「おらおらぁどしたぁ!! もう一本ッッ!!」
「もうへばったのか貴様ぁ!! だらしねえぞぉ!!」
「違う、そうじゃない!! この太刀筋は昨日教えただろうが!!」
「痛い痛い痛い!! ちょっと待って止まって――いぎぃ!!」
耳を澄ませば、こんな怒号が無数に轟き、鳴り響き、一つの巨大な不協和音として渦巻いている。
いや、声だけではない。
その声を発する大勢の人間の床板を踏み鳴らす音、竹刀を打ち鳴らす音が、それらの声と渾然一体となり、おそらく自分の正面にいる者が何を言ったか、この空間ではまともに聞き取ることもできまい。
だが、それを残念がる必要はない。
彼らはこの場所に、会話を楽しむためにきているわけではないのだから。
ここにいる老いも若きも、男も女も、武士も庶民も、皆この「柳生」という地の住人を名乗るにふさわしい剣技を体得するために汗を流し、精魂を傾けているのだから。
ここは柳生屋敷内にある新陰流道場。
ちょっとした体育館ほどの敷地内に、まるで戦場のように数十人の老若男女が入り乱れ、それぞれが竹刀を手に、稽古に励んでいる。
無論この時代に面・胴・籠手のごとき防具は存在しないため、みな身体のあちこちに青あざや打ち身、擦り傷などをこしらえており、無傷なままでいる者はいないように見える。
とはいえ「竹刀」を稽古に使用している時点で、ハッキリ言えば、それまでの木刀や刃引きの実刀を使用した剣道の訓練とは、比較にならぬほどの安全性を実現してたとさえ言うべきであり、なればこそ武士ならぬ女子供でさえも、一般男性に混じって稽古をする事が可能になったと言えるかも知れない。
まあ、ここでいう竹刀は現代のものとは違う、いわゆる袋竹刀という存在ではあるが、この「竹刀」という模擬刀の開発によって、日本剣道は型稽古中心の暗く閉鎖的な階級武道から、広く世間一般に流布される護身術として、その有り様を変えていく事となる。
そして、「竹刀」を開発し、日本剣道史上に一大革命を起こしたのが、この柳生の地に新陰流を伝えた上泉伊勢守信綱その人であり、極論すれば、日本剣道の歴史は明確に上泉信綱以前と以降に二分する事ができるとさえも言えるのだが……まあそれは本編とは無関係な話なので、これ以上は言及を避けたいと思う。
とりあえず、その熱気に溢れた道場の中に彼女――シグナムはいた。
(この男も、やはり出来る……!)
中段に構えた竹刀を微動だにさせずに自分と対峙するその男の強さに、シグナムは改めて瞠目する。
もっとも、この道場には、彼女でさえも五本に一本、あるいは三本に一本を譲るレベルの使い手がごろごろ在籍しており、シグナムはこの柳生という地の特異性に秘かに驚かずにいられなかったが……それでも、この眼前の男は、その中でもさらに出色であったと言える。
この――道場師範代・月ヶ瀬又五郎を名乗る男は、おそらく柳生十兵衛と比較しても遜色のないほどの剣士であると断言できるだろう。
仮にもあの十兵衛が師範代として道場を仕切らせるほどの剣士である以上、この月ヶ瀬又五郎という人物が凡骨であるはずもないのだが、それでも彼の強さは卓抜しすぎている。
(くる――!!)
そう感じた瞬間、シグナムの肉体は即応していた。
中段の構えから男は一気に間合いを詰め、真っ向唐竹割りに竹刀を振り下ろしてくる。
その一撃をシグナムは受け止めるが、竹刀越しに彼女の頭蓋を、まるで直接ものをぶつけられたような衝撃が襲い、一瞬眼前が暗くなる。
が、それでもそこで踏みとどまり、肺の酸素をすべて吐き出す勢いで彼女は気合いを吐いた。
「きえぁぁああああああッッ!!!」
その裂帛の声とともに月ヶ瀬の竹刀を弾き返し、シグナム得意の連続攻撃を打ち込むが、しかし、その剣のことごとくは彼に受けられ、防がれ、あるいは弾き返される。
のみならず、月ヶ瀬又五郎の放った袈裟斬りの一剣に――かろうじて防ぎはしたものの――シグナムは胸を直接押されたかのように吹き飛ばされてしまった。
道場の壁にぶつかり、かろうじておのれの体勢を整える事はできたが、むしろ呆れんばかりの思いでシグナムは男を見上げる。
ベルカ時代から数えても、ここまで敵の剣圧に翻弄された記憶は彼女には無い。
まさに、おそるべき豪剣であった。
防御したはずの又五郎の一剣の衝撃に、体の芯がまだ震えているような感覚が残っている。しかもそれは初めてではない。この男と剣を交えて以来、幾たびかのものだ。
竹刀のような弾性と柔軟性に優れた模擬刀が得物であればこそ、いまの一太刀も受け止め得たが、おそらく木刀同士の試合であったなら、彼女の得物は確実に叩き折られていたであろう。実際、面や胴にまともに喰らえば、おそらくシグナムといえども昏倒は免れないはずだ。
これまでこの道場で、又五郎と仕合ったのは三度。
最初の一本は彼が取り、次の一本はシグナムが取った。
そして三本目の仕合いが今、というわけなのだが――しかしそれでもこの男との対戦中にシグナムは、かつての十兵衛との戦いのような胸の高鳴りまでは覚えない。
(これは稽古だ)
竹刀を得物とする立ち合いならば、どうしてもそういう感覚が抜けないからであろうか。
逆に言えば、これが真剣での勝負ならば、おそらくは自分が勝つ――という根拠の無い自信が、まだ彼女の意識のどこかにあるから、とさえ言えるかも知れない。
いや、完全に根拠が無いわけでもなかった。
又五郎の豪剣には――それはそれで恐るべき太刀筋ではあるが――それでもなお、十兵衛に感じたような“怖さ”を感じない。ここにいるのが十兵衛であったとしたら、彼の剣さばきは、たとえ竹刀が得物であったとしても、木刀真剣に何ら劣らぬ“怖さ”を対戦相手に感じさせた筈だ。
つまり、この男の腕は十兵衛に劣らぬにしても、十兵衛を凌駕するほどではない――。
シグナムは竹刀を下げた。
構えは下段。
肩や膝に込められた力を抜き、瞼を半眼にする。
すると、構えを変えたシグナムを見た又五郎の表情に、一瞬動揺が走った。
今のは何の動揺だ――と、シグナムは思う。
だが、思うのはそこまでだ。
(まあ……どうせやることは変わらないしな)
これからシグナムがやろうとしているのは、全身の神経を集中しなければ実行不可能な剣さばきだ。自分からぐだぐだと雑念を発して、呼吸の乱れを誘発するわけには行かない。
「かぁぁッッ!!」
眉間に走った動揺をすぐに消し、鋭い気合を発しながら又五郎はふたたび踏み込み、その剣を振るう。
――その一撃、まさに豪宕正確。
得物を剣から鎚にでも持ち替えれば、巨岩をも打ち砕くであろう、豪にして剛なる正剣。
シグナムはその剣を、これまでのようにおのが竹刀で受ける。
が、これまでと違ったのは、さらにそこから膝・肘・腰のバネを使い、その衝撃を受け流したことだ。
「なっ!?」
思わず声を上げた又五郎だが、さすがにそのまま竹刀で床板を打つような無様な隙までは作らない。一歩で踏みとどまるや、戦車のようにシグナムを振り返り、そのまま跳ね上げるような一撃を放つ。
しかし、シグナムはまたしても体を柔らかく使い、その剣を受け流す。
その挙動に全身を駆使していたため、とっさに攻撃に移ることまではできなかったが、それでも月ヶ瀬又五郎の豪剣に対する防御としては、ほぼ完璧に近い対応であったはずだ。
現に、又五郎の顔には、今度こそ見間違えようもない動揺と驚嘆の表情が浮かんでいる。
「信じられんな……まさか江戸の殿と十兵衛様以外に、この剣を使える者がいるとはな」
そう口走る又五郎の言葉に……しかしシグナムは表情を変えない。
(やはり、そうだったのか)
さっきは敢えて考えないようにしていたが、それでもむしろ納得に近い思いが彼女の心に走る。
この柳生の地に降り立ってすでに十日。
いまやシグナムは、又五郎の口走った“エドのトノ”とやらが十兵衛の実父である但馬守宗矩だという知識もある。さらに今の言葉から察するに――又五郎は、その柳生親子の両者とも勝負し、その折に両者とも、さっきのシグナムと同じ剣を使ったらしい、という事実も類推できる。
しかしシグナムにとっては、そんな情報はどうでもいいことなのだ。
ただ今の言葉で注目すべき点があるとすれば、つまりこの男にとっては、シグナムの意図した剣さばきは既知のものであった、ということだ。
なぜなら先程一瞬見せた又五郎の動揺――あれこそは、シグナムのやろうとしていることを予測し、その予測に驚かなければ浮かべようが無い表情だったからだ。
さらに言えば、予測があるとすれば対策もあるはずだ、ということになる。
考えすぎだとは思わない。
現に男は、彼女の確信を裏付けるように笑ったのだ。
「いや、これはあるいは幸運であるかもしれんな……。まさか、いずれ十兵衛様相手に借りを返すために工夫した我が剣を、まさかこんなところで試せるとは思わなんだわ……礼を言うぞ、天女様よ」
(これは……ッッ!?)
シグナムの汗が一気に冷えた。
そう言いながら、又五郎は構えを変えたのだ。いや、構えを変えた――と彼女は思ったが、その表現はあるいは嘘に近い。
なぜなら月ヶ瀬又五郎の取る中段の構えそのものには、1ミリの変化も見られないからだ。
だが、それはあくまで外見的な話に過ぎない。
いま彼が取るその中段の構えと、先程までのそれは――たとえ同じ構えであったとしても――明らかに別のものだ。余人は知らず、対峙している当事者のシグナムには、それがわかる。
ならば何が変わったのか。
さっきまでとまるで変わらぬ構えを続けていながら、何故ここまで伝わってくるものが違うのか。
(戦い方を変える気なのか……)
そう解釈するしかない。
これまでは中段の構えから、ただ徒然なるままにその豪剣を振るうことだけが又五郎の戦術だった。
だがこれからは違う。
この男の豪剣は、これ以降は充分な意図と計算を以って振るわれるということになる。
おそらくは、それが又五郎の言うところの“工夫”なのであろう。
(面白い……そうこなくてはな)
シグナムの中の声が、そう囁く。
つまりそれは、この月ヶ瀬又五郎という男が、シグナムに十兵衛と同じ価値を認めた、ということではないか。剣士として、これ以上の誉れはあるまい。
「来い――ッッ」
シグナムは短く叫ぶ。
その声が道場に反響したのを聞いて、ようやく彼女は、それまで戦場のような喧騒に満ちていた場内が静まり返り、稽古に励んでいたすべての人間が自分たち二人の仕合いを注視しているという事実に気付いたのだ。