「若殿ッッ、帆布の張り直しが終わりましたぁ!!」
という御堂新左衛門の声を聞き、天草四郎の顔にようやく明るさが戻った。
「ありがとう……よくやってくれました新左」
そう答え、新左衛門の目を見ながらうなずくように頭を下げる。
もっとも、今この船は宗意軒の巻き起こした“竜巻”の壁に、周囲360度をすっぽり包まれている状態だ。四郎の声が彼に聞こえたかどうかはわからない。
まあ、軽く頭を下げた四郎を見て、また感動した様にうつむいて震えていることからも、取りあえず四郎の感謝の意思は、新左衛門に通じたものと判断していいだろう。
(しかし、本当によくやってくれた)
と、四郎としても思わざるを得ない。
なにしろ宗意軒の“竜巻”は、前後の船団からの火矢や砲弾の軌道をむりやり変えさせるほどの烈風を伴って吹き荒れており、その風は“竜巻”の内側にいるこの船にも当然影響を及ぼしている。
具体的に例えれば、新左衛門とその奉公人たちのやった帆布の交換は、嵐の強風の中でメインマストの張替えをやるに等しい危険な作業だったと言える。
しかし、その作業は終了した。
ならば待つべき報告は、あと一つ。
そしてその果報も、寝て待つまでも無く四郎の耳に届いた。
「しろ……若殿ォやりました! せいばー殿がやりましたッ!! 例の大筒を見事破壊したようですッッ!!」
叫び声の主は、佐助だ。
セイバーと鎌之助を送り出してから、四郎が指示を出したのだ。
二人が敵船に乗り込んで、無事に大砲を破壊できるかどうかを確認するためには、誰か一人が“竜巻”の外に出て、「前方船団」を監視する者が必要になる。
だから四郎は、佐助にそれを頼んだのだ。
真田忍軍の忍びたちは、みな狩人並みの鋭い五感を持っているが、特にそれが鋭いのは、ましらの佐助と呼ばれる“十勇士”のリーダー格だったからだ。
そして彼は、荒れる海面を泳ぎながら、鋼鉄の砲身がその戦船から切り落とされるのを視認し、海中を泳いで“竜巻”の内側に移動し、この船に戻ってきたというわけだ。
とりあえず、この修羅場を生きて逃げ延びるための準備がようやく整った。
四郎は森宗意軒の元へと走り、黄土色の魔力光を発しているその肩を叩いてささやく。
「宗意、ご苦労でした。“竜巻”を解除して下さい」
「……ッッ!?」
「破れた帆布は新たに張り直しました。そして大筒もセイバーが始末してくれました。もはや“竜巻”は必要ありません」
老人は一瞬、自分が何を言われたかわからぬような表情を浮かべた。
無理もなかろう。
この老人は、海水を巻き上げ、竜巻と見まがう勢いでの“風”を起こすため、ほとんど没入状態に近い集中力で、おのれの魔力を行使していたのだ。
が、それでも次の刹那には、その目に怜悧な光を取り戻し、こくりとうなずいた。
黄土色の魔力光が薄らぐと同時に“竜巻”は次第に低くなり、やがて風は止み、上空に巻き上げられていた水も全て、雨のように甲板や周囲の海面に降り注いだ。
「……じゅ、寿命が五年は縮んだぞ、これは」
そう言いながら、甲板に大の字になって横たわる宗意軒。
しかし、四郎は首を振る。
「まだです宗意。まだあなたの仕事は終わっていません」
と強い口調で言った。
「……なんですと?」
「あなたが“竜巻”に使っていた“風”を今度は、この船の速度を上げるための「追い風」として、もう一度使います。お願いできますか?」
「それは……わしに死ねと仰るんですか?」
体力の限界を超えた魔力行使は、その肉体に多大な負担をかける。
今の今まで、大型船を艦砲射撃から防護する規模の“竜巻”を発現させていた宗意軒からすれば、その言葉は、ある意味当然過ぎるものであったろう。
が、発言の殺伐さの割には老人の顔に悲壮感はない。むしろ口元には皮肉っぽい笑みさえ浮かんでいる。
むろん四郎は、その宗意軒の表情が意味する感情を読み取っている。
読み取った上でなお、その言葉に応じるように彼も笑ったのだ。
「何をいまさら……かつてあなたが僕に言ったではありませんか。その死に意味を持たせる権利こそ人間の持って生まれた唯一の自由であると」
それはかつて森宗意軒が、島原での武装蜂起の計画を“天草四郎”と名乗る以前の彼に話したときの言葉。
小西家旧臣・益田甚兵衛の息子でしかなかった四郎に、島原一揆軍の指導者となることを決心させた言葉。
隠れキリシタンだった父からキリスト教の薫陶を受け、衆目を集めるほどの美貌と聡明さ、そしてカリスマを持ち合わせながらも、それでも自分を「名もなき民草」の一人としてしか規定していなかった少年に、冷静に考えるならば自暴自棄の集団ヒステリーとしか思えぬ武装蜂起のリーダーとしての死を決意させた言葉。
運命に忍従した結果の死ではない。
運命に抗い、新たな道を切り開かんとした結果の死。
それを選択させた老人の言葉。
「それを言われては……わしも返す言葉がありませぬな……」
観念したように言うと、横たわったままの老人は四郎に背中を預け、胸元で祈るように手を組み“呪文”とおぼしき言葉をつぶやく。
そして、宗意軒の体は再び黄土色の魔力光に包まれた。
「おお……っっ!?」
あたかも孫と祖父に似た雰囲気をかもし出す二人の様子を遠巻きに見ていた、この船の乗員たちの口から、先程と同じ畏怖の感嘆が洩れた。
なぜなら、老人が光り始めて数秒後、先刻の“竜巻”に見まがうほどの烈風が、追い風となってこの船に吹きつけ始めたからだ。
新左衛門が精一杯の声で叫ぶ。
「よし、面舵一杯!! この風が吹いているうちに包囲を抜けるぞッッ!!」
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上空に浮遊する赤毛の髪の女。
右手の剣を赤く輝く“火”の魔力に包み、肩を貸すような姿勢で、さっきセイバーたち二人の攻撃から救出した片目の男を抱きかかえ、彼女――シグナムは空中に停止し、こちらを傲然と見下ろしている。
いや“こちら”ではない。
シグナムの視線の先にいるのは、あくまでもセイバーただ一人であり、隣に居並ぶ由利鎌之助など、文字通り眼中にないのが一目瞭然だったからだ。
現に鎌之助本人も、バツの悪そうな表情で「あ~、私ってお邪魔?」などとセイバーにささやいてくる。
それほどにシグナムの視線は露骨だった。
その瞳は――兵士としての殺気でもなく剣士としての剣気でもない――シンプルなまでの怒気に彩られ、彼女が何を言いたいのかは、まさに明白だった。
そしてセイバーは、その正直すぎる彼女の視線に、ズキリと胸が痛むのを覚えた。
(まあ、無理はない、か……)
そう思う。
自分が――もっとも少し前の自分だが――あの赤毛の女と同じ立場だったら、さぞかし人目を憚らずに怒気を撒き散らしたことであろうと思えるからだ。
甲板で対峙し、互いの目を見合った瞬間から、自分たち二人は通じ合うものがあった。
それは誰にも否定し得ない明らかな事実であり、ならばこそ、導かれるままに自分たちは剣を交え合ったのだから。
だがまあ、済んだことをこれ以上ぐだぐだ言っても仕方がない。
セイバーにはセイバーの事情がある。
いくら通じ合うものがあったとしても、あのときの彼女には、シグナムとのんびり一騎打ちに興じている暇は無かった。
そもそもセイバーの最優先事項は敵との戦闘ではなく、大砲の無力化だったのだから。
なればこそ、この話はこれで終わりなのだ。
そう思いながら、セイバーは隣に居並ぶ由利鎌之助をちらりと横目に見る。
いま考えるべきは、この状況をいかに乗り越えるか、だ。
上空の赤毛の女は、惜しげもなくその魔力を剣に溜め込んでいる。
だがそれでも、セイバーがそのサーヴァント本来の能力を今でも発揮できるならば、現況を打破することは、さほど困難ではないのだ。
なにしろパラメーター的には彼女の対魔力はA。
クラスA以下の術式は全てキャンセルされ、聖杯戦争当時の、いわゆる「現代の魔術師」が行使するレベルの“魔術”では傷一つ付けられない――ということになっている。
しかし、ここで問題が一つある。
今回のこの召喚に際して、おのれの「設定値」がかつてのサーヴァント時代とは比較にならぬほど劣化しているという事実だ。
その対魔力が本来の効力を発揮したなら、あの赤毛の女の術式を、自分の体を盾代わりに受け止めたとしても、セイバーが死ぬことはまず在り得ないだろう。
しかし万が一、能力が数値どおりの効果を発揮しなかった場合、セイバーは確実に死ぬ。
いや、死ぬのは彼女だけではない。
横にいる、この由利鎌之助という男も、運命を共にする結果になってしまう。
ならば、そんな攻撃よければいいじゃないかと言われれば、やはりそうもいかない。
赤毛の女が発する魔力から類推するに、その魔力攻撃は「対個人」としてはかなり恐るべき威力であろうことは想像がつくが、それでもこの船を一撃粉砕させるほどの威力はないだろう。
しかし、属性が“火”である以上、セイバーがよけた攻撃が甲板に直撃すれば、数秒後にはこの船全体を炎上させるだけの熱量があることも間違いない。
ならば、赤毛の女がセイバーだけに狙いを絞っている今こそ不幸中の幸いというべきか。
(いま私が船外に飛び出し、海上を走って逃げれば、少なくともやつの攻撃の累がカマノスケに及ぶことはない)
セイバーはそう思った。
書けば長かったが……まあ所詮は一瞬の心模様に過ぎない。
空中のシグナムを視認するや、それから一秒とかからぬうちにおのれの取るべき行動を選択し、セイバーは動こうとした。
――その瞬間だった。
「ちょっとせいばー、私たちの船が、なんかこっち向かって進んでるんだけど……」
鎌之助の言葉に、セイバーが海を振り向くと、確かにさっきまで彼女たちが乗っていたはずの北前船が動いている。
いや、その様子は「動く」などという表現には相応しくないほどのスピードであり、まさに波を蹴立てて驀進してくると言い換えた方が表現的には適切であろうか。
追っ手からの火矢による長距離攻撃を完璧に防いでいた“竜巻”の結界は解除され、破れたはずの帆布も張り替えられており、船は本来の姿を取り戻して、文字通りこちらに突っ込んできているのだ。
(なるほど……)
その光景を見て、思わずセイバーも納得する。
現代世界を舞台にした冬木の聖杯戦争ならばともかく、この時代の海戦には派手な結界も攻撃宝具も必要はない。
船体が原形を保てるギリギリの機動力さえ発揮できるならば、逃げるも戦うも、それで全て事足りる。そして“風”の魔術師さえいれば、それはいくらでも可能なのだ。何しろ帆船は風によって動くのだから。
(……ッッ!?)
反射的にセイバーは上空のシグナムを見上げる。
あの女の魔力攻撃が、この船ではなく、こちらに向かって突っ込んできている北前船に向けて発射されたらどうなるか。
“竜巻”の結界越しならばともかく、今の無防備状態のあの船に、彼女が全力攻撃を打ち込んだら、一体どのような結果をもたらすだろうか。
(――まずい)
セイバーの表情が一気に青ざめる。
おそらく、船の追い風を操作しているであろう森宗意軒には、シグナムの“火”の属性攻撃を防ぐ手立ては無いだろう。それどころか、あの老人は、こんなところにセイバー以外の異邦人が存在し、しかもそいつが魔術を使うなどとは、まるで想像していないに違いない。
いや、現にシグナムが肩にかかえる片目の男が、動き始めた四郎の船を指して何かを言っている……。
奴に考える時間を与えてはならない。
おのれの戦術的有利を認識させてはならない。
「“約束された(エクス――」
不思議と迷いは無かった。
先程さんざん頭に浮かんだシグナムに対する負い目の感情どころか、この宝具の行使が自分の命に関わるという危機感さえ、セイバーは思い出しもしなかった。
シロウを――四郎を死なせてはならない。
ただ彼女の脳中にあったのは、ただそれだけだったからだ。
「――カリバー)勝利の剣ッッ!!」
その声と同時に、黄金の剣から刀身を凌ぐ輝きの閃光が放たれる。
敵味方含め、この海にいた者全てが目をそらし、耳を塞ぐような大爆発が青空を彩ったのは、まさにその瞬間だった。