吹きさらしの風がシグナムの頬をなぶる。
まだ時刻は朝に近いとはいえ、時を追うごとに強くなっていく夏の日差しの中、その微風は一服の清涼剤となるはずであったが、シグナムは表情一つ変えない。
木刀を中段に構え、眼前の男と対峙する彼女には、一風の涼しさを癒しと感じるような余裕は、すでに無かったからだ。
いや、それはもはやシグナムにとどまらない。
この試合を見守っている周囲の者たちも、もはや息をする間さえないほどの緊張状態に陥っている。
いや、これはもはや「試合」などという、稽古的な意味合いの対峙ではないのだろう。
敢えて言うなら、これは立ち合い――生死をかけた決闘と呼ぶに近い空気が、この場を支配している。
シグナムが発する剣気は、正にその事実を裏付けていた。
おそらくは、管理局の模擬戦でも、彼女がここまでの威圧感を発する事は無いだろう。
それはまさに“殺気”と呼ぶにふさわしい、飛ぶ鳥さえも射竦めるかのような剣呑なものだった。
例外があるとすればそれはただ一人、シグナムがこの場で相対している、その片目の男のみであったろう。
彼女から五歩ほどの間合いに立つその男は、まるで自分がこの戦いの当事者である事さえ気付いていないかのように、手に持つ木刀をだらりとぶら下げ、まるで構えを取ろうとはしていない。
いや、敢えてそれを構えと呼ぶならば――おのれの五体にまるで余計な力を込めないその棒立ちは、柔道や空手で言うところの“自然体”と呼ぶべきものであったかも知れない。
つまりは、そんな無造作な姿勢にもかかわらず、シグナムにそう思わせるほどに、彼には隙がなかったのだ。
この男が誰なのか――そんなことはシグナムにはわからない。
いや、そもそもそれを言えば、ここがどこなのかも今がいつなのかも、彼女には見当もつかないのだ。
わかるのは、ここが彼女も知らない、どこかの次元世界であろうということだけだ。
目が覚めたら、シグナムはこの武家屋敷にいた。
ただの屋敷ではなく、わざわざ“武家屋敷”と銘打ったのは、そこで彼女が接触を持った人々が全員、テレビの時代劇に登場するようなサムライ装束を身に付けていたからだ。
ここがどこなのか、いつの時代の何月何日なのか――シグナムなりに礼を守って尋ねたが、返ってきたのは聞き覚えの無い地名に聞き覚えの無い年号。むろん“時空管理局”などという組織を彼らが知るはずもなく、正直シグナムとしては、途方に暮れるしかなかった。
まあ、それはいい。
問題はこの現状だ。
いまシグナムは木剣を構え、眼前の、この片目の男との勝負に臨んでいる。
どういう成り行きでそんな不可解な事態になったのか――まあ、そこには大した理由も何も無い。
早い話が、彼女は喧嘩を売られたのだ。
とはいえシグナム自身、この説明不能な状況において、そんな頭の悪い挑発にみすみす乗るほど馬鹿ではない自覚はあった――相手がそこら辺にいるチンピラであったならば、だ。
もちろん彼女の応対をしたサムライたちは泡を食って男を止めようとしたが、彼は全く歯牙にもかけず「成り行きが気になるならば邪魔にならぬところで見物しておれ」と言うばかり。そして、何よりこの片目の男には、シグナムを誘って有無を言わせぬ何かがあった。
――いや、それは正確ではない。
正しくは、シグナム自身が興味を持ったのだ。
木刀を投げ渡して彼女を庭に誘った、この男の発する“剣気”に。
(強い……)
そう思う。
少なくとも、シグナムはヴォルケンリッターの“剣の騎士”としてこの世に誕生して以来、これほどの敵にめぐりあったことはない。
いや、これまで確かに彼女と互角に渡り合った“敵”がいなかったわけではない。フェイト・テスタロッサをはじめ、シグナム自身が好敵手と認めた者たちは、かつても今も、いると言えば幾人もいる。
しかし、そういう事ではないのだ。
どれだけシグナムが認めた強さの所有者と言ったところで――たとえばフェイトやなのはたちは剣士ではなく、しょせん魔導師にすぎない。
これはヴォルケンリッターの同僚であるヴィータやザフィーラにしてもそうなのだが、魔導師にとっては武器術や格闘技などは、やはり近接戦闘技術の一つでしかなく、射撃・砲撃魔法などを含めた、いわゆる「選択肢の一つ」でしかないのだ。
そういう意味では、たとえフェイトやヴィータ、ザフィーラと言えど、地上に立ったまま武技のみを攻撃手段に限定して立ち合えば、やはりシグナムの剣の前には敵ではなかろう。
だが、この男は違う。
この男の発する気は、まさしくその剣技がシグナムに匹敵あるいは凌駕するレベルであることを充分に証明している。
そして男の右目は、こんな状況でも変わらず閉じられたままだ。
つまり、彼は本当の隻眼なのであろう。
片目というのは視界が限定される分、近接戦闘においては明らかに不利である。にもかかわらず、シグナムが男から感じる気配からは、そんなハンディキャップを気にしている様子は微塵も存在しない。
(片目のハンデなど、とっくの昔に克服済みというわけか)
そう判断せざるを得ないし、それだけでもこの男の技量の程は予想がつくというものだ。
おそらくはベルカ時代、闇の書の実行部隊として片っ端から目に付いた騎士のリンカーコアを狩っていた頃でさえも、これほどまでの剣士には逢ったことが無かったはずだ。
その瞬間だった。
男が、不意にその口を開いたのは。
「おいおいシグナム殿、そなた笑ってるおるぞ」
勿論そう指摘されたところで、シグナムには動揺は無い。
男に言われるまでもなく、彼女自身、この立ち合いに表現しがたい喜びを感じている事は自覚していたからだ。
(そうか、私は笑っていたか)
という思いが、珍しくシグナムに状況にそぐわぬ軽口を叩かせる。
「笑う女は珍しいか?」
「ああ、おれと向かい合って笑う女はなかなかいないからな。寝床の中ならともかく――」
その刹那、シグナムは五歩の間合いを一気に詰めると、男の脳天に向けて渾身の一太刀を振り下ろす。
並みの剣士、あるいは魔導師ならば、その下品な冗談を言う口を閉じる暇さえなく、シグナムの一撃の前に打ち倒されていただろう。
彼女の剣にはそれほどの鋭利さと威力が込められていたからだ。
だが男の木刀は、その攻撃のタイミングを予想していたかのように、無造作に彼女の剣を受け止める。
木刀同士が、まるで金属音にしか聞こえないような鋭い響きを立て、そしてそのままガッキと噛み合い、シグナムと男は鍔迫り合いの姿勢のまま数センチの距離を睨み合う。
だが、男の顔に浮かんでいたのは、睨み合いにふさわしい強面(こわもて)ではなく、むしろ爽やかな笑顔であった。
(舐められてるのか)
などとは、シグナムは思わない。
というより、もはや彼女にはそんなことをいちいち考える余裕さえも無かったと言うべきだろうか。
鍔迫り合いからシグナムを力任せに突き飛ばすと、今度は男の剣が彼女を襲ったからだ。
(速い……!!)
そう思う暇さえ無い。
まさに思考を上回る速度で来襲する男の攻撃を、シグナムは反射のみの剣で弾き返す。
しかも、彼女の反射行為は防御のみにとどまらない。
男の連続攻撃の最後の一撃――顔面への片手突きを紙一重で避けると同時に、シグナムはさらに一歩踏み込み、そのまま男の大腿部にすれ違いざまの一撃を叩き込む。
それは、絶妙のタイミングのカウンターとして勝負を決する一剣であった――はずだった。
いや、現にこの戦いを見守る人垣からも、その瞬間に悲鳴に近い叫びが上がったほどだ。
彼女が、男の懐に踏み込んだそのタイミングは、それほど絶妙にして致命的なものであったからだ。
どうしてシグナムに予想できようか、その一撃がまさか空を切ろうとは。
あまつさえ、その一撃のカウンターを取る形で、男がさらなる一撃を繰り出してこようとは。
「…………ッッ!!」
言葉にならない叫びが、思わず彼女の口から漏れる。
なんとこの男は、それほど完璧なタイミングで決まったはずのシグナムの攻撃を、ジャンプによって回避したのだ。それも、助走どころか何の予備動作もなく下半身のバネだけの跳躍で、である。
しかも、1メートル近い高さに跳んだ挙句、まったくバランスを崩すことなく、さらに右手の剣を真一文字に振り下ろしてきたのだ。
まともに喰らっていれば、彼女の頭蓋は無残に打ち砕かれていただろう。
それほどの攻撃を、かろうじて身を引いて回避し得たのは、まさにシグナムなればこそであったろう。
だが、ふたたび互いに距離を取ったとき、彼女の背中にあったのは、ただひたすらに冷たい汗のみであった。
「笑いが消えたようじゃな」
男の顔には、変わらず笑みが浮かんだままだ。
いや、さすがにシグナムにもわかる。
彼の今度の笑みは、先程までのものとは違う。
これは純然たる皮肉であり、嘲弄の笑いであると。
が、にもかかわらず、シグナムは男の態度に怒りを覚えなかった。
逆上はむしろ身をすくませ、剣を鈍らせる――そういう常識論ではない。
シグナムの全身を巡っていたのは、むしろ先程以上の血のたぎり、であったからだ。
「信じられないな……まさか貴様のような男が、この世にいるなどとはな」
何かの計算や挑発を狙っての言葉ではない。この一言は紛れもなくシグナムの本音だった。
それを感じ取ったのだろう。男もそれまでの皮肉な笑みを引っ込め、逆に不審げな感情を眉間に浮かべる。
しかし、男が何を考えていようが、もはやシグナムにはどうでもいいことだった。
頬を伝う血の感触がある。
おそらく、さっきの男の飛翔攻撃がかすめた時のものであろう。
痛みは無い。
むしろ、血の熱さが心地よい。
人ならぬはずのこの身に、これほどまでに熱いものが流れていたというのか。
その思いが、彼女の心に更なる高揚をもたらしている。
そして、彼女がふたたび喜びの表情を浮かべたことで、男の顔はまたも変わった。
いや――戻ったというべきか。
目元に浮かんだ不審げな感情は消え、彼もまた笑ったのだ。
それはさっきのような皮肉な嘲笑ではなく、シグナムの笑みに呼応した自然なものであった。
「嬉しいか、シグナム殿」
「ああ、楽しいな」
「そうか、おれもじゃ」
そう言いながら、男は初めて構えを取った。
この期に及んでも、無造作に右手にぶら下げたままだった木刀を両手に握りなおし、ピタリと中段に構えたのだ。
「おおっ」
「十兵衛様が、構えを!」
などと周囲がざわめくのがシグナムの耳にも届くが、彼女にとってはもはやそんな雑音も気にならない。
構えとともに劇的な変化を遂げた男の剣気に、シグナムはまさしく全身が総毛立つ思いに駆られていたからだ――。