――どこだ、ここは?
目を覚ましたシグナムの意識に最初に走ったのは、まさしくその疑問だった。
そこは土壁と、ショウジという紙の扉で区切られた一室。
ベッドではなく、タタミという植物繊維で織られた床に直接敷かれたフトンという夜具。
微妙に湿り気を帯びた空気に、外からひっきりなしに聞こえる虫の声。
(日本であることは間違いないようだが……)
しかし日本とはいっても、シグナムはかつて己の――というより、彼女の主君である八神はやての故郷である海鳴市しか知らないのだが、それでも数年にわたって住み暮らした国だ。間違えようも無い。
(しかし、わかるのはそこまでか)
シグナムは油断なく周囲の気配を読む。
この和室に彼女以外誰もいないのは間違いない。天井裏や軒下にも誰かが隠れている様子はないからだ。
この部屋の外からも、殺気や視線の類は感じないし、自分を遠隔視しているような魔力も感じない。
(誰もいない、か)
まあ、近くに誰もいないだけで、機械式のマイクロカメラか何かを使っているだけなのかも知れないが。
(ならば)
そこまで確認して初めて彼女は、布団をめくって立ち上がった。
体に痛みは無い。充分に睡眠をとったためか疲労も残っていない。
また、両腕、両足、十指を初めとする全身の関節にも支障はない。
昏睡してる間に何らかの呪的処置を施されたり、怪しい薬物を投与された様子もなさそうだった。
(つまり、私をこの部屋に運んだ「連中」は、私に対する害意が無い)
そう判断して差し支えはないだろう。
(というか、何だこの服は)
浴衣や晴着といった着衣ではないが、おそらくは同じ様式の寝間着を着せられているが、勿論シグナムに、そんな服に着替えた記憶はない。
もっとも、騎士甲冑は所有者の意図せぬままに解除される事もある。
ある程度以上のダメージを心身に負い、魔力を維持できなくなった時などだ。
だが、騎士甲冑が解除されても、その時点で術者が裸になるわけではない。
甲冑展開前の着衣に戻るだけだ。
しかし現在シグナムは、かつて着ていたはずの管理局の制服を着ていない。
つまり彼女を介抱した「連中」が、局員服を脱がせて、わざわざこの見たことの無い寝間着に着替えさせたということになる。
その想像に、彼女は思わず眉をひそめた。
無論、その「連中」に裸身を見られた、という女性的な悔しさではない。
そんな無防備極まりない状態を、敵味方かも定かならぬ者たちに晒しながら、無様に眠り続けていた自分自身に対する、戦士としての意識からの苛立ちである。
(このシグナムともあろうものが、な……)
そう、彼女は、すでに気付いている。
彼女の自由を制限するような拘束器具は、どこにも見当たらない。
むしろこの待遇は、まるで賓客か何かをもてなすような扱いだ。
唯一、ネックレスのように首からぶら下げていたはずの彼女のアームドデバイス「レヴァンティン」が無い、という事実を除けば。
(まあいい)
デバイスとの体内リンクはまだ切れていない。
だからこそ彼女にはわかるのだ。
レヴァンティンは、この地――いや、少なくともこの部屋のある屋敷の敷地内のどこかに必ずあると。
むろん永年のパートナーとも言うべき愛剣が手元に無い心細さはある。
だが、そういう負の感情を思考の基盤にするような脆弱さは、そもそも彼女の精神構造には存在しない。こういう不可解な状況下であればこそ、自分自身に、いま何が出来て何が出来ないかを把握しておく必要があるからだ。
むしろ気になるのは、ここの「連中」が、自分からデバイスを取り上げた理由だ。
とはいえ、本当のところレヴァンティンがこの屋敷の者たちに隠匿されたわけではなく、単に庭のどこかに落ちているだけという可能性も当然ある。
あるが――そんな状況を想定しても仕方が無い。
シグナムは戦士であり、それと同時に主君・八神はやてを守るための兵士でもある。
常に最悪の状況を想定し、そういう状況に陥らぬためにはどうすべきか。さらには万が一、そういう状況に陥ってしまった場合はどうすべきか。
そう考える癖が、長らく「闇の書」の実戦部隊のリーダーとして過ごしてきた彼女には、もはや染み付いてしまっているのだ。
――この私が何者であるかを知った上で、レバンティンを隠したのだとしたら。
(そう……危惧すべきはそこだ)
シグナムはそう思う。
なにしろ彼女たちの行使するベルカ式というスタイルは、ミッド式に比べて戦闘という目的にのみ特化しすぎており、日常に応用の利く魔法術式は少ない。その中でも、デバイスを介在させずにシグナムが使える魔法となれば、簡単な防御法術と飛行スキル、それから後は一つか二つといったところであろうか。
(デバイスを持たないベルカ騎士など、恐れるに足りないということか)
「連中」がそう解釈している――というなら、この待遇も納得できるのだ。
むろん彼女の剣の腕は、たとえレヴァンティンが手元に無かったところで、いささかも劣化するわけではない。ベルカ騎士としての彼女の戦闘手腕は、その魔力ではなく、あくまでその圧倒的な武技にこそ基盤を置くものだからだ。
しかし、いくら強がったところで実際の話、砲撃魔導師数人に遠巻きに包囲されて集中砲火でもされてしまえば、レヴァンティンを持たない今のシグナムには反撃のしようもないのだ。
しかし、だからこそ――彼女はその胸を高鳴らせる。
(久しぶりだな……こういう感覚は)
そう思うだけの余裕が、シグナムにはある。
「闇の書」の守護騎士時代ならばともかく、当代の主君たる八神はやてとともに時空管理局に入局して以降は、こういう、事態がまったく読めない状況というものはなかなか経験できなかった。
ならばこそ、彼女の戦士としての本能がうずくのだ。
まだ見ぬ強敵を捜し求める、その本能が。
そして、彼女の第六感は囁いている。
この地には、私が剣を振るうに足る相手がいる――と。
(……まあ、最近は胸糞悪い犯罪者としか剣を交えてなかったからな)
シグナムは溜息をつくと、がらりと障子を開く。
眼下には左右に伸びる廊下があり、その向こうは壁ではなく、一面の庭が広がっている。
かつて海鳴にいた頃、テレビの時代劇で見た「ニホンテイエン」というほどに見事に整えられてはいないが、それでも地球でもミッドでも目にした事が無いほどに広大な庭であり、それだけで、この屋敷の規模が想像できるというものだ。
部屋にこもった湿っぽい空気が排出されると同時に、涼しい夜風が彼女の髪をくすぐる。
いや、それよりも彼女の目と耳を奪ったのは、耳をつんざく鈴虫やキリギリスの鳴き声。
そして、目を覆うほどに見事な満天の星々。
(うわあ……)
シグナムはこの夜空を覆う大銀河に素直に感動する。
むろん「闇の書」の眷属として世界と時代を巡って生きてきた彼女にとって、満天の星空など言うほどに珍しい光景ではない。
だが、今回の覚醒以降、シグナムは海鳴やミッドチルダといった都市部を生活の拠点としてきたため、こういう夜景はひさしぶりだった。
「ふんっ」
鼻息を漏らすと、彼女はそのまま布団の上にごろんと横になり、天井を見つめた。
夜空を見上げたおかげで、毒気は抜けたようだ。
(どっちにしろ、今はじたばたしても始まらない)
状況を見極めるには、やはりここの「連中」との接触が必要不可欠だ。
そして、開き直ったかのように寝そべった彼女は、そのまま子供のように眠りに落ちた……。