは盗撮という犯罪行為で、愛好家のこのような行き過ぎた振る舞いが自然とブルマを衰退へと追いやった。
海で遭難したペットの犬が、己の命綱の浮輪に噛みついて穴を空けるが如きの自滅行動をハンスは弁えてはいたが、あの美しいブルマ少女の姿を写真として永遠に保存し、後世の世に伝えずして何が芸術か。発覚時のブルマ廃絶のリスクを全て承知した上で、それでもこの愚挙に殉ずる覚悟で彼のブルマへの熱い想いは虚仮でなく本物。
ヨシュアやルーシーのような一部の美貌の女子生徒にとっては、単に迷惑なだけの話だが。
◇
校庭を十周して温まった生徒達は、二人一組になって身体をほぐす準備運動を行う。各種ストレッチ体操で程よく関節を伸ばす。
エステルと組んだクローゼは互いに背中合わせになって、両肘をフックのように引っ掛けあって、まずはエステルの身体を持ち上げる。
「きゃん!」
体脂肪率が10%を切るエステルの筋肉の重さにクローゼがふらつけかけた刹那、可愛らしい悲鳴が聞こえ、数瞬先のクローゼの未来を先取りしたかのような現象が女子のペアで発生する。
ヨシュアがジルの体重を支えきれずに押し潰された模様。ブルマ姿の二人の少女が、くんずほぐれつしている格好はかなり見応えがあり、屋上のハンスも極上のシャッターチャンスにさぞかし興奮しているだろう。
「お、重い。早く降りてよ、ジルぅー」
「重いって、失礼ね。これでもダイエットに成功したばかりなのよ。私がブレイサーにも背負えない程のデブだと主張したいわけ、ヨシュアは?」
「いいから早く退いてよ、ジル。本当に苦しいー」
背中の上でじたばた暴れるジルに、ヨシュアは顔を真っ青にして苦痛を訴える。
「あのー、エステル君。あれも君が言う所の猫被りという奴ですか?」
「いや、今のは素で潰されたんだろ。ヨシュアは箸より、もとい双剣より重いものを持ったことがないからな」
今度は逆にクローゼを軽々と担ぎ上げたエステルが、「あの体力のなさは、ブレイサーとしてどうかと思うけどな」と深窓のお嬢様振りに苦言を呈する。
理(ことわり)を用いれば、己の倍近い体重のエステルを楽々投げ飛ばせるヨシュアが、純粋な筋力では女子の標準体のジルすら持ち堪えられないとはまた皮肉である。
準備運動が終わった生徒らは本日のお題のドッチボールを行う為に、ライン引きを使って石灰で白線を引き二つのコートを作成する。
男性側のコートでは当然のように豪腕のエステルが猛威を振るう。次々と敵側の男子生徒を失神させ保健室送りにし、クローゼは彼と同じチームになった幸運に心から感謝する。
「きゃっ」
一方、女子側のコートでは内野のヨシュアが豊満な乳房にボールをぶつけられて、ぽよよんと胸部を弾ませながら派手に尻餅をつく。
「てへへっ、当てられちゃった」
地面にへたり込み、ペロリと舌を出しながらヨシュアは軽く頭を掻く。「おおーっ!」と野郎共の喜声が上がり、女生徒を苛つかせる中、呼吸するように猫被りに擬態せずにはいられない憐れな習性をエステルは冷ややかな目で見守る。
ドッチボール自体は、ガキの定番遊戯なので、ロレントでも街中の少年少女と仲良く遊んで無双したものだが、ヨシュアにだけはボールを当てられた試しがない。
逆にヨシュアの側にもエステルをヒットさせる速球を投げ込む腕力がないので、千日手のように勝負は膠着して引き分けで終わったが、ヨシュアは同性相手に真面目に授業に取り組むよりも殿方への点数稼ぎに走ることにしたようだ。
「まあ、好きなようにやれば良いさ。こっちは真っ当に楽しませてもらうとするからさ」
この機会に学園生活というよりは、授業で溜まったフラストレーションを纏めて解消させる腹づもり。勢い余って敵どころか、捕球し損ねた外野の味方まで保健室送りにしてしまう。
ワンサイドゲームで現在の対戦に決着がつく。今度は級友とチームを違えることになるが、クローゼが指揮するチームは延々と内野と外野でパスを繋ぎ合うだけで攻めようとしない。
エステルにボールを持たせない持久作戦。短気なエステルは見事に策略に引っ掛かり、無理にボールを奪いに詰め寄った途端、至近距離からクローゼに顔面にボールをぶつけられアウトとなり、内野から外野に配置替えされる。
暴走機関車の脅威が去って安堵したのも束の間、外野からでも攻撃可能なルールを失念していたクローゼチームは、エステルの遠距離スナイプに次々と餌食になる。九十分授業の二時限目終了のチャイムが鳴ってお昼休みに突入した時には、辛うじて逃げ切りに成功したクローゼ以外の男子生徒が敵味方の区別なく死屍累々と地面に横たわっていた。
◇
「って、何だよ。こりゃ?」
撮影に区切りをつけ、アリバイ作りに保健室に顔を出したハンスは、受付を兼任している保険医のファウナから治療を受ける男子生徒の長蛇の列に唖然とする。
ドッチボールの女子コート(というよりはヨシュア)をひたすらファインダーで追い続けていたハンスは、男子コートの惨状を知らなかった。
カーテン奥のベッドの上では、「ピンクの象さんが」とフラッセがうーん、うーんと唸りながら寝込んでいる。付き添いのレイナが彼女の手を強く握りながら、「本当にお子様ですね、フラッセは」と以前の家出騒動でエジルと名乗った遊撃士に助けられてから、まるで成長していない未来の主人兼永遠の友に嘆息する。
男子も女子も全てエステルの物理あるいは精神的な被害を被った犠牲者で、癌細胞のようにエステル伝説が流布する程、真面目な生徒が受ける悪影響が懸念される。まあ、学園の影の最高権力者の現生徒会長がやたらとエステルを贔屓にしている以上、学園祭までの間の身分は安泰であろう。
◇
「一体、どうなっているんだよ。こりゃ?」
昨年人数不足で廃部になった写真部の旧部室で、ハンスは先に似た素っ頓狂な声を上げる。
フェンシング部の部長でありながら旧写真部の幽霊部員のハンスは、昼休みを丸々潰し遮光カーテンで暗室にした仕事場で現像作業を行ったが、現像液で浸したフィルムを取り出し、定着、水洗い終了後、速効で乾かした所、出来上がった写真にはなぜかヨシュアの姿だけが奇麗に抜け落ちている不可解な怪奇現象に遭遇。
黒髪少女を中心に撮影したのに、ジル他の女子生徒のブルマ姿はきっちり納められているのに、どうした訳かヨシュアの存在だけかまるで彼女が最初からこの世界に実在しなかったが如くぽっかりと写真の中から抹消され、ハンスはガタガタと膝を震えさせる。
「これって、もしかして心霊写真っていう奴か? だとしたら、まさか、ヨシュアちゃんの正体は幽……」
何時の間にやら、きっちりと鍵を締めた筈の室内に長い黒髪を靡かせたブルマ少女が侵入し、トントンとハンスの肩を叩く。
髪の毛をメデューサのように逆立てさせて、暗闇の中に爛々とした二つの真っ赤な瞳が浮かび上がる様は実にホラー。振り返ったハンスの顔が恐怖と絶望に彩られ、断末魔の悲鳴が校舎に響きわたる。
その黒髪の幽霊がハンスがこの世で見た最後のブルマである。その後、ハンスがどうなったのかは誰も知らない。