白は静謐な色であるらしい。
純潔で清廉な色であるとも。
白く染め上げられた廊下を歩きながら女はそんな言葉を思い出していた。
地下にある研究室へ向かう通路は構造上窓もなく、
日の光に焼かれることもないため壁が病的な白さを保っている。
ご丁寧に照明も昼光色なので余計に目立っていた。
まるで無菌室のようだと苦笑しながら一定の間隔で足を動かす。
一言でいえば地味な女だ。
年齢は二十歳前後。
無個性なタートルネックとタイトスカートの上に、よれよれの白衣を羽織っている。
体格は痩せぎすで、よく言えばスリムだが素直に見れば枯れ枝のように貧相な体つきだった。
ぼさぼさの髪を無造作になでつけて、なんとか体裁を保っている。
やる気のない瞳は半分だけ開かれ、こけた頬には化粧っ気の一つも見当たらない。
唯一特徴的といえるのは薄い唇に挟み込んだ電子タバコだろうか。
根元をガジガジと噛みながら上下に揺らしている。
猫背気味に体を丸め、両手をポケットに突っ込みながら歩いている姿は遠目から見れば老人と間違えられそうだ。
女はどことなくすねて見える目元をしょぼつかせながら欠伸をかみ殺した。
(なかなか疲れが抜けないな。近頃研究漬けだったし仕方ないことだけど)
心中で愚痴を零しつつ長い廊下をひたすら歩く。
途中で無駄に図体のでかい清掃ロボットに道を譲ったりしながら目的地にたどり着いた。
パスを通し研究室へと入る。
最初に目につくのは雑多な研究資材と実験器具の山だ。
保管庫にしまってあるような重要なものではなく、以前にいた場所から持ってきた私物だったが、
何となく処分するのも気が引けて、とりあえず引き取っていた物だった。
物置にでも積んでおけばいいと同僚によく言われるが、研究所の物置に私物を保管するのはいろいろと問題がある。
そんな事情もあって結局自分の研究室にこうして積んであるわけだ。
なるべくそちらを見ないようにしながら奥へと進んでいく。
デスクのわきを通り実験室へと入る。そこに目当ての人物がいた。
女と一緒に、ある研究を共同で行っている人物だ。
こちらに小さな背中を向けて、強化ガラスの向こうにあるシリンダーをじっと見つめている。
年相応に可愛らしい外見をした少女で、年齢は確か十二か十三だったか。
いわゆる天才というやつで卓越した知識と頭脳を持っている。勤勉で貪欲でもあり探求心を併せ持つ。
正直、全く子供らしくない人物ではあるが一応大切なパートナーだった。
少女はこちらに気付いた様子もなく身動ぎ一つしていない。
女は何となく悪戯心を刺激され、足音を立てないようにしながらゆっくりと近づいていった。
ポンと肩を叩き、わざとらしく声を掛ける。
「やっぱりここにいたね」
背後からそれとなく様子を伺う。しかし彼女は予想に反してまったく驚きもしていなかった。
「何か用?」
冷めた瞳のまま短くそれだけを告げる。どうやらこちらの魂胆など初めからお見通しであったようだ。
女はその事を少しだけ残念に思いながら僅かに肩をすくめた。
「まぁちょっと話があってさ。しかしそんなに気になるのかい?あの”剣”が」
剣の部分を多少揶揄してそう言うと、彼女は特に気にした風でもなく無表情に頷いた。
そのまま視線をシリンダーへと戻す。あの中にはとある研究素体が鎮座している。
見た目はただの古びた剣だ。
太刀ごしらえはシンプルで、平べったい先端と肉厚の刀身を持っている。
程よく古色がついていて素人目に見ても相当な歴史的価値を持っているのは間違いないが、
あいにくとここにいるのは考古学者ではないため、そういった方面には欠片も興味を持っていなかった。
それはこの少女も同様だろう。アレにはもっと特別な意味があるのだ。
「素体ナンバー07。そうだねこれは我々の研究の要だ」
少女と同じように視線を向ける。この研究所における最重要機密。
実態を知らない人間には自分の道楽としか映っていない骨董品だ。
だが、この素体があるからこそ時空転移の研究は順調に進んでいた。
逆に言えばこの素体なくして研究は一歩も進まないだろう。
多少の感慨を込めて見つめていると、隣に佇んでいる少女が強化ガラスに触れていた手を下しこちらに顔を向けた。
「そういう意味で気にしているんじゃない」
「え?」
意外なことを言われた気がして思わず振り返る。少女は言葉に真剣な色を載せたまま静かに唇を動かした。
「ここにいると期待と失望を同時に味わうことができるから」
ぽつりつ呟く彼女はどこか大人びて見える。それが何となく気なって、女は少女の額をぐりぐりと指先で押しつけた。
「期待と失望?およそ対極に位置する感情だと思うけど」
眉の形をハの字にしたりへの字にしたりしながら弄んでいると、
大して気にもしていないのか少女はされるがままになりながら言葉を続けた。
「そうでもない。あれを見ていると科学に限界はないのではないかと錯覚することがある。
そして同時に科学では決して手の届かない領域が存在しているようにも思えてくる」
「なるほど・・・戒めか」
何となく意味を察して呟く。
確かにあの”剣”はある意味において神の御業を再現するための神具であるといえる。
それを利用しようとしている自分たちは、言うなれば神を冒涜しているようなものか。
その借り物の力に酔い、自分が万能であるなどと錯覚してしまえば、冗談ではなく人類どころか世界が破滅しかねない。
畏敬の念と自戒の気持ちは常に持っているべきだ。
「まぁ、それでもこれのおかげで我々の理想はもはや夢物語でなくなったわけだ。
君の協力で時空震の制御にも目処が立った。いよいよだ」
女が雰囲気を変えるために若干オーバーアクションに貧弱な胸をそらした。
しかしこちらの配慮など全く気にもしていない様子の少女は、相変わらず冷ややかな目線のまま押し黙っている。
一人でから回った格好になってしまった女は、口元を引くつかせてから慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば聞いたかい?例の新兵器トライアル。われらのパトロンは魔道兵士を出すらしい」
女は多少つっかえるようにそう言った。
魔道兵士というのは体に呪文処理を施した兵士の事で、
先天的に魔力容量が低いものであっても条件さえそろえば絶大な魔力を操ることができる。
魔法使用時にかかる身体的負担とそれに伴う継戦能力の不安定さが欠点ではあるが、
被験者に対する個人レベルの調整を行うことでその問題もある程度クリアすることが可能だった。
理論構築から技術開発、運用テストにまでかかわっている女にとっては、ようやく自分の研究が結実したというわけだ。
もともと時間転移システムの開発資金を得るために始めた研究だったが、それでも何の感慨もわかないわけではない。
研究資金を捻出するため軍の研究所に潜り込み、隣国との戦争継続に異を唱える講和派の幹部連中に取り入り、
やりたくもない軍事技術の開発をさせられていた日々が脳裏をよぎる。女は鬱屈した感情を噛みしめるように暗い笑みを浮かべた。
すると薄気味悪いその姿を特に気にした様子もなく少女がぽつりと呟いた。
「・・・・・たぶんそうはならない」
「どういう意味?」
女が言葉の意味を図りかねてそう尋ねると、少女はいくばくかの逡巡の後、開きかけた口を閉じて黙り込んでしまった。
一瞬、疑問符が脳裏をよぎったがこうなっては何も語らないだろう。そう思い女は世間話でもするように軽い口調で話し始めた。
「まぁ・・・いいか。そうそう魔道兵士といえばね最近ちょっと妙なことがあったんだ。処置室に何者かが侵入したらしいんだよね」
横目でチラリと相手の様子をうかがう。しかし少女は特に何の反応も示していなかった。
どうやらあまり興味を引くような話題ではなかったらしい。その事に少々の落胆を感じながら話を続ける。
「君も知ってると思うけどあそこは一見無防備に見えてそれなりの警備態勢を敷いている。
強引な手段を取ればセキュリティを突破することも不可能ではないだろうが、そんなことをすれば必ず何らかの痕跡が残る。
だが扉がこじ開けられた形跡はないし、ハッキングでパスを抜き取られたわけでもないらしい」
元々が軍の研究所であるため周囲の内壁や扉の構造は堅固の一言だし、
扉を通るためにはカードキーとパスワード、いくつかの生体認証が必要とされる。
セキュリティシステム自体にも女が直々に手を加えているため、
扉を直接爆破でもしない限り、生半可な手段で突破することは不可能なはずだった。
「だからちょっと考え方を変えてみたんだ。ひょっとしたら侵入者なんて初めからいなかったんじゃないかって」
「それって結局あなたの気のせいだったってこと?」
それまでむっつりと押し黙ったままだった少女が呆れた様子で嘆息する。
何となく馬鹿にされているような気分を味わいながら、それでもまるっきり無視されるよりはましなので女は早口にまくし立てた。
「いや違うよ。あの部屋に何者かが入ったのは間違いない。
ただね、そいつは無理やり侵入したのではなく普通に入ってきたんだ。
正規の手段でね。ごく普通にパスを通し中に入った。そして後で入室記録を書き換えたんだ。
室内の監視映像から何から全部ね。ほら、この方法なら不要な痕跡を残すこともないだろ?」
「考え方がおかしい。何の痕跡もないなら処置室に入った人間はいなかったと考えるのが道理」
「簡単だよ。私はなにも入室記録の改ざんに気付いたから侵入を察知したわけじゃない。
種を明かせばね、呪文処理のプリンターにはちょっとした細工が仕込んであるのさ。
シャーペンの芯を処置台の隙間に挟んでおくんだ。
その事を知らないで使用すると気付かないうちにそれが折れてしまうっていう原始的な罠でね。
犯人はデータベースに侵入して入室記録まで操作しながらそんな単純な罠には気付けなかったわけだ」
資源植物の減少が叫ばれるこの時代においても、紙媒体の書物などが完全に消えてなくなってしまったわけではない。
もともとそういったアナログ的な懐古趣味を持ち合わせている女は、
システム手帳や大学ノートから万年筆ボールペンなど、各種筆記用具を私物として取り揃えていたりする。
罠に使ったシャープペンの芯もその一部だった。
まぁその罠自体は狙ってやっていたことではなく、ほとんど遊び半分の代物だったのだが、それは置いておくとして・・・。
「誰かが入ったのは間違いないんだ。とすると犯人像もいろいろと絞られてくる。
まず第一にあの場所にプリンターがあることを知っている人物。
そして正規のパスを持っていて、なおかつそれが使用されたことを隠しておきたい人物。
さらにプリンター自体を使用することができる人物だ。そう考えた時、私の心当たりは一人しかいなかったよ」
この研究所の情報自体が一般には公開されていないうえに軍のデータベース上でもかなりの機密レベルを持っている。
それに加えて魔道兵士の開発は中央議会の思惑が絡んでいるため研究所内でも極秘事項とされている。
当然研究にかかわる人間はごく少数だし、呪文処理を刻印するためのプリンターを操作できる人間に至ってはたった二人しかいない。
即ち・・・。
「なぜ私に黙ってプリンターを使った?」
女の顔から表情が消える。隣にいる少女の肩にそっと触れながら声だけは穏やかに問いかけた。
するとそれがトリガーだったかのように、少女は女がこの部屋に入って初めて真正面からこちらに向き直った。
「さっきの話だけど・・・」
「え?」
「新兵器のトライアル。私たちのバックについてる講和派が魔道兵士を使わない理由」
「あ、ああそれが?」
予想していた答えとは全く別の返答であったことに女は若干の戸惑いを覚えた。
しかしそんなことはお構いなしに少女は感情の読めない淡々とした口調で言葉を続けていく。
「幹部会はあなたが魔道兵士開発の予算を時空転移システムの研究に流用していることにずっと前から気付いていた。
今まで見過ごされていたのはそれなりの成果を上げていた事と、
彼らがあなたの弱みを握ることで精神的優位にたっていたつもりだったから。
でもその情報が主戦派側に漏れて圧力をかけてきた。次の議会で必ず問題になる」
「・・・つまり敵対派閥に追及を受ける前に私を切り捨てて研究成果だけ奪おうとすると?」
現在、魔道兵士の開発は最終段階を迎えていると言っていい。
データの収集が終わり調整段階に入った今、開発主任がいなくなったところで大した痛手ではないと考えているのだろう。
元々議会では少数派に属している連中だ。自分たちの首が危ぶまれれば急いでトカゲのしっぽを切ってくるはずだった。
己の考えにうんざりとしながらため息をこぼす。まぁ所詮利用し利用されるだけの関係だ。
向こうが一方的にこっちを切り捨てたとしても文句を言える立場ではない。
・・・・・少々腹が立つのは確かだが。
「それで、その事と君の処置室の無断使用がどうつながるのかな?」
「私たちの最終目的は時空転移システムの開発。そのためなら取り入る先が主戦派でも講和派でも関係ない」
「回りくどいな。つまりどういう意味なんだ?」
「主戦派にとっても魔道兵士の開発技術は、ただ捨て去るには惜しかったという話」
「ああ、寝返ったのか」
納得しながら手のひらをポンと叩く。
今現在、議会の大半を占める主戦派は旧兵器製造を主軸とした軍産複合体を形成している。
派閥に属している者たちにとって、魔道兵士の開発は邪魔でしかない。
なにしろ制限があるとはいえ、魔道兵士は戦車一台よりもはるかに少ないコストで同等以上の戦果を期待できるのだ。
ただでさえ乏しい資源を大量に食いつぶしている既存の軍事技術に対してブレイクスルーを起こしかねない。
戦況の悪化を鑑みて、これを主力とした新たな部隊が作られるといった噂も出ている。
このことは戦争を利用し更なる軍拡を狙っていた彼らの出鼻をくじくことにもなるだろう。
要するに次の主力を担う製品競争の前にライバルを潰しておきたいと考えた主戦派が、
議会に予算管理の問題を提起したというのが本来の流れか。ただ、思惑はもう一つあったわけだ。
自分たちの管理下にない兵器が主力になるのは困る。だがもしそれが手に入るのなら?
そう考えた一部の人間が彼女に接触したという話らしい。
「ん?でも待てよ。話は分かったけどそれだけじゃ呪文処理の一件の説明にはならないだろ?」
「彼らが欲していたのは魔道兵士開発の”完全”なデータ。それには完成品の提出が絶対条件だった。
あなたが危険視していた全身処理のデータもそれに含まれる。・・・他人では試せない」
「まさか・・・君自身が使ったのか?」
「なすべきことをなすためなら私は戸惑わない。たとえそれがどんなに危険なことであったとしてもね」
そう語る少女の顔色は何一つ変わっていない。氷壁のようにすべてが凍り付いて動かない。
だがその氷の仮面の裏に潜む激情は隠しきれるものではなかった。
決意や信念と一言で断じるには到底足らない、薄闇の中にくすぶり続ける蓑火のような情念が感じられた。
女は心の中でそっと息をつき首を振る。
最初は処置室の無断使用を咎めるつもりで来たのだが、こうなってしまってはもはや相方を止めることなど不可能だろう。
それに彼女の言うこともわからないではないのだ。自分たちは決して歩みを止めることはできない。
この世界を根本から変革することになったとしてもだ。
そう無理やりにでも納得し、幾つかの懸案事項とこれから起こるであろう様々な厄介ごとに思いを巡らす。
先程よりも若干老けたようになりながら女は再び眼前にあるシリンダーへと目を向けた。
◇◆◇
「ところで今日は何でそんな口調なんだい?っていうか君そんなまともな話し方ができたのか」
「さすがの私でも軍部のお偉方にいつもの調子で話しかけないヨ。これからスポンサーになってくれる方々だしネ~」
「・・・普通に話せるなら普通に話しなよ」
「いやネ。肩がこる」
「・・・・・・」
◇◆◇
その場所は男にとってまぎれもなく戦場だった。
銃弾や砲火が飛び交うそれとは違うが、一瞬の油断が死に直結し極度の集中を強いられ精神は摩耗する。
息を殺し身を潜め、影のように目立たず、そうやってひたすらに忍耐を試される。
そう、言うなれば狩りのようなものだ。獲物を仕留めるために個を抹消し全に溶け込む。
そうする事でじりじりと前へ進むことができる。目的地に向かって少しづつ。
ごくりと喉が鳴る。緊張で目がかすむ。できることなら心臓の鼓動や呼吸音も止めてしまいたかった。
薄い皮膚の下を流れる血管の脈動すら煩わしく思いながら、蛇のように床を這って行く。
気付かれればすべてが終わる。筆舌に尽くしがたい苦痛を受け、恐怖によって魂まで汚染されかねない。
だがたとえそうだとしても、男は前進をやめようとは思わなかった。
絶対にたどり着く必要があるのだ。
彼にとって幾億の財宝や贅の限りを尽くした美食などより、はるかに価値のあるあの禁断の聖域に・・・。
(ぐふ、ぐふふふふ、ふはははははは!なんせ久しぶりのお宝拝見やからなぁ!絶対覗いちゃる!!)
下卑た笑みを浮かべながら男が向かっているその場所は・・・バスルーム(美神令子使用中)だった。
・・・二分後。
「横島ああああああああああ!!!!」
「のわあああああ!!ち、違うんすよ美神さん!!!」
美神の驚異的な勘の良さにより、横島の覗きはあっさりと露見した。
◇◆◇
その日の帰宅途中、朝倉和美は奇妙なものを目撃していた。
どこかに寄り道でもしていくかと特に目的もなくブラブラとしていた時、それは突然視界に入ってきた。
遠目に何かがフワフワと浮遊している。歩道にある並木の間を器用に飛行していた。
一瞬、鳥か何かだとでも思ったのだがそれにしては挙動がおかしく、
色合いもこんな街中ではついぞ見かけないような見事な藍色をしている。
蝶にしてはサイズが明らかに大きいし、おそらく昆虫の類でもない。
いったい何だろうと好奇心に押されて、和美はその飛行物体にゆっくり近づいていった。
片手にデジカメを構えながら固唾を吞む。すると次第にその姿が鮮明になっていった。
「・・・・・・・えぇ?」
ポツリと疑問の声を上げて和美は自分の目を疑った。肩にかけてある鞄が肘のあたりまでずり落ちる。
奇妙な物体の正体は温泉街の土産物屋にでも売っていそうな小銭入れだった。
藍染の布地に格子模様、白いより糸で花が刺繍されている。
太陽光を反射して鈍く光っているのは金色の留め金部分だろう、こぶし大に膨らんでいるそれが呑気に空を飛んでいた。
(・・・なんでやねん)
思わず関西弁でつっこんでしまうほど、それは脈絡もない光景だった。
左右にゆらゆらと揺れたかと思うと、回転を加えて上昇と下降を繰り返している・・・がま口がだ。
本物の超常現象にしてはあまりにおまぬけであり、誰かのいたずらにしてはシュールすぎる。
和美は何となくリアクションを取り損ねて、ぼーっと道の真ん中で立ち尽くしていた。
すると、そんな和美に気付いたのか空飛ぶ小銭入れが突然急接近してきた。
「朝倉さーん!」
明るく呼び掛けられる。嬉しそうに自分の名前を呼ぶその声には聞き覚えがあった。
最近、とある知人の紹介で知り合ったばかりの友人だ。彼女は透き通った手にがま口を握りしめ和美の前までやってきた。
「こんにちは!」
「あ~うん、こんにちは・・・さよちゃんだったのね。・・・一応納得」
優し気な目元に色合いの薄い髪、古めかしい制服姿でこちらをのぞき込んでいるのはクラスメイトの相坂さよだった。
若干かすれているその姿に微妙な脱力感を覚えつつ、鞄を掛けなおす。
そして和美は無理やり笑顔を浮かべながらさよに質問した。
「えっと、どっかにお出かけかい?」
「はいっ!ちょっとすーぱーまーけっとまでお買い物に」
「す、すーぱーまーけっとね。だから今日は財布持ってるのか」
「あ、これですか?えへへ、なかなか可愛いですよね」
「う、うん」
そう言いながら大切そうに持っているがま口を、掌に載せて見せつけてくる。
勢いに押されて相槌を打ってやると彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。
無邪気に笑いかけられて、和美はある事実を指摘するべきかどうか真剣に悩んだ。
なんというか妙に罪悪感を刺激される。
だが、このまま何も言わずにさよを見送れば、買い物客でにぎわっているであろうスーパーがえらい事になる。
和美は心を鬼にしてさよに向き直った。
「ねぇ、さよちゃん。楽しそうにしてるとこ悪いんだけど。
一人で買い物するのはさすがに無謀じゃないかい?さよちゃん幽霊だし・・・」
「・・・え?」
「いや、え?じゃなくてさ。私が相手だったらいいけど、さよちゃんを見えない人はびっくりするんじゃないかな。
その、財布とか商品が勝手に動いてたらさ」
「はうあ!」
和美が遠慮がちにそう告げると、さよは発作でも起こしたように胸を押さえた。
そのままへなへなと地面に両手をつきうなだれる。
まるで素人演劇のように大げさな仕草だったが、どうも本人は本当に落ち込んでいるようだった。
「た、確かにそうですよね。私がお買い物なんてできるわけないですよね・・・」
「う、うん、たぶんね。というかなんでできると思ったの?」
「うぅ、最近普通に私とおしゃべりしてくれる人が増えたので、ひょっとしたらいけるんじゃないかと思って」
「いや、そこはもうちょっと慎重にいこうよ」
あきれながらそう言うと、さよはますます重たい影を背負い始めた。
ようやく梅雨を抜けたというのに、周囲一帯がじっとりと澱んだ空気をはらんでいく。
そんな調子で深い溜息を吐いている彼女に、和美はやれやれと肩をすくめた。
「ほらほら、あんまり落ち込まないで。買い物くらい私が付き合ってあげるからさ」
励ますようにそう言ってやると、さよは目の端に涙を浮かべながらこちらを振り向いた。
驚いた様子で確認してくる。
「え?いいんですか!?」
「まぁね。どうせ私も暇してたし、大した手間でもないしさ」
実際、学園祭の準備も終わっているので当日まで自分の出番はない。
今はちょうど準備期間と本番に挟まれた空白の時間帯というやつだ。
知り合って間もないとはいえクラスメイトが困っているのだし、自分で助けになるなら助けてあげたいと和美は思った。
「う、うぅぅ。あ、あさくらさ~ん。ありがとうございます!」
「はは、おおげさだなぁ」
今度は感動の涙をにじませてお辞儀をしてくるさよに、和美は若干照れた様子で顔を赤くさせた。
それからは特に問題らしい問題もなく買い物を終えることができた。
店内はそれなりに込み合っていたので、さよに話しかけるときは周りを警戒したものだが、
幸いなことに買い物客から奇異な目でみられるような事態にはならずに済んだ。
今は二人で次の目的地である横島忠夫の家に向かっているところだ。
どうやらさよは普段からお世話になっている横島に料理を作ってあげたいらしく、
そこそこ重くなった買い物袋の中には様々な食材が入っている。
彼女に持たせるわけにもいかないので荷物は全て和美が運んでいるのだが、
先刻からその事を気にしているようで、ちらちらとこちらの手元を見ていた。
一応気にしないでと伝えてはみたものの、あまり効果はないようだ。
和美は申し訳なさそうにしているさよの視線に居心地の悪さを感じて話題を変えることにした。
「そういえばさよちゃんって料理作れたんだ」
なるべく気負わないようにして話しかけると、さよは大げさに首を振った。
「い、いえそんなことないです。幽霊になってから初めての挑戦ですし」
「まぁ、そりゃそうか」
「はい。ですから献立はカレーにしようかと思って」
簡単に作れるほうがうまくいくでしょうしと彼女は少しだけはにかんでみせた。
「だね。よっぽどのことがない限り失敗はしないか」
何しろ食材を切って、煮て、カレー粉を入れる。大まかに言えば作業工程はこれだけだ。
本格的に作るとなるとそれなりに手間のかかる料理だったが、さよの口ぶりから推察するにそんな面倒な事はしないのだろう。
隠し味にコーヒー牛乳を入れたり、出汁がでるからとナマコをぶち込んだりしない限りはおそらく健全なカレーができるはずだった。
「あと一応特訓も兼ねてるんです。細かい作業を繰り返すことで力のコントロールがうまくなるらしくて」
「力のコントロール?」
「はい。あんまり気合を入れすぎるとポルターガイストが起きちゃうから、いろいろ練習してるんです」
「ポルターガイストって・・・」
可愛いなりをしていても幽霊には違いないようだ。一度練習中に火事を起こしかけた事もあるらしい。
その時から比べるとだいぶ上達したようなので心配はいらないといっているが。
(・・・ほんとかね)
何となく不安になる。
別に彼女が見栄を張っているとまではいわないが、うっかりしてミスを犯しそうな気配はする。
料理中はさり気なく自分も見張っておこうと心に決めて、和美は気付かれないように一度頷いた。
そうやって二人で談笑しながら歩いていると、横島が住んでいるアパートが目に入ってきた。
見た目はそこそこ頑丈なつくりの二階建てアパートで、
間取りを多くとっているのか建物の大きさに比べて部屋数自体はそれほど多くない。
建設からあまり時間もたっていないらしく外観はなかなかきれいなようだ。
裏側に設置してある駐車スペースを通り抜け正面に回る。
さよに横島の部屋番号を訪ね、和美は呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした。
するとそんな自分をしり目に、さよは幽霊の特性を生かして勝手に室内に侵入してしまった。
そのまま内側から鍵を開け、扉を開いて和美を招き入れる。
あまりにもナチュラルな不法侵入だったが、本人は気にも留めていないらしい。
どうやら幾度もこの部屋を訪れているため、感覚がマヒしているようだ。
スリッパを用意しながらどうぞと呼び掛けてくるさよに和美は乾いた笑みを返した。
遠慮がちに玄関を通り靴を脱ぐ。
勧められるがままに部屋に上がり、一応自分だけは挨拶しておこうと和美は奥に向かって声を掛けようとした。
すると次の瞬間。バカン!!という派手な音とともに通路側に面している扉の一部が破裂したような勢いで開かれた。
そこから何かがすごい勢いで転がり出てくる。
「ご、誤解っす、誤解なんすよ美神さん!!」
上ずった悲鳴のような声でそう言ったのは、顔を真っ赤にして必死に弁明している横島忠夫だった。
いつも額に巻いているバンダナが首のあたりまでずり落ち、
熱湯でも浴びせかけられたかのように全身びしょ濡れであちこちから湯気を立てている。
まるで服を着たまま風呂に入っていたかのような有様だった。水滴を廊下中にまき散らし小さな水たまりを作っている。
いきなり飛び込んできたその光景に和美は目を丸くさせた。
部屋の住人である横島がここにいるのは少しもおかしなことではないが、
呼び鈴も鳴らしていないのにどうやって自分たちの来訪を知ったのだろうか。
(ってそういう問題でもないか。いくら横島さんでもこんな歓迎はないよな)
横島が相当な変人であることは認識しているが、さすがに水浸しで客を出迎えることなどないだろう。
それに先程から自分たちなど目にも入っていない様子だ。理由はさっぱりわからないが何かに怯えているらしい。
首をひねりながらさよと一緒に成り行きを見守っていると、そんな横島の視線の先から一人の女が現れた。
輝くような美貌が濡れて重くなった髪の間に見え隠れしている。
抜群のプロポーションをバスタオル一枚巻いただけで惜しげもなくさらし、シミ一つない上気した肌はあまりにきめ細かく滑らかだった。
長いまつ毛の下で伏せられた瞳が妖しい色気をたたえて愁いを帯びている。
均整の取れた強くしなやかな肉体はある種の美術品を連想させた。
ただ、全身から発散されている生気のせいで間違っても作り物には見えなかったが。
彼女は瑞々しさに満ちた唇を動かしポツリと言った。
「あんたねぇ、せめてバレた時くらい潔く死になさいよ」
「死ねるかああぁ!!だから違うんすよ!俺は美神さんの風呂を覗こうなんてこれぽっちも思ってなくてですね!!」
「ふ~ん。じゃあなんでコソコソしながら洗面所にいたわけ?」
「そ、それは、えっと・・・そ、そうだ!!
ほ、ほら美神さんこっちに来たばっかで着替えとか用意してないんじゃないすか?だから俺が替えの下着を・・・」
そう言いながら横島がどこからか女性用下着を取り出し両手で押し広げる。
レースをふんだんに使った洗練されたデザインは見るからに高級そうではあるが、
手にしているのが横島なのでもはや弁明の余地もなくキッパリと犯罪めいている。
美神と呼ばれた女性もそう思ったのだろう。重苦しい溜息をつくと額に青筋を立てながらニコリとほほ笑んだ。
つられて横島もひきつった笑顔を浮かべる。
白々しい静寂はけれどもさほど長くは続かなかったようだ。美神が何気なく触れていたドア枠がミシリと音を立てる。
見ているだけの和美にも脳内でけたたましく危険信号が鳴り響いた。
そして・・・爆発した怒りは周囲の空気すら押し流す勢いであちこちに噴出し始めた。
「だ・か・ら、なんであんたが私の下着を持っとるかあああああ!!!!!!」
「はっ、し、しまった!!掘らんでいい墓穴を自分から!?」
その後どのような報復が行われたのか和美は知る由もない。なぜなら声が聞こえた瞬間、後ろを向いて目を閉じていたからだ。
ただ、何かがすり潰されているようなぐちゃっとか、ねちゃっとかいう水っぽい音と、
断末魔にしてはあまりに弱々しい男の悲鳴が時折聞こえてくるだけだった。
◇◆◇
「あわわわわ、せ、先生の顔が潰れたトマトみたいに」
「まぁここ最近八つ当たりできる相手がいなかったせいでストレスたまってたみたいだしねぇ」
「だ、だからやめたほうがいいって言ったのにぃ。ひ~ん横島さは~ん」
半死半生の横島の傍で前髪だけ赤く染めた銀髪の少女がオロオロとうろたえている。
そんな彼女にやる気のない声で相槌を打っているのは、長い金髪を頭の後ろで無造作に縛っている学生服姿の女の子だ。
血生臭い匂いから少しでも遠ざかりたいのか部屋の隅っこで顔をしかめている。
救急箱から包帯やら消毒液やらを取り出し、どこかさよに似ている印象の女性が懸命に手当てをしていた。
いつもより三割増しで死にかけている横島の命を半泣きになりながら救おうとしている。
三人とも先程軽く紹介されたばかりだが色々と個性的な面々らしい。
さすが横島のお仲間といったところか。
なんだかよく分からないうちに勧められた座布団の上で和美は静かにお茶を啜った。
「う、うぅ、わ、ワイはただ再会の喜びを素直に表現しただけなのに」
氷室キヌと名乗った女性に膝枕をされながら横島が力ない声でうわ言を口にする。
体だけは頑丈な彼も今回はなかなか復活することができないでいるらしい。
しかしそんな独りよがりの言い訳は何の感慨も呼び起こさなかったようだ。
覗きの被害者であり私刑の加害者でもある人物・・・美神令子は呆れたように溜息をついた。
「あんたの愛情表現はたいてい犯罪行為なの。いい加減自覚しなさいよ」
「だからって久々に会ったっつーのにこんな殴ることないじゃないっすか!」
「久々の再会でいきなり殴られるようなことするからでしょうが!!
まったく・・・色々頑張ってくれたからちょっとくらいは給料上げてやろうかと思ったのに」
「へ?なんか言ったっすか美神さん。まだ頭がくらくらするんで大きい声で言ってくれないと聞こえないんすけど」
「うっさい。こっち見んな」
犬を追い払うような仕草で手を振りながら美神はそう言った。拗ねたようにそっぽを向きブツブツとこぼし始める。
そんな彼女の様子にばつが悪いのか、横島は頭をかきながら和美のほうに向き直った。
「そ、そういえば和美ちゃん、今日はどうしたんだ?何か用事?」
どうも話題を変えてお茶を濁したいらしい。仕方がないので和美はその思惑に乗ってあげることにした。
「ん~にゃ、私は単なる付き添い。なんかさよちゃんが横島さんにカレー作ってあげるんだってさ」
「カレー?」
こたつ机の上で肘をついた少々だらしない姿勢で和美が台所を指さす。
横島がきょとんとしながらその誘導に従って視線を向けた。今さよは調理の真っ最中だ。
最初は和美も傍について見ていたのだが、彼女は意外にもそこそこ慣れた手つきで包丁を握っていた。
まだ所々危なっかしさは残っているものの、あれならばなんとかなりそうだとこちらに戻ってきていたのだ。
「力の使い方の練習だって。横島さんが言ったんじゃないの?料理してみればって」
「いや、別にそんなこと言った覚えはないんだが」
そう答えながら横島は台所にいるさよを不思議そうに見た。どうも本気で身に覚えがないらしい。
「でも横島さん昔幽霊の女の子にお世話になってたんでしょ?だから自分も頑張ってみるって、さよちゃんが言ってたよ」
「あ・・・あぁそういやしたかもしれないなそんな話」
そう言いながら横島はなぜか自分の隣に座っているおキヌを見た。彼女も横島と顔を合わせてくすくすと笑っている。
美神たちにも通じる話題らしく、彼らはそのまま身内で盛り上がり始めてしまった。
その事に少しだけ疎外感を感じて、和美は何となくこの部屋にいる最後の人物に視線を送った。
「それで君はなぜこんな所にいるのかね夕映きちくん」
「大した理由はないんで放っておいてくれませんかね朝倉さん」
部屋の隅っこで小さな体をさらに小さく丸めてなぜか綾瀬夕映がそこにいた。
どことなく不機嫌そうに眉をひそめて、彼女は和美から視線をそらしている。
実を言えばこの部屋に入った時から気付いていたのだが、
本人が自分にかまうなというようなオーラを発していたので声を掛けそびれていた。
制服姿なので、どうやら学校が終わったその足でここに来ていたようなのだが。
「いや、放っておけって言われてもさ、どう考えてもこの面子で綾瀬だけ浮いてるじゃん。気になるって」
「そ、それは、その、そうかもしれませんけども」
語尾を濁しながら夕映がもじもじと三つ編みに縛っている髪をいじり始めた。
見るからに言い訳じみた様子で言葉を続けてくる。
「わ、私はただ昨日横島さんの様子がおかしかったから・・・」
「気になって来てみたと?」
「まぁ、そうです」
夕映はそう言って力なく頷き返してきた。こちらの視線から逃れるためか手に持った大きなマグカップで顔を隠している。
そんな夕映の姿を観察しながら、和美は何となく早乙女ハルナの言葉を思い出していた。
彼女が言っていたあの噂は、ひょっとしたら間違いではないのかもしれない。
昨日の横島がどんな様子だったかは知る由もないが、
普通いくら心配だったとしても一人暮らしの男の家をわざわざ訪ねてくるだろうか。
しかも誰かと一緒にではなく一人だけで。
(ふ~ん綾瀬がねぇ。綾瀬ってもっとこう真面目というか落ち着いた感じの人が好きなんだと思ってたけど)
最近夕映と横島がよく一緒にいるという話は聞いていたし実際に見てもいたが、それでも冗談半分な話だったのだ。
ここに来てその冗談話に真実味が増してきた。まぁこの様子では本人も自分の気持ちを自覚していないようではあるのだが。
そんなことを考えつつ口元を緩めていた和美だったが、目ざとく気付いたのか夕映が眉間にしわを寄せながら詰め寄って来た。
「何か失礼なこと考えてませんか朝倉さん」
「え~まさか~パルもあれで結構鋭いんだな~とか思ってないよ~」
「何ですかそのわざとらしい言い回しは。言っておきますけど朝倉さんが考えているようなことは微塵もないですよ。
わざわざ訪ねてきたお客さんをほっぽり出して女性のお風呂を覗くような人の事なんて私は全っ然これっぽっちも!!」
「い、いや分かった。分ったからちょっと離れて。鼻息がこそばゆいから」
夕映が耳元から首筋にかけてねっとりと訴えかけてくる。
和美はその押し殺した迫力満点の声から逃れるために座布団に座ったまま器用に距離をとった。
「別にそんな照れることもないと思うけどなぁ。ほら、蓼食う虫も好き好きっていうじゃん。
人の好みなんて千差万別なんだから世界のどこかにはスケベで女好きの色情狂で何度かトラブルを起こして警察に捕まりそうになっては
ゴキブリ並みのしぶとさで逃げ延びてる変質者を好きになる人も、きっとひょっとしたら万が一にもいっぱいいるかもしれないって」
だからそんなに気に病むなと言外に含めて肩をたたいてやると、夕映は心底いやそうにその手を払った。
「私が言うのもなんですが、朝倉さんって横島さんの事嫌いなんですか?」
「へ?なんで?見てて飽きないし面白い人だと思ってるけど」
意外なことを言われた気がして和美は首を傾げた。若干引き気味な夕映を不思議そうに見つめる。
彼女はなぜか疲れた様子で溜息をついていた。
「・・・いえ、なんかもういいです」
そう言って会話を切り上げた夕映がどことなく悲哀のこもった表情を浮かべる。
色を失った黒い瞳が前髪の奥に隠れ、口元で何やらブツブツとこぼし始めた。
小さな手を膝の上で握りしめ、顔を横島達がいるほうに向けている。
俯き気味であるためこの角度からでは誰を見ているのかわからなかったが。
そんな風に黙り込んでしまった夕映に、和美が何となく声を掛ける事を躊躇していると、
突然ガチャンという食器同士が接触するような音がキッチンのほうから聞こえてきた。
「ひゃぁ!!た、大変、鍋が噴きこぼれて・・わぁ!!な、なんで急に火力が上がって、このままじゃ火事になっちゃう!!
と、とにかくみみ、みずをかけないと!」
続いてそんな丁寧な状況説明が悲鳴交じりに発せられた。居間で呑気に会話を楽しんでいた面々が一斉に台所を振り返る。
そこにはせわしなくあちこち飛び回っているさよがいた。右手にキッチンバサミを左手には菜箸を握っている。
慌てすぎてまともな対応もできないのか、蒸気が吹き上ているためにすごい勢いでカタカタとなっている鍋のふたを、
手に持った菜箸で強引に押さえつけていた。
「ふぇぇ誰か助けてくださ~い!」
そんな情けない声で助けを求めてくるさよにいち早く反応したのは意外なことにおキヌだった。
どことなくおっとりしたように見える印象を裏切って、素早くコンロの火を止め鍋のふたを手前に傾けて蒸気を逃がしている。
中身が噴きこぼれたシンクを手早く濡れタオルで拭い、最後に散乱していた調理器具を流し台の上に置いてからさよに微笑みかけた。
「さよちゃん大丈夫?」
「お、おキヌさんありがとうございます!!」
あまりの手際の良さに呆然としていたさよだったが、声を掛けられたことで落ち着きを取り戻したのか涙目のままお辞儀を繰り返していた。
そんな彼女に優しげな視線を向けておキヌは言った。
「あんまり気にしないで。たぶん料理に集中しすぎたせいで無意識に力を使っちゃってたんだと思う。
慣れていくうちにそんなこともなくなるだろうからリラックスして頑張ろ?」
「は、はい!よろしくお願いします」
さよが胸の前で両手を組み感動した面持ちでこくりと頷いている。それから二人は協力しながら料理を進めているようだった。
おキヌが付け合わせのサラダを作るために手早くレタスを千切って水に浸し、
こぎみよい包丁さばきでキュウリやらトマトやらをちょうどいいサイズに切断している。
そのかたわら手作りらしいドレッシングの作り方を教え、
さよは嬉しそうにしながらどこからか取り出した小さなメモ帳にレシピを書き記していた。
なんというか早くも打ち解けている様子だ。どことなく印象も似ている二人だったし、別に驚くことでもないのだが。
そんなことを思いながら何となく二人の様子を見ていた和美だったが、
ふと隣で同じようにキッチンを眺めているシロとタマモに気付き声を掛けることにした。
「えーと、料理得意なんだね。おキヌさんて」
らしくもなく少しだけ緊張しながらそう言うと、二人は訳知り顔で頷いた。
「炊事だけでなく掃除や洗濯もプロ級でござるよ。事務所の家事全般を一手に引き受けているでござる」
「実際おキヌちゃんがいないとうちの事務所なんか三日ともたずにゴミ屋敷になるわよね」
しみじみとした口調でそんなことを言っている。和美は冗談だと思って軽く否定の言葉を口にした。
「いやいやゴミ屋敷っていくらなんでも大げさでしょ」
「ところがそうでもないのでござるよ。拙者たちがいくら片付けてもいつの間にか部屋中が書類の山で埋まってるんでござる」
「たまに美神さんもわざとやってるのかと思うけど。一番困ってるのが本人だからそんなことないんでしょうし」
不思議よねぇと朗らかに笑いあっている。どうやら何の誇張もない事実らしい。
話ぶりから推察するに部屋を散らかしているのは主に美神のようなのだが、見た目とのギャップに意外性があり過ぎると和美は思った。
何せ絶世の美女といってもいいくらいの人なのだ。
そんな人が実はずぼらなのだと聞かされてもにわかには信じられなかった。
(わざわざ私に嘘つく理由もないだろうから本当の事なんだろうけど)
人間誰しも欠点の一つはあるという事なのだろうか。まぁ容姿と性格が必ずしも一致しないというのは理解できないことでもないが。
半信半疑のまま和美が無理やり納得していると、話題の当人である美神が引き攣った笑みを浮かべながら口をはさんできた。
「あんたら・・・好き放題言ってんじゃないわよ」
押し殺した低い声が威圧感をにじませる。鋭い視線を向けられたシロとタマモがびくりと体を震わせ、即座に白旗を上げていた。
彼女たちの力関係が如実に表れているようだ。どうも美神には頭が上がらないらしい。
目を泳がせながら必死になって弁明している二人のために、和美は心の中で彼女たちの命運を祈ることにした。
そうこうしていると、だんだんキッチンからカレーの匂いが漂い始めてきた。
同時に、さよの小さな歓声も聞こえてくる。どうやら無事料理が完成したようだ。
夕食にはまだ早い時間帯だったが、それでもカレー独特の香りは食欲を刺激する。
和美が思わず唾を飲み込んでいると、隣にいる横島も鼻をひくつかせながら腹を撫でていた。
部屋の隅にいたはずの夕映も、先程よりテーブルに近づいている。
やはり成長期の体にあの匂いは格別なようだ。
その事に気付いて和美が苦笑していると、美神から追及を受けていたシロとタマモが好都合といわんばかりに席を立った。
おそらく手伝いを口実におキヌのもとに避難するつもりなのだろう。
まぁ、これだけ大所帯だと人数分の食器を並べるだけで一苦労だし、人手が多いに越したことはないのだろうが。
一瞬自分も手伝うべきかという考えが脳裏をかすめたが、
いちおう客として来ている手前、必要以上にでしゃばるのも失礼な気がして和美はおとなしく待っていることにした。
しばらくすると完成した料理を持ってさよたちがキッチンからやってきた。
サラダやカレーライスを盛りつけた大皿がテーブルに並べられる。
しかし元々大人数を想定していないこたつ机ではスペースが足りなくなってしまい、
最終的になぜか横島だけがミカンと書かれた段ボールの上で食事をすることになっていた。
「なんか納得いかん。もともとさよちゃんはワイのためにカレーを作ってくれたはずなのに、
なんで俺だけミカン箱で一人寂しく飯食わなきゃならんのだ」
「え、えーと・・・大丈夫です、横島さんには私がついていますから!」
一人だけ団らんの輪から外された横島がブツブツと独り言をこぼしている。
そんな彼の隣でさよが甲斐甲斐しく世話をしつつ懸命に慰めていた。
「さよちゃんはほんまにええ子やなぁ」
「そ、そんなことないですよ。それより味はどうですか?美味しくできてますか?」
「ん?ああもちろんうまいぞ。はじめてにしては上出来だと思うよ。まぁカレーをまずく作れる奴もそうそうおらんだろうが」
横島がもぐもぐと口を動かしながら感想に余計な一言を付け加えている。
さよは喜んでいいのか悲しむべきか本人にもわからない様子で味のある絶妙な表情を浮かべていた。
「うぅ、美味しいって言ってもらえてすごく嬉しいですけど、なんか複雑な気分ですぅ。
こうなったらもっとおキヌさんに料理を教えてもらって、いつか横島さんをぎゃふんと言わせるしか!!」
「いや、ぎゃふんて。まさかわざとまずいの作るとかじゃなかろーな」
横島がそう言っている隣で、さよは話も聞かずに謎の闘志を燃やしている。
何をやっているんだかと和美が呆れていると、夕映が自分と同じようにちらちらと彼らを見ていた。
どうやら横島たちの様子が気になっているようだ。
「そんなに気になるなら綾瀬も向こうで食べてきたら?」
「ふぇっ!?な、なんですかいきなり!」
「いや、さっきから落ち着かないみたいだからさ」
「べ、別にそんなことないですよ。何言ってるですか」
「だって、なにか横島さんに話があるんじゃないの?食べながらでも聞いてくれば?」
「い、いいですよ。もともとそれほど大した話じゃなかったですし」
もごもごと口ごもりながら夕映が手に持ったスプーンを手の中で弄んでいる。
あからさまに動揺しているようで、食器とスプーンがカチャカチャと触れ合っていた。
それを指摘してやると今度は自棄になったのかカレーを口いっぱいに詰め込み始めた。
頬を膨らませ、ろくに噛みもしないで胃の奥に流し込んでいる。
途中、喉を詰まらせ顔色を青くさせた夕映に水を手渡してやりながら和美はやれやれと肩をすくめた。
結局その後も夕映は横島と会話らしい会話をすることはなかった。
和美も彼女が話しやすいようにいろいろと水を向けたりしたのだが、結果はあまり芳しくなかったようだ。
まぁ緊急性のある話ではないようだし、本人も明日また聞いてみると言っていたのでそれほど気にすることでもないのかもしれないが。
そうこうしているうちに門限が近くなりその日は解散することになった。
玄関口まで見送ってくれた横島やおキヌに別れの挨拶を交わして和美は部屋を出た。
初夏の夜、日中とは違って夜の空気を纏った涼やかな風が吹き付けている。
それを受け止めながらどこか遠くに感じられる空を見上げて和美はそっと深呼吸した。
偶然とはいえ面白い人たちと知り合いになれた。
彼女たちは横島の上司と同僚だそうだが、仕事でしばらくの間麻帆良にいるらしい。
仕事内容を尋ねた時、学園都市の郊外に生息している害獣の駆除を行うのだと言っていた。
なんでも都市として整備されていない外延部の山狩りをするのだとか。
正直、女性ばかりの美神たちが行う仕事とは思えなかったが、本人たちにしてみればよくあることなのだそうだ。
ハンターの仕事とはどんなものなのか少し興味がわくし、
今度会う時には質問の内容を吟味して本格的に取材をしてみるのもいいかもしれない。
学生寮までの帰り道、自分たちを送ると言って途中まで憑いてきているさよの横顔を見ながら和美はそんなことを思った。
◇◆◇
和美たちが帰った後の横島宅。
先程から比べれば人口密度は減ったのだが、それでもいつもに比べれば少々手狭な室内で、
美神除霊事務所の面々は各々自由な様子でくつろいでいた。
美神はこたつ机に仕事関係の書類を並べつつおキヌが入れてくれた紅茶を飲んでいる。
この部屋で一番大きなクッションを占領し、ノートPCの前で眉間にしわを寄せていた。
おキヌは台所でエプロン姿のまま手際よくお片づけをしている。
機嫌がよさそうに口ずさんでいる軽やかな鼻歌がここまでかすかに聞こえていた。
シロとタマモは先程からテレビの前でチャンネル争いをしている。
シロは時代劇を見たい様子なのだがタマモは料理番組を見たいようだ。どうもうどんの特集が組まれているらしい。
このままではらちが明かないとジャンケンをし始めた二人を見ながら横島は胸中で呟いた。
(なんちゅーか・・・相変わらずやな)
しばらく顔を合わせていなかったが、みんな全く変わっていない。
自分がよく知る通りの仲間たちだった。
湯呑に残った緑茶を啜りながら苦笑を零す。どうやら自分はその事にどこかほっとしているらしい。
横島がそんなことを考えていると、仕事がひと段落したらしい美神が半眼を向けてきた。
「何笑ってんのよ」
「え、いや、別に何でもないっすけど・・・」
「・・・ふーん」
どことなく疑わしそうな美神に横島は首をすくめた。汗ばんだ手のひらを握りしめ愛想笑いをする。
そんな横島をじっとりとした視線で観察していた美神だったが、やがて馬鹿らしく思ったのか小さくかぶりを振った。
ノートPCの電源を落とし、ポキリと指の関節を鳴らす。額にかかった前髪を気だるげにかき上げ紅茶を口に含む。
細く形の良い喉がゆっくりと上下していた。
何となくボーっとしながらその様子を眺めていた横島だったが、
不意に自分が美神の何気ない仕草にまで注視していたことに気付いて柄にもなく照れ臭くなった。
美神の所で働くようになってからこれほど長期間彼女と離れていたことはなかったせいか、どうにも目を引かれてしまうようだ。
誤魔化すように咳払いをする。
「えっと・・・美神さん、ちょっと聞いていいすか?」
「あによ?」
片眉を器用に釣り上げた美神が短く問い返す。
自分に対するぞんざいな態度は相変わらずなようだが、一応許可は下りたものと解釈して横島は話を切り出した。
「いや、いまさら聞くのもあれっすけど、美神さんたち何でこっちの世界にいるんすか?
確か事務所閉めらんないからって、こっちには来れないはずだったんじゃ・・・」
こちらの世界に来たばかりの頃、ジークによって説明された内容を思い出す。
当時、美神の事務所は急ぎの仕事こそなかったものの、幾つかの企業から定期的に依頼が来ている状況だった。
そんな状況で事務所の所長が長期出張するわけにはいかないからという理由で横島が代わりに異世界に来たわけだが、
あの時はまさかこんなに長く居座ることになるとは思わなかった。
つまり結果的に見れば美神の判断は間違っていなかったということなのだろう。
従業員の都合をまるっと無視して異世界に叩きこんだ所業をなかったことにすればの話だが・・・。
そんな風に横島が思わず暗い影を背負い込みそうになっていると美神が居住まいをただしてこちらに向き直った。
「そりゃ私だってできれば来たくなかったけどさ。いろいろ気になることがあんのよ」
「気になることってやっぱり四人目の事っすか?」
「うーん・・・まぁそれはそうなんだけどそれだけじゃないというか・・・」
美神が歯切れ悪く言い淀む。
頭の中で話すべき内容を整理しているのか、指先でテーブルをコツコツと叩きながらやがて彼女は口を開いた。
「そもそも横島君が倒した魔族ってどうやってこの世界の事を知ったんだと思う?」
「え?」
唐突に思いがけないことを聞かれて横島は言葉に詰まった。
瞳をパチクリとしながら聞かれた内容を反芻する。
「いや、どうやってって・・・そりゃ奴らの親玉に聞かされてたんじゃないっすか?だってこの世界を作ったのは・・・」
「アシュタロス。まぁ普通に考えればそうなるわよね・・・」
異世界を創造したかの魔神は、神族と魔族のトップが推進していたデタント政策に真っ向から反対していた勢力の筆頭でもあった。
逃亡犯である魔族も反デタント派に属していたらしいので、双方に繋がりがあったとしてもおかしくはないはずだ。
横島がそう言うと美神はわずかに顔をしかめて唇をかんだ。
「そうね。でも、ちょっと見方を変えるとおかしな点が出てくる」
「おかしな点?」
「アシュタロスの計画のほとんどをサポートしてた土偶羅でさえしらなかったのよこの世界の事は。
それなのにあの最終決戦のときも魔界に引っ込んでたような連中にアシュタロスがわざわざ教えると思う?」
「それは・・・」
「まぁ百歩譲ってあらかじめ聞かされてたんだとしてもよ。
逃亡犯の連中が魔界を追われて地上に降りてきた時、真っ先に異世界を逃亡先に選んだ理由は何?
どんな問題が起こるかわからないのよ?実際霊力の大半を失って休眠状態にまで追い込まれてたわけだし」
魔族や神族は霊体・・・つまり魂が肉体という皮をかぶって存在しているようなものなので霊的な環境の影響を受けやすい。
その性質上、霊力がほとんどない世界では存在を維持する事さえ困難になる。
それ故に彼らは基本的に己のテリトリーから離れることを嫌う。環境次第で自らの力の上限が変わるのだからそれも当然だ。
逃亡犯の連中も、もちろんその事を理解していただろう。だがそう考えると彼らの行動自体が不自然なのだと美神は言う。
霊力が存在しないという異世界の環境について彼らがあらかじめ知っていた場合、まず逃げ込もうなどとは考えないだろう。
逆にその事を知らなかったのだとしても、
よほど追い詰められでもしない限りは全く未知の環境に自ら飛び込んだりはしないはずだ。
要するに彼らを主体にその行動を追っていくと細かな矛盾点がいくつか見つかるらしいのだ。
「え?でもそうだとすると・・・あいつら何でこっちの世界に来たんすか?」
「さぁね、そこまでは私にもわかんないわよ。ただ・・・」
芝居がかった仕草で美神は肩をすくめた。皮肉を演出するように口元にはわずかな笑みが形作られている。
「一連の流れから考えて逃亡犯の連中とは別に何らかの思惑が絡んでいるのは間違いないと思う。
だからその辺のことを私もいろいろと調べてたんだけどね。正直手詰まりだったのよ。
で、そこにきてあんたが四人目を見つけたっていうから・・・」
「気になって来てみたと」
「そういうこと」
些か投げやりにそう言うと美神は台所にいるおキヌにお茶のお代わりを頼んだ。
ハイというこぎみよい返事とともにティーポットを持ったおキヌが現れる。
どうやら片付けは終わったようだ。美神のティーカップにお代わりを注ぎエプロンを脱いで一息ついている。
先程までくだらない理由で相方と真剣勝負をしていたタマモも、いつのまにか子狐の姿でおキヌの膝の上に座り込んでいる。
どうやらジャンケンに負けたらしい。不機嫌さを隠そうともしない彼女の背中をおキヌが慰めるようにやさしく撫でていた。
一部いまだ時代劇に夢中になっているワンちゃんがいるが、
各々やるべき事がひと段落したらしいのでとりあえずこれからの事について話し合うことにする。
「といってもさっき言った通りこっちにたいした進展はないわ。横島君のほうはどうなの四人目の調査は?」
「いや、あのガキについて話せることはほとんどないっすよ。でも最近まで一緒につるんでた子がいるらしくて」
美神に尋ねられた横島がこれまであったことを説明する。
お世辞にも要領がいいとは言えないその説明をそれでも黙って聞いていた美神達だったが、
四人目の協力者である超の話に差し掛かった時、僅かに驚きの声を上げた。
「未来人?」
横島に対してアホを見るような目つきでタマモが口を開く。
「なんなのそれ?あんたそんな話信じたわけ?」
「まぁお前のそういう反応もわからんではないが、
俺と美神さんに関しちゃ未来人だのタイムトラベルだのは馬鹿げた話だっつって笑い飛ばすわけにはいかんのや」
「・・・どういう意味?」
可愛らしく首を傾げたタマモが訝しげな声を上げる。
彼女の問いに対してなんと説明するべきか迷っていた横島だったが、話が進まないと思ったのか美神が強引に口をはさんだ。
「そっちは後で私が説明してあげるわ。
それより横島君、その超って子に四人目が協力してるのは間違いないのね?」
「そうだと思うっす。俺は四人目のガキから超ちゃんの話を聞いたし、彼女も否定はしなかったっすから。
ただ、ちょっと前にあのガキが出ていっちまったらしくて、もう一緒にはいないみたいなんすけど」
「出て行った?」
「超ちゃんのほうでも行方がつかめないみたいです。学園長の爺さんも見つけられないっていうし」
学園長が情報を秘匿したうえで相当数の人間に探させているらしいが色よい成果は得られていない。
ジークのほうでもかなり綿密に霊力探査を実行しているようだが、それでも網に引っかからないらしい。
唯一の手掛かりだった超からもたいした情報が得られなかったため、現状四人目の捜索に関しては難航しているといえる。
そんな横島の報告を聞いた美神が何事かを考えるように口を閉じる。
よほど集中しているのか眉根を寄せながら身動ぎ一つしなくなった。
進行役だった美神が黙ってしまったので何となく場の空気が弛緩し始める。
真面目な話をしていたせいか横島が何となく肩のあたりに疲れを感じていると、
おキヌに慰められて気を取り直したらしいタマモが欠伸交じりに呟いた。
「でも、その超って子が本当に未来人だったとして、そんな簡単に過去を変えるなんて事ができるの?」
「まぁ・・・なぁ。本人はけっこう勝算があるみたいだったけどな」
昨日自信ありげに話していた超の姿を思い出す。
何年かかけて周到に根回ししているというようなことを言っていたので相当な自信があるのだろう。
横島がそう言うと、皆の話を黙って聞いていたおキヌが遠慮がちに口を開いた。
「でもそういう歴史に干渉するような事ってできないはずですよね。たしか・・・」
自信なさげにおキヌが美神に顔を向ける。その視線を受け止めた美神が一つ頷いた。
「宇宙意思。歴史の修正力。因果律の収束。言い方なんてどうでもいいけどね。
過去を変えようとするとこいつの妨害にあう。
前に横島君が魔族に殺されかけた時、過去に戻って助けた事があったんだけど、
とある神様に言わせれば、それは現在でも助かる可能性が残ってたから出来た事らしいわ。
要するに過去を変えられるって言っても、変えられる過去しか変えられない。
・・・いえ、一度確定した結果は変えられないというべきか」
その説明なら横島も一度聞いたことがある。実際にそういった普通では考えられないような力の恩恵を受けたこともあった。
確かその時美神は自分たちを風に例えていたか。あの魔神が宇宙意思に反抗したために起こった反作用だと。
「やっぱり・・・そうっすよね・・・」
言いながらなんとなく胸のあたりにもやもやとしたものを感じて横島は小さく嘆息した。
するとそんな様子が目に入ったのか美神が試すようにこちらを見た。
「当ててあげましょうか?横島君。
あんたひょっとしたら過去を変えることができるかもしれないってそう思ってるんじゃない?」
悪戯っぽくそう言う美神におキヌとタマモが目を丸くする。
横島は俯いた姿勢から顔を上げると美神に問い返した。
「美神さんも気付いてたんすか?」
「可能性の問題だし、検証するわけにもいかないから確信があるわけじゃないけどね」
美神が肩をすくめてティーカップの縁をなぞる。どうやら自分が思いつく程度の事はとっくに気が付いていたようだ。
横島は妙に納得して口元を緩めた。
「ちょっと二人で納得してないで説明してよ」
話についていけずにタマモが抗議の声を上げる。口には出さないがおキヌも気になっている様子だ。
突っかかってくるタマモを自分の膝に乗せて美神は説明を再開した。
「さっき言ったけど基本的に過去を変えることは不可能よ。
いくらか過程は変化するかもしれないけど、それでも結果が変わることはない。宇宙意思が妨害してくるからね。
ただ・・・それはあくまで私たちの世界での話なのよ」
「どういう意味?」
「異世界・・・こっちの世界はね、その宇宙意思に反逆しようとしたある魔神が作った世界なの。
あいつは宇宙処理装置なんてものを作って宇宙の法則そのものを作り替えようとした。
そんなたいそうなこと考える奴が一から作り上げた世界なのよ?
ひょっとしたら私たちの宇宙とは根本的な構造からして全く違うのかもしれない」
「話についていけない。魔神?宇宙処理装置?なんなのそれ」
「昔そいつといろいろあったのよ。詳しく話すと長くなるんだけど・・・。
っていうか今回の依頼の資料に概要が書いてあったじゃん。あんた読んでないわけ?」
「あんまり興味なかったから読んでない」
バッサリと切り捨てられた美神の頬がピクリと痙攣する。
膝の上にいたタマモが背中をワシャワシャとかき回されて悲鳴を上げた。
慌てておキヌのもとに避難しながら威嚇するように唸り声をあげている。そんな彼女の様子を無視して美神は話を続けた。
「まぁそういう可能性の話をしてても仕方ないわ。それより今は四人目の魔族をどうやって探すかを考えましょう」
「でもさっきの横島さんの話だと見つけるのは難しそうですよね。一応見鬼君とか道具はいろいろ持ってきてますけど」
おキヌが部屋の隅に置いてあるリュックに視線を向ける。
本格的な登山でもするのかというような大荷物だが、これは元の世界で横島が担がされている馴染み深い物だ。
どうやら普段の除霊仕事で使う道具は一式持ってきているらしい。
とは言ってもその手の霊体検知器などを使った捜査はジークがとっくに行った後だ。
美神除霊事務所にある霊具はどれも一級品ばかりだったが、
それでも魔界の正規軍が正式採用しているような大掛かりな探査装置に勝てるとは思えない。
「私たちの鼻を当てにしてもらっても困るわよ。匂いを探るための手掛かり一つないんじゃさすがに無理」
再びおキヌの膝の上を占拠したタマモがあっさりと告げる。
人狼や妖弧の鼻は人間など比べ物にならないような精度で匂いをかぎ分ける事が可能だが、
それでも匂いのもととなる何かが存在しないのでは標的を追跡しようがない。
時間がたつにつれて匂いが薄まってしまうことも考えれば、
少年と出会った場所まで連れて行ったとしても無駄足になるだけだろう。
結局有効な手段が思いつかず、横島たちは顔を見合わせて嘆息した。
四人目の捜索に関しては散々試行錯誤していた後だったので、解決策が見つからなくても仕方のないことかもしれない。
行き詰った気配がその場を支配し始める。
しかしそんな中で美神だけは建設的な意見が出されない事にもさほど動じた様子を見せず、うむうむと頷いていた。
そんな彼女の様子が気になったのかおキヌが美神に質問した。
「あの美神さん。何か思いついたんですか?」
その言葉を待っていたとばかりに美神が得意げな様子でビシリと人差し指を立てる。
「そうね一番手っ取り早いのは・・・超って子を拉致って吐かせる」
ニコリと魅惑的な笑顔を浮かべながら美神が自信満々に犯罪計画を提案した。
「み、美神さん。あの、さすがにそれはどうかと」
何ら悪びれもせずに堂々としている美神におキヌの顔が引きつる。
「いつも相手にしてるヤクザじゃないんだから中学生の女の子にそれは・・・」
タマモが狐の姿をしていてもわかるほど、うんざりとした表情を浮かべた。
「いくら異世界の事といえど拙者犯罪者にはなりたくないでござる」
どうやらテレビを見終わったらしい。シロがしれっと会話に混ざりこんできた。
「な、なによあんた達。いきなり全員で反対する事ないじゃん!っていうかシロあんたいつの間に!?」
自分の意見を即座に全否定された美神が抗議の声を上げる。
「えっと・・・でも・・・」
「だって、ねぇ・・・」
「うむ。だってでござる」
一部会話についていけているのかどうかもわからない者を含め、三人が顔を見合わせた。
何とも言えない味のある表情を浮かべている。
「くっ、そ、それなら、横島君は!?横島君はどう思う!?」
形勢の不利を悟った美神が自らの事務所における最古参のメンバーに意見を求めた。
最後の希望を託すように熱い視線を向ける。
急に矛先を向けられた横島が一瞬動揺を露わにした。
しかしそれでも美神の期待に添うべく、なんとか平静さを装い瞳に真剣な色を浮かべた。
背筋を伸ばし居住まいを正す。そして尊敬する己の上司に向けて自分が正しいと思う意見を発表した。
「俺は女の子を拉致監禁するなら大学生くらいがベストだと思います」
「真面目な顔して何を言ってるかああああああああ!!!!!」
顔面に対して垂直に放たれたその打撃は目標を完全に沈黙させた。
◇◆◇
「まったく話の腰を折らないでよね」
「は、半分くらい美神さんのせいやないですか~」
「あ、あははは、私も久しぶりの突っ込みでいまいち力加減が働かないのよね~」
「そんな理由で毎回半殺しにされてちゃ割に合わんですよ」
「まぁ大体感覚取り戻したし次からは平気なんじゃない?」
「ほんと頼んますよ。いくら俺でもそのうちマジに天国行きっすからね」
そう言いながら横島がサラリと美神の乳を揉みしだく。
「言ってる傍からいきなり何するか!!」
「ぎゃあああぁぁぁ!!!」
こちらの動体視力を軽く凌駕するほどの速さで放たれた一撃により横島は再び轟沈した。
それでも何とか体を引きずって起き上がる。
「やっぱり加減なんかちっともできとらんじゃないですか!!」
「何の脈絡もなく胸もまれて手加減なんかできるかああああぁ!!!」
その後再び訪れた惨劇の饗宴において、ある者は血に塗れながら逃げまどい、ある者は血を纏いながら追い回し、
ある者は血を止めるために奮戦し、ある者は血に狼狽え放心し、ある者は血生臭いのが嫌だから逃げ出した。
結局、色々とめちゃくちゃな騒ぎの後、何とか事態の収拾がついたのは夜半過ぎになってからだった。
「・・・次はないわよ」
首を掻き切るポーズをとりながら美神が淡々と告げる。横島は背筋に冷たいものを感じながら直立不動で敬礼を送った。
「はぁ、まったく無駄に疲れたわ。今後の事は明日に相談するとして今日はもう寝ましょう」
「そうですね」
「賛成」
「了解でござる」
美神の提案に全員が力なく頷く。色々な意味で気力も体力も消耗したのか誰もが瞳に空虚な色を映していた。
各々が洗面所に歯を磨きに行ったり、来客用の布団を敷いていたりする。
そんな彼女たちの様子を何気なく見ていた横島だったが、ふと心に疑問が生じた。
「あの美神さん」
「あによ・・・」
心底どうでもよさそうな美神に多少気後れを感じながら、それでも横島は聞いておかなければならないことを口にした。
「ひょっとして美神さんたちもここに泊まるんすか?」
昨晩も一度この世界に来ていた美神たちだったが、色々と荷物やら何やらを置いて夜には元の世界に帰還していた。
しかしおキヌたちの様子から見て、どうも今日はここに泊まるつもりのようだ。
テーブルを片付け布団を奇麗に並べていく彼女達を見ながら横島は首を傾げた。
「まーね。簡単そうに見えるかもしれないけどあの扉を使うのも色々制限があるのよ。
異なる世界の位相同士を接続して時間軸を合わせてどうのって。
緊急事態に対応するためにも常にこっちの世界にいたほうが都合がいいし」
「でもそれって美神さんと俺が一つ屋根の下で同居するって事っすよね。
いや、もはやこれは同棲といっても過言ではないのでは!?
一緒に飯食ったり、一緒に風呂入ったり、一緒の布団でくんずほぐれつ・・・。
はっ!!ま、まさかいつの間にか知らんうちに美神さんは俺に惚れとったんか!?
だとしたら・・・美神さんそんな遠回しに言わんでも俺ならいつでも準備万端で!!!」
妄言を口にしながら横島が身悶える。その姿にフッと笑みをこぼした美神が無言で神通棍を取り出した。
類い稀な彼女の霊力が神通棍に行き渡りその形状を変質させる。
鞭へと変化させた神通棍を片手に美神は横島に最後通告を行った。
「あんたの寝床はバスルームよ。こちらの許可なく一歩でも外に出たら・・・わかるわね?」
「・・・・・・ハイ」
地獄の底から響いてきそうな一切の容赦がないその脅しに横島は抵抗することなく全面降伏した。
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今回投稿が遅れに遅れてしまい拙作を楽しみになされていた読者様には大変申し訳なく思っております。
色々と理由はあるのですが全て私的なものですので言い訳にしかなりません。すみません。
次回からはもう少し投稿スピードを上げていきたいと考えておりますので、よろしければ気長に待っていていただけると有り難いです。