病院の洗面所は随分と不気味だ。
泣き腫らしてぐしゃぐしゃになった顔を洗い、ようやく落ち着いた。
あのあと私は玉木さんに全てを話した。
近道をして怪物に襲われたこと。
自分が覚醒したこと。
いつの間にか失神して気づいたらこのベッドに横たわっていたこと。
彼女は事情を聞いた後、私の世話をいろいろ焼いてくれた。
病院を経由して私の無事を両親に報告してくれたこと。
『貧血で倒れた。念のため少し入院するが命に別状はない』と
言ってくれたおかげで明日は堂々と学校をさぼれそうだ。
「玉野さん……」
抱きしめられた時の胸の感触、髪から漂ういい匂いを思い出す。
大人で知的で、ついでに包容力まである美人の女性。
憧れる半面、嫉妬の念も彼女に抱いてしまう。
きっと物語の主人公っていうのはああいう人が務めるものなんだろう。
彼女はUGNと呼ばれる組織で働いているらしい。
世界からレネゲイドの脅威を取り去るために、毎日活動している。
ユニバーサルガーディアンズネットワーク。
世界を守る守護者たち。
私はその組織に助けられ、ここでこうして保護されているんだ。
「異能のちから、レネゲイドか」
眠る気にもなれず、洗面台の鏡を見ながらでボケッとしたまま、ただ考える。
私は、二種類の力を同時に扱えるらしかった。
『重力を操る、バロール症候群』
『光を操る、エンジェルハイロゥ症候群』
重力や光をも変質させるウイルス。
厳密にはレネゲイドはウイルスかどうかも怪しいのだという。
ただ、人類が遠く及ばない未知の生命体なのだと。
そして、その力を使えば使う分だけ理性は削れ獣に近くなってゆく。
「なんでだよ。どうして私が……」
ぶつぶつと呟きながら、ふと思い出した。
部屋を出るときに玉野さんから言われたのだ。
『ご両親から、[何時でもいい。目を覚ましたら電話するように]と言付かったの。一言話して安心させてあげて』
気が進まなかった。
怒られんじゃないか、とか、正直それどころじゃないだろとか。
目つきでなんとなく察したのだろう。
玉野さんはこう言った。
「私達が人間のままでいるためには人との絆が必要なの。大切な人との関係があるからこそ、自分を認識できるのよ」
じゃあ、家族しか繋がりのない自分は怪物予備軍じゃないか。
そう思ったがさすがに今度は口に出さなかった。
ただ頭を下げて、自分と他人の繋がりを思い出そうとしたら再び泣けてきて。
とりあえず顔を洗ったのだ。
思考のループに陥るあまり、やろうとしていたことすら頭から抜けていた。
病棟の中の通話可能なエリアに向かい、携帯から自宅へ電話をかける。
何を話そう、とぼんやり思っているわずかな間に、聞き覚えのある声がした。
「ハイ、黒木ですけど」
聞きたくない声、電話口に出たのは弟の智貴だった。
友人も多く異性にモテる。
私の方が年上なのに。姉という上の立場なのに。
こいつはいつも私よりも高い場所にいる。
そのくせ、私のことを見下したりしない。
事あるごとに姉より良くできた弟。
本当腹が立つ。
なんでこんな奴が電話を取るんだ。
「もしもし、黒木ですけ……」
「とっとと母さんに代われよ」
舌打ちが聞こえた。
ふざけんな。舌打ちしたいのはこっちの方だ。
「……ちょっと待ってろ」
劣等感を刺激され嫌な気分になる。
本当に人と人とのつながりが私を人間に繋ぎとめるんだろうか。
懐疑の念を抱いてる間に、今度は母の声が聞こえてきた。
「智子、あんた 大丈夫なの!?」
「う、うん。 一応明日は入院するけどすぐに退院できるって」
声はとても真剣だった。
けおされてしまう。
連絡じゃただの貧血はずなのに。
「こんな夜遅くまで連絡ないから、お母さんもお父さんも、それから智貴も皆心配してたのよ」
「!」
ああ、腹が立つ。
弟よ。どうしておまえはいつもいつも私よりも優れているんだ。
そこまで人間ができているんだったら、いっそお前が変わって感染してくれればよかったのに。
怒りと羞恥でないまぜになった心に蓋をする、必要なことだけ言ってすぐに電話を切った。
油断すると、怒りから全部母にぶちまけてしまいそうだった。
レネゲイドのことを。
怪物のことを。
そして、私自身の心の内を。
「……寝よ」
夜はただただ更けてゆく。
私の思いなんぞ、気にもかけずに。