「よせっ! やめろシグナム殿ッッ!!」
空中で、右手に構えた剣に炎を宿したまま、こちらに振り下ろそうとするシグナムに対し、十兵衛は反射的にそう叫んでいた。
すでに船首は、金髪の女が叩き斬った砲身に詰められていた黒色火薬の粉塵が、視野を覆い尽くす勢いで立ち上っていたからだ。
シグナムはその声に打たれたように動きを止めてくれたが、逆に十兵衛の周囲にいた侍たちは、むしろ動き出すきっかけになったかのように一斉に剣を抜き、ゴホゴホと咳き込みながら黒い霧の中から姿を現した金髪の女に向けて襲い掛かってゆく。
むろん彼らの剣が、あの女に対抗できるものではないということはわかっている。
(無駄なことを)
とは十兵衛は思わない。
命を捧げて死をあがなうのが武家の奉公というものだ。その職務の中には「犬死に」「無駄死に」さえも含まれる。
が、それはいい。
彼らが金髪女に向かっていったならば、それはそれで少しばかりの時間稼ぎにはなるだろう。
――何に対する時間稼ぎか?
決まっている。
先程からこちらの様子をずっと窺っている、あの悪趣味なノゾキ野郎を斬るための時間稼ぎだ。
腰の刀――三池典太光世を抜き放ちながら十兵衛が振り向くと、そこにいたのは、舷側の欄干を乗り越えて、甲板に飛び込もうとしている一人の男。
そいつは、自分の存在がまさか気付かれているとは思ってもいなかったのだろう。目が合った瞬間、驚愕に瞳を見開いたのが十兵衛にも見えた。
彼にとってはおそらく、金髪女に向かおうとする武士たちを、その背後から攻撃する意図で姿を現したのだろうが、しかし周囲と正反対にこちらを振り向いて剣を抜いた十兵衛は、まさに予想外だったらしく、甲板に飛び込もうとするその動きは無防備そのものだった。
だが、それでもさすがと言うべきであったろう。
その男が無防備であったのは、正しくその一瞬だけであったからだ。
「ちぇぇいッッ!!」
男は甲板に降り立つと同時に、妙にオカマ臭い気合と共に、その右手に握られた鎖分銅を十兵衛に投げつける。
すでに男に向けて走り出していた十兵衛にとって、それはカウンターというべき攻撃ではあったが、しかし十兵衛は顔面に向けて投じられた分銅を、首を振り、そのわずかな動きで余裕を持って回避する。
しかし――次の瞬間、十兵衛の表情は凍りついた。
左耳をかすめる形でかわした鎖分銅が、次の瞬間、十兵衛めがけて「戻ってきた」のだ。
「なッッ!?」
足を止め、本能的に身をかがめて回避していなければ、その分銅は間違いなく、十兵衛の後頭部を打ち砕いていただろう。
「へえ……今のをよけるんだ」
言葉だけを聞けば嘲弄と解釈されて仕方ない台詞だが、男の声にはむしろ、十兵衛を賞賛するような響きがある。
いや、この気持ち悪いオカマ口調の男の言う通り、確かに今の十兵衛の反射神経は、客観的に瞠目すべきと言うべきなのだろう。
この男が投げた鎖分銅は今、確かに空中でその軌道を変えた。
一度よけた相手の武器が、次の瞬間その背後から戻ってきて改めて自分を襲うなど、誰が予想できようか。
むろん十兵衛も予期していなかった。にもかかわらず、彼はその攻撃を回避したのだから。
妙に粘液質な視線で十兵衛を見ながら、男はさら口を開いた。
「ねえ色男さん、アナタひょっとして……柳生十兵衛?」
「ほぉ、なぜ知ってる?」
「わかるわよそれくらい。隻眼の名剣士といえば柳生の嫡男の代名詞みたいなものだし」
そう言いながら、男は両手に持った、それぞれ長さ三尺(約90センチ)ほどの鎖を振り回し始める。
「でも、さすがの江戸柳生でも、チャンバラはともかく、こういう得物相手の仕合は道場で教えてないみたいね?」
鎖を二本持っているわけではない。
一本の鎖の両端に、それぞれ分銅と鎌が取り付けられているのが鎖鎌という武器の特徴だが、男の所持しているそれは、通常の鎖鎌よりもいささか鎖の部分が長いのだ。床に垂れ下がっている鎖の長さから換算しても、おそらく全長は二丈(約6メートル)近くあるだろう。
右手の鎖の端には分銅が。
左手の鎖の端には鎌が。
その両手に持った鎖を、男は凄まじい速度で回転させる。
鎖の末端の分銅と鎌は、それぞれ遠心力により肉眼で捉えきれぬほどに加速され、それをまともに喰らえば、致命傷を負うことは間違いない。
いや、問題はそこではない。
この男は、おのれが投じた分銅や鎌の軌道を、鎖を握る手元の動き一つでコントロールすることができるのだ。
いま、十兵衛が避けた分銅が、再び後方から彼を襲ったように。
(なるほど……これが鎖鎌か……親父が言ってたのとは少し違うな)
かつて父の但馬守宗矩は十兵衛に、鎖鎌とは、その鎖分銅を相手の武器に巻き付けて奪い、鎌でとどめを刺す武器だと言っていた。
だが、達人レベルの使い手が操る鎖鎌が、ここまで恐るべき得物であるとは、今の今まで十兵衛は知らなかったのだ。
というより、そもそもこの男がこれほどの使い手であったという事実こそが、十兵衛にとっては最大の誤算であったと言うべきか。
なぜなら、舷側に隠れ潜んでいたこの男を、一太刀で始末できると踏んだからこそ十兵衛は、周囲の武士たちが一斉に金髪女に向かったときに、敢えて逆に、この男に斬りかかったのだ。
金髪女が武士たちを相手している間に、男を斬り、そしてあらためて金髪女と一対一で対峙する彼の予定だったのだ。
が、いまやその予定は大幅に狂ったと言うしかない。
十兵衛が男に苦戦しているうちに、金髪女は武士たちをあっさり斬り捨て、即座にこちらに援護に来るだろう。
先程のシグナムと逆パターンだ。
このままでは十兵衛は、この二人の男女から挟み撃ちにされてしまうではないか。
いや、現に事態は十兵衛の怖れた通りに動きつつある。
「がッッ!!」
「ひぎぃ……ッッ!!」
背後から聞こえたのは幾つかの悲鳴、そして血と死体が甲板に投げ出される音。
十兵衛の足元にごろんと転がる、いかにも無念そうな表情の武士の生首。
反射的に十兵衛は半身になり、鎖を振り回す男と共に、自分の背後にいるもう一人を視界に入れた。
そこにいたのは例の金髪女。
「来ていたのかカマノスケ」
侍たちを皆殺しにした返り血であろうか――黄金の剣を朱に染め、何の感情も浮かべぬ目でこっちを見ている。
「とりあえずこっちは済んだ。そっちはどうする?」
女の問いかけに、男は十兵衛に視線を固定したまま口を歪め「――そうねえ」と低く嗤った。
「じゃあ……ちょっと手伝ってよ」
男がそう言った瞬間、十兵衛は、思わずのけぞっていた。
男の右手の分銅は十兵衛に投げつけられ、同時に金髪女がこちらに向けて走り出したのが見えたからだ。
(まずい……ッッ!!)
この二人を同時に相手にして生き延びれるとは、いかに柳生十兵衛であってもまず思えない――。
その瞬間だった。
上空から、何かが、来た。
何が来たのかは十兵衛にはわからない。
だが、来た。
「それ」は、まるでカメレオンの舌のように十兵衛の体に巻きつくと、鎖分銅と黄金の剣が届く前に、彼を空中にさらったのだ。
「なぁっ!?」
「ちッ!!」
男が驚きの声を洩らし、金髪女が激しい舌打ちをしたのが聞こえたが、十兵衛にとっては問題ではない。
おのれの体に絡みついた紐状の何か。
そして、まるで釣りの様に自分を空中に引っ張り上げた彼女。
「シグ……ッッ!?」
「十兵衛殿ッッ!!」
シグナムは左手で、まるで抱き寄せるように十兵衛の腰の帯を掴んで引き寄せ、十兵衛もとっさに刀を左手に持ち替えるや、右腕をシグナムの肩に回して自らの体を固定し、そこでようやく自分に何が起こったのか理解した。
彼女の愛剣レヴァンティンは、見た目どおりの金属のカタマリではなく、芯に通されたワイヤー沿いに刀身が分割し、鞭状になる。
その連結刃が十兵衛の腰に巻きつき、彼を空中に回収したのだ。
シグナムは連結刃を一瞬で通常の刀身に戻すと、ニヤつきながら十兵衛の顔を一瞥し、
「ふふふ……十兵衛殿でもあんな顔をするのだな」
と、皮肉っぽくささやく。
その言葉に十兵衛は、頬どころか耳まで真っ赤になって、無言で顔をそむけずにはいられない。
だが、そんな十兵衛とは対照的に、彼女の口元がほころんでいたのはそこまでだった。
シグナムは戦車のごとき勢いで振り返ると、その燃える視線を金髪女に向けた。
「さて、それじゃあ――さっきの続きを始めようか」
真っ赤に充血した彼女の視界の中には、あくまでも鎖鎌の男は入っていないようでさえあったが……しかし、そんな彼女を十兵衛は制止する。
「いや、ちょっと待てシグナム殿」
その言葉に、何を言われたのかわからぬ顔でシグナムが振り返るが、しかし十兵衛は彼女の方を見ない。
彼の視線は海上の、とある一点に向けられていたからだ。
そこに浮かぶは、天草四郎とその一党が、身分を偽り、逃亡の足代わりにしたという北前船。
今の今までその船は、キリシタンの妖術とやらで生み出された“竜巻”によって、火矢や大砲から守られていたが、いつの間にかその“竜巻”が消え、海上にその船体があらわになっている。
いや、それだけではない。
一体どういう奇跡なのか、大して風も吹いていないこの状況で、その船はまるで蒸気船のごとく自走し始めたからだ。