今この瞬間まで、そこには誰もいなかった。
しかし、今はいる。
数歩の距離まで迫ったセイバーの標的である大砲。その前に、まるで壁のように立ちふさがる女。
おそらく、さっきセイバーを空中から攻撃した後、余裕を持って、そこに降りてきたのだろう。
甲冑の上から洋服らしい上着を着込んだ、セイバーの知らない戦装束。
いや、それ以上にセイバーの目を引いたのは、その女の外貌だった。
その女は、セイバーが見慣れた平たい顔の日本人ではなく、ヨーロッパ系を思わせる白人種だった。さっき行使した“火”属性を象徴するように、その髪は燃えるような赤に彩られ、その瞳は猛禽のような鋭い視線をセイバーに向けて放っている。
いや、“火”の魔力付与攻撃を仕掛けてきた以上、この女も魔術師であるはずだし、ならば日本人でないのはある意味当然と言わねばならないが、しかし、セイバーの覚えた違和感は、女の放つその剣気だった。
魔術師は剣気を放たない。
いや、それ以前にこの女は魔術師ではない。
そいつが右手に持った剣が証明するように、女は、誰が見ても一目でわかる「剣士」だった。
セイバーと同じく、一本の剣を自らの分身として振るい、呼吸するように、食事するように敵を斬り捨ててきた――そういう生き方をしてきた者。
しかも、騎士道もしくは武士道的な戦闘美学を、おのれのプライドとして抱く者。
さもなければ、さっきの回避運動で体勢が崩れたセイバーは、一刀の元に斬殺されていなければならない。
あの瞬間の彼女は、まさしく隙だらけだったのだから。
いや、それどころか今この瞬間でさえも……。
「十兵衛殿、わかっていようが手出しは無用だ」
――そう。
女が声をかけたのはセイバーに向けてではない。
セイバーの後ろにいる、もう一人の存在。
無論セイバーは、女と対峙した瞬間には、背中の気配に気付いていた。
そいつは、眼前の女ほどにむき出しの剣気を放ってはいなかったが、それだけにその落ち着いた存在感は、この赤毛の女と同様に、容易ならぬ敵であることを立証していた。
つまり、こいつらはその気になりさえすれば、二人がかりであっさりセイバーを殺せたということだ。
しかし今、赤毛の女はその選択肢を自ら捨てた。
そして背後の存在も、(やれやれ)と言わんばかりの溜息とともに、その殺気を収めたのがセイバーにもわかった。
ここまでお膳立てされれば、もはや赤毛の女の言い分を理解せざるを得ない。
「つまり、貴様の望みは一騎打ち、ということでいいのだな?」
そういってセイバーは、背後の敵に対する一切の警戒を解いた。
“一騎打ち”という言葉を聞いた瞬間に、赤毛の女が子供のように微笑したのが見えたからだ。
わかっている。
この女は私と同じだ。
一瞥でわかる、この世界に本来いるはずのない存在。
だがそれだけではない。
女として以上に、戦士として、自分と同じ匂いがするのだ。
人斬りが好きなのでも戦争が好きなのでもない。
闘うのが好きなのだ。
一対一で、対等な、強者と、命を懸けて、勝負するのが好きなのだ。
死や敗北は、あくまでもその結果でしかない。
ならばこそ、セイバーは言う。
「我が名はアルトリア……人はセイバーと呼ぶ」
ならばこそセイバーは問う。
「貴公の名を聞かせよ」
そして、その問いかけに、赤毛の女は誇らしげに答えた。
「時空管理局一等空尉……いや、最後の夜天の主・八神はやてが守護騎士」
――シグナム、と。
むろんセイバーには「ジクウカンリキョク」なる組織も「ヤガミハヤテ」なる人物も聞き覚えは無い。
しかし、ここで敢えて無粋なツッコミを入れるほど彼女は野暮ではないし、もはやそんな些細なことはどうでもいい。
重要なのは、剣を交えるに足る相手がここに――自分の眼前にいるということだ。
なればこそ、セイバーは言う。
「いくぞ、シグナムとやら!!」
「「「「「「「「「「「「「「「「
――二人の女騎士が出会い、剣を交えるその六十分前。
小倉港の桟橋からは、一隻の船が出港しようとしていた。
「抜錨!!」
「艫綱(ともづな)解けぇ!! 出航するぞぉ!!」
「よぉし、行き足ついたぁ!!」
「総帆開けぇ!!」
「舵固定! 進路このまま!! よぉそろぉッッ!!!」
などといった船乗りたちの専門用語が飛び交い、甲板上や帆柱周辺は、何人もの船員たちが忙しげに走り回る中、帆に風をはらんだ船は、桟橋を離れて、ゆらりと進み始めた。
そんなせわしげな空気の中、達磨のように太ったヒゲ面の船長だけは、そのまま無言で腕を組み、船首に屹立したまま水平線の彼方を強い視線で睨みつけている。
勿論その背中に、お前も働けよと無粋なツッコミを入れる船員は誰もいない。
この船長が身にまとう空気は、それほどまでに完成された「海の男」のものだったからだ。
彼の名は堺屋新左衛門。
この船の船主にして、小倉を拠点に日本海航路を交易地盤とする海運商人である。
真っ黒に日焼けした全身の肌。
一見太っているように見えても、よく見ればその肉体は、船乗り独特の分厚い筋肉に覆われていることがわかる。
また、その褐色の肌よりさらに黒いひげが顔の下半分を覆いつくし、まるで三国志の関羽将軍のごとき貫禄が、船長の全身を包んでいる。
とはいえ、外見年齢だけでも明らかに五十歳以上であることが見て取れる彼が、戦国生き残りの「元いくさ人」であることは、子供にも想像がつくだろう。
もとより、この堺屋――御堂新左衛門――といえば、かつては中国・朝鮮・東南アジアにまで押し出した倭寇の一手の将であり、さらに小西行長に仕えてからは、その水軍で名を知られた男であったが、小西家はもとより、豊臣家さえも大坂城とともに滅亡して久しい現在、もはや男の旧名を知る者はこの世にはいないはずだった。
カネを積んで小倉よりの密航を依頼し、いま船倉に身を隠している数人の客。
その中にいるかつての同僚――森宗意軒を除いては。
「かしら」
と呼ばれた声に振り返ると、副長格の清太郎がこちらに走り寄ってきた。
が、彼の口から出たのは、船乗りには日常であるはずのいつもの大声ではない。
むしろ真夏の怪談話でもするかのような囁き声だった。
「なんだかんだと、何事も無く出航できたようですね?」
無論そこにホッとしたような響きは無い。
覚悟していた一悶着が起きなかったということは、それはそれで喜ぶべきではあるが、それでも油断は出来ない。
逆に、海にこそ罠を張っているのだとしたら、乗船の際に手出ししてこなかったのは当然だし、さらに面倒はここからだという話になってしまう。
清太郎も、それを言外に含ませているつもりなのだろう。
「あの連中、やっぱり断れなかったんですか?」
と、いかにも厄介を背負い込んだと言わんばかりの顔で聞いてくる。
が、新左衛門には、その今更ながらの質問にまともな返事をする気はない。
第一、目の前で小判を積まれた時はコイツだって、惚れた女と祝言が決まったような顔で喜んでいたのだ。
それを今更「断れなかったのか」と、こっちに責任を押し付けるのような言い草をするところが、また笑止千万ではあるが。
「言うな」
と、鋭い視線を伴った重い声で新左衛門は答える。
これでも戦国生き残りの一睨みだ。他の者ならその視線の鋭さに口答えなど出来なくなってしまう。
もっとも最近は特に生意気な口を利くようになってきたこの青年は、のけぞりこそしたが、それでも船長の一瞥で自分の言い分を完全に封印してしまうほど従順ではない。
だからこそ、新左衛門は敢えて言葉を付け足してやる。
「あれは俺の昔の主筋の連中だ。何か頼まれたら無下にはできん」
――だから今更ゴチャゴチャ言うな。
そう言わんばかりの口調で、清太郎の反論を封じる。
生粋の船乗りであるこの青年に、武家奉公の倫理はわからない――ということはない。
封建社会の価値観の根幹が“主従”という人間関係にある以上、たとえ漁民町人といえども、その関係に付随する感情を理解できないということはありえないからだ。
そして眼前の若造は、新左衛門の“主筋”という言葉の絶対的な響きに言葉を失い「このまま何もなきゃいいですけどね」と捨て台詞のように吐き捨て、不貞腐れたように背を見せた。
(いちいち口の減らない奴だ)
新左衛門は清太郎の背中を見終えると、そう思いながら太い鼻息を洩らす。
とはいえ、清太郎の生意気すぎる態度に怒りを覚えるには、新左衛門は歳を取りすぎていた――という話ではない。
正直な話、自分が彼の立場ならば、やはり同じことを思っただろうし、同じことを言ったはずだ。
たとえ何をどう言い繕おうとも、船倉の連中が小倉藩に追われているのは間違いないし、ひいてはこの船――「堺屋」という看板そのものを危機にさらす原因ともなる。
それどころか、下手をすれば連中の逃亡幇助で、自分たちまで罪に落とされかねない。
これは子供でもわかる理屈だ。
船の、というか店の関係者としては文句の一言くらいは言いたくなって当然だろう。
いまさら侍時代の旧縁をほじくり返す意味など、新左衛門本人にはともかく、堺屋という「法人」にしか縁を持たない清太郎たちに、理解しろなどと言うこと自体の無意味さは承知している。
むろん彼ら現部下たちも、新左衛門がどこの誰であったかまで知っているわけではない。
が、それでも彼が、元は豊臣系大名の牢人であったことくらいまでは、うすうす察しがついているであろう。
逆に言えば、徳川家による幕府成立以降に「商人」という新興階級に台頭した者たちの大半が、新左衛門と同じような「侍崩れ」であることは間違いない。なればこそ、小倉藩が小倉港に寄港している商人や船乗りの身元調査をしているらしいと聞いたときも、新左衛門は特に何も感じなかった。新興階級なればこそ仲間を売るような仁義しらずは、滅多にいない。むしろ(無駄なことを)と腹の中で嗤ったくらいだ。
腕一本・才覚一つで世を渡ってきた新左衛門にとって、小倉藩など所詮その程度の存在に過ぎない。
が、それでも――敵に回して得をする権力など、この世には存在しないのも事実だ。
しかし、清太郎には悪いが、もうこれはそういう話ではないのだ。
かつての主家たる小西家が、関ヶ原の戦後処理で取り潰されて、約四十年。
それ以来、新左衛門はおのれが建てた「堺屋」という看板に隠れて、一個の商人として生きてきた。
だから何だ?
そう問われても返す言葉など無い。
新左衛門としても、そんな過去に対する感情など、とっくの昔に整理がついているはずだったからだ。
が、過去の亡霊のようなかつての同僚とさっき顔を合わせて、彼の胸のうちに芽生えた感情は――新左衛門本人にさえも意外なことに――巨大なまでの「羞恥」だった。
彼らが、おのれの商人としての立場を危うくするであろう“招かれざる客”であることは間違いない。しかし、今なお「小西家牢人」として現世をさまよっている亡霊のような彼らに比べて、名を捨て、過去を捨て、武士としての矜持も何もかもを投げ捨てて世渡りをしている自分の、なんと醜く、恥ずべき姿であることか。
そして、その身を焼くほどの羞恥を一度意識してしまったら、もう駄目なのだ。
昨日までの、銭勘定を基盤とする商人としての日常的な思考そのものが、もうどうしようもなく色褪せて見えてしまう。
そうなってしまっては、もう駄目なのだ。
昨日までの自分を否定することの無意味さを、充分に理解しながらも、それでも否定せずにはいられない。
そうなってしまっては、もはや明日以降の日常をどう過ごせばいいというのか。
いや、確かにこれは新左衛門自身、わけがわからない心境だと言うしかない。
先祖代々の主君というならともかく、彼にとって小西家など所詮おのれ一代限りの奉公先に過ぎない。
いやそもそも小西行長自身、羽柴筑前守時代の秀吉に拾われた堺の薬屋のせがれであり、さらに言うなら、その秀吉自身、元をただせば尾張の貧農の子でしかない。
無論それは、この時代の人間の意識にとっても重要な点だ。
つまり――清太郎にはああ言ったが――本音を言えば、新左衛門にとっても武家的な価値観などは、あくまで一時の方便であったにすぎず、主君・摂津守行長本人に対してならばともかく、小西家という家や血筋に対する尊崇など、現役の武士であった頃からそれほど持ち合わせてはいなかったという事なのだ。
もっとも、それは彼個人が特に薄情な人間であったということではない。
彼も、彼の主君も、ついでに言えばその主君の主君も、先祖代々続く生粋の武士ではない。主君本人ならばともかく、その家という「法人」に対してまで忠誠を尽くす価値観をさほどに持っていない。
なればこそ秀吉は信長亡き後の織田家を追い落とし、さらに、秀吉が草莽より拾い育てた多くの大名たちは、秀吉亡き後の豊臣家を見限って家康に協力し、恥も外聞もなく自家の保存を最優先の目的とした行動を取ったのだ。もっとも加藤清正・福島正則といった彼ら豊臣系の大名のほとんどは、最終的に徳川によって取り潰されてしまったが――しかし、それを自業自得と嗤うつもりは、新左衛門にはない。
まあ、それはいい。
要するに新左衛門にとって、今おのれが森宗意軒に対して抱いている“羞恥”という感情自体が、非常に納得のいかないものであったということなのだ。
溜息を一つつくと、新左衛門はようやく動き出した。
船の行き足は順調だ。
風も追風だし波も穏やかだ。
新左衛門は甲板に突き出た入り口から階段を降り、そのまま廊下を人気の無い方向に移動する。
この船は、日本海航路用の大型船――いわゆる「北前船」と呼ばれる種類の物なので船倉は広く、大きい。人間の数人程度なら隠そうと思えばなんとでもなる。
(とはいえ……どうすべきか)
新左衛門は、数十回目になる自問を脳裏に浮かべ、ごりごりと頭をかいた。
船倉の奥、積み上げられた米俵の陰に隠れるように、連中はいた。
「おお新左、此度は本当に世話になったのう。おぬしの心遣いと忠誠には、亡き殿も“はらいそ”でさぞかし喜んでおられるであろうぞ」
一同の中心に居座り、大声で自分を呼ぶ、骸骨のような外貌を持つ、この老人。
名も覚えている。
小西家時代にさほど友誼を結んだ記憶はないが、それでもその特徴的な外見は、余人と間違えようが無い。
「そんな話はいい。それより森、本当に新潟でこの船を下りてくれるんだな?」
新左衛門の切り込むような一言に、さすがに森宗意軒といえどもムッとした様だったが、しかし、一瞬後にはすぐに好々爺とした笑顔に戻る。
「おおよ、新潟まで運んでくれるだけでも我々としては大助かりじゃ。おぬしにはもう、どれだけ感謝しても感謝しきれぬのう」
という、宗意軒の声と同時に、スッと立ち上がった一人の若者。
「御堂新左衛門ですね。宗意より貴殿のことは耳にしていましたが、しかし、此度は本当に世話になります。貴殿の尽力に感謝します」
その眼光。
その声色。
そして間違えようも無い、全身から匂い立つような、その気品。
気が付いた瞬間、新左衛門は自分がこの船倉の床に膝を付き、額を床にこすり付けるような勢いで平伏している自分を発見した。
が、そんな自分を意識しても、顔を上げようとは思わない。いや、平伏したまま体を微動だにさせようとも思えない。
そんな新左衛門に、宗意軒が口を開く。
「亡き殿の忘れ形見、小西弥九郎様じゃ」
鼓膜を震わすその名に、新左衛門のうなじがびくりと震える。
むろん知らぬ名であるはずがない。
かつて秀吉に拾われた当時の小西行長の旧名ではないか。
「父を直接知らぬ私ですが、いまは宗意の進言もあり、かつての父の名を名乗っています。いずれこの名も、この小西の血とともに私の子に譲ることになるものではありましょうが」
「おお……おおお……ッッ!!」
たまらず新左衛門は顔を上げる。
もはや溢れる涙を止めようも無い彼の目には、眼前の若者の顔さえハッキリと視認できなかったが、それでもこの青年――いや、少年と呼ぶべきか――が、何者であるかは、もはや確信を持って理解できる。
「御堂……新左衛門でござりまする、若殿ぉ!!」
新左衛門は泣いた。
この数十年――いや、関ヶ原で何もかもを失ったあの日以来、流すことさえほとんど無かった涙は、まるでこの日のために溜め込まれていたといわんばかりに、とめどなく流れ落ち、船倉の板敷きの床に小さな水溜りを作った。
いや、当然であろう。
あの日滅んだはずの小西家は、ここに復活したのだ。
雌伏の日々は終わりを告げた。
小西家家臣・御堂新左衛門は、数十年の空白を経て、ようやくおのれの主たる小西家の後継者に巡り会えたのだ。
もはや一分のためらいも無い。
新左衛門が稼ぎ、溜め込んだ蓄財も、そしてこの船も、いや、この命さえも、何もかもをこの御方のために捧げよう。
彼は、何の疑いも無く、おのれの心にそう固く誓った。
そして、号泣しながらひざまずき顔を上げようとしない新左衛門を、自ら「小西弥九郎」と名乗った少年は、複雑な顔で見下ろした――。
「「「「「「「「「「「「「「「
「しかし“暗示”というものは、何度見ても愉快なものではないな」
日本髪のカツラを脱ぎ、着物の襟元をくつろがせながらセイバーが言う。
新左衛門はすでにこの場にいない。
彼は涙を拭き、船長としての任を全うするために甲板に戻っていった。
そのためか、この場にいる全員に、ある種の弛緩した空気が流れている。
だからなのだろう。
セイバーも誰に遠慮することなく、魔術師への嫌悪感を剥き出しにした感情を、宗意軒に向けている。
もとより宗意軒も、セイバーのそんな視線など歯牙にもかけない。
「なんじゃセイバー、おぬしはもう二度と“卑怯”などという言葉は使わぬと昨日言うておったじゃろうが。あれは嘘か?」
そう言われては彼女としても黙るしかない。
まあ、セイバーの気性を考えれば、彼女が眉をひそめるのも当然ではある、とは宗意軒も思うが。
人間の感情を欺き、操り、弄ぶ所業――この船の主である堺屋新左衛門に宗意軒がかけた“魔術”とは、客観的に見てそういうものであったからだ。まともな神経を持つ人間ならば、目をそむけずにはいられまい。
それくらいは宗意軒もわかる。
が、この場においてそんな複雑な表情をしているのはセイバーと四郎だけであり、真田忍軍の者たちは、むしろ賞賛と尊敬のまなざしを自分に向けているのが皮肉ではあったが。
「しかし森殿、まったく便利なものですな。その暗示なる術は」
“十勇士”の中でも比較的人格者であるはずの佐助でさえ、感嘆とともにそう言う。
まあ、それもある意味当然であったろう。
他者を欺き、忍び、潜み、情報を入手することこそが、諜報技能者であるはずの彼ら忍びの職業目的なのだ。こうまで真正面から、他人の心を操れる技能を羨まぬはずがない。
堺屋――御堂新左衛門が、かつて小西家において宗意軒と同僚であったことは、事実として間違いない。
が、そんな彼に暗示をかけ、我々に自ら望んで協力するように仕向けたのは、宗意軒の魔術の結果である。
今日という日に都合よく小倉と門司を出航する船をリストアップするくらいの下準備は、宗意軒としても真田忍軍に命じて、当然やらせている。その責任者に“暗示”をかけて、自分たちの乗船に協力させるためであったが、しかしそれにしてもその中で、たまたま旧知の人間が小倉にいたという偶然は幸運としか言いようが無い。
そのための材料として、小西家の旧臣であった過去の記憶を刺激するために、天草四郎に「小西弥九郎」なる偽名を名乗らせもした。
もしも新左衛門が正気であったならば、四十年前に滅んだ小西家の御落胤が生き延びていたなら、その年齢も相応のものでなければおかしいということに気付いたはずだし、少なくとも、どう見ても十代にしか見えない少年が、摂津守行長の息子であるはずがないと、瞬時に判断したであろう。
宗意軒が憶えている限り、御堂新左衛門という男は、その程度には頭の回る怜悧さを持ち合わせていたはずだからだ。
が、まあいい。
とにもかくにも、船は小倉を出た。
(とりあえずこれで、少なくとも次の停泊地までは安全であろう)
などとは、宗意軒は思わない。
この船に乗り込むまで、自分たちがおびただしい監視の目に晒されていたことなど、すでに承知していたからだ。
――ならば何故、奴らは自分たちに手を出さず、むざむざ出航するのを見過ごしたのか?
宗意軒は溜息をつきながら、その場に腰を下ろす。
無論そんな疑問の解など、彼にはとっくに見当が付いている。
そして、彼のそんな予想を裏書するように、甲板へ通じる階段から再び、どたどたと聞き覚えのある足音が響いてきた。
「若殿! 一大事でござりまする!」
そう言いながら、慌てふためくように船倉の、自分たちの前に飛び込んできた男。
むろん、そんな聞き慣れぬ言葉で彼らを呼ぶ者が誰であるかは明白だ。
いかにも主君を守るような風情で、四郎の前に腰を上げた宗意軒が、
「どうした?」
などと訊くまでもなく、新左衛門は喚くように言う。
「戦船(いくさぶね)が四隻、一直線にこの船を追ってきます!! 奴ら、この船を包囲するつもりでございますぞ!!」
確かに聞き捨てなら無い情報ではあるが、宗意軒は冷静に突っ込む。
「落ち着け新左、その船が追っ手であるとは限るまい。ひょっとすると単に同じ方角に急いでいるだけの船団かも知れんじゃろう?」
が、新左衛門の表情は変わらない。
むしろ、その緊張を増大させながら、旧主の忘れ形見たる少年を振り返る。
「いや、拙者も最初はそう思ったのですが、先程やつらの船から、この矢文が打ち込まれたのでございます!」
そう言いながら一枚の紙を差し出し、新左衛門はさらに続ける。
「停船せねば攻撃する、とありまする! これはまぎれもなく若殿に対する公儀の追っ手でございましょう!!」