「ただいま、×××お姉ちゃん」
「おかりなさい、ヨシュア。随分と早かったのね。刺繍教室はどうしたの?」
「先生にこれ見せたら、もうこないでいいって言われた」
「あらっ、これに刺繍された顔は、私と○ー○。よね。まるで写真そのものみたいに精巧で、なんか照れちゃうわ。これって、もしかしてヨシュアが作ったの?」
「うん」
「ちょっと大人気ないけど、先生さんの気持ちも判るかな」
「ねえ、×××お姉ちゃん。ヨシュア、何かいけないことしたの?」
「ううん、決してヨシュアが悪いわけじゃないのよ。ただ、ヨシュアが物事に真面目に取り組むと困る人たちが結構いるの」
「それって、ヨシュアが缶蹴りの仲間に入れてもらえないのと関係あるの? お前が入るとつまんなくなるって、男の子たちが意地悪言うの」
「そうね、世の中は適度なバランスで成り立っていて、そこから大きく逸脱した存在を、人間の集団は爪弾く性質があるのよ」
「ふぇ?」
「ヨシュアは小さいから実感沸かないと思うけど、時には『出来ること』でも『出来ない振り』をして相手の顔を立ててあげることも必要なの」
「うーん、ヨシュア、さっぱり分かんなーい」
「おーい、×××、ヨシュア。今戻ったぞ」
「あっ、○―○。、お帰りなさい」
「あらあら、行っちゃった。どれだけ○―○。のことが好きなのだか、才走ってもまだまだお子様ね。まだ五歳の妹にこんな心配は杞憂なのだろうけど、何時かあなたの本気を知っても、逃げずに正面から受け止めてくれる男の子に出会えたらいいわね、ヨシュア」
◇
「…………んっ、ここは?」
綺麗な睫毛が微動し、うっすらとヨシュアの目が開く。琥珀色の瞳は灰色に濁り、焦点がぼやける。まだ頭がぼーっとして思考が定まらないが、何か、とても懐かしい夢を見ていたような気がした。
先程から自分の身体が、上下に小刻みに振動している。階段を昇っているみたいだが、自分の足は地についておらず、良く観察すると誰かに背負われている。接地した上半身の前半分に暖かい人の温もりを覚える。
彼女の逞しい義弟ではなさそうだ。肩幅はエステルよりも狭く筋肉のつきも薄いが、それでも贅肉はなくスラリとして細身。
「気づかれましたか、ヨシュアさん」
聞き覚えのある声に、脳細胞が一気に活性化し、瞳も現色の琥珀色を取り戻した。
「クローゼ」
先の戦闘の顛末を完全に思い出し、ここにいるべき人物の名を掲げる。クローゼに背負われたまま、ゆっくりと紺碧の塔の内部を上昇しているらしい。
「貴方のキャラにそぐわない無茶をやらかしたものですね。でも、生命掛けで助けてくれたのは、とても嬉しかったです」
「助けたも何も、無理やり巻き込んだのは私の方だから、自業自得の顛末よ。キャラクター云々ならクローゼの方こそ、てっきり大慌てでルーアン市にトンボ返りするものと思っていたけど」
合理性を尊ぶヨシュアは「魔獣はどうなった?」などの無駄な質問を全て省略し、現在の二人の立ち位置から推測される経過を辿った上で、クローゼの現在の行動指針に疑念を抱く。
メディカルチェックした結果、ちょうど献血一回分(400ml)の血を失い、強い倦怠感に蝕まれているものの、傷口は綺麗に塞がり痕すら残っていない。
『セラス』の蘇生アーツを唱えてくれたみたいで、流石は回復を司る水属性の遣い手。効能を傷の治癒に特化させて体力の復帰を行わなかったのは、先のレイヴン戦の復活技の功罪を鑑みたからだろうが、尚の事、普段のクローゼならヨシュアを病院に強制搬送していた筈。
「医者に駆け込みたかったのは山々ですが、デートというのは単なる口実で、どうしても外せない用事がこの塔の屋上にあるのですよね?」
普段はチェシャ猫のように気紛れな少女の、こうと定めた時の意外な一徹さをエステル経由でクローゼは聞き及んでいた。ならば、途中で目覚められて戻る戻らないの不要な争いで華奢な体力をさらに削る危険を冒すよりは、いっそこのまま突き進んで心残りを解消させた方が結果的に彼女の心身ダメージを最小で抑えられると判断。実はその英断は唯一解だったりする。
「もしかすると、この妙ちくりんな導力器(オーブメント)が関係しているのですか?」
「本当に気が利くわね。それまで回収しておいてくれたとは思わなかったわ」
クローゼはヨシュアをおぶったまま、左手に重箱を持ち、右手に閉じた傘のような立方体の荷物を抱えている。
最後に倒したヘルムキャンサーのお腹の風穴がキラキラと光っていて、不審に思って探ってみると、内部から胃液でベトついた立方体のオーブメントをゲット。聡いクローゼは、このブツがさほど好戦的でない手配魔獣を態々討伐した理由だと悟る。
ヨシュアを背負ったまま、二つの荷物を同時に抱えるのは骨だが。彼女の負担軽減を第一義に考えて自らに重労働を強いたようで、真にクローゼは気配りと思いやりに溢れた好青年だ。
「どうやら骨折り損のくたびれ儲けにはならないみたいで、少しホッとしています。それにしても、エステル君が言うように本当に軽いのですね。以前、遠足で足を挫いたジルさんをハンスと半交代でおぶったこともありますけど、その半分も重さを感じないですよ」
そう主張するも、両手をヨシュアの太股の下に通したまま、両掌で重箱と機械物を掴んでいる。この態勢で塔を登るのはかなりの苦行だ。
筋骨逞しいエステルならともかく、細身のクローゼに耐えられる負荷でない。先からダラダラと汗を流し、小判鮫のように他人任せな少女も心苦しくなった。ちょうど目覚めたことだし、地面に降ろすように催促するが、頑に拒まれる。
「駄目ですよ、ヨシュアさん。一応、傷跡は完治した筈ですが、体力まで全快したわけじゃないですし、何よりもおっぱいと太股の感触をもう少しだけ味わっていたいのです。以前、クラム君を追い掛けた時、あなたをおんぶしたエステル君が羨ましくて仕方がなかったですから」
この態勢だとヨシュアの豊満な乳房はこの上なくクローゼの背中に押し潰される形になり、むちむちした太股やお尻にダイレクトに手がまわることになる。まさかむっつりスケベ、もとい根が真面目なクローゼから、こんな台詞を聞かされるとは夢にも思わなず、天を仰ぐ。
「すけべ」
「ええっ、男は皆、助平なんですよ」
エステルの悪影響か、とうとうクローゼも長年躊躇していた最後の一線を、堂々と踏み越えた。開き直って己が欲望を開けっ広げたクローゼに、偶然、息子の自慰行為を目撃した母親のようなショックを受けながらも、自分が巻き込んだ迷惑度を換算すれば、このぐらいの役得は与えてしかるべきかと思い直した。
ただ、そのスケベな執念もそう長くは続かない。大柄の荷物を複数抱えるには、元々の姿勢に無理がありすぎるので、三階への階段を目前に、とうとう力尽きてぶっ倒れる。
これが体力魔人のエステルでなく、クローゼと似たような身体つきのハンスでも、背負った少女の衣装がブルマなら半日でも我慢し続けたのは疑いなく、クローゼが登り始めた助平坂への道のりは果てし無く遠い。
「ねえ、もう十分堪能したでしょうし、そろそろお終いにしない、クローゼ? こんな無防備状態で魔獣に襲われたら一溜まりもないし。この態勢で屋上まで行くのは、どのみち無理があるわ」
「そうですね。少し無念です」
ヨシュアが苦笑いしながらそう提案し、クローゼは息切れを起こしながら了承する。ヨシュアは背中から飛び下りると、二人仲良くこの場に腰を降ろして、休憩がてら今回の裏事情を説明した。
クローゼが薄々察したように、ヨシュアはクエストの依頼でここに来た。
何でも毎年この時期の決まって夜の八時ぐらいに、屋上にある既に機能停止したアーティファクトが謎の発光現象を起こすらしい。よって、ツァイスから技術者が派遣され、専用のオーブメントによる導力値の測定を行うことになった。
「その計測用のオーブメントとは、コレのことですよね?」
話の流れから、クローゼは語調に確信をこめて、右手に抱えた傘のような物体を示す。
「ええっ、そうよ。カルノーさんという技術者が一週間ぐらい前に塔の下見に来た時、ヘルムキャンサーの群に出くわして、計測器を放りだして逃走したら、魔獣に飲み込まれちゃったみたいなのよ」
試作品のオーブメントは一つしかなく、例の発光現象は七夕行事のような一年に一度のタイムイベント。このチャンスを逃すと、また来年まで待たなければならない。背に腹は変えられないとカルノーは、ツァイス市長を兼任するマードック工房長に話を通して、高難度指定の緊急依頼をギルドに持ち込んだ。
しかしながら、ボースに滞留していた三人の正遊撃士の中の一人は急用で王都に出張し、ルーアンに戻ってきたのは二人だけ。彼らは現在マノリア村で、テレサ院長や子供たちの警護の任についている。
可燃燐を扱う点から、敵は破壊工作専門のエージェントである危険性か高く、リスク管理の観点から、正遊撃士の側も二人一組(ツーマンセル)での行動は欠かせない。ジャンから拝み倒されて、学園生活を満喫する予定のヨシュアに急遽お鉢が回ってきた。
「なるほど、話は判りました。放課後、ヨシュアさんの姿が見えないと思ったら、毎日一人でクエストをこなしていたのですね」
男遊び云々の噂は、単なるデマらしい。クローゼは軽く安堵しながらも、一つ疑問が残る。
他の正遊撃士がマノリア村に常駐し協力を仰げない経緯から、今日まで単独で依頼を遂行してきたヨシュアにとって、ヘルムキャンサーの討伐にクローゼの手を借りたのは苦渋の選択だ。
「なぜ、今回のパートナーに僕を選んだのですか? というよりも、どうしてエステル君では駄目だったのですか?」
前衛特化型のエステルが、肉弾戦以外を不得手とするのは一目瞭然だが、後衛のアーツ役自体はクリムゾンアイの補助があれば、万能寄りな魔法戦士のヨシュアでも務まる。
何よりもヘルムキャンサーのぶちかましにも余裕で耐えられそうな筋肉魔人のエステルが壁役を担えば、華奢なヨシュアが苦手な前衛に出張る必要もなかったわけで、今にしてみれば適材適所の配置とは思えない。
「そうね、本来なら民間人のあなたを巻き込むことなく、私たちブレイサーで片をつけるのが筋だったと思うわ。けど、それでも今のエステルの手を煩わせたくなかったの」
演技でなく、少しばかり後ろめたそうな表情で告白する。
エステルは好きなことなら、どんな困難にも立ち向かえる不屈の闘志を持っている。それこそ早朝稽古で千回以上破れても、めげずに今度こそはと、しょーこりもなく毎日のように挑戦状を叩きつける様は、いかに彼の心が鋼のように頑丈かを物語っている。
その反面、勉強などの不得意科目は、努力以前に極力関わらないよう逃げ続けてきたが、本気で正遊撃士を志す以上は何時までも避けては通れない。
「ましてや、エステルは私みたいに苦手分野を他人に丸投げできる程、性格が器用じゃないから、いずれは正面から取り組まないといけない克服対象だったのよ。だから、今回の依頼でエステルを学舎に招き入れてくれたクローゼには本当に感謝しているの」
ヘルムキャンサーがいかに手強い魔獣とはいえ、今更、手配魔獣退治の一つや二つこなした所でエステルが得られる経験値は限られているが、本来縁がない高等教育機関の体験学習の一日一日は砂金の粒よりも貴重。後に必ずエステルの血肉となって生かされる。
「それであなたは皆から嫌われ役を買ってまで、自由時間を確保したのですか? エステル君の露払いをする為に?」
昔読んだ『泣いた赤鬼』という童謡を思い出す。赤鬼と違って社交的なエステルはクラスメイトと馴染むのに苦労してないが、ヨシュアが青鬼役を演じた結果、エステルを中心に今一つ稽古に気が入っていなかった皆の心が一つに纏まったような気がする。
それが彼女の真意とするなら、実は性格が不器用なのは、エステルだけの専売特許ではない。
「あっ、それとこの件は、エステルには内緒でお願いね。あれでも義兄を気取っているつもりだから、私に借りを作るのを嫌がるし、負傷したと知れば一応心配させちゃうだろうからね」
あくまで影からのサポートに徹して、内助の功を誇るつもりはない。多くの殿方を搾取した魔性の少女からここまで一心に尽くされるエステルという少年に対して、クローゼはあまり健康的でない嫉妬心を抱いた。
「僕は正直、ここまでヨシュアさんから献身される彼が羨ましいです。そんなあなたの優しさを知らないで、好き勝手に悪口を述べるエステル君に憤りさえ感じます」
言い終わらない中に、エステル当人に責任が及ばないことで彼を中傷した自分の度量の狭さに嫌気が差し軽い自己嫌悪に陥る。
最も清濁併せ呑んでこそ、不完全たる人間が霊長類である所以。潔癖症のクローゼは将来就く王国の未来を左右する役職を過不足なくこなす為にも、もう少し自分のネガティブな感情と向き合う術を学生の身分でいられる今のうちに学んだ方が良い。
「うーん、綺麗とか賢いとか褒められるのは日常茶飯事だけど、優しい娘扱いされたのはもしかすると生まれて初めてかな?」
ヨシュアは軽く照れ笑いしながら、ボリボリと頬を掻く。猫被りでなく照れる姿は実はジト目以上のレア。ある意味ではエステルでさえも知らない表情を、クローゼは引き出すのに成功した。
「けど、それは私のことを欲目で見すぎよ。私はあくまで自分の勝手な都合で動いているだけで、こうしてクローゼに皺寄せしちゃっているし、お芝居が良い方向に進んでいるのは、予め分かりきっていたことよ」
「小さい頃からずっとそうだったから」と拗ねたような口調でボソッと囁く。腹黒完璧超人のレアショットの連続にクローゼは目を瞬かせる。
年中行事のグループワークにヨシュアが携わると、人の何十倍もの効率で進捗を捗らせているにも関わらず、なぜか場の雰囲気が悪くなることが頻繁。ヨシュアが抜けてちんたら不完全な作業に明け暮れている方が、皆ワイワイと楽しめていた苦い現実を幾度も噛み締めている。
人間の集団は全てで完璧を欲しているのでなく、未熟なりに纏まって一つの成果を残せたという過程を時には結果そのものよりも重視しており、「生まれ持った希有な才能は、凡人の地道な努力を嘲笑する」という教育の悪手本を体現した存在のヨシュアと相容れるのは難しかった。
「エステルのことにしても穿ちすぎよ、クローゼ。私にとって放っておけない憎めない義弟で、エステルからすれば私は目の上のたん瘤の憎たらしい義妹。どちらが兄姉のポジションを手にするか、この旅の間中、競争しているのよ。何よりも人が家族の為に尽くすのに一々特別な理由が必要なのかしら?」
(あなたのエステル君への想いは、本当に兄としてだけなのですか?)
「いえ、必要ありませんね」
真摯なクローゼの情念をはぐらかすには、うってつけの模範解答をヨシュアは口にし、「少しずるいです」と恨めしがりながらも、心の中に芽生えた疑惑を言語化すること叶わず、真っ当すぎる論理を肯定する。
「きゃあー、誰か助けて下さいー!」
しんみりとした二人の間に漂う空気をぶち壊すように、絹を裂くような女性の悲鳴が聞こえ、二人はビクッと腰を浮かしかける。
「救いを求める女の人の声? 待っていて下さい、今すぐ行きます」
気まずくなった場の雰囲気に耐え兼ねて席を外したい欲求もあり、クローゼは塔内を反響する甲高い叫び声に反応し、生来の騎士道精神の赴くまま後先考えずに階段を駆け登る。
「またアレか」
ヨシュアはウンザリしたような表情を隠そうとせずに、憂鬱な気分に浸る。上の階層で待ち受けている光景に心当たりがあり過ぎたからだが、フェミニストのクローゼならナイアルと異なり、救助対象者の年齢に失望することはない。
「待って、そういえばクローゼは得物のレイピアを持ち合わせていなかったわよね? ということは」
「うわあああー!」
先の女性に続いて、今度はクローゼの悲鳴が聞こえていた。
「や、止めて下さい。そんな所を、僕はこれでも男で…………ひっ、ひいっ? あああっあ…………はぅあぁぁ、はぁっ、はぁっ、はあっ」
悲鳴が嬌声へと変わる。ヨシュアはゴクリと生唾を飲み込んで、スカート脇に括ったポーチのファスナーを開き、小型の携帯カメラを取り出した。
「発光現象を撮影してくるように手渡されたけど、数枚ぐらいなら別の用途に使っても、何の問題もないわよね?」
四十路ババアの触手攻めの需要は極々マニアックだろうが、被写体が美少年なら学園内で爆発的な特需が見込まれる。何よりも当人が、上階で繰り広げられているであろう阿鼻叫喚の酒池肉林を一刻も早く拝みたくて仕方がない。
ヨシュアはいそいそしながら負傷によるダルさも忘れて、スキップするように階段を昇っていく。
身を以てクローゼを庇い、エステル想いの殊勝さを披露するなど、一部、漂白な面を強調して見せるも、やはりこの少女の本質は暗黒。仲良く魔獣に拘束されていたアラフォー女性と一緒に救出されるまでの間、十回以上カメラのストロボを浴びて、クローゼは触手に対して軽いトラウマを抱く羽目になる。