原城を脱出した四郎とその一行は、そのまま島原湾を東に横切り、肥後に上陸するや、そこから北上を続け、今では豊前小倉まで五里ほどの距離にある、とある山小屋に身を隠していた。
むろん移動を仕切っていたのが真田忍軍である以上、素直に街道を歩いたわけではなく、山越え谷越え道なき道を踏破する過酷なルートを主に選択したわけだが、それでも、彼らは時折思い出したように街道に姿を見せたりもした。
諸藩の兵で編成された非常線や阻止線を正面突破し、自分たちの存在を誇示するためである。
天草四郎がまだ生存しており、徐々にではあるが、北に向かって移動しつつある――そう追っ手に認識させるための計画的行動だ。
――むろん陽動のためである。
とはいえ、当初の予定では、彼らはそんな乱暴な移動をするはずではなかった。
四郎はあくまで原城で死んだ事になっている以上、あくまで秘かに忍びやかに、小倉まで移動を果たす予定だった。
だが、松平伊豆守が想定以上に早く四郎の生存に気付いたため、予定を変更せざるを得なかったのだ。
陽動を兼ねて、道中の各所で正面突破を繰り返し、逆に存在を誇示する事で、諸藩の兵を街道筋に分散させ、移動の本命ルートである山岳地帯を手薄にさせるという案を出したのは、一行の軍師役である森宗意軒である。
そして、寛永十五年九月三十日。
この山小屋に辿り着き、一時の拠点として使用する事を決めたのが今日から五日前。
ここに佐助と宗意軒、そして四郎を残して、真田忍軍の忍び者たちはみな四方に散り、思い思いに諸藩の兵たちを相手に戦闘を繰り広げている。
由利鎌之介と穴山小助は北に。
海野六郎と筧十蔵は東に。
そしてセイバーと才蔵は南の街道に向かい、そこで単独行動している宮本伊織を斬り捨てているはずであった。
しかし宗意軒は、四郎の「予定通りお願いしますよ」という言葉にかぶりを振る。
「いいや、少し方針を変更した方がよさそうじゃ」
「変更?」
「うむ」
しかし四郎は不意に聞かされた予定変更に納得いかぬかのように眉をしかめる。
「説明して下さい宗意軒」
だが、そう言われて口を開いたのは、宗意軒ではなく、その隣に座って地図を睨んでいた佐助であった。
「このまま小倉に行けば、拙者たちはおそらく幕府の手の者に包囲される可能性が非常に高いということでござるよ」
「どういうことです?」
そう尋ねながら四郎は彼の傍らまでやってくると、そのまま佐助が広げていた地図に目を落とした。
宗意軒は言う。
「このまま陽動を繰り返し、わしらは門司の港から船で下関へ渡る――と見せかけ、小倉から日本海航路の船に乗り込んで、一気に越前まで移動するというのが、当初の予定だったんじゃが……どうも兵の配置が胡散臭い」
「と言うと?」
「小倉までの街道筋の警戒が手薄すぎる。巧妙じゃが、明らかに意図的なものじゃ」
「つまり?」
と、結論を促す四郎に、またも佐助が宗意軒の言葉を引き取る形で告げる。
「つまり、おそらく松平伊豆は拙者たちの策に気付いている――そういうことでござる」
「…………」
四郎は一瞬、瞑目したが、それでも表情に動揺はない。
「では、別の港から新たに違う船を手配しますか?」
と尋ねる。
しかし、宗意軒はまたも首を振る。
「いや、ここは裏の裏をかいて、そのまま門司から乗船しようかと考えちょる――佐助、お江に改めて連絡(つなぎ)を頼めるか?」
問われて、しかし佐助は首をひねる。
「それは別に構いませぬが、果たしてそれで伊豆を騙せますか否か……」
「わからん。わからんが、試してみる価値はあるはずじゃ」
そう言った宗意軒の表情は、あくまで厳しいものだった。
この森宗意軒という老人は、仮にも島原一揆勢の軍師役を担っていた存在だ。権謀術数の駆け引きは決して苦手ではない。
それどころか、むしろその洞察力は、状況によっては人の心が読めるのかと思わせる精度と正確さを見せるほどだ。
しかし、その彼が読みあぐねているのだ。
松平伊豆守という男の出方を。
(さすがに知恵伊豆と呼ばれる男だけのことはある、か)
四郎も、そう思わざるを得ない。
当初の推測では、自分たちが派手に動けば動くほどに、四郎生存を江戸に隠蔽しておきたい伊豆守は、政治的な事後処理に忙殺されざるを得ず、包囲網の具体的な指揮までは手が回らなくなるはず……と宗意軒は読んだようだが、どうやらそれも甘かったということらしい。
だが、四郎は気になっていた事を訊いてみる。
「しかし宗意、当方も戦力を分散せずに当たるなら、むしろ小倉を正面突破した方が、逆に話は早いのではありませんか?」
「……そう都合よく行くかのう?」
「佐助の猿、才蔵の霧、セイバーの剣に宗意の魔術、そしてもちろん鎌之介や十蔵たちとて十人力の忍び者です。やり方次第では何とでもなると思うのですが……」
「却下じゃ」
宗意軒は、むしろ生徒を見る教師のような暖かい眼を四郎に向ける。
「海風のきつい港では才蔵の“霧”は使えない。何より十人二十人程度の人数が網を張る関所破りならともかく、おそらくは百人以上が待ち構える罠に、自分から飛び込む愚は犯せんわい。何より――」
そこで宗意軒は一度言葉を切ると、改めて四郎を見据え、言った。
「その罠には、間違いなく武蔵がおるはずじゃ。危険すぎるわ」
老人が口にした武蔵という名は、四郎から間違いなく言葉を奪った。
彼も、原城でセイバーが武蔵と一対一で戦い、そしてついに勝利を得られなかったという事実を知っていたからだ。
そもそも前話におけるセイバーと宮本伊織の対決は、真田忍軍の哨戒網に「宮本伊織が武蔵と離れて単独行動をとっている」という情報が確認されたことが発端だった。
宮本武蔵が天下一と評される伝説的武芸者であることは周知の事実だが、その養子たる伊織も当代一流水準の剣客である事は間違いない。その二人が肩を並べて「島原の残党」を追ってくるのだ。これは正しく容易ならぬ敵と言わねばならない。
いや実際、彼ら二人は、九州諸藩の有象無象の兵士数千よりも余程おそるべき追跡者であった。
神出鬼没の隠密行動が可能なはずの真田忍軍をピタリと追尾し、あまつさえ「十勇士」の一人である望月六郎が、彼らの手によって斬られている。
その宮本親子が、なぜか今、単独行動をとっているという。
まともな脳のある者ならば、あからさまに罠を疑うところだが、あまりにも露骨過ぎるからこそ、森宗意軒は、逆に罠ならぬ千載一遇の好機なのではないかと判断を下し、彼らの襲撃を命じたのだ。
まあ結果としてセイバー・才蔵のコンビが伊織を斬ることはなかった。
セイバーが伊織を挑発したタイミングで武蔵がその場に出現した事から考えても、罠を張っていたのは武蔵サイドであったことは明白だし、むしろ彼女の目付け役に才蔵を付けた宗意軒の判断は正解だったことになる……が、現在この山小屋にいる四郎たちは、さすがにそこまでの事実は知らない。
しかし、宗意軒の言葉に黙り込んでしまった四郎を慰めるように、佐助は微笑みかける。
「しかし、とりあえず拙者たちは、少なくとも四郎殿とせいばー殿だけは、なんとしてでも江戸に辿り着かせるつもりでござる。そのために、たとえ我ら真田忍軍が一人残らず朽ち果てる事となろうとも悔いはござりませぬ。その点だけは御信頼下さりませ」
が、四郎の顔からは先ほどとは別種の困惑が消えない。
「佐助……いつも言っているでしょう。そういうことを言うのはもういい加減に――」
しかし佐助はかぶりを振る。
「いえ、四郎殿がどう思われようとも、これは拙者たちの存念の問題でござりますゆえ」
「しかしですね」
「四郎殿は実際、かつての主君・真田左衛門佐(さえもんのすけ)亡きのちの、生きる屍同然であった我らに、再び忠君の悦びを与えて頂いた、新たなる主君にござる。その忠誠に命を惜しむわけには参りませぬ」
そう言いながら片膝を付いて上目遣いに真摯な視線を向ける佐助に、しかし四郎は、彼の言葉を遮るように強い口調で言う。
「ならばこそ言うのです――佐助」
「はっ」
「貴方は僕を“主君”と呼ぶ。しかし僕はキミを家来扱いする気はありません」
「な……ッ!?」
家臣とは認めぬ――当然そう言われたと解釈した佐助は、顔色を変えて色めき立つ。
が、四郎は言う。
「貴方たち真田忍軍は――いや、貴方たちのみならず、宗意も、セイバーも、みな大事な僕の“同志”であり“仲間”です。家来扱いする気はありません」
四郎のその言葉に、佐助はもとより、海千山千の古強者であるはずの宗意軒までもが、一瞬呆然となる。
かつて島原の陣中でこそ盟主として上目遣いに接したが、元来、この天草四郎という少年を在野より拾い上げ、乱の首謀者として祭り上げたのはこの森宗意軒という老人である。
いわば宗意軒にとって、彼は格好の傀儡であったわけで、現に宗意軒は、乱の只中にあった時からも二人きりになれば四郎に対等な口を利いたし、原城脱出以降は、もう人目を憚ったような敬語は完全に使わなくなった。
が、当然それは四郎自身も納得づくのことであり、そこに感情的対立が発生する余地はない。
しかし、それはあくまで老人の側からの気持ちであって、四郎はこの自分の態度をどう感じているかまではわからない。
この利発すぎる少年は、ひょっとしたら自分を煙たく思っているかもしれない――そう思えなくもない瞬間が、過去に何度かあったからだ。
だが、今、彼は自分を同志・仲間と呼び、臣下ではないと強く言った。
宗意軒とて、元をただせば戦国生き残りの男だ。亡君・小西行長とともに朝鮮の役や関ヶ原で、死線を幾度もくぐった“いくさ人”の端くれである。
たとえ武士である以上に魔術師としての誇りを抱く者であっても、そこまで言われて何も感じないほど、その血は冷え切っていない。
そんな宗意軒と佐助を、四郎はまっすぐ見つめ、なおも言葉を続ける。
「ならばこそ言っておきます。命を粗末にする事は許しません。我らはこれ以上一人も欠けることなく全員で江戸に到着するのです。よろしいですね?」
「「ははぁっ!!」」
仲間であり同志だと言われたばかりの二人であったが、それでも四郎のいまの言葉を前に、佐助と宗意軒はともに居住まいを正し、膝を屈し、首を垂れ、まるで臣下の礼を尽くす者のように応えた。
そして……そんな二人を、またしても困ったように見下ろす四郎がそこにいた。