エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの気分は最高潮に達していた。
全盛期の力を思う存分振るえることへの歓喜、魔力が体中を駆け巡っていく感覚は何物にも変えがたいものがあった。
自分の城の中であるなら、自らを蝕む呪いの影響はほとんどないのだが、作り物の世界でしかないという空しさは抑えようがない。
だが今この瞬間は違う。制限時間という枷はあるものの、思い通りに体が動く、麻帆良という地に縛られる事もないのだ。
仮初めではあるが、本物の自由というやつを味わっている。
夜空を舞い、月の光を存分に浴びて、エヴァは心のそこから笑い声を上げていた。
もっとも戦闘の面で言えば、多少の物足りなさを感じてもいたのだが。伝説の鬼神と聞いて、少しは歯ごたえのある相手かと、期待していたのだ。
いくら強制的に目覚めさせられたばかりとはいえ、これでは拍子抜けの感は否めない。
(まぁ、ずいぶんと久しぶりに、外の世界で思う存分力を振るえただけましか・・・)
完全に凍結し、肉体がばらばらになって湖に落下していく鬼神の成れの果てを、目で追いながら、エヴァはネギの元に向かおうと、方向を変えた。
その時、ふと視界の先に引っかかるものがあった。
鬼神の残骸に掴まるようにして、今回の事件の首謀者である女が、呼吸を荒げながらなんとか引っかかっている。
自分か、それとも不甲斐ない鬼神にたいしてか、なにやら大声で悪態をついていた。
無様なものだ。身の程をわきまえず、自分の力でなんとかしようともせずに、旧世代の遺物なんぞに頼るからこうなる。
あげく、その遺物の復活すら裏の事情など何も知らない木乃香を利用したのだ。
これからあの女がどうなるかは知らないが、相応の罰が与えられるだろう。
まぁその前に、ちょっとした恐怖を味わってもらうつもりではあるのだが。
前髪で表情を隠し、ニヤリと物騒な笑みを浮かべながら、エヴァは今度こそネギたちを目指して降下していった。
だから気にしていたわけでは決してない。首謀者の女に対して関心は失せていたし、くだらない戯言など聞くに値しないのだから。
それでもなぜかその会話は耳に届いていた。
「やってられん。伝説の鬼神がこんなに使えへんとは」
「あらそう?だったらこの子は私が貰うわね」
強烈に女を感じさせる口調で、何者かが首謀者の女、天ヶ崎千草の独り言に応えた。
まさか返事を返されるとは思っていなかったのだろう。彼女は驚きの表情で声のした方向を見た。
瞬間、完全に活動を停止していた鬼神の腕が、湖を割って現れる。
失ってしまった下半身を補うようにして、赤黒い不気味な色をした肉が新たに生み出されていく。
そこからはあっという間だった。もともと巨大だった腕は、さらに大きな巨木のように太く長い触手に変わり、うねうねと気味悪くうごめいている。
下半身は、突然変異を起こしたような、なにか形容しがたい獣の姿へと変貌を遂げ、どれもが醜悪で、直視するのでさえ勇気が必要なほどだ。
かろうじて顔や胸はかつての姿を保ってはいるが、大きく裂けた口元は不快な笑みを浮かべていた。
「あぁん、やっぱり生の身体って最っっ高よねぇ。元の肉体も美しくてたくましいし、いうことないわぁ」
巨人がしなを作るようにして、身悶えている。生え変わった腕で己の体をなぞるようにしながら、悦にはいっているようだった。
一分ほどして満足したのか、不気味なポーズをやめ、呆然とその様子を見ていたエヴァに向かってウインクしてくる。
「ありがと、小さなお穣ちゃん。あなたが一度この子を滅茶苦茶に破壊してくれたから、うまく取り込むことが出来たわ」
言われた本人には、まったく意味がわからない感謝の言葉を告げ、いまだに自分の体に引っ付いていた千草をごみのように投げ捨てた。
あーれー、と、どこか余裕が感じられる悲鳴を上げながら、ポイ捨てにされた千草は森の奥に消えていく。
なんとなくそれを目で追いかけてから、エヴァは復活を果たした鬼神・・・・・いや怪物へと視線を戻した。
完全に死んでいたはずだ・・・・・いやそうでなかったにしても、ほとんど別物になって回復するなどという事がありえるのだろうか。
それに、なぜだろう?なぜかは分からないが、何か違和感を覚える。先程とは決定的に変わってしまった。
外見だけではなく、もっと別の何かが・・・。
「まさか、あれほど肉体を壊されて、蘇ってくるとは・・・・・往生際の悪さは、なるほど伝説級ということか」
皮肉を交えながらエヴァは怪物に向けて声を掛けた。
「あぁ、別にこの子が再生したとかじゃないわよ。一応あの状態でも完全には死んでなかったんだけど、邪魔だったから、私が食べちゃった」
返ってきた言葉は、驚くべき内容であったが、まったく予想できないものでもなかった。
この怪物は、鬼神、リョウメンスクナノカミを取り込んだと言っていたし、姿かたちも別物だ。
それに、今目の前にいる存在から感じるプレッシャーは、エヴァが破壊する前には感じないものだった。
だが、だとすればこいつは何なのだろうか?死にかけとはいえ、伝説級の鬼神をのっとったなどというこの存在は・・・。
「ならば、貴様は何者だ?何の伏線もなく急にわいてきおって」
「うーん。どうせ言っても理解できないと思うわよ。それに、急にってのも違うわね。私はあの子が京都に来る前から一緒にいたんだもの。
タイプじゃないけど、おいしそうだったからね、ちょーっと暗示をかけて連れ出してもらおうとしたんだけど、ちょうどよかったわね。
まさか、こんなに大きなおまけがついてくるとは思わなかったけど」
成り行きに任せてみて正解だったみたい、と、怪物は言った。
「あの子だと?」
「そう、さっきポイ捨てにした、下品な女にさらわれた子」
捨てられた当人が聞けば、怒りそうな事を言いつつ、怪物は背中に羽を生やした少女、刹那に抱えられた木乃香をその太い触手で指し示した。
「つまり、お前は麻帆良にいたというのか?そして近衛木乃香とともに京都に来たと?」
「ええ、そうよ。あそこもいろいろ都合がよかったんだけどねぇ。なーんかいやな予感がしたのよね。あのまま、あそこにいちゃいけないような」
怪物は人間サイズから見れば大きすぎる瞳を薄く閉ざし、エヴァの質問に答えた。
その言葉を聞きながら、エヴァの脳裏には、不愉快な記憶がよみがえってきていた。
あの停電の日に出会った人影の姿が連想される。この得体の知れない存在と話しているような奇妙な感覚。
そばにいられるだけで、自分の体の奥底に眠る何かを威圧されるような不快感。どちらもあの人影に共通するものだった。
あの時は、なぜか襲い掛かってくる直前にその当人が緑色の光と共に、消え去っていったのだが、今回も同じようになるとは限らない。
意識のレベルを切り替える。
今の自分はあのときのような無力な存在ではない。全盛期とほぼ同じレベルで力を使う事ができる。
また襲い掛かってくるというなら、前回の件も含めてたっぷりと礼をしてやらなければならない。
「それで、貴様その鬼神をのっとって何をするつもりだ?じじいとの約束もあるんでな、あいつらの周りにある危険な存在は私が排除しなければならん」
あえて小馬鹿にしたような口調で、エヴァは怪物を挑発した。
乗ってくるようならば、全力で相手をしてやると、目つきを尖らせる。
「特に何もするつもりはないわよ・・・・・でもそうねぇ、慣らし運転もかねて、一暴れっていうのも悪くないかもねぇ。ちょうどいい遊び相手もいることだし・・・・・」
その挑発を軽く受け流しつつ、あえて乗ってやるといったように、怪物はエヴァを見下ろした。
「一応聞いておこうか・・・・・お前の名はなんだ?」
先程のような一方的な戦闘では得る事のできない、強敵との戦いの前に感じる、火薬庫で火遊びするような緊張感が周囲に充満する。
久しく感じていなかった空気だ。己の中の凶暴性を遺憾なく発揮できる期待感に胸が躍る。
せっかく全力を出し切る事ができるのだ、怪物の言葉ではないが、すぐ壊れてしまう玩具では全然物足りないというものだ。
これも私の望みどおりかもな、そう思いながらエヴァは強大な魔力を両手に収束していった。
だが・・・・・その遊び相手である、怪物はなぜか呆然としたように一切の警戒もなく立ち尽くしていた。
目を見開き、口が半ば開いてしまっていて、顔全体で完全に忘我の表情を表していた。全身が弛緩したように気味の悪い触手も垂れ下がっている。
まるでやる気を感じられなくなってしまっていた。
何が起こった?今の今まで戦う気で満ち溢れていたというのに、なぜか今は一切の気力を感じられない。
エヴァが訝しげな視線を向けると、怪物は表情を変えぬまま口を開いた。
「な・・・・・な・・・ま・・え?」
壊れた機械のように同じ言葉を繰り返している。
その様子はまるで、名前がわからないのではなく、名前という単語の意味がわからなくなってしまったようにすら見える。
ただひたすら同じ文字を、順番に繰り返し繰り返し発音し続けていた。
その姿とは違った意味で不気味だ。表情筋が死んでしまったのではないかと、錯覚するするほどの無表情で、何もない空間を見続けていた。
「お、おい」
なんと声を掛ければいいのか分からない様子で、エヴァは戸惑いまじりに言葉を発した。
すると、その言葉が契機であったというように、怪物はうつむいていた顔を勢いよく上げた。驚いたようにエヴァを見る。
しかし実際に驚いたのはこっちのほうだ。あんな反応をされれば誰だってびっくりするだろう。
何だというのだいったい。怪物の意味がわからないリアクションに、エヴァは顔をしかめた。
「なまえ・・・そうよ、名前よ!わ、私のなまえ・・・・・私の名前は・・・・・で・・・みあん。そう、デミアンよ!」
いったい何がそんなに嬉しいのかというほど、さっきまでとはまったく違う喜びの表情を浮かべている。
デミアン、デミアン、と自分の名前を繰り返し呼んでいた。
無邪気な子供のようにはしゃぎながら、全身を動かしている。
だが、その体は湖に浸っているのだ、あの巨体でそんな事をするものだから、当然結構な波が起きている。
舞台の上に立ったままでいたネギ達が、慌てた様子で避難して行くのが見えた。
「あぁ、晴れ晴れとした気分よ。今理解したわ。私はデミアンだったのよ!」
満面の笑みを浮かべ、己を指し示すように器用に触手を顎の下付近に持ってきて大声を上げた。
「ちっ、何か知らんが自分の名前も忘れていたというのか?まさか記憶喪失などというのではあるまいな?」
生死をかけた闘争の空気をかき乱されて、エヴァは少々ご機嫌が斜めなになっている。
「え?いやねぇ。そんなわけないでしょ。まだボケる年じゃないわよ。あなたと違って・・・」
「誰がボケ老人かっ!・・・・・まったく、ついでに聞くがな、その言葉使いはもともとなのか?野太い声で鬱陶しい。おかまというやつか?」
大して興味を引かれているわけでもないのだが、一応聞いてみた。
「いやっ!そんな呼び方はやめてっ!せめて、オネエ様とかデミアン姉様って読んで頂戴っ!」
「呼ぶかっ!」
今度は二本の触手を顎につけていやいやと首を振っている怪物に、エヴァは脱力した様子で疲れた視線を向けた。
こちらはそれなりに緊張していたというのに、緊迫した空気は完全に雲散霧消してしまっている。
もう面倒だから、このままこいつを放って帰ってしまおうかと思う。明日の観光に備えてとっとと寝てしまうかと。
エヴァ自身、日本の文化が色濃く残っている京都という土地には好感を持っているのだ。
外に出ていられる期間もそれほど長くはないのだし、万全の体制で挑みたいところだった。
はぁ、と一つため息をつく。心底面倒ではあるが、もう適当な魔法でとっととお帰り願おう。
登場したときのテンションとはまったく違った様子で、ぼそぼそとやる気のない声をだし、呪文をつむぐ。
一応魔力自体はすさまじいものではあるのだが、肝心のエヴァの表情が空しさを表していた。
魔法が発動する。先程リョウメンスクナノカミを撃ち滅ぼしたものとまったく同じ魔法だ。
150フィート四方の広範囲を絶対零度近くまで凍結させる完全凍結殲滅呪文だ。あの巨体を葬るのに最も適した魔法といえる。
先程の繰り返しであるかのように、怪物の周囲で霜が舞い降り始める。急速に冷やされた空気は、それ自体が白く染め上げられたかのように凝固していった。
呪文が完成する。エヴァ自身の強大な魔力が直接現世に形を成し、怪物を含めて湖の一部を完全に凍結させた。
続けて、どうでもいい感じに呪文を唱える。
一度目はあれほど格好をつけて、指まで鳴らして、ふっ、砕けろ、などと言っていたにもかかわらず、今回はあまりに無気力だった。
だが、その効果はまったく衰えていない。完璧に凍りついたおかまの怪物ごと、巨大な氷柱は一斉に砕けていった。
他愛もない。あれほど、警戒していた自分が馬鹿らしくなる。まったく正体の分からない不気味な存在だったにもかかわらず、あっさりと死んでいった。
強敵だと考えていたのはこちらの勘違いだったのだろう。つまらないにもほどがある。いや、魔力を完全解放した自分と比べてしまうほうが、相手に悪いか・・・。
ばらばらと肉体を崩壊させながら、湖に落下していく怪物の姿を見つめ、エヴァは苦笑を零した。
結局あの相手の厄介なところは性格だけだったな、とエヴァはその光景から顔を背けた。
舞台から避難し、森の中へと入っていったネギを見つけようと、視線をさまよわせつつ、湖の外に向けて進んでいったその時、背後からエヴァに声が掛かった。
「ただの吸血鬼にしては、大した力よねぇ」
低く男らしい声質とは裏腹に、どこか女性らしさを感じさせる柔らかな口調で、感心したように声はエヴァを賞賛していた。
その声を聴いた瞬間、すごい勢いでエヴァが背後を振り返る。そこには、魔法の直撃を食らう前と一切変わらない姿の怪物、デミアンの巨体が存在していた。
耳の辺りに触手をそえ、普通の腕であるならば、ひじのある場所をもう一つの触手で支えて、エヴァの姿を見つめている。
怪我らしい怪我どころか傷一つついていない。あの、違う存在となって復活してきたときのままの姿だ。
そんな馬鹿な、とエヴァは声を出すことなく心の中で驚愕を表した。完璧に殺したはずだ。完膚なきまでに肉体を粉々に破壊し尽くしたはずだ。
にもかかわらず、目の前にいる怪物は、そんな事実などはじめから存在していないといったように、寸分変わらない姿をエヴァに見せていた。
「でも駄目よ、だめダメ。あなたの攻撃には、あれが足りていないわ」
触手を肩の高さまで持ち上げて、ゆっくり首を振る。
「あ、・・・あれ?」
唖然としたまま、素直にエヴァが質問した。
「そう、あれ!・・・・・愛よっ!!あなたには全然愛(霊力)が足りてないの。SMだってパートナーに愛がなければ、ただの傷害よ。事案発生だわ。
そんなものじゃ、私の乙女心(霊力中枢)に全然響いてこないっ!!」
あっさりとさっきまでのやり取りを特殊なプレイへと置き換えて、エヴァにとっては訳の分からない理屈を振りかざしながら、怪物は触手を空に向けた。
自分が夢を見ていたのでなければ、この気持ちの悪い生き物は、死んでいたはずだ。魔法をなすすべなく食らってばらばらになっていた。
だとするなら、何でこんなにぴんぴんとしているのだろう?いまだに驚愕が抜けきっていないのか、うまく働かない頭で、考える。
あの光景は間違いなく現実だった。幻覚を見せられていたなら、それに自分が気付かないはずがないし、手ごたえも感じていた。
ならば、一度目に続いて、再び再生したと考えるのが道理なのか。だが、自分が目を離した時間はごく僅かだった。
ネギたちを探そうと後ろを向いていたほんの僅かな時間で、あれだけ崩壊していた肉体を再生させたというのか。
エヴァ本人にも不死といわれるほどの再生能力は備わっている。だがあれだけの巨体、完全にばらばらになっていた物がそんな簡単に再生できるというのか。
当の本人は、いつのまにか話題を理想のSMプレイについて、にうつし、熱弁をふるっている。
その様子を見ながら、なぜかエヴァは遠慮がちに怪物に向かって質問した。
「いや、・・・というか貴様、ばらばらになって死んだよな?」
「え?えぇ、まあね。そんなことより、大事なのは呼吸よっ!テンポであり、タイミングなのよっ!要所要所に言葉攻めをはさむ事で、より高度な快楽を・・・」
「ええい、そんな事こそどうでもいい。何で死んだはずの貴様が生きているんだ」
「どうでもいいとは何よっ!そんなの再生したからに決まってるでしょ!」
気持ちよく己の持論を披露していたのを邪魔されたからか、怪物はエヴァを睨みつけてきた。
顔が大きい上に、厳ついので迫力がある。その視線を真っ向から受けて立ちながら、エヴァは怪物をにらみ返した。
やはり再生したらしい。容易には信じがたいことではあるが。
先程から、エヴァの隣にいるにもかかわらず一言もしゃべらずにいた茶々丸に向かって確認する。
「はい。驚くほどの速さで再生していました」
「ちっ、やっかいな。ならば次は、こおるせかい、につなげるか?それとも、エクスキューショナーソードで無に返してやろうか・・・・・」
いちいち手間が掛かるだろうが、ストレス解消にはもってこいだ。なかなか壊れないというなら、壊れるまで続けてやればいい。
精魂尽き果てるまで、いくらでもばらばらに砕いてくれる。と、エヴァは瞳に鈍い光を宿らせた。
袖はないが気分的に盛り上げるつもりで、腕まくりをしつつ、エヴァが呪文を唱えようとしたとき、唐突にデミアンが妙な事を言い出した。
「でも、意外に便利かもねぇそれ。私もやってみよう」
気楽な声でそう告げた瞬間、周囲の空気に色がついた。
もちろん錯覚だ。そんなことが起こるわけがないし、エヴァがそう感じたというだけだ。
だが、確かにそう感じた。一瞬強引に空間が捻じ曲がり、同時に何かが投射されていく。
その目に見えない何かがエヴァの体を通り抜けたとき、湖の中に太陽が生まれた。
水中から水面を通してですら、完全には遮る事ができない猛烈な光が、エヴァの眼窩を灼くように突き抜ける。
とっさに目蓋を閉じても、なお明るいその光は、しかし次に起こる現象の、ほんの前触れでしかなかった。
続いて起こったのは下から這い上がってくる尋常ではないほどの熱だ。
水中からマグマが噴出してきたように、凄まじい水蒸気が下から立ち上ってくる。
視界が完全に遮られてしまうほどの規模だ。慌ててエヴァと茶々丸は湖の外まで避難した。
急激な温度変化により対流が起こっている。湖に生息していた生物は無残な屍をさらし、水面へと浮かび上がっていた。
いったいどれほどの熱量が一瞬にして水中で生まれたのか、冗談ではなく、この広大な湖全体の水温が上昇しているように見える。
もうもうと立ち込める水蒸気を触手を使って鬱陶しげに払いのけながら、デミアンは首をかしげた。
「うーん失敗しちゃった。向こうと違って、こっちはエネルギーの流れが素直だから、うまくいくと思ったんだけど」
間違いなくこの現象の中心にいたというのにもかかわらず、どうという事もないといった様子で、残念そうに首をすくめていた。
それを視界に収めながらエヴァは隣にいる茶々丸と言葉を交わした。
「茶々丸、私から離れるなよ。奴が何をするか見当がつかん」
「了解、マスターもお気をつけください」
無表情の中で若干こちらを心配しているように見えるのは、こちらの気のせいだろうか。
エヴァ隣にいる茶々丸の姿を見て、そんな事を思う。
すぐにデミアンへと向き直り、表情を引き締める。先程まであったどこか相手を侮っていた空気が一変している。
不発に終わったとはいえ、とんでもない威力だった。
魔法を使ったのだろう、おそらく。魔法が発動した直後のエネルギーの流れを感じた。
水中で発動したからまだよかった。あれが地表で発生していたなら、自分以外の人間は確実に息の根が止まるだろう。
下手をすれば、原形をとどめないかもしれない。防御云々の話ではない。あれは自分が使う魔法と同じだ。問答無用で相手の命を奪いかねない。
もしまたあれをお遊び感覚で使われたら・・・・・。ぞっと背筋が凍る気配を覚えた。
だが、本当に脅威なのは魔法の規模ではないかもしれない。
急に魔法が発動しせいで、エヴァ本人も詳しく見えたわけではないのだが、あの時奴は・・・・・。
(魔法発動体も呪文も魔力すらも使っているようには見えなかった)
まるで万物に宿るエネルギーを何かで直接操ったような・・・・・。
いや、ありえない。おろかな妄想を振り払うように、勢いよく首を振る。
仮にそんなことが出来るというなら、奴は魔力容量など一切気にすることなく、思い描いた規模でいかなる魔法も使い放題だという事になる。
さすがにそんなばかげた事があるはずがない。
顎に触手を添えて上目遣いで、空を見上げているデミアンを見る。
「やっぱり、地道にこつこつやるべきよね。小麦色の肌も捨てがたいけど、美白のほうが私的には大事だもの」
なにやら寝ぼけたことを言っている。
美白云々以前に、まともな皮膚すらないように見えるのだが、そんな突っ込みはするだけ無駄なのだろう。
「やはり貴様は危険だ、早急に排除させてもらう」
またあの魔法を使われる前に、ケリをつけておかなければならない。もう一度あれをやられて、成功してしまったら目も当てられない。
しかし、相手のペースに巻き込まれないように、殺気をこめて宣言したエヴァの言葉を無視するようにデミアンは言った。
「はぁ、でもなーんかまだ足りない感じよね。目覚めたばかりで、ガス欠だったのかしら・・・・・しょうがないから、またあの子に協力してもらいましょうか」
デミアンがそう言葉に出したと時を同じくして、湖から離れた場所にいたネギたちの方から叫び声が上がる。
いつの間に現れたのだろうか、湖の外側の地面から、複数の触手が這い出してきていた。
そのうちの一本が、木乃香の体を巻きつくようにして捕らえている。
「ひゃあぁぁぁっぁぁあぁなんでウチばっかりぃぃぃぃい!!!」
触手に巻かれ、空中に連れ去られている木乃香が不条理な現実に抗議するように、悲鳴を上げている。
「木乃香っ!」
「木乃香さん!」
「お嬢様っ!」
明日菜とネギ、そして刹那が三者三様の声を掛け、巨木が直接命を持ったように見える触手を見上げた。
三人の中でいち早く体が動いたのは、やはりと言うべきか、刹那だった。
背中に生やした翼を羽ばたかせ、凄まじいスピードで触手の後を追う。やっとの思いで、天ヶ崎千草のもとから救い出したばかりなのだ。
再びあんなわけの分からないものに、木乃香をさらわれるわけにはいかない。
空中に飛び出した勢いそのままに、いやさらに加速して、木乃香をめがけて猛追する。
触手の動きはそれほど速くなかったので、刹那は簡単に追いつく事ができた。
追いつきざま背中に背負った愛刀夕凪を、木乃香を縛る触手めがけて振り下ろす。
だが・・・・・。
見た目以上に硬いのかまったく刃が通らない。渾身の力をこめて幾度も幾度も振り下ろし、切り上げ、薙ぎ、突いて、我武者羅に刃をつきたてようとする。
しかしそのどれもがまったく通じない。あっさりと刹那の刃を押し返してきた。
「くっ」
焦りが刃を鈍らせる。理想の角度、速度、タイミングで打ち込んでいるのだ。それが一切通じないとなれば、刹那にはどうする事も出来ないという事になる。
木乃香を助ける事が出来ないという事に・・・・・。
「せっ・・・せっちゃ」
木乃香の苦しそうな声が聞こえる。よく見れば、木乃香の下半身が触手の隙間に挟まっているように見えた。
やがて、刹那の見ている前で、木乃香の腹、胸、肩、顔、腕、最後に刹那に助けを求めるように懸命に伸ばしていた手の平が、
触手の肉の裂け目にずぶずぶと埋まっていき、完全に見えなくなってしまった。
「あ・・・・・・・・・・・・・・」
言葉を失い、ただその光景を見続ける。自分の目の前で大切なものが奪われてしまった光景が目蓋の奥に焼きついて・・・・。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
その悲痛な叫びは、そのまま刹那の力となった。自分の体内をめぐる気の力を手にとるように感じられる。
叫びは力であり、心の痛みは敵を切り裂く刃であった。
激昂状態の刹那の肉体は、しかし彼女を裏切る事はなかった。
心がざわめき正気を失ったとしても、その動きは一切ぶれることなく、何百、何千、何万と繰り返してきた、己の最大、最速の動きをなぞっていく。
「このちゃんを、返せええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」
それは間違いなく刹那の生涯において最高の一撃であった。自分の身体に宿る力、魂そのものを叩きつける、文字通り魂身の一撃。
己の肉体から、握った刃を通してあふれる力は、まばゆい光の輝きのようであった。
だが・・・・・・・・・・・・・・。
澄んだ音が聞こえた。
戦闘中にしては、あまりに場違いな綺麗な音。限界まで瞳を見開いて刹那はその光景を見ていた。
きらきらと刹那の周りで、光が踊る。夜空に輝く月の光を反射して、それは幻想のように美しい光景だった。
同時に
刹那の魂が砕け散っていく音でもあった・・・・・。
夕凪が折れていた。木乃香の父である詠春により譲り受けた愛刀が根元からぽっきりと折れている。刹那は不思議そうにそれを見つめた。
折れた刃の先は、くるくると空中を回っている。思わず慌てるようにしてそれを掴んだ。
痛みが襲う。握りこんだ掌から血が滴り落ちていく。掌から腕を伝わり・・・・・。
同時に頬を熱い何かが流れていく。腕を流れるものとは違い、澄んでさらりとしたもの。ただ感じる熱さだけはまったく同じで。
涙が流れていた。刹那は自覚することなく泣いていた。声を上げることなく、感じる痛みだけがどくどくと波打っている。
それは体の痛みなのかそれとも・・・・・。
何も考える事ができずに、空に浮いていた刹那に声が聞こえた。
「あなた、さっきから邪魔よ」
室内に侵入した虫を振り払うように、それはあっさり刹那を地上へと叩き落した。
飛び上がったときとは比べ物にならない速度で刹那が森の奥へと消えていく。
ネギはその光景をただ見ていた。瞬く間に次々と自分の生徒が巻き込まれていった事態に思考が追いつかない。
だってさっきまでは、全てうまくいっていたのだ。
助けに来てくれたみんなの力で、さらわれた木乃香を救出し、あれだけ大きな鬼神を倒し、敵の企みは全て潰えたはずだった。
なのに・・・・・。力なく刹那が消えていった方向を見ているネギに向かって声が掛かった。
「兄貴!ボーっとしてる場合じゃねぇ!刹那の姉さんのところに早くっ!」
いち早く忘我の状態から立ち直ったのは、意外な事にネギの肩に捕まっているカモだった。
小さな体を懸命に動かしながら、ぺしぺしとネギの頬をたたいている。
そのおかげでネギは我に返った。大急ぎで今だ呆然としている明日菜を掴んで、杖にまたがり空を飛んでいく。
二人と一匹は、刹那が消えていった方角に全速力で向かった。そして刹那を探すために周りを見渡す。
彼女はあっけないほど簡単に見つかった。何かがすごい勢いで、突っ込んできたように、木々の一部が倒壊して無残な姿をさらしている。
刹那はそのうちの一本にもたれるようにして倒れていた。
ネギと明日菜が慌てて駆け寄る。そして次の瞬間には絶句して動きを止めてしまった。
刹那は生きていた。かろうじて息をしてもいた。だが、ただそれだけの事であった。右足と左腕があらぬ方向へと曲がっている。
皮膚を突き破り、夜においてなお白い骨が見えてしまっている。
全身が傷だらけで、尋常でないほどの出血量だ。ショック症状を起こしてないのが不思議といえた。
顔色は驚くほど真っ青で、完全に血の気が引いている。
うつろに開いた瞳は、ほとんど生気を感じられなった。口元からはごぽごぽと、血が流れている。
医者でもない限りは、彼女がまだ生きているとは思えないだろう。もしくは彼女を大切に思っている人間以外には。
「せ・・・・・せ・・・つ・・な・・・・さ・・ん」
明日菜から呟くような力ない声がこぼれた。現実にこれほどまでに壊れた人間を見るのは初めてなのだろう。意識を失って倒れそうになっている。
それはカモも同じだった。いつものように口が回らない。調子のいい言葉が出てこない。何も考える事ができない。
その場にいるだれもが何も出来ずにただ立ち尽くしているしかなった。ただ一人を除いて・・・。
「うわあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっぁあ!!!」
狂ったような叫び声をあげながら、ネギが刹那に向かって駆け出していく。刹那の傍らにしゃがみこみ、杖をかざして少ない魔力で治癒を行った。
ネギは強大な魔力を有してはいても、回復魔法の専門家ではない。出来る事といったらかすり傷を直せる事くらいだ。
先ほどからの戦闘の連続で、魔力もつきかけている。だが、そんなことは関係ないのだろう。
目の前で自分の生徒が、大切な仲間が、死を迎えようとしている、命を失おうとしている。そんなことは断じて許容する事ができない。
己の全存在を注ぎ込むように、力を入れすぎて白くなるまで握り締めている杖に向かって、魔力を注ぎ込んでいく。
同時にネギの右手から肩にかけて急速に石化が進行していく。ネギと戦った白い髪の少年の置き土産だ。
「ネギっ、あんた体が!」
「む、無茶だ兄貴。このままじゃ・・・・」
その光景を見ていた明日菜とカモが、矢継ぎ早に声を掛ける。しかしネギにはまったくその声が聞こえていないようだった。
それでも自分の体の状態を押して懸命に治癒魔法をかけ続けたのだが、その甲斐もなく、刹那の命の火は消えかかっていた。
かろうじて行っていた呼吸が、完全に止まる。心臓の鼓動が止まるのも時間の問題かと思われた。
だ・・だめ・・・・・。
明日菜が空中にいるエヴァに向かって涙まじりに悲鳴のような叫びを上げた。
「え・・・エヴァちゃぁぁぁん。せ、刹那さん、い、息してない・・・・・い・・いきしてないよぉぉぉ!」
その声を聞いたエヴァが息を呑む。駆け寄りたいのはやまやまなのだ。
だが、今自分が目の前の化け物を警戒していなければ、こいつは何をするかまったく分からない。
ぎりっと奥歯をかみ締めてエヴァは両手を握り締めた。
「行っていいわよ・・・・・あなたと遊ぶのはもうちょっと後にしといてあげる」
その様子を見ていたデミアンはそれだけをエヴァに告げて、一切の興味をなくしたように彼女から視線をはずした。
やっぱり若い子はいいわねぇ。こっちまでお肌の艶がよくなっちゃいそう。と、独り言を言っている。
殺意のこもった瞳でデミアンを睨みつけてから、急いで明日菜たちのもとに向かう。後ろから茶々丸もしっかりとついてきていた。
地面に降り立つと同時に刹那へと駆け寄る。状態の悪さに怯んだのは一瞬だった。すぐさま刹那に人工呼吸を施す。
同時に茶々丸が脈拍を確認する。単純な心肺蘇生の手順だが、自分には効果的な回復魔法を使う事はできない。
不死であるがために、そんなものを必要としてはいなかったのだ。
思わずそんな泣き言を口にしてしまいそうになる。心肺蘇生の効果か、刹那の息が戻った。
同時に口内にたまった血が喉の奥に詰まったのだろう、すぐに苦しそうに顔を歪めた。
その姿を見たエヴァが口から血を吸い出してやった。そうしてようやく刹那は正常に呼吸をすることが出来た。
しかし、エヴァの顔はまったくはれなかった。
所詮今の状態は、一時的なものにすぎない。顔色が真っ青なのは、なにも血液を大量に失ったからだけではない。呼吸困難でチアノーゼを起こしているのだ。
おそらく折れた肋骨が、片方の肺に突き刺さっている。意識がないのは幸いだったといえた。痛みで暴れてしまえば、それが原因で死んでいたかもしれない
弱弱しい呼吸も、もうじきまた途切れるだろう。
本当は刹那を一目見た瞬間にもう分かっていたのだ。
これは・・・・・・・・・無理だ。
今この場にいる者では、どうする事もできない。刹那は・・・・・・・・死ぬ。
「もういい、ぼーや。もうやめろ」
血に濡れた唇を手の甲で拭い、何の感情も感じさせない声色でエヴァはネギを制止した。
「・・・・・」
確実に聞こえているはずだ。それでもネギはエヴァの言葉をかたくなに無視して、一心不乱に治癒魔法をかけ続けていた。
エヴァはその姿に一瞬顔をしかめ、そのままネギを殴り飛ばした。
「なっ!」
「なにしやがんだ!」
後ろで様子を見ていた明日菜とカモが抗議の声をあげる。それを一睨みで黙らせてから、エヴァはネギの胸倉を掴んで起き上がらせた。
「いいか、ぼーや。おまえがこれ以上何をやっても、刹那は救えん。今の自分の状態を見てみろ。体内の魔力が尽きればお前の石像が一体完成するだけだ。
まだ、あんなわけの分からない敵がいる状況でな。これ以上足手まといを増やすな、迷惑だ」
「で、でも・・・僕は、僕は・・・刹那さんが・・・・・」
ネギも混乱しているのだろう。何を伝えたいのかはっきりと言葉にならないようだった。
「その事は、今は後にしろ。刹那の事は・・・・・・・・・もう・・・・・」
エヴァがうつむき、表情を隠した。、ネギと明日菜、カモの息を呑む音が聞こえる。
「そ、そんな・・・・・」
「うそ・・・・・・」
「くそったれめ・・・・・・」
その言葉を聞いて、エヴァは顔を上げた。
「・・・・・私はやつを殺す。この借りは必ずやつに返してやる。闇の福音と呼ばれたこのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの名にかけてだ」
胸の奥深くから湧き上がってくる激情が、言葉に出した事で、決して破られる事のない約束へと変わる。
あの怪物、デミアンは確実にエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに殺されるだろう。それはもはや決定事項だった。
刹那が感じた恐怖、絶望を何十倍にして返してやる。心の中でそう誓い、エヴァは彼女に視線を落とした。
限界だったのだろう。ただでさえ弱かった呼吸は小さくなり、間隔は次第に長くなっていった。そしてゆっくりとその音も小さくなってい・・・・・・。
そのとき、唐突に、どわぁぁぁあぁ!もうあかん!どちくしょー!といった悲鳴のような怒声交じりの声と共に森の奥からガサガサと茂みをかき分ける音が聞こえてきた。
それは次第に大きくなっていき、やがてエヴァ達の目の前に一人の男が現れた。
貧相な男だった。体中を泥まみれにして、頭に枯れ枝が刺さっている。着ている服は所々が破けていて、ただでさえ貧乏くさいその雰囲気に輪をかけていた。
よほど急いでいたのだろう。顔中を汗みずくにして、肩で息をしている。それでも頑張って顔を上げたとたん、その男は力尽きたのか、ぐったりとその場にへたり込んだ。
「さ・・・・・さんそー・・・」
その男は目的地に到着したと同時になぜか助けを求めたのだった。