島原の乱――それは日本史上最大の百姓一揆にして、日本史上最後の宗教戦争である。
寛永十四年十月二十五日、島原半島に始まった農民たちの武装蜂起は、翌二十六日には島原城を包囲し、落城寸前にまで追い込んだという。
たかが百姓相手にたった一日でそのザマとは島原藩の侍どももだらしないことよ、と嗤うのは簡単だ。
だが、過酷過ぎる年貢増徴収とキリシタン弾圧政策に追い込まれていた農民たちの勢いは、すでに尋常のものではなかった。さらに年来の凶作が彼らをさらに背水の陣に追い込んでもいた。
もはや農民たちにとっては、役人を殺し、領主を殺さねば、自分たちの餓死は間違いないといった窮地にまで追い込まれていたのだ。
百姓たちをそこまで追い込んだ島原藩こそ、むしろ自業自得と言えるかもしれない。
現に、島原藩が救援を要請した近隣諸藩も同じ意見だったのか、一揆が島原四万石全域に拡大しても、幕府の指示がないことを口実に、いっさい動かなかった。
十月二十七日、天草でも武装蜂起が勃発し、島原の一揆勢と合流するや天草支配の拠点であった本渡城を攻撃、さらに十一月十四日には富岡城を攻め、城代家老の三宅藤兵衛を敗死させた。
さすがに座視できる状況ではないと幕府も認めたのか、この頃になってようやく近隣諸藩に動員令を下し、一揆勢は次第に追い詰められていく。
下策であると知りつつ、三万七千人の一揆勢が、旧領主であったキリシタン大名・有馬晴信の居城であった原城に入城したのもそのためだ。
一方、幕府軍は九州のみならず、四国・中国の諸大名を動員し、平戸のオランダ商会に命じて、原城に艦砲射撃まで撃ち込ませた。
さらに十二月十日・二十日と幕軍は総攻撃を行ったが、一揆勢の士気は高く、結束は固く、寄せ手の軍はあっさり迎撃されて敗走しており、さらに一月一日の三度目の総攻撃の際には、総大将の板倉内膳正をはじめ死傷者四千人ともいう大被害を出して、幕軍は文字通り一揆勢に蹴散らされている。
幕軍は大軍ではあったが、しょせん諸藩の兵の寄せ集めであり、さらに総大将の板倉内膳も少禄の御書院番頭にすぎず、あきらかに統率が取れていなかったともいう。
さらにこの頃の原城には、徳川家の天下に不満を持つ豊臣系の牢人がすでに数多く入城しており、軍事面での強固なサポートになっていたのも事実だが――しかしそれでも一揆勢の強さは少し常軌を逸しているとしか思えない。
だが、板倉内膳の後任として着任した松平伊豆守信綱は、さすがに前任者の轍は踏まなかった。
彼は力押しの城攻めから兵糧攻めに切り替え、また、籠城中の一揆勢に硬軟とりまぜた調略工作を開始した。
天草四郎をはじめ、一揆勢首脳陣の家族を拘束して降伏勧告を行ったり、幕軍に投降した者には罪を問わぬなどといった懐柔、さらには一揆勢が当てにしていた南蛮キリスト教国からの援軍の可能性も絶たれたことを通告し、一揆勢の士気を萎えさせようとしたのだが、それでも幕軍に投降する者は一人もいなかったという。
また、江戸の許可を得て更なる動員令をかけ、幕府軍は総勢十二万の大軍団に膨れ上がり、原城の包囲網は陸海ともにアリ一匹這い出る隙間もない鉄壁のものとなった。
そして二月――城内の食糧は尽きた。
一揆勢はもはや、飢餓地獄もかくやというほどの悲惨な状況となった。
彼らは土壁や、海岸絶壁の海藻まで口にし、餓死者の死肉を食う者までいたという。
そんな城内の窮状は甲賀忍者・望月与右衛門らによって逐一幕軍の本営に通告され――松平伊豆守は、二月二十七・二十八日、満を持して総攻撃をかける。
一揆勢は首魁・天草四郎をはじめ、城中に篭っていた者は女子供に至るまで三万七千人すべてが皆殺しにされ、乱は鎮圧された――という事になっている。表の歴史では。
史書は記さない。
原城の一揆勢が三度にわたって幕軍の総攻撃を退けて見せたのは、一揆勢の軍師・森宗意軒が、黒魔術の秘密儀式によって召喚した女騎士――アルトリア・ぺンドラゴンの作戦立案・戦術指揮能力、さらには彼女の対城宝具“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の威力によるものであった事実を。
しかしまあ、それでも彼女の存在は、あるいは原城の城攻めに参加した者であれば雑兵足軽に至るまで知っているはずだ。
紺碧の着衣に白銀の甲冑、そして不可視の剣を振り回して防戦の陣頭指揮を取る異人の女騎士は、その美貌も相まって、十二万の幕軍にとって人外の妖術使いに等しい恐怖の対象だったのだから。
だが、とりあえず彼女のことは、まあいい。
ここで重要なのは、史書には記されていないもう一つの事実だからだ。
すなわち天草四郎は死んでおらず、江戸に送られた四郎の首級は影武者役の偽首であり、本物の彼は幕軍の目を逃れて、まんまと逃げ延びていたという事実――である。
それを松平伊豆守信綱が知ったのは、乱の鎮圧数日後のことだった。
無論その報告を聞いて、伊豆守は慄然となった。
彼は、幕府軍の総指揮官であり責任者である。もしもこの件が明るみになれば、それは、即ち彼の責任問題になるということだ。
賊軍の首謀者を討ち洩らしたというだけではなく、そもそも江戸の将軍に虚偽の報告をしたという件の責任まで取らされてしまうだろう。
もしそうなったら伊豆守は失脚するだけでは済まされない。切腹は当然のこととして、彼が藩主を務める川越藩も、まず廃絶を免れないであろう。
(わしはまだ失脚するわけには行かぬ……ッッ)
伊豆守はそう思わずにはいられなかった。
単なる政治的野心のためではない。
むしろ理想のためだ。
この国の政情は、まだまだ不安定で、しかも将軍家光はいまだ若年で、現段階ではとても名君と呼べる器ではない。
今この時期に自分が政治の表舞台から追い出されるわけには行かないのだ。
もちろん伊豆守は、将軍家光の懐刀であり、現政権のブレーンの一人としてそれなりの権力を持っている。しかし、権力があるという事は逆に言えば、政敵も多いということだ。
何か一つ、致命的な失策をやらかせば、彼らはよってたかって牙を剥くだろうし、そうなってしまえば、いかに伊豆守といえど、どうしようもない。
むろん彼は彼なりに手は打った。
この一件を隠匿するどころか、逆に、幕軍に参加した九州諸藩の藩主たちを集めて、彼らに四郎捕獲の全面協力を乞うたのだ。
むろん彼は政治家だ。ただで下げる頭は持っていない。
四郎生存の情報がもし江戸城に洩れれば、その責任は総大将の自分のみならず、幕軍に参加した外様大名たちにさえも負わされかねない。それが嫌なら自分に手を貸せと、暗に脅しをかけたのだ。
もちろん常識から言えば、責任転嫁もはなはだしいというしかない脅迫だが、それでも九州諸藩は、近年の幕府の大名取り潰し政策を目の当たりにしてきている。
幕府ならば――というより柳生但馬守ならば、そんな言いがかりにも等しい口実で、御家断絶を宣告してくる可能性は非常に高いと言わざるを得ない。
さらに伊豆守は、幕府内のおのれの地位が安泰である限り、九州諸藩の味方となって廃絶・改易をさせないことを誓約し、結果的に言えば、この一件を口実に伊豆守は、九州諸藩の外様大名たちをおのれのシンパとすることに成功した、とさえ言える。
その後、島津・黒田・細川・鍋島・小笠原といった諸藩が団結して、四郎一行を九州から出さぬために、極秘裏に街道筋に非常線を張り、さらに彼らの足取りを追うために大量の人員が投入されたが――それも最終的に犠牲者を量産する結果にしかならなかった。
四月五日、四郎とその一行は、まるで開き直ったかのように白昼堂々、黒田家の警備兵三十人を蹴散らして関所を突破し、さらに彼らを追跡していた細川兵二十人も、その関所から程ない場所で全員死体となって発見された。
しかも話はそこで終わらない。
四郎一行は、むしろ自分たちの存在をアピールするかのように、街道筋や宿場町に網を張る諸藩の兵を、まるで通り魔のごとく無造作に殺戮して回ったのだ。
現在まで、彼らの手にかかったと見られる兵たちの数は、およそ百人を下るまい。
さすがの伊豆守もこういう結果は予想だにしていなかった。
この日この時まで彼は知らなかったのだ。
四郎の傍らに侍り、護衛しているのが、例の妖術使い――異人の女騎士であることを。
さらにその二人を、そもそも燃え落ちる原城より救い出したのが、大坂の陣で武名を上げた“真田十勇士”たちの残党であり、その名うての忍者集団があらゆる手段を使って彼らの逃走の援助をしていることを。
そして、さすがに――ただの兵隊の頭数をいくら増やしても、連中は確保できない――そう判断せざるを得なかった。
松平伊豆守が、小倉藩主・小笠原忠真を通じて――宮本武蔵に、密かにコンタクトを取ったのは、五月十五日。
それから数ヶ月にわたって、彼らの死の鬼ごっこが繰り広げられる事となる。
「「「「「「「「「「「「「「「
「佐助、お江から連絡(つなぎ)がきたというのは本当か」
「はい、船は当初の段取り通り、明日に小倉に到着するそうでござる」
そう訊いたのは、つるりと綺麗に禿げ上がった、というよりまるでシャレコウベのような外見をした不気味な老人。
その声も、外見にふさわしい泥を煮たような、ぐつぐつといった響きだった。
それに応じて答えたのは――老人ほど特徴的な顔をしていないが――道ゆく人が見れば思わず振り返るほどに、猿そっくりな相貌をした男だった。
老人はその名を、森宗意軒。
関ヶ原で、石田三成と共に斬首された小西行長の亡臣で、かつての島原一揆軍の軍師。
そして女騎士セイバーを黒魔術の儀式で召喚した、おそらくは現在日本で唯一の“魔術師”でもある。
猿顔の方はその名もズバリ、猿(ましら)の佐助。
いや、別名の「猿飛佐助」といった方が世間的には聞こえがいいかもしれない。
真田忍軍“十勇士”の筆頭であり、主君・真田幸村亡き後は、彼らの指導的役割を担ってきた人物である。
そして、彼らの背後に鎮座するもう一人の少年。
「四郎」
宗意軒が、背後を振りかえりながら呼びかけると、少年は軽くうなずき、
「では宗意、予定通りにお願いしますよ」
と、言った。
口調こそ丁寧であるが、その声には不思議な力強さが込められている。
その少女と見まがうような美少年は、ここにいる二人とは、傍目には異人種かと思わせるほどに雰囲気が違う。
その顔立ちや立居振舞には、まるで貴族の御落胤を思わせるような気品があった。
しかし、ただ品がいいだけの少年に、武装蜂起した三万七千の人間を統率する指導力など発揮できるはずもない。
乱のさなかにあっては、集団ヒステリー状態に近い心理だったはずの農民たちや、徳川に恨みを持つと言うだけで一揆に加担した豊臣系牢人たちからも支持を獲得し、なにより宗意軒に召喚されたはいいが、当初は乱への参加をしぶったセイバーを説得するなど、乱の指導者としては、その責任を立派に果たすだけの能力と器量を持っていた人物だと言える。
彼の名は天草四郎。
宗意軒と同じく小西家牢人・益田甚兵衛の息子であり、本名・益田四郎時貞という――。