「……ッッ!?」
十兵衛はその瞬間、無意識のうちにうめき声を上げていた。
シグナムの気合に振り向いた彼が見たものは、一本の倒木に白刃を振り下ろす彼女の姿だった。まるで人間の胴回りほどもある太さの倒木を、まるで大根でも切るように無造作に寸断したのだ。
その光景にさすがの十兵衛も慄然となる。
いや、驚くべきは倒木を両断した事ではない。その斬撃にまったく音をさせなかった事だ。
(音無しの剣……だと!?)
据え物斬りとは、一般的に対象物が重くて硬いものよりも、軽くて柔らかい物の方が、剣士の技量が問われる、と言われている。
だが、数十貫近くの重量はあるはずの倒木を、一太刀で両断することは、やはり達人級の術者でなければ不可能であろう。しかも、無音の斬撃ともなれば、なおさらの話だ。たとえ、その剣がどれほどの業物であろうともだ。
現に、今のシグナムと同じことをやれと言われても――できない、と言う気はさらさら無いが――百度ことごとく確実に成功させる自信は、十兵衛には無い。その腰の刀たる三池典太もしばらく研ぎに出していないという事実もあったが、つまりは今シグナムがやって見せた技は、それほどまでに高等技術だという事なのだ。
いや、確かに十兵衛はシグナムと立ち合い、その剣技の冴えを充分に理解しているつもりだった。
(見くびっていたつもりはなかったが……)
だが、それでもやはり、十兵衛は彼女を見くびっていたと言うしかない。
おそらくは、この剣を振るうシグナムは、木刀を得物としている時よりも、その強さにさらに一枚妙味が加わるのであろう。
(なるほど……面白え)
憶えておこうと思う。
いや、思うだけではない。背中がぞくぞくする感覚が止まらないのだ。
それは、さっき目の当たりにしたシグナムの“妖術”に対する興奮ではない。
一個の剣客として――刀術のプロフェッショナルとして、彼女の見せた剣技に対する興奮であった。
「十兵衛殿……笑っているのか?」
シグナムからそう言われて、十兵衛は初めて自分が口元を歪ませている事実に気付いた。
「おおっと、これは済まぬ。いや、何もそなたの技を笑うたわけではないのだ。おれも思わず、その、つい血が騒いでのう」
そう言いながら慌てたよう弁解する男を、シグナムはむしろ嬉しそうに見返す。
「わかっている。いまのは嘲笑ではなく、私の剣に貴殿が興奮してくれたという事だろう。それは貴殿の目を見ればわかる」
あまりに直接的な女の言葉に、十兵衛は思わず目をそらし、ごりごりと頭を掻いたが、それでも照れ隠しのように言い返す。
「男に興奮した目を向けられて、そなたは不快には思わんのか?」
「不快どころか……次は十兵衛殿、貴殿が私を興奮させてくれる番だと思うんだがな」
言葉だけなら、どこの女郎か酌婦かというような挑発的な台詞だが、二人の間にはそんな艶っぽい空気など一分も存在しない。シグナムの視線が、あからさまに十兵衛が腰にぶち込んだ刀――三池典太に一直線に向けられているのがわかるからだ。
「まあ、自信が無いなら無理にとは言わんが」
そう言いながら、シグナムはその両刃の剣を鞘にカチリと納める。
もっとも十兵衛には、いま彼女がどこからその鞘を取り出したのかすら見えなかったが、もはやそれを訊く気にもなれない。説明されたところでどうせ理解できるとは思えないし、なにより、顔を上げた彼女の目に、イタズラっぽい光が宿っているのが見えたからだ。
「いいだろう。まあ……そなたが股を濡らすに足るだけのものを披露できるかどうかは、わからんがな」
そう言い、肩をすくめながら、すらりと腰の刀を抜き放ち、上段に構える。
途端にシグナムの瞳から笑みが消えたのが見えたが、十兵衛にはもうそれもどうでもいい。
そう、誰が見ていようが、そんな事は問題ではないのだ。
十兵衛はすでに理解している。
さっき目の当たりにしたシグナムの剣――大地に転がる巨木を、音もなく両断したあの太刀さばきが、まだ脳裏に生々しく残っている。
(あんなものを見せられて、落ち着いていられるはずが無いだろう)
そう思う。
肩をすくめたのも、溜息をついたのも、やれやれといった顔で下品な冗談を飛ばしたのも――全部演技だ。
ここまで熱くたぎった血が、そう簡単に収まるはずも無い。剣を抜かずにはいられない――自分の肉体がそう主張しているのがわかるのだ。
(剣客の業、というやつか)
そう思うおのれの口元に、思わず苦笑が浮かんでいたことを十兵衛自身気付いていたかどうか。
だが、まったくの力みも緊張も見当たらぬ表情とは裏腹に、上段に構えられた彼の剣は、そのまま何の予備動作もなく、気合もかけず、無造作に振り下ろされた。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
振り下ろされた十兵衛の剣は、シグナムがやって見せたように巨木を裁断するようなパワーや威力も示したわけではない。
ただ、その一太刀は、地面に生えた一本のたんぽぽを切り裂いたに過ぎない。
が、花屋がハサミで花をちょん切るのとは違う。
十兵衛の剣は、頼りなげに風に揺れるたんぽぽの花と茎を、まるでキノコのように「縦に」切り裂いたのだ。
――それも、花びらに乗っていた一匹の熊蜂ごと、だ。
次の瞬間、熊蜂はころりと二つになって転がり、それと同時に、そのたんぽぽも茎の根元から「二本」に分かれ、風になびいて揺れた。
シグナムは絶句した。
まさに神業と呼ぶしかない。
自分がさっきやって見せた、倒木への無音剣とどちらがより難易度が高いかなどと言う気は無いが、それでも剣技としては超絶のテクニックを要求される行為であることに間違いは無い。少なくとも、シグナムは彼と同じ事をやれるかと問われたところで、それに応と答える自信は無かった。
言葉を失い、呆然とそのたんぽぽを見つめるシグナムの傍らで、慣れた仕草で十兵衛は剣を鞘に戻し、
「まあ……そろそろ屋敷に戻るか。ここも暑くてかなわんしな」
と言って彼女に背を見せ、歩き出す。
自分が今見せた剣について、特に何かを語ろうともしない。
(いや、そういうことではないのだろう)
無言で歩く十兵衛の後ろ姿を見れば、それはシグナムにもわかる。
彼の肩や背中、あるいは腰の辺りに、抑えきれぬほどの興奮が覗き見える。
おそらくは今の「たんぽぽ斬り」は、柳生十兵衛にとっても滅多に成せない会心の一撃だったのだろう。いま彼の正面に回れば、ブザマなほどに喜悦にまみれたニヤつきを口元に浮かべているであろうことは想像に難くない。
彼女とて剣士の端くれだ。その気持ちはわかる。
(ならば今、さっきの剣を話題にするのは野暮と言うものか)
そう思う。
ならばこそシグナムは敢えて口を開く。
とりあえず剣とはまったく関係ない「世間話」というやつを、だ。
「しかし十兵衛殿、腹が減ったな」
十兵衛も、シグナムのそんな気遣いを理解したのか、ちらりと彼女に目をやると、照れたように話に応える。
「今日の昼飯は魚らしい。今朝、村の漁師から活きのいい鮎が何匹か届いたらしいからな」
「それは楽しみだな」
「しかしシグナム殿、腹が減るのはわかるが、あんまりメシをおかわりせぬ方がよいぞ。せっかくの美形が台無しではないか」
「昨日の夕食のことを言ってるのか? 仕方ないだろう、ああも美味しい米の飯は久しぶりだったしな」
「まあ、うちの里の米を気に入ってくれたのは何よりだが……しかし、そなたが四杯目の椀を給仕の者に差し出したとき、やつらも戸惑っておったではないか」
「そんなことは私の知った事ではなかろう。だいたい、人の外見で小食と決め付けることこそ失礼だとは思わぬか?」
「わかったわかった、では取り合えず、おれの食う分までそなたが食うのは勘弁してくれ。それと――」
「それと?」
そこで十兵衛は、足を止めて真顔で彼女を振り返る。
「先程の“妖術”は、おれ以外の者には絶対に見せぬようにしてくれ」
「……わかっている。私もこの里の者たちに必要以上に怖れられたくは無いからな」
「ならいい、この話はここで終わりじゃ。さて――昼飯を食ったら、久しぶりに川釣りにでもいくか」
「稽古をしろ稽古を……師範代の月ヶ瀬殿も嘆いておったぞ、最近の十兵衛殿はろくに道場に顔を出そうともせぬとな」
「いいのか? おれが稽古に身を入れておれば、三日前の立ち合いも違った結果になってたはずだぞ」
「ならここで預けた勝負を再開するか? 私は構わないぞ」
「断る。やるなら少なくとも昼飯食って、釣りをしてからだ」
「だから、それがいかんのだと……」
軽口を叩きながらシグナムは十兵衛に続いて山道を歩き出す。
しかし、二人は知らない。
この数日後には、シグナムはこの柳生ノ庄にいられなくなるという確実な未来を――。