「で、まだ歩くのか十兵衛殿」
「なんだ、もうヘバったのかシグナム殿」
「…………ッッ!」
シグナムにしてはかなり勇気を要する一言だったのだが、小馬鹿にしたような笑みとともに、柳生十兵衛にそんな言葉を返されては、彼女は憮然と黙るしかない。
実際のところ、十兵衛の言うとおり、シグナムはすでにかなりバテバテだったからだ。
はっきり言えば、これ以上歩き続けると疲労が顔に出てしまいそうな確実な予感がある。
無論それはシグナムの気位が許さない事態ではあるが……しかし、いかに彼女であっても、しょせん現実には抗えない。
まあ、無理もないと言えなくも無い。
そもそも魔法文明の世界に生きてきたシグナムにとって、長距離移動の手段とは魔法による飛行であり、もしくは交通機関や車輌を利用することなのだ。
それを、百キロ以上もの果てにある目的地に向けて、ただひたすら歩くなどという行為は、彼女にとってあまりに非常識であり、想定しがたい状況であったのだ。
もっとも彼女自身、この時代の徒歩による旅というものを甘く見ていたフシがあるので、自業自得と言えないこともないが。
むろん彼女は、仮にも“闇の書”の剣の騎士だ。腕力、脚力、持久力などという基礎体力に於いて、普通の人間に劣る要素は存在しない。
しかし、舗装されてもいない道を、一定の速度を保ちながら長時間、さらに長期間(といってもまだ五日目だが)歩き続けるという行為がもたらす疲労は、ただのワンダーフォーゲルとはわけが違う。
いや、それでも傍らを歩く十兵衛の顔に、シグナム同様の疲労が滲み出ていたならば、まだ彼女のプライドも保てたはずだった。
しかし、深編笠から見え隠れする男の表情には、一片の曇りさえも見えない。
それどころか、彼の口元に浮かぶ、何かを期待するかのような微笑は、ますます深くなるばかりだ。
ともかく十兵衛との旅も、これで五日目だ。
日暮れとともに宿に入り、払暁には出立する。
食事も、所持金に限度があるので、満腹になるまでメシを食うというわけにはいかない。
いや、宿があればまだいい。日が暮れても宿場町に辿り着けない場合は、当然のように野宿だ。いかに早寝早起きであっても木陰に筵(むしろ)を敷いての眠りでは疲れきった肉体は完全に回復しない。
それどころか、その場合の食事は、冷えて固くなった握り飯と、水だけだ。
いや、さらに言えば、昨日の野宿でその最後の食糧も尽きた。
現金を使い果たしたわけではない。食糧を入手できるような店や集落に到着するまでの辛抱ではあるが、町どころか人家すら昨日からまったく見かけない以上、二人にはどうしようもない。
ゆえに、いまや二人は、昨日以来何も口にしていなかった。
ここ十年間、海鳴やミッドチルダで現代文明の恩恵に肩まで浸かって生きてきたシグナムにとっては、こういう日常はかなりしんどいものだったのだ。
「シグナム殿、ようやくメシが食えそうだぞ」
その一言に顔を上げたシグナムは、街道の隅に置き忘れられたかのように建っている、一軒の茶屋の存在が、ようやく視界に入ってきた。
思わずホッとする彼女だったが、その瞬間に隣でくすりと笑った男の顔が目に入る。
「いま笑ったか」
「いや、別に」
そう言いながらこちらを見返す男の顔には、いつものように上機嫌な微笑が貼り付いている。
さすがにイラッとしたが、それで取り乱すような醜態をさらす気は、シグナムには無い。
というより或いは、もはやそんな元気は彼女にはなかったと言った方が正確な表現だったか。
結局彼女は、フンと不機嫌に鼻を鳴らすと、変身魔法で我が身を、この時代の平均的な日本人女性の姿に変化させ、
「……何度見ても凄いのう、その妖術の便利さは」
と、呆れたように首をひねる十兵衛を無視するように、数百メートル先の茶屋に向けて重い足を運んだ。
ここが日本のどこなのか、すでにシグナムにはわからない。
いや、わからないという言い方は少し正しくない。
彼女は、宿に着くたびにここがどこかと尋ね、十兵衛はそれに対して答えてくれるのだが、残念ながら彼の答える地名も――いや、そもそも目的地の地名さえも、彼女の耳にはまったく聞き覚えの無い土地であったからだ。
本当は、あと何日歩き続けねばならんのかと訊きたいところだったが、さすがにその質問だけは彼女の誇りが許さない。
特に、シグナムがその疲労を懸命に隠し通していることを、十兵衛がうすうす気付いてそうだと感じてからは、一層そういう質問をしにくくなってしまった。
まあ、それでも自分たちが西に――九州に向けて進んでいる事くらいは理解している。
とりあえず関西・関東・四国・九州といったブロック名や、東京・大阪・名古屋といった主要都市くらいは彼女もかろうじて憶えているが、逆に言えば、彼女はその程度の知識しか持っていないという事だ。
海鳴に住んでいた数年の間に、この国の地理にさほど興味を持たなかったことを、シグナムは最近になって深く後悔し始めていた。
もっとも、そんな事は今はどうでもいい。
彼女の目下の興味は、眼前に置かれた山盛りの麦飯に集中していたからだ。
「あらまあ……随分とおいしそうに食べはるお嬢さんやねえ」
ガツガツと掻き込むようにどんぶり飯を食うシグナムを見ながら、茶屋の女主人の老婆が、十兵衛に微笑ましそうに囁く。
その言葉に思わず苦笑いを浮かべる十兵衛だったが、自分たちが昨日から何も食べていない状況を説明してやると、老婆は納得したようにうなずき返す。
そして彼は、逆に老婆に頼んだ。
「女将(おかみ)、済まぬがおかわりを頼む」
「あい」
笑顔でそう答えながら、老婆は店の奥に引っ込んだ。
しかし、肝心のシグナムが、いまの十兵衛の言葉に難色を示す。
「十兵衛殿……今のは私のための、か?」
何故そんな事を訊く?と言わんばかりの顔を十兵衛が向けると、シグナムは頬を少し赤らめて強い口調で言う。
「私のための配慮なら、余計な心配というべきだ。私とてこの旅の予算が無限でない事くらいは承知しているつもりだぞ」
そう言いながら、空になったどんぶりを、卓上に置く。
相変わらず彼女は、自分が他人に気遣われているという状況が、苦手で仕方がないらしい。
(いつもながら面倒な女だ)
とは十兵衛は思わない。
こういう面倒臭さも含めて、十兵衛は彼女の人柄を気に入っているからだ。
だから彼は言う。
「勘違いはいかんなシグナム殿、このおかわりは、おれのめしだ」
「…………」
「もっとも、そなたがおれのおかわりに付き合ってくれるというなら、こちらとしても頼むと言うだけじゃが」
「……なら、まあ、仕方ないな」
「よし」
十兵衛はうなずき、それと同時に老婆が、盆に二人分のめしのおかわりと、おかずの焼き魚を乗せて、店の奥から現れる。
さすがに焼き魚は頼んでいないと言ったが、老婆は笑って、うちの麦飯を美味そうに食ってくれた礼だと言う。
シグナムは慌てたように、遠慮の言葉を吐いていたが、しかし十兵衛は老婆にぺこりと頭を下げ、当然のように盆から焼き魚を受け取る。
シグナムも、そんな十兵衛の態度に少し違和感を覚えたような顔をしていたが、それでも空腹には勝てないと見えて、一礼をした次の瞬間にはその魚を口に放り込んでいる。
その豪快な食べっぷりに、十兵衛は、柳生ノ庄での最後の夜のことを思い出していた。
」」」」」」」」」」」」」
「つまり、私にそのアマクサシロウなる少年を斬れ――ということか」
そう言いながら、憮然と眉をしかめるシグナムではあったが……しかし、そのまま彼女は何も言わず、黙り込む。
弟・又十郎と久しぶりに顔を合わせ、怒鳴りあい、睨み合ったその晩。
十兵衛は弟を別室に休ませてから、眠らずに待っていたシグナムの部屋に再び戻り、父・但馬守宗矩の寄越した書状の内容を読んで聞かせた。
柳生家が南蛮人宣教師を匿っているという疑惑を晴らしたければ、天草四郎――原城を脱出した、隠れキリシタン最大の大物たる少年を斬れ、という。
その結果、シグナムは石のように沈黙し続け、うつむいたまま微動だにしない。
無論その表情を見れば、彼女がいま何を思い、何を考えているかなど一目瞭然だ。
いかにも不快そうにしかめられた眉。
正面に座す十兵衛にこそ向けられていないが、うつむく彼女の畳に向けられた視線は、トゲの様に硬く鋭い。
なにより、その全身から発する空気こそが、彼女が十兵衛の言葉にどれほど気分を害したかを証明している。
しかし、そこまで明確に十兵衛の言葉に対して怒りの感情を浮かべていながら、その口から、
「このシグナムを、使い捨ての刺客として扱う気か」
「我が剣は、戦士ならぬ少年を斬るためのものではない」
「私が、我が身の保障と引き換えに、見知らぬ子供を手にかけるようなクズと思うてか」
等といった拒絶の言葉が、即座に飛び出してこないのは、やはりこの地で十兵衛と柳生家に世話になった恩義があるという意識のためか。
だからこそ、十兵衛は言ってやる。
「いや、その必要はない」
そう言って、盃に満たされた酒を、ぐびりと一気に喉に流し込む。
ふたたびシグナムに十兵衛が視線を向けたとき、案の定、彼女はまばたきを繰り返し、自分が何を言われたのかわからぬ顔をしていた。
だからこそ、十兵衛は言ってやる。
「天草四郎を誰が斬ろうが、そんなことはどうでもいいのだよ。最終的に四郎の首級が上がれば、それをそなたが斬ったということにすればいいだけなのだから」
「……私が斬ったことに、する……?」
「ああ。おれが斬ってもいいし、親父が使ってる伊賀組の連中に任せてもいい。要するにシグナム殿が手を下す必要はないということだ」
「……いや、それはまあ、ともかくとして……何かが間違っていないかそれは?」
「なんだ、おぬし自分でやりたいのか?」
「そんなわけあるか!!」
「ならば問題あるまい」
「しかし……しかしな……」
そこで一度言葉を切り、目を据えて十兵衛を睨むと、シグナムは言った。
「ならば十兵衛殿、おぬしの目的は何なのだ? その少年の命が目的ではないのなら、何故そこまで――」
「知れたこと――宮本武蔵と立ち合わんがためよ!!」
そう言いながら思わず前のめりになった自分の勢いに、眼前のシグナムがのけぞったのが見えたが、もう十兵衛にはそんな事もどうでもよかった。
だから、彼はその興奮に任せて、口から本音を吐き出す。
「はっきり言えばシグナム殿、そなたや天草四郎の問題など、おれにとっては所詮は口実というか、大義名分にすぎぬ」
「口実、だと?」
あまりの言い草に、シグナムも思わず顔色を変えるが、しかし興奮状態の十兵衛の口調は変わらない。
「そうともよ。天草四郎をシグナム殿に討たせ、そなたが南蛮人宣教師ではないと証明して見せよ、というのが親父の寄越した書状の趣旨じゃが……おれにとって重要なのは、その後じゃ」
「あと?」
「我らと同様に四郎を狙っているという武蔵の存在を捨て置くわけにはゆかぬ。柳生家としては宮本武蔵にだけは、四郎の首を譲るわけにはいかんのだ。だからこそ武蔵を討てと親父は言う」
「で……?」
「つまり、そなたと天草四郎という口実を挟めば、おれは宮本武蔵と立ち合うことが出来るということじゃ。最強と謳われて久しい、あの武蔵と戦うことができるのじゃ、この柳生十兵衛がな!!」
「…………」
「しかも単なる稽古試合ではない。親父が「討て」と言った以上は、つまりこれは何でもアリの真剣勝負じゃ。これで心奮えぬようならば、それはもはや剣の道に生きる資格は無いと言うべきじゃろう!!」
まるで何かに取り憑かれたように一気にまくしたてる十兵衛だが、もはやその目はシグナムを見てはいない。
十兵衛が見ているのは、おのれの心のうちに佇立する宮本武蔵という、まだ見ぬ強敵であって、いま自分が吐いている言葉さえも、もはや誰に向けられたものではなかったのだ。
そして、そんな十兵衛を見ては、さすがにシグナムも冷静になったらしい。
「とりあえず落ち着け十兵衛殿、さっきから貴公の唾がこちらに飛んできてかなわぬ」
と言われてしまったので、十兵衛もやや赤面しながらそっぽを向いて頭を掻く。
「だがそれでも、強者との戦闘こそ剣士の本懐と言う十兵衛殿の気持ちは、私にもわからんでもない」
「ほう……!」
そう言われて顔を上げた十兵衛の前には、いつもの表情に戻ったシグナムが、自分の盃に酒を注いでいるところだった。
「いいだろう。その旅の目的があくまで貴公と宮本武蔵の決闘にあると言うのならば、私とて興味はある。どこに行くのか知らんが、付き合ってやろうではないか」
彼女はそう言って屈託の無い笑顔を浮かべ、そして盃の酒を一気に飲み干した。
」」」」」」」」」」」」」」」
「ふう……」
いかにも満足したような溜息をつきながら、十兵衛はぽんぽんと腹をなでる。
丸一日、腹に何も入れていない身であれば、こんな場末の茶屋の麦飯でさえ、ここまで美味に感じるものか。
ちらりと傍らのシグナムを見ると、彼女も堪能したように空のどんぶりを置き、茶をすすっている。
「さて……女将どの、ではそろそろ、お愛想を願おうか」
そう言いながら振り返ると、老婆はうなずきながら答える。
「へえ、お二人様で二十五文でごぜえます」
「ほう、随分と安いではないか」
「いえいえ、こんな古ぼけた山茶屋の出す麦飯なぞ、その程度の値が相応でごぜえますだよ」
と言って微笑む老婆に、十兵衛は言う。
「あまりに人の好い言葉ばかり並べると、かえって怪しゅうございますぞ、服部殿」
ぎょっとしたようにシグナムは老婆を振り返り、そして十兵衛の顔を振り返る。
逆に老婆の表情は、さっきの孫を見るような微笑から何一つ変わらない。
しかし、いまさら取り繕ったところで無駄なのだ。
この老婆が、伊賀組頭領の服部半蔵であることは、すでに十兵衛にはわかっている。
もっとも、半蔵とて本気で老婆の演技をしていたわけではなかったろう。
気付く者なら気付く、といった程度だが、それでもすでにヒントは出ていたのだから。
「この魚は、伊賀の服部郷でしか取れぬ“つじも”という川魚でありましょう。そんなものを食膳に出されれば、この十兵衛にも、さすがにわかろうというものでござるよ」
「かっはっは、さすがは天下の柳生十兵衛! お見事お見事!!」
十兵衛といえど、名指しで褒められて悪い気はしないが、それでも手を叩いて笑った老婆の声だけが――先程までと完全に違う、壮年の男性の声であったのが、ある意味すさまじく不気味な光景だった。
もっとも、不気味だったのは、その声色だけではない。
老婆――半蔵は、曲がった腰を伸ばすでもなく、皺だらけの顔の筋肉を戻すでもなく、身にまとったその空気だけを一変させたのだ。
その雰囲気の剣呑さというより、あまりに見事な気配の変質っぷりに、シグナムは反射的に身構えながらも、それでも絶句しているようだった。
だが、十兵衛は屈託なく言う。
「久しぶりにござるな半蔵殿」
「およそ六年ぶりでござろうかの、十兵衛殿」
無論そう答える老婆の姿は、十兵衛が知っている侍装束の服部半蔵とは似ても似つかない。
しかし、いま彼が発するこの気配は、十兵衛が知る半蔵のものに間違いなかったのだ。
そして半蔵はそのままシグナムに視線を向けると、
「シグナム殿でござるな? それがしは服部半蔵と申す者。以後お見知りおき下され」
と言い、さらに彼女の返事を待つことなく、ふたたび十兵衛に視線を向けた。
「さて十兵衛殿、久闊を叙する暇もなく申し訳ござらぬが、天草四郎とその一党の新たなる所在が判明いたしました。ゆえに柳生家との盟約に従い、服部半蔵自ら、貴殿らを道案内させて頂きまする」
「うむ」
「天草四郎は現在、豊前・小倉に向かっておるとの事。早急に捕捉し、これを斬れとの公儀の沙汰にござる」
「小倉、か……」
十兵衛は瞑目する。
豊前小倉――そここそが、あるいは次なる決戦の地に選ばれるのかどうか。
それはまさに神のみぞ知ることだった。