才蔵とその女は、薄暮のあぜ道を急いでいた。
道に人気はない。
だからであろうが、彼ら二人の歩く速度が、徐々に速くなってきている。
無論、その瞬間だけを切り取って観察すれば、常人の普通の歩行と何ら変わらない。
だが、違う。
速いのだ。
その動作は単なる歩行とまるで変わらず、たとえば競歩のような、小走りを無理やり歩行という運動の枠に嵌め込んだようなフォームではないが……にもかかわらず、速いのだ。
もし彼の隣を歩いているのが常人だったとしたら、自分が何故この男と同じペースで歩けないのか判らぬままに疲れ果て、10分も経たぬ内に息が上がってしまうだろう。速く歩くという行為は、ゆっくり走るという行為よりも、よほど疲れる運動だからだ。
それはそうだろう。才蔵が本気になれば、まだまだ昼夜兼行で一日四十里を走るほどの体力はあるのだ。
外見的には、齢五十半ばを超える彼ではあるが、それでも、その体力は常人とは比べ物にならない。
……まあ、それも当然と言えば当然だろう。
忍者とはいっても色々いるだろうが、彼はただの忍び者ではない。
かつての大坂の陣で、主君の真田幸村とともに、その武名を謳われた真田十勇士「霧の才蔵」なのだから。
もっとも才蔵自身、自分にまったく遅れることなく、ピタリと同じペースでついてくる傍らの女に、密かに感心してもいた。
いまの彼女は、すでに宮本伊織と対峙していた折りの、青い着衣に白銀の甲冑などという派手な戦装束を着てはいない。どこにでもありふれた女物の和服を着用し、手甲脚絆に草鞋履きという、一般的な旅の女の姿になっている。
勿論その<変装>は着衣のみにとどまらない。
いわゆる日本髪のカツラを被って、そのまばゆい金髪を隠し、顔に泥を塗って、その白すぎる肌を隠し、その上から菅笠を被り、その美貌を隠している。
――が、それでもなお、彼女は美しいのだ。
その凛然たる彼女の美貌は、カツラや笠で顔を隠した程度では、まるで損なわれていない。
つまりそれは、彼女の魅力が、単にその目鼻立ちや肌質・さらに髪や瞳の色などという外的要因によるものではなく、あくまで彼女の内側より発されるものである事がわかる。
まさに女性としては、羨ましがらずにはいられない“美”の所有者というべきだが、しかし彼女自身は、少なくとも、おのれの美しさなど歯牙にもかけていないようなのが、皮肉と言えば皮肉であるが。
まあ性欲の対象としては、これ以上はないほどに魅力的な女性といえるであろうが……しかし、才蔵にとっては、その美貌も必要以上に目立ちすぎるというだけの困惑と辟易の材料でしかない。
忍び者にとって他人の注目を浴びるという行為は、それだけで大いなるリスクを負うと言える。「目立つ」という事実は、才蔵たちの常識では、何よりもまず回避せねばならない最低限の禁忌なのだ。
もっとも、いまさら才蔵にそれを責める気はない。
美女の顔が美しすぎるからといって、その責任を本人に問うような馬鹿はいない――というだけの話ではない。
才蔵は知っているからだ。
彼女が、単に美しいだけの女ではないということを。
いや、才蔵だけではない。
かつての島原の大乱――原城の篭城戦を生き延びた者たちは、皆知っていることだった。
一揆軍の軍師だった森宗意軒という老人の魔術儀式によって現世に召喚されたという、この美少女は、一揆軍のキリシタンたちにとっての守護天使役でありながら、それ以上に卓抜した戦士であり、優秀な参謀であり、有能な指揮官であり、十二万の幕府軍にとっての恐るべき死神であったことを。
才蔵は、自分に遅れず黙々と歩を進める彼女を、ちらりと横目で見る。
むろん彼女は、その瞬間に彼の視線に気付くが、特に言葉を返す様子はない。
そもそも彼女は、その美貌を鼻にかけるような女々しい言動は一切しない代わりに、その普段の生活態度はむしろ男臭さすら漂わせるほどに無骨なものだった。
が、いま現在、彼女が発信する不機嫌オーラは、もちろん日常のものではない。
もとより才蔵は、彼女が激怒している原因について理解している。
「せいばー殿……そろそろ機嫌を直しませぬか?」
その言葉に、彼女――セイバーは、まるで刃物を思わせる鋭い一瞥で応じる。
もとより、そこに言葉はない。
並みの男なら睾丸が縮み上がるような視線であったが、才蔵はむしろ溜息しか出てこない。
一騎打ちを邪魔されて腹を立てるのはわかるが、仮にも一軍の将であった者ならば、そんな個人の武勇に対する矜持など、所詮は足軽の勇であることは理解できるはずであろう。
ならば、いつまでもそんな安い怒りに溺れられては困るのだ。
もちろん才蔵にも、おのれの身に叩き込まれた戦闘技術に対する誇りやこだわりはある。あるし、理解も出来る。たとえ相手が宮本武蔵であったとしても一対一でむざむざ遅れを取るつもりはない。
が、それでも、話は別なのだ。
彼は忍び者だ。
おのれに対する誇りなど、勝利よりも優先すべきものではない――という教えを、まず最初に頭に叩き込まれている。そんな彼らにとって「卑劣」「悪辣」などと呼ばれるカテゴリーに属する戦術上の禁忌は、一切存在しないに等しい。
「あっしとしても、これ以上言い訳がましく弁解をする気はございませんよ。ただ、貴女様ならば、あっしの行動を理解していただけるはずでございましょう」
「…………」
「無論あっしも、せいばー殿の腕を信頼しておらぬわけではございませぬ。なれど、戦には万が一ということがあります。万が一の事態を想定して、その後背を守るために、出向いたまででございますよ」
「…………」
「現にあっしがいなけりゃ、あの場で、武蔵と伊織の宮本親子を同時に相手にせねばならぬ状況になってたはずでございましょう? せいばー殿の武勇がいかほどのものであろうとも、あの二人と同時に立合って、必ず無事に生きて帰れるなどと仰るほど、目の見えねえわけでもございませんでしょう」
「…………」
「そもそも今のあっしらにとって、せいばー殿の存在がいかに重いものであるかは理解されておられるはず。立ち合いを邪魔されてお怒りなのはわかりますが、いい加減そろそろ――」
「サイゾー、あまり私をあなどるなよ」
「……ッッ」
気付いたときには、才蔵は彼女から数間の距離に跳び下がって、懐の忍刀に手すら掛けていた。
その言葉に付随した殺気が、才蔵には一瞬本物に思えたからだ。
しかし、セイバーが次の刹那に浮かべた表情は、怒りどころか――微笑であった。
さすがに才蔵も、しばし絶句する。
無論それは喜悦や歓楽といった笑顔でない事くらい見ればわかる。
それはまさに、泣き顔に近いほどに寂しげな微笑であったからだ。
「いや……昔の私ならともかく、今の私では、な……」
それは自嘲だった。
ここにいる彼女は便宜上「セイバー」を名乗ってこそいるが、もはや、かつて無敵を誇った剣士の英霊ではない。
もし彼女が、かつての「セイバー」であったなら、たとえ眼前に対峙したのが武蔵であろうが新撰組であろうが、まったく歯牙にもかけず、鎧袖一触になぎ払ったに違いない。
当然であろう。聖杯戦争のサーヴァントとは、まさしく人知を超越した「超存在」なのだ。たとえ当代最強を謳われる武芸者であろうとも、まともに正面から戦って勝てるはずがない。人間とサーヴァントとでは、まさしくそこまで歴然たる力の差が存在するのだ。
では、サーヴァントとは何か?
それを語る前に、まず「聖杯戦争」について説明せねばならない。
六十年に一度の周期で、日本の冬木市で開催される聖杯戦争――七人の魔術師たちが、万能の願望機と呼ばれる“聖杯”を懸けて殺し合い、唯一残った勝者のみが、その“聖杯”におのれの願望を実現させる権利を得るという、魔術師たちの一大イベントがある。
もっとも、主に直接戦うのは魔術師たちではなく、彼らがそれぞれ召喚した歴史上の英雄たちの霊であり、その英霊たちは、一種の使い魔として魔術師たちに使役されるのだ。
その存在を“従者(サーヴァント)”という。
かつて性別を偽り、イギリスの伝説の騎士王「アーサー王」として生きてきた過去を持つ彼女は、これまでに二度、この聖杯戦争に「剣士(セイバー)」のクラスのサーヴァントとして召喚され、そして二度とも、最後まで勝ち抜いたという実績を持っていた。
おそらく歴代の聖杯戦争で出現した無数のサーヴァントの中でも、ほぼ一・二を争うレベルの実力を誇る英霊――かつての彼女は、そう断言してもいいはずの戦士だったのだ。
しかし、ここは冬木でもなければ、今は聖杯戦争でもない。
いわば今ここにいる彼女は、聖杯とは全く関わりない別の召喚儀式によって現界した一個人“アルトリア”という名のブリテンの少女に過ぎないのだ。
いや、これは洒落や諧謔ではない。
セイバー自身信じられぬことだが、今の彼女は“英霊”でも“サーヴァント”でもない、歴然たる肉体を持った一人の人間だった。
サーヴァントでない以上、マスターからの魔力供給も受けられず、かつて生前の彼女に不老不死の肉体を与えたという“全て遠き理想(アヴァロン)”の加護も失ったままの彼女は、原城の一揆軍の他の兵と同じく飢えと乾きに苦しみ、容赦なく吹き付ける海風によって風邪を引き、さらに彼女自身、選定の儀式以来、遠く忘れ去っていた「月経」という現象と、それに伴う発熱や嘔吐・疼痛に悩まされたほどだ。
彼女が今「セイバー」を名乗っているのは、アルトリアという自分の本名を名乗る事に少しは憚りがあるから、というだけの理由に過ぎない。
しかし、それでも彼女が、かつてブリタニアからスカンジナビア、さらにはガリアにまで及ぶ大帝国を建国した、伝説の騎士王である過去までが無に帰したわけではない。
その騎士としての剣技や、王としてのカリスマや将としての軍事能力、さらに――黄金の鞘こそ喪失したままであるが――かつて彼女の愛剣であった対城宝具・聖剣エクスカリバーはいまだ健在である。
原城の篭城戦において分裂寸前であった一揆軍の人心をまとめ直し、総大将であった天草四郎をよく補佐し、作戦参謀として多くの献策をし、戦術指揮官として軍を指揮し、総勢十二万ともいう幕府の大軍を相手に半年以上も持ち堪えることが出来たのは、まさしく彼女の力によるところがあまりにも大きい。
その個人戦闘力も、かつてのサーヴァント時代に比べるべくもないが、それでも原城では、押し寄せる敵兵十数人を一気に斬り伏せ、さらに“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の一閃は、幕軍総司令官であった板倉内膳正を、その本営ごと消し飛ばす威力を発揮したほどだ。
もっともその発射直後に、彼女は三日間の昏睡状態に陥ってしまったのだが、それでも見様によっては充分に超人的な戦闘力を所有したままだと言えなくもない。
が、それはしょせん余人の意見である。
彼女にとって自分の現状は、たとえ余人の目にどう映っていようが、それでもかつての往時に比べれば、見る影もない無力な残骸に過ぎないのだ。
味方に心配され、お目付け役がこっそり背中を護衛し、しかもその存在に気付けない自分など、聖杯戦争に参戦していた頃にはまさしく考えられない事態だろう。
しかし、それが今の――アルトリア・ペンドラゴンの現況なのだ。
自嘲の一つも浮かべたくなっても仕方はなかろう。
しかし才蔵は、当然そんな彼女の過去を知らない。
知らない以上、その自嘲に応える言葉を持ち合わせていない。
出来ることといえば、忍刀から手を離しながら、
「……せいばー殿?」
と、うつむいて口を閉ざす彼女に、心配そうな声をかけることくらいだ。
しかしセイバーは、その寂しげな表情をまったく崩さず口を開く。
「サイゾー、あのムサシという男に、私の剣は勝てると思うか?」
才蔵は、あんぐりと口を開けたまま言葉を失っていた。
時には傲岸に思えるほどに強気な態度を崩さぬこの少女から、まさかそんな弱気な台詞を聞こうとは思わなかったからだ。
「いや、せいばー殿そんな……」
そんな彼に、セイバーは真顔で畳み掛ける。
「世辞や気遣いは要らん。そなたの眼から見た真実だけを聞かせてくれ」