宮本伊織は恐怖していた。
わかっていたつもりだったのだ。あの女が只者ではないという事実は。
義父・武蔵とともに小笠原家の客分として参陣した島原の乱。そこで彼が目撃したのは、まさに舞うがごとき剣さばきで、鎧武者どもをなで斬りにするヨーロッパ系白人種の異人の女。
すなわち、いま自分たちの眼前に立ちふさがる――彼女である。
いや、こうして真正面から対峙してみれば、それはもはや歴然だ。
あんな禍々しい剣気を放つ女が、まともな存在であるはずがないのだから。
いや、まさしくそれは剣気なんて生易しい空気ではないだろう。
(妖気、とでも呼ぶべきだなこれは……)
などと考える余裕も、もはや今の伊織にはない。
いや、その比喩はもはや冗談ではない。彼女が剣気を解放した瞬間、彼女の背後に自生していた雑木林から、十数羽の鳥が飛び立って逃げたのが見えたほどだ。
それどころか、女の放つ“気”によって、風は震え、大地から湯気が立ち上っているようにさえ思える。
――寛永十五年九月某日。
森と水田に囲まれ、人よりもセミの方が多いのではないかと思わせるような、のどかな街道筋のあぜ道。
さんさんと降り注ぐ夕暮れの西日の中、その道を歩く村人さえいない。
昨日までなら、それはのどかな山間の一風景でしかなかったはずだ。
しかし、現在そこに展開されていたのは、まさに異様な光景だというべきであったろう。
深編笠を被った旅装の武士――宮本伊織。
いや、まだ彼はいい。この時代のこの国にとって、まだ常識の範囲内というべき存在だ。
しかし、この武士と睨み合う一人の女――彼女は、どこから見ても非常識の範疇の人間だった。
彼女は、江戸時代――寛永年間の峠道におよそいるはずのない、白人の女だった。その見事なブロンドヘアから類推するに、おそらくはアングロサクソンか、ノルマン系か。
しかも、その美しさが尋常ではない。
その髪は黄金のように光り輝き、その瞳は宝石のように翡翠色の光を宿し、その肌は磨き抜かれた大理石のように白く張り詰め、その美しさを例えるならば、まさに天上の妖精もかくやと言うべき美少女であろう。
とはいえ、彼女はただ美しいだけの女ではなかった。
その整いすぎた目鼻立ちに、人形のように人工的な匂いは塵ほどもない。
彼女の表情には、眼前に対峙する相手への凛然たる闘志をうかがわせ、その強い意志こそが、彼女の発する美をさらなるものへと昇華させているのだ。
いや、その顔に闘志が浮かび上がるのも当然であったろう。
彼女は、何よりも戦士だった。
紺碧の着衣と白銀の甲冑に身を包み、しかも信じがたいことに、この美少女には、その大仰な戦装束がまるであつらえたように似合っている。どこからどう見ても、昨日今日、初めてその鎧を身に着けた素人女には見えない。馬鹿か盲目でもない限り、この少女が歴戦の古強者である事を疑う者は、まずいまい。
そんな彼女が、こんな田舎のあぜ道に屹立している光景のアンバランスさは、まさしく「奇妙」の一言でしか表現できなかったであろう。
その女剣士を前に、すでに伊織は刀の柄に手を当てている。
が、そのまま動けないのだ。
かの剣聖・宮本武蔵に見出され、以降の人生をひたすら苛烈なる剣の修行に費やしてきた伊織だ。当然おのれの腕にも才にも自信はあるし、一対一で敵と対峙して、こんな蛇に睨まれたカエルのごとき立場に追いやられる自分など、まさしく予想だにしていなかった。
むろん伊織がたった一人で、この者たち――天草四郎とその護衛の女剣士を追跡しているのも、独力でこいつらを捕らえ、あるいは斬り捨てるだけ自信があってのことだ。
が、違う――!!
彼女がここまで凄まじい“気”を発するほどの剣士であるとは想定外だったと言うべきであったろう。
剣の勝負を決定付けるものは、しょせん小手先の技術ではない。
おのれの“気”で、相手を呑んでかかれるかどうかにこそ、勝敗の趨勢はかかっている――というのが、いわゆる武蔵流の剣の極意である。
そして伊織は、今日この日、初めてこの女剣士の発する本当の剣気を目の当たりにしたのだ。
彼の足がすくむのは、残念ながら無理もないと言うべきだろう。
いや……違う。
本当はわかっている。
むろん伊織を圧倒するこの女の剣気は本物だ。
だが、彼の動きを封じている真なる理由は、それだけではない。
それは眼前の女剣士の、その人間離れした美しさだった。
(いったい何なんだ……この女は)
伊織の心の混乱は、ますます酷くなる。
この女が人の姿をした妖怪・人外の類いである事は、すでに承知している。
にもかかわらず、彼女の放つこの美しさは何だ!?
かつて原城の陣で彼女が、華麗にして残虐無比な剣さばきで幕軍の一隊を皆殺しにしたのを目撃したとき、伊織はその強さではなく――美しさに絶句したものだ。
そして、今ここで、伊織を睨みつける彼女の美しさは、かつての戦場を明らかに凌駕していた。
――美しき獣。
彼女は、まさにそう呼ぶにふさわしい存在であったというべきだろう。
「むッ!?」
刀の柄に手をかけたまま凝然と動けずにいた伊織が、その瞬間、背筋を伸ばして声を上げた。
魔像のようにその場に佇立していた彼女が、ゆるゆると動き出したからだ。
いや、正確には、動いたのは女の右手だけだ。
何も持たない彼女の右手が振り下ろされた瞬間、大地に一本の線が引かれた。
いや、線が「引かれた」のではない。この線を彼女が「書いた」のだ。
伊織はすでに理解している。
彼女の右手が無手に見えたのは、彼女の得物が(信じがたいことだが)いわゆる不可視の剣であるからなのだ。この、間合いの測りようのない見えざる剣によって、原城の陣で一体どれほどの兵が大根のように斬り捨てられたかわからない。
いや、彼女の剣の荒唐無稽な点は、その透明さのみではない。
その剣は、見た目と同じく切れ味においても、鎧武者を甲冑ごとどころか馬ごと両断するという非常識きわまりない性能を発揮し、寄せ手の兵たちを恐怖のどん底に叩き込んだのだ。
そして今、彼女はその不可視の剣を以って、大地に一本の線を引いた。
「……私は、敵を前に怯えし者を斬る剣を持ち合わせてはいない」
と言い、伊織を睨みつけると、さらに重ねて言った。
「追っ手よ、去れ!! この線より一歩でも足を踏み入れたならば、その命は無いものと覚悟せよ!!」
(こッ……ッッ!!)
女剣士のあまりに人もなげな言い草に、さすがに伊織の額に青筋が浮かんだ。
屈辱といえば、これ以上の屈辱はなかなか無いだろう。
伊織は侍だ。死を担保に命をあがなうのが侍の渡世だ。
いや、それ以前に彼は一個の男だ。どれほど美しかろうと――いや、美しければこそ尚更、女ごときから「怯えし者」などと言われる屈辱は、男ならばすべからく想像できるはずだ。
たとえ、女剣士の剣気にその動きを封じられようとも、今この瞬間に与えられた挑発は、伊織の背中に活を与えるに充分な威力を持っていた。
(このキリシタンの化物めが……その大口を後悔させてくれるッッ!!)
その憤りとともに、一歩を踏み出そうとした瞬間、伊織はおのれの肩をぽんと叩かれたのを感じた。
「…………武蔵、様!?」
あまりの驚きに、彼のうわずった声が響く。
無理もないだろう。本来ならば伊織と別行動をとって、ここより数里は離れた、とある宿場町にいるはずの彼の養父・宮本武蔵が、何かの間違いのように忽然と姿を現したのだ。
ここにいないはずの武蔵がここにいるという驚愕と、さらに、その武蔵に背後に立たれたことにまるで気付かなかった事実に対する羞恥とで、伊織はしばし女剣士から目を離し、武蔵を見上げたまま絶句している。
そして武蔵は、そんな養子の肩に無骨な手を置いたまま、静かに首を振った。
言葉はない。
しかし、この瞬間、伊織はおのれの頭に先刻以上に、カッと血が上るのを感じた。
その意味を聞き返すまでもない。武蔵が言いたかったのはただ一言、
「よせ」
という言葉に違いないことは、誰にでもわかる。
(馬鹿なッッ!!)
確かに、ここで対峙した瞬間、伊織は初めて見るこの女剣士の本気の“気”に圧倒された。
しかし、今は違う。
今の自分の内部には、その時にはなかった気炎がある。与えられた屈辱によって燃え盛る怒りがある。
やみくもに突撃をかまして勝てるとは思わないが、それでも精神的に圧倒されていなければ、少なくとも一矢報いるくらいは出来るはずだ。
いや、それは希望的観測ではない。原城の陣で実際にこの女の剣を見た上で、伊織の理性が冷静に判断した客観的事実である。
この女は、確かに強い。
武における“気”の大きさとその実力は歴然たる相関関係にある。つまり、あんな妖気に見まがう剣気を発するような剣士ならば、その技術の底は間違いなく――非常に不本意ながら――伊織の及ぶところではない。
だが、それは問題ではない。
伊織は侮辱されたのだ。
一人の男性として、ここまでコケにされて黙っていられるはずがないし、それを容認するような義父でもないはずだ。
ならば何故そんな――。
「伊織、いかにそなたでも、あの女と霧の才蔵を同時には相手にするは荷が重かろう」
弾かれたように伊織が振り向く。
いや、彼だけではない。
その言葉に、肝心の女剣士本人さえも、しばし武蔵を凝視し、さらにキョロキョロと周囲を見回した。
当然であろう……このあぜ道には、依然として武蔵と伊織、そして彼女の姿しか見当たらない。隠れているにしても、そんな都合のいい場所は見当たらない。道の両側はカエルの鳴く水田だからだ。
つまり「霧の才蔵」など、この場にいるはずがないのだ。
にもかかわらず……、
「いや……さすがでござるな宮本武蔵殿。いつからあっしの存在に気付いておられやした?」
伊織も女剣士も、今度こそ呆然となった。いや、それが小芝居でない証拠に、彼女が反射的に「馬鹿な……」と呟いたのが伊織にも聞こえたほどだ。
その、いかにも人のよさそうな中年男の声が、どこから発されたのか、彼には全くわからない。水田の泥の中に完全に身を沈めて気配を殺しているというならともかく、そんな真似をしていたら普通に溺死してしまうではないか。
しかし、武蔵はまるで動じた様子もない。
伊織の傍らから一歩右手に移動すると、腰の大刀をすらりと抜き、口を開いた。
「伊織、忍びの相手はわしがやる。あの女は貴様が斬れ」
その瞬間、伊織は再度おのれの養父を振り返った。
(武蔵様が自分を信用してくれてる……ッッ!!)
その思いは、伊織にとって歓喜そのものだった。
さっき首を振ったのは、戦力が未知数な「霧の才蔵」の存在を危ぶんだだけであって、あの女剣士の侮辱に甘んじろと伊織に言いたかったわけではなかったのだ。
「はいっっ!!」
彼は力いっぱい頷いてみせる。
と、同時に腰の刀をようやく抜き放った。
霧の才蔵……またの名を霧隠才蔵。
島原の乱には、その実キリシタンでも島原の農民でもない者たちも多数参加しており、たとえば関ヶ原で斬首された小西行長、関ヶ原後に改易された加藤清正、有馬晴信などの亡臣たちは、徳川の天下に強い憎悪を持ち、勇んで一揆軍に参戦し、その軍事技能を惜しむことなく発揮していたという。
そして大坂の役で玉砕した真田左衛門佐幸村の亡臣たる真田の草の者――いわゆる真田忍軍も、その例外ではなかった。
彼らは、そのいずれもが腕利きの忍び者であり、一流の武芸者に匹敵する戦士であり、特にその筆頭とされる「猿(ましら)の佐助」や「霧の才蔵」と呼ばれる二人の武名は、忍者という隠密行動を基本とされる職種であるにもかかわらず、天下に喧伝されるほどであった。
彼らは天草四郎たちの原城脱出を幇助し、細川藩や黒田藩の藩兵たちの包囲をたやすく突破し、追跡を振り切り、まるで煙のように行方をくらませている。
独自の追跡で、一度は彼らに追いついた武蔵と伊織も、その“十勇士”の一人である望月六郎を斬るのがやっとで、結果的にはまんまと逃げられてしまったほどだ。
しかし、今この瞬間、自分たちはようやく尋常の対決の場を得た、と言えるだろう。
先程ぶざまに女剣士の剣気に圧倒されておいて何だが、しかし伊織は、武蔵の傍らで剣を抜くならば、本来のさらに数割増しの実力を発揮できる自信がある。
そして、いかに“真田十勇士”が相手であろうとも、天下の宮本武蔵が、たかが忍び一匹に遅れを取るとは伊織には思えない。
だがその瞬間、この“親子”の足はピタリと止まった。
「いやいや、申し訳ございませんが武蔵殿、あっしたちはこの場を退かせていただきとうございます」
その才蔵の言葉に、女剣士はまたしても驚きと――それ以上に満腔の不満をあらわにした表情を浮かべるが、しかし、この期に及んで姿を見せないこの「才蔵」という男は、おのれの予定を反故にする気はないようだった。
うっすらとだが、それでも確実に、このあぜ道に不気味な乳白色の“霧”が浮き始めたからだ。
仮にも「霧の才蔵」と呼ばれる男が使う、この“霧”が、単なる煙であるはずがない。
いや、それを証明するように、才蔵の台詞がこの場に響く。
「参考までに申し上げておきますれば、この霧、吸いすぎれば気が狂って三日も経たずに棺桶に直行すること間違いなしの代物でしてな。……ああ、勿論あっしたちは“霧”の毒を中和する薬を服用しておりますゆえ、何ともありませぬが」
「うぬぅ…………ッッ!!」
伊織は、思わず奥歯を噛み鳴らしそうな表情でうめき声を上げ、しかし、その足は前には進まない。
こうしている間にも、その“霧”はますます深くなり、もはや女剣士の姿すらも見えなくなっている。いや、彼女を追うどころか、早くきびすを返して逃げなければ、すぐさま“霧”は風に乗り、この周囲一帯を覆い尽くさんばかりに濃くなってしまうだろう。
だが、伊織の頭にどれほどの血が上っていようが、致死性の毒ガスだと言われて、その中に大声上げて突っ込んでいくような蛮勇は持ち合わせていない。
そして、彼らが追うべき女剣士は“霧”にまぎれ、その姿を消した……。