漆黒の袴の上から、純白の羽織を纏い、そんな感じの衣装と色彩を合わせているのだろうか、その顔すらも白と黒に染め上げた男。
そんな奇妙な風体の男を、彼女は見知っていた。それこそ、物心ついたころから、ずっと。
「――――でハ、実験再開といこうじゃないカ」
粘つくような質感を持った声が、まるで蛇の舌舐めずりの様に彼女の頬を撫でる。その手には、まるで如何にもな形をした、禍々しさすら感じさせる手術道具がある。
そう、この男の発する気配は、まさに実験に酔いしれる醜悪な科学者のそれだ。人倫など厭わず、ただ、己が知的好奇心を満たす探求の為に、あらゆる命を消費する、最も邪悪な捕食者。
「ぐっ……ぎゃぁぁっ……!?」
ならば被食者は誰か。彼女こそが、この場における実験台に他ならない。四肢を縛られ、一糸まとわぬ姿を明かりの下に晒され、そして、麻酔などという温情もなく、手術道具が彼女の柔肌を突き破る。
滴る鮮血と共に、彼女の喉から絶叫が吐き出される。それでもなお、男は彼女に対する蹂躙をやめない。それどころか、彼女の絶叫を作業をはかどらせる音楽の様に聞き流し、鼻歌交じりに蹂躙を加速させる。
「あがっ……ひぐぅっ……!?」
「どうしたネ? いつものように■■■の誇りにかけて、とか叫ばんのかネ?」
男が口にするその誇りも、脳髄を焼く痛苦に押し流されていく。彼女が望むのはただ、この絶え間なき地獄からの生還。それが死であれ何であれ、どんな形でもいいから自分を終わらせてほしいと強く願う。けれど、この男はいとも容易く人の命を実験の供物に捧げるが、決して使いつぶしたりしないのだ。男の中では適切な手法を用い、よりよい記録をとるために“有効的”に命を使う。
すなわち、限界ぎりぎりまでこの地獄は続く。果たして、この男に捕らえられ、どれほどの時間がたったのか。数日なのか数年なのか、それすら判別できない混濁した時間の感覚の中で、彼女の意識はその肉体諸共すり潰されていく。
「はぁっ……はぁっ…………糞ったれ、またかよ」
最悪の夢身に荒くなった呼吸をどうにか抑え込み、彼女――長谷川千雨は悪態をついた。物心ついてから纏わりつく地獄、客観的な言葉にするならあまりにも現実感がない夢の中の出来事だが、感じるのは痛みという言葉では生温い激痛の奔流。まだどこか千雨の意識がこの地獄に対して、主観と客観の間のずれた位置にあるのが不幸中の幸いだ。そうでなければ、当の昔に自分は気がふれていただろう、千雨はそう実感していた。
「ったく、見るのは久しぶりだな」
そうぼやきつつ、夢見の悪さの所為でぐっしょりと寝汗に濡れたパジャマを脱ぎ棄てる。
そしてシャワーでべとつく汗を洗い流すと、彼女は机の上においてある愛用の眼鏡をかける。とはいってもそれは度の入っていない伊達眼鏡である。
幼き頃から、言っても誰も信じない様な非日常の悪夢に触れ続けていた彼女にとって、日常から外れる、というのはひどく耐えがたい行為だった。もし、そういう事柄に現実の中でも関わってしまえば、あの悪夢までもが現実になってしまう、そんな思いを抱いていたからだ。
だから自然と、千雨は何事にも目立たないようにすることを心がける子供になっていった。平穏こそを愛し、変わり映えの無い日常こそを愛し、騒がず、揺らがない水底の様な、そんな繰り返しこそを至上とする人生観を構築していた。
そんな千雨にとって、この麻帆良学園というのは正に魔窟だった。目をこらさなくとも、異端・異常はそこかしこに散乱し、誰もが皆そんな光景を日常のものとして受け入れている。
この学園都市においては異端こそが日常であり、千雨の中にある真っ当な常識こそが異端だった。
それを口に出して叫べばどれほど爽快だろうか、でも、もしそう叫んだとして、自分が変わり者だと周りからつまはじきにされると言う未来予想は、千雨の心に大きな恐怖を植え付けるには十分だった。
だからこうして、メガネをかけた。世界と自分を切り離し、せめて蔓延る非日常から自分を保護したかったのだ。少なくとも、そうして得られたほんの僅かな安心感があればこそ、千雨はこの麻帆良で生活できていると言っても過言ではない。
「――――成程、それでいつにもましてし不機嫌そうなのでござるか」
「ああ、夢見が悪すぎてお前のその変な言葉遣いにいらつかないほどにな」
「ひどっ!? 酷いでござるよっ」
そう嘆きながらも、時代がかった口調で傍目にもそれとわかる忍者装束に身を包む、長身の彼女――長瀬楓は千雨に向かって苦無を投げつける。それも一つや二つではない、目にも止まらぬ早業で絶え間なく、それこそ機関銃の掃射の様に十数本を一気に投げつけてくる。ここが楓お気に入りの練習場所である森の中であることと、その口調も合わせればまさに忍者そのものだ。――当人は頑なに、忍者であることを否定しているが。
迫る苦無。千雨はそれに対し、右手に力を集める。
「――――本当に、情けないな」
久々に見た夢の所為もあってか、弱気な独り言が千雨の口から漏れた。日常に非日常が侵食してくるのが怖い、そう思いつつも「じゃあ、“そういうこと”に巻き込まれたらどうすればいい」、そんな恐怖もまた、幼き頃から千雨の中にあった。
少なくとも千雨にとっては、通り魔に襲われることと、未知の力を持った怪物に襲われることは、同党の現実感を以って恐怖心を抱くに足る事柄なのだ。そして、前者ならば不用意に危ない所に近づかなければいいとか、そんな対策を自身に課せば、ひとまずの安心感を得られるのだが、後者に対しどうすればいいのか、千雨は迷いに迷った。
分かってはいる、わかってはいたのだ。未知の怪物が怖いのならば、未知の怪物から、少なくとも逃げれるだけの力があればいいのだと。
けれどその選択は、非日常に触れたくないと渇望している千雨にとって、矛盾極まる選択だった。
「それでも選択しちまったんだよな、私は」
力は、更に千雨の右腕に集う。霊子、そう呼ばれる世界に遍在する力の粒、楓曰く、魔力と言うらしいその力を集わせ束ね、弓の形へと作り替える。
弧雀、千雨はそれを、夢の中の自分が持つ知識、端的に言えば前世の知識だろうか、それをもとにこう呼んでいた。
それは虚<ホロウ>と呼ばれる悪霊を滅却するための力、人間が身を守るための力、――――そして、あの男が属する、死神たちに滅ぼされた力。
その力を、千雨は撃ちだした。引き絞る弦に番えるは、同じく霊子を集わせ束ね形作った矢だ。引き絞られた弓は、弦を引き絞る指先を手放すと同時に撃ち出され、狙い過つことなく、飛来する苦無の、その先頭にある一本を撃ち落とした。そのまま弦を引き絞り、矢を番え、そして打ち出す動作を瞬きの間に連続して行い、迫る苦無の悉くを撃墜していく。
――――その様、その力は、まさに滅却師<クインシー>と呼ぶに相応しかった。
前世の異能、知識、経験を身につけ、非日常の恐怖に抗うことを千雨は選択した。思い出せば出すほどに、あの悪夢の恐怖に身を苛まれながら、心を少しずつすり減らしながら、千雨は修練に励んでいた。
教師となるのは前世の己、人の人生一本分の映画をじっくりと見るような感覚で、千雨は己が身につけるべき技能を思い出していった。
「相も変わらず、弓矢で早撃ちとは恐れ入るでござる」
「これしかできないし、これが基本だからな。否が応にも技量は上がるってもんさ」
滅却師にとって、この霊子で形作った弓矢こそが主兵装だ。無論、かつての知識の中には様々な補助兵装、術式があったが、それらを作る技術も無ければ、それらを身につける技量も無かった。千雨にとっては、この弧雀を磨くことこそが唯一の道だったのだ。
おかげというべきか、その連射速度・威力・命中精度は楓も目を見張るものとなっていた。
「しかし、それ以外ははまだまだでござるな」
「うっせぇ!! 私はお前みたいに出鱈目な身体能力してないんだよ」
そういうや否や、楓は千雨の放つ霊子の矢の弾幕を振り切り、周囲の木々の枝から枝へと飛び移っていく。しかも分身までも含めた念の入りようだ。
千雨の照準はそれによってぶらされ、先程までの命中率が嘘であったかのように、狙いを外れる射撃が増えていく。
霊子の矢が周囲の木々に突き刺さり、このままではまずいと直感した千雨は、自分の足元に霊子を集わせる。飛廉脚(ひれんきゃく)、そう呼ばれる滅却師の高等歩法。自身の足元に霊子の流れを作り出しそれに乗る、高速移動の為の技法だ。
直後、千雨の視界の中の景色が急速に流れる。霊子の流れに乗って、ひと先ず楓との距離をとるつもりだった。楓に対し優位に立てるとすれば、遠間からの面制圧射撃ぐらいしかなかったからだ。このまま高速移動と分身を組み合わせた攪乱で、一気に間合いを詰められ格闘戦に移行すれば瞬く間に制圧されることは目に見えていた。
「誘いに簡単に乗り過ぎでござるよ」
「ちぃっ!?」
しかし、その程度の目算は楓には予想済みだったのだろう。飛廉脚の刀着地点と定めていた場所に先回りする楓がいた。まったく、クラスでバカレンジャーなんて言われてるくせに、こと戦闘になると頭が回りやがる。内心でそう悪態をつきながら、千雨は楓の振り下ろす手刀をまともに喰らったのだった。
「――――あぁくそ痛ぇな、お前本気で殴り過ぎだ」
「……加減はしたでござるが」
「バカレンジャーの馬鹿力なんて加減し過ぎがちょうどいいんだよ」
「バカレンジャーは関係ないでござろう!?」
「馬鹿だから馬鹿力なんだろ?」
「うぅ……相も変わらず千雨殿は毒舌にござるなぁ……」
千雨がこうして楓と一緒に修行することになったのは中学生に上がったころだった。体もそろそろ出来上がりつつあるころなので、それなりにしっかりと練習できる場所を探そうとした千雨が見つけた場所が、楓が先に目を付けた場所だったために、なし崩し的に一緒に修行をすることになったのだ。
楓にとってみれば、千雨は都合のいい修行仲間であり、千雨にとってみれば、楓は唯一自身の異能を隠し立てすることなく付き合える唯一の同級生であった。
「それにしても、やはり千雨殿のそれはどうやっているか皆目つかんでござるな。何の触媒も無しにそのような遠距離武装を作り出せるのは忍びにとってかなり有用でござるのに」
「それは最初に言っただろ? だがいに無用な詮索は無しで、ってな」
「とはいっても、眼前に美味い餌をぶら下げられれば手を出したくなるのが人情でござるよ」
「じゃあ忍者ってどんな存在なのか教えてくれたら、教えてやらんこともない」
「生憎と拙者、忍者ではないのでその条件は果たせぬでござるな」
そういいながらも、楓には無用な執着心が見られない。言葉とは裏腹に、それほど気にかけていないのだろう。バカレンジャーと呼ばれながらも、楓はきっちりと一線を引き、そこから逸脱することは決してしない。
悪夢に怯えて強くなることを望んでいることをあまり知られたくない千雨にとって、こうして、こちらの機微をしっかりと読んで付き合ってくれる楓という存在は、千雨にとってかなり貴重な存在だった。生憎と、そんな存在を友達と正面切って呼べるほど、千雨の性格は素直なものではなかったのだが。
「はぁ、果たして千雨殿がデレるのはいつになることやら」
「何阿呆なことぬかしてやがるんだこの馬鹿忍者」
「うむ、なんというか千雨殿、なかなか人に慣れない子猫の様にござるからなぁ……」
「だから阿呆ぬかしてるんじゃねぇよっ!! 何だ子猫ってっ!?」
「あはは、言葉通りでござるよ」
とはいうものの、悪夢の所為で常に周りに対し気を張っていて、更にこの麻帆良の環境がそれに輪をかけている千雨は、基本的にクラスの中で人付き合いに消極的な存在と思われている。こうして普通に軽口を交わしあえるのも、基本的に楓だけなのだ。
それを知っている楓にしてみれば、確かに人に慣れない子猫のようにしか思えないのだろう。
「だぁああぁっ!? 避けんなこら一発殴らせろっ!!」
「うむ、頭を撫で撫でさせてくれるのならばよいでござるよ?」
「させるわけねぇだろぉっ!!」
「はぁっ……はぁっ……このっ、体力馬鹿っ……」
「千雨殿が少々体力ないだけではござらんかな?」
そうして追いかけっこを演じることしばし、先に体力切れに陥った千雨が倒れ伏したことで、追いかけっこは幕を閉じた。
「――――そうそう、近々転校生が来るらしいでござるよ?」
そんなときに、楓はおもむろにそんなことを切り出してきた。
「はぁっ!? こんな時期に転校生?」
「うむ、朝倉殿の話では、正確には転入生ではなく、復学らしいでござる。だからこんな冬休みが目前に迫ったこの時期に来るらしいでござるよ」
「ふ~ん、復学ねぇ……。居たっけか? そんな奴」
「確かに、とんと記憶にござらぬなぁ」
楓と共に、自分の記憶を思い返して、長い間休学していた生徒とやらを調べてみる者の、二人揃ってしかめっ面を浮かべるだけだ。
「うちのクラスにいないよな」
「確かに、……ともあれ、明日にでもその疑問は解消されるでござるよ」
「だな、少しだけ楽しみにしておくか」
そういって苦笑を浮かべる千雨だったが、内心では、願わくば私の日常を壊さぬ真っ当な人物であってくれと、切に切に願うのだった。
「――――初めまして、相坂さよっていいます」
その願いは、あっけなく打ち砕かれた。何の変哲もない、至って善良なその少女の一挙手一挙動に総身が震えた。悪夢の中でしか感じない筈の、己が体に刃を差しこまれ、完膚なきまでに蹂躙される感覚がよみがえる。
脳髄はどうして、どうして、と疑問符ばかりをぶちまけ、恐らく顔は、熱を失ったかのように蒼白になっていることだろう。
「……何で、こんなところに」
自身の、かつての滅却師としての己を思い出しているうちに、千雨には一つの確信があった。――――この世界は、“違う”と。
力を使いこなそうとしていくうちに、一般的に幽霊と呼ばれるものは幾度か目にした。その時感じた感覚は、どこかかつての感覚とずれていたし、何より、いくつもの幽霊を目にしたが、そのどれもに<虚>の所以である“穴”が無かったのだ。
千雨の中にある知識においては、無念を抱えたまま成仏できずに彷徨う幽霊は、時間がたてば胸にいつしか穴ができ始め、それが開き切った時に他の魂を喰らおうとする怪物、<虚>に成り果てる。
それが、千雨の知る魂の現象、決して変わることない法則だった。
だと言うのに、“長谷川千雨”が目にする霊の悉くが、己が知る法則から外れている。だからいつしか、千雨は変わらず非日常に対する恐怖を抱えながらも、「この世界は、かつての世界とは魂の法則が異なっている」、そう結論付けていたのだ。
恐怖の対象であるあの男は、<虚>と戦いその魂を正常に循環させるための集団に属していた。故に、法則が違う世界ならば少なくとも、“あの集団”はいないと、そう思っていたのだ。
だと言うのに、件の復学生から感じる気配は、吐き気がするほどの既知感に満ちていた。体全体を、今すぐにでもこの場から走り去って逃げ出したい衝動が覆っていく。
それでも、“日常から抜け出したくない”と、この場とは大いに矛盾する自分の心を楔にして、千雨はどうにか踏みとどまっていた。
「――――どうして“死神”がこんなところにいるんだよ」
教壇に立つ相坂さよに対し、敵意と恐怖心がない交ぜになった視線を投げかけながら。
<あとがき>
魔改造キャラ二人目の登場となりました。ポジションとしては、さよに対し死神の力がどういうものか指導できるキャラ、って感じです。主に卍解の為に。
当初の構想としては、指導キャラに豪徳寺in刳屋敷 剣八とか考えたりもしていましたが、それやってしまったら、ただでさえ怪獣大決戦になりそうなエヴァンジェリンとの戦いが、さらに激化しそうなのでパスしました。