*今回ちょっとグロあります。注意してください。
『ぴちゃ…ぴちゃ…』
兄がいると案内された部屋から響く粘着質な水音。
鼻につんとくる異臭、肉が焼け焦げる嫌な匂い。
さきほどまではか細い女の悲鳴が聞こえていた。
『ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロ』
本能が拒絶する。理性が拒絶する。
開きたくない。これ以上進みたくない。
何が起こっているかの想像を拒絶。彼女は考える事を放棄していた。
ジィンと痺れが広がる頭に浮かぶのは『部屋に入りたくない』という想いのみ。
「あ、に、うえ…?」
その扉は地獄の釜の蓋。一度開かれてしまえば戻ることは叶わない。
しかし織田香として。信長の妹として開かないわけにはいかない。
「なにを……なになさっているのですか、兄上!!」
その目に映ったのは――――無残に半身が焼け焦げた女と、死してなお女を穢す香の兄だった。
■
「やぁ、香。はやかったね。
見てわからないかな? こうやって遊んでいるんだよ」
「うっ……」
死してなお信長は女を穢す事をやめない。
香はあまりにも酷い光景に胃の物を戻してしまいそうになり、手で口を覆う。
それでも喉元にせり上がってくる酸っぱい匂いが鼻についた。
「兄上、狂われてしまったのですか!? いますぐおやめください!」
「本当に脆いものだね、人間というものは。
我の相手をできるのは本当に一人しかいないみたいだね。
クククッ、今頃我が娘はどこで何をしているのやら」
香の懇願の叫びにも耳をかさず、信長は焼け焦げた女性の頭を右手で握る。
そして躊躇なく女性の頭を握りつぶした。
「っう……うぇ、ぇぇ」
半分炭化しているとはいえ、びしゃりと脳漿がぶちまけられる。
香はその光景に耐えきれず、畳に跪いて胃の中の物を全部戻してしまう。
ザビエルは香が苦しむ様子を喉を鳴らして笑いながらみていた。
「どうして…どうしてですか、兄上…?
何故このようなひどい事を…いったい、兄上に何があったのですか?
これでは、これではまるで――――――」
「これではまるで…なにかな? 言ってみてよ」
ぐっと香は信長に震える声で言った。
『まるで兄上ではない誰かと話しているようです』と。
「クフッ、クハハハハ!! なんだ、よくわかっているではないか!」
「え‥?」
「ああ、実に聡明な娘だ。信長の記憶どおり。
貴様の兄はもうとっくの昔に死んでいる」
呆然とする香を見下して愉悦に顔を歪めるザビエル。
ザビエルはこの絶望に打ちひしがれた顔が見たかったのだ。
そのために本能寺まで訪れた香“だけ”をこの部屋まで招いたのである。
「聞いた事はないか? 遥か前に封じられた魔人の名を。
このJAPANの地で猛威を振るい、畏れられた恐怖の存在を」
事ここに至ってあまりの衝撃に感情が麻痺している香は漠然と理解していた。
あの優しかった兄はもうどこいもいないのだと。
この見るのもおぞましい、恐ろしい兄と寸分違わぬ姿をした男は兄と別者なのだと。
「我の名はザビエル! この身体を乗っ取り、JAPANの支配者となる者よ!!」
高らかに言い放つザビエル。
もう力の半分まで取り戻している。
あと一つ。あと一つでも欠片を取り戻せば表の世界に打って出る事が出来る。
「もはや復活も目前。だがな、そのためには邪魔な存在が目の前にいるのだよ」
ギョロリと赤黒く染まったザビエルの目が香を捉える。
狂気に彩られている目に見つめられた香は一つの感情が戻った。
それは『恐怖』という、生物ならばどんな者にも備わっている原初の感情。
「い、いや…いやです、兄上……」
「ほう、まだ我の事を兄と呼ぶか。もうわかっているだろうに」
ザビエルは未だ穢し続けていた女の身体をゴミのように投げ捨てる。
服を一切まとわず全裸の信長はヒタリヒタリと香に迫っていく。香が恐怖で身体を震わせるのを楽しむように。
「なら香…兄のために、苦しんで死んでくれ」
ザビエルには香を殺さなければいけない理由があった。
香が行方不明となれば、織田は全軍をあげて捜索にあたるだろう。
織田が香捜索に力を注げば注ぐほど、復活までの時間を稼げる。
信長に会いに行く途中で何かあればザビエルも疑われるだろうが…それはまず問題ないだろう。
この時代主君とは絶対の存在。
しかも信長は香を溺愛している。そんな信長が香をどうこうしたとは誰も考えないだろう。
そしてもう一つの理由が――――
(クハハ、妹が殺されるのを我の中から見ておけ。そして絶望しろ)
未だザビエルの中にしつこく居座る信長の心をへし折ること。
信長の身体を掌握したザビエルだが、信長の残りカスともいえるものが身体の中に残っている。
それはザビエルにとって不快で不快でたまらないのだ。
ここで愛する妹を惨忍に殺すことによって精神的に信長を殺す。
精神的柱を叩き折れば信長の残りカスも沈黙するに違いない。
そのためには出来るだけ香を残酷に殺さなければならない。
犯しながら焼き殺し、手足を千切り、歯と爪を全て剥ぎ取り、蠱毒の壺の中に捨てる。
ザビエルは香という存在を人としての尊厳を全て奪い尽くしてから始末するつもりだ。
「さぁ、良い声で啼いておくれ、香?」
見慣れた、だが決定的に違う兄の顔と声で近寄るザビエル。
ゆるゆると近づくザビエルに対して香が出来る事はただ部屋の隅に逃げる事だけ。
だがそんな距離はあっという間に追い詰められてしまう。
距離にして畳たったの五枚分。
それだけの距離に兄の姿をしたザビエルというおぞましい存在がいる。
(3G、勝家さん、乱丸さん…!)
香はぎゅっと目を瞑って頼りになる人達を思い浮かべた。
最初にずっと自分の面倒を見てくれた3G、自分によくしてくれる勝家と乱丸。
(ランスさん…!)
そして最近知り合いになったランス。
だがどれだけ心の中で助けを叫ぼうと、その声は誰にも届かない。
ここ本能寺には誰にも告げずに来たのだ。
助けなんか―――こない。
自分の愚かさと浅はかさを噛み締めながらも、香に出来るのは助けを呼ぶ事だけ。
「誰か、誰か……!!」
「助けなどこんよ。お前の護衛は全て足止めさせているからな」
サビエルの無慈悲な声と共に、その無骨な手が香へと伸ばされた――――
■
祐輔が本能寺に偵察に来た時点で戦闘が始まっていた。
忍者たちがキンキンと金属音を鳴らせて凌ぎを削っている。
祐輔はその様子を離れた所からうかがっていた。
(こりゃもう決まりだな)
祐輔は鳥にザビエルである信長を探らせているのだが、その必要もなく悟った。
忍者たちの片方はわからないが、片方は織田正規軍である忍者隊の服装をしている。
天志教のお膝元で織田の忍者隊が戦っているとなると、祐輔でなくても事態を察せる。
織田はどこまで知っているかしらないが、信長を怪しいと思ったのだ。
そして信長を密かに監視しようと忍者を派遣して魔人配下の三笠衆(推測)と戦闘になったと。
祐輔は自分の五十六に対する助言が役に立ったのかも知れないなと考えている。
今は偵察に行かせている鴉を待ってジッと動かない。
鴉が信長の事を少しでもおかしいという情報を持ち帰れば、祐輔はそのまま織田へと向かうつもりだ。
忍者隊を派遣している以上織田も薄々感づいているだろう。
(これは思ったよりも簡単に話が進みそうだ)
祐輔は五十六が部隊長であるという事を知っている。
最初に彼女に接触すれば、お尋ね者とはいえ問答無用で捕まったりしないだろう。
話さえ聞いてもらえば説明できる自信と根拠が祐輔にはあった。
(上手く行けばお尋ね者も解除してもらえるかも。
恩に訴えかけるみたいで嫌だけど、それぐらいはいいよね?)
そんな事を考えながら茂みに身を隠している祐輔。
じっと身を縮こまらせていた祐輔だが、待ちに待った一羽の鴉が目の前にバサリと舞い降りた。
この鴉は祐輔が新たに契約した鴉なのだ。
『兄者、言われた通りの人間を探ってきた。
結果は黒。やっこさん女を犯しながら焼き殺してやがる』
祐輔はこの鴉をヤンキー鴉と名付けた。
特に名前に意味はない。単にそれっぽいからというのが理由である。
言葉の端々にヤンキーの小物くささが滲みでている。ちなみに祐輔にネーミングセンスはない。
「これでほぼ確定か…それにしても、後味悪い事しやがる」
祐輔の胸の中に湧き上がる嫌悪感。
実際に見たわけではないが、その光景は惨忍なものだろう。
これは一刻もはやくランスになんとかしてもらわないといけない。祐輔は立ち上がった。
「ここから出るぞ。そのまま尾張に向かう。安全なルートを教えてくれ」
『了解だ兄者』
今ザビエルの所にいっても祐輔に出来る事は何もない。
所詮は他人。祐輔にその女を助ける力もないし、どうすることもできない。
祐輔は己に出来る限界を知っている。今出来る事はランスに情報を渡し、一人でも犠牲を減らす事。
『ああ、それとだな兄者』
「ん? もう安全なルートを見つけたのか。早いな」
『いや、そうじゃないんだけどよ。
その信長って奴の妹って名乗った綺麗な服着た女がいたぜ』
「――――――――!」
だが祐輔の冷静な思考に大きなノイズが走った。
冷徹に女を見捨てるという選択をした祐輔の心に波紋が広がる。
(そのイベントが前倒しになったのか。
香の行方不明イベント。そうか、こいつらは香の護衛か。
それなら何故ここにいるのかという疑問が解消される)
このイベントで香は兄である信長がザビエルであると痛感させられる。
信長はもういないと心ない罵声を浴びせかけられ、少年達に幼い香の身体を穢させる。
香の心と身体を壊された代償に信長がザビエルで退治するとランス達に決心させたイベント。
一応祐輔はくの一達を信長の監視と位置づけたが、正直に言うとそれは考えにくい。
主君である信長に対してそんな事をしようものなら、筆頭家老である3Gでさえ腹を切らなければならないだろう。
(これはむしろ好都合だ。
香は重要人物だとはいっても、どうしてもいなければいけないキャラじゃない。
ランスだけでも充分織田は纏められるし、ザビエルに対する敵対心はむしろ高まる)
このイベントは祐輔に有利なイベントだ。
信長がザビエルだと判明しても、ランスを含めて織田は絶対に揺れる。
だが香が穢され――――最悪殺されたとしても、ザビエルが滅びれば祐輔の目的は達成できるのだから。
(そうだ、俺がどうしても香を助けなくちゃいけない義務はない。
俺だって怖い、死にたくない…ここに来たのだって、ザビエルが俺や浅井朝倉の人達に関係するから。
無関係の香姫を助けてやる義理はないんだ)
祐輔も一人の人間なのだ。
無茶を通り越して無謀な行動に出る事もあるが、それも自分と同等以上の大切な人が関係している時だけ。
雪姫を一途に思っていたからこそ、織田とあれほどまでに戦えたのだ。
今回本能寺にきたのもザビエル復活の確認のため。
祐輔一人だけなら魔軍が出現しても生き残れるが、浅井朝倉の人間は難しい。
魔軍の被害がテキサスまで及ばないよう未然に防ぐため、祐輔は性眼やランスに忠告をするため本能寺にきたのだ。
己が死ぬのを怖がらない人間はいない。
祐輔は人を殺すという行為に忌避感は薄れていたが、自分の死という恐怖には慣れていない。
もっと己の死を厭わなくなってしまえば、祐輔はもう戻ってこれなくなってしまうだろう。
そう、何も問題はない――――ならばこの痛みはなんだ。
祐輔は全身に塩酸を被せられたかのような痛みを感じていた。
本当は自分がどうしたいのかなんて理解できている。
だが祐輔はそれを否定する。己の部を弁えろと。お前は決して勇者じゃない、ただの凡人なのだと。
〈ざりっ…〉
自分に言い訳をして己を正当化している祐輔。
別に悪い事ではない、悪い事ではないのだが――――祐輔の中にある香姫を見捨てるという罪悪感が酷く疼く。
それ故己を苛む疼きに祐輔は背後から近づく存在を察知できなかった。
『兄者!!』
ヤンキー鴉の叫び声に反応する祐輔。
祐輔が見たものは―――自分に倒れかかってくる忍者の一人だった。
その忍者の服は元々黒いせいもあるが、全身から吹き出す流血で赤黒く染まっている。
「うわっ!」
祐輔は倒れかかってくるくノ一を避けるように飛び退く。
そのくノ一の手には苦無が握られており、倒れかかるだけでも相手を傷つける事ができる。
しかしながら祐輔を殺し得るほどの力はないのか首筋は疼かなかった。
「くぅ、はぁ……う、ぅ」
〈ズルッズルッ……〉
そのくノ一にもう立つ力もないのか、這うようにして地面を進む。
しかし動く度に傷口が地面と擦れて激痛が走るのか、苦悶の声が滲みでている。
だがその眼光だけは消え失せる事なく祐輔を見据えていた。
「お前、も……三笠、衆、か…」
「……違う」
息も絶え絶えのくノ一。
その様子は余り身体に詳しくない祐輔から見ても長くないと思えた。
「違う…天、し、教の…?
ぃ、や……いま、は、どう、…でも…いい…」
ズルリ、ズルリとくノ一は祐輔へと這っていく。
その光景を見て祐輔の脚は止まっていた。いや、止めるべきだと思った。
この人は今己の最後となるナニカをしようとしている。
人間は死ぬ間際にその本質が現れるという。
命乞いをして助けをこう者、最後の最後まで足掻く者、潔く死を受け入れる者。
今祐輔の目の前で一人の人間の生が終わりを迎えようとしているのだ。
(何やってるんだ、俺? 俺とこのくノ一は関係ない。割り切れよ。
なんで…なんで、こうやって脚を止めてるんだ)
ザビエル復活を確認した以上、既にここに留まっている必要性はない。
香が本能寺にいて信長がザビエルになっているとランスに伝えればすぐに動くだろう。
織田の忍者と三笠衆が争っている今こそがチャンスだというのに。
理解しているというのに、祐輔は一歩も動けないでいた。
「――お願い、が、あります……」
くノ一はごぼりと吐血しながらも祐輔の足元にまで辿り着く。
血でべっとりと塗れた手で祐輔の足首を握り、震える声を振り絞った。
―――重い。殆ど握力が篭っていないくノ一の手が妙に重く感じる。
「どう、か……香、さま、を……どう、……か…………」
どう考えても優男で武器を一つも持っていない祐輔がどうこうできるはずがない。
それはくノ一だって血が回らない頭でもわかっていたはず。祐輔に出来る事なんてない。
だがそれでも――――それでも、くノ一は最後まで主君である香姫を思って逝った。
「……くそっ」
このくノ一にも譲れない者があったのだ。
自分の命を喜んで捧げ、尽くすべき、愛すべき主君が。
「……くそっ、くそっ」
嗚呼、何故脚を止めざるをえなかったのか。
祐輔にはようやくわかった。
このくノ一は―――――
「……くそっ、くそっ、くそっ」
―――祐輔と同じだったのだ。
己の左腕を失っても構わない。己の命をとしても構わない。己の未来を賭けても構わない。
最後の最後まで自分の生き方を貫き通した彼女に、祐輔はどうしようもないほどに同族意識を抱いてしまった。
「―――――――クソッ!!!!!」
■
「どーも、コンニチワ。呼ばれて飛び出てきた愛と正義の味方です」
香にとっては唐突に、ザビエルにとっては予想外の人間。
その人間――祐輔は他の何者も拒絶する空間へいとも簡単に滑り込んできた。
自然な動作で部屋障子をぴしゃりと開き、自然な動作でザビエルと香の間に割って入る。
「おやおや、お兄さん。ロリコンは心の病気ですよ? 全裸で幼女に手を伸ばしてる時点でアウトか。
ちゃんと治療しないとどこかの誰かさんみたいに手遅れになっちまう」
トコトコと自然な動作で香の横まで歩み寄る祐輔。
ザビエルは自分の配下ではなく織田の忍びがここまできた事に感心し、香は直前までの恐怖で混乱している。
ザビエルが祐輔の事を織田の忍びだと勘違いしたのにはわけがあった。
「ほう? よくここまで辿りつけたな。そこの娘以外は通すなと命じていたはずだが」
「吾輩ったらとても優秀なので、警備をすり抜けてきたのである。ニンニン」
今の祐輔は格好こそ普段通りであるものの、頭に織田忍軍の頭巾を被っている。
被っている頭巾はあのくノ一のもので、頭巾だけ血まみれなので異様な空気を醸し出していた。
祐輔は普段とは大きく口調を変えてなるべく特定されないように注意を払っている。
結局香を助けにきた祐輔だが、それでも最低限の備えはしたい。
一番特定される部位である顔は頭巾で隠し、口調も覚えられないようにキャラ付けしたものを使う。
流石に声だけは変えられないのでそのままだが。
「大丈夫か? お嬢さん。吾輩が来たからにはもう安心だからねー」
「え、あ、え? ぁ、ぇえ…?」
「落ち着いてくれ。君を助けにきた。
ここから生き残りたいなら冷静になってくれ」〈ボソッ〉
香はよく状況を理解できないのか、口をパクパクするだけである。
そんな香の横まで歩み寄った祐輔は香にだけしか聞こえないような声で囁く。
祐輔の声を拾った香は混乱しつつもこくりと頷き、落ち着くために小さく深呼吸をした。
「ところで貴様は誰だ?
織田の忍びとも違うな。織田の忍びはそのような格好はしていまい。
おおかたその頭巾は死体から剥ぎ取ったものか? クククッ」
「いやですワン。これは託されたものでござるよ。
吾輩は緊急時の助っ人なので普段着での任務を認められてるのです。
だから吾輩織田の忍者。吾輩嘘付かない」
「名前はなんという」
「禁則事項です」
香が落ち着くまでもう少し時間がかかるだろう。
それを見越した祐輔はとても嫌ではあるが、ザビエルの問いかけに付き合う羽目になる。
祐輔からすればザビエルとは極力話したくはないので、とても嫌そうだ。
「禁則事項? どこまでも巫山戯た奴だ」
一方ザビエルは楽しくて仕方ない。
三笠衆とはトップレベルの人間を引き込んだ忍者集団。
それが香姫の護衛の精鋭とはいえ、無傷でここまで辿りつけるはずがないのだ。
「なぁ、香。織田にはこんな奴はいないと信長は覚えているみたいだがな。
信長は大層お前を可愛がっていたから、お前の護衛の顔もちゃんと覚えている。
だがこんな奴はいない。クククッ。貴様一体何者だ?」
ザビエルの言葉に祐輔はチッと舌打ちをする。
厄介な事にザビエルはしっかりと信長の記憶を受け継いでいるらしい。
シスコンの信長の事だから香の護衛の顔を覚えていてもなんら不思議ではない。
祐輔の舌打ちの理由は二つ。
ザビエルに対して祐輔の存在に疑問を覚えさせてしまい、香に不信感を抱かせてしまった。
この場で祐輔と香が無事脱出しようとすれば香の協力は不可欠だというのに。
「あなたは、一体誰ですか…? いえ、ですが、この声は聞いた事もあるような…」
自分に何人か秘密裏に護衛をつけているという事は兄である信長から聞いていた。
それが何人であったり、誰であるかまでは知らされていない。
つまり香にとっては祐輔の中身が本当に香の護衛の忍びだとしても判別はつかない。
だが――だが、香には祐輔の声に覚えがあった。
ここ最近とまではいわないが、ランスが来てからの間に。
香は戦場にいかないので尾張の城の中で出会っているはず。
「…今だけでいいから、信じてくれないか。怪しい者じゃない。君の協力が必要なんだ」
静かに、だけど力強く香に対して語りかける祐輔。
祐輔からすればこれは賭けだ。香に不信感を抱かせれば祐輔達の負け。
逃げ出せば祐輔だけは助かるかもしれないが、間違いなく香は死んでしまう。
変わり果てた兄を信じるか、素上の知れない祐輔(血塗れの頭巾で顔を隠しているver)を信じるか。
その選択を迫られた香は迷っていた。
兄がザビエルとなってしまったのは認めたくないが、事実なのだろう。
目は赤黒く濁り、身体からは紅い火炎が吹き出している。以前の温和な笑みは欠片もない。
今も祐輔と香を見下して厭らしく嘲笑している姿が否定しようのない現実を香に突きつけている。
このままでは信長=ザビエルの手にかかって殺されるのだろう。
じゃあ自分はどうしたいのだろう? 香は何をしたくて、何をしなければいけないのだろうか。
だが少なくとも――――
「信じます。私は何をすればいいですか?」
少なくとも、このままザビエルに殺される事ではないはずだ。
直前に見たザビエルに生きたまま犯し焼き殺された女性のためにも、尾張のためにも。
香は何が何でも生きて帰って、3Gやランスにこのことを伝えなければいけない。
だから香は信じる。
顔を隠してはいるが、どこかで聞いた覚えがある声のこの男を。
香はきゅっと小さな掌を握りしめて頭巾に隠された祐輔の顔を見つめた。
「よし。ぢゃあオジさんの首に手を回してね。そうそう…それぢゃあホイっと」
「きゃっ」
祐輔は香の両腕を自分の首に巻き付かせ、右腕でひょいっと香の両足を抱えた。
香は突然の事に驚いて小さく悲鳴をあげ、ぎゅっと首に回した腕をより強く巻きつける。
こうしてやや変則的ではあるが、香はすっぽりと祐輔の胸元に収まってお姫様抱っこされる形になった。
「軽いねー、お嬢ちゃんは。フヒヒwww役得サーセンwwww」
「は、はぁ…」
実際非力な祐輔でも充分に抱えられるほどに香は軽かった。
香はいきなり視点が変わった事で目を白黒させている。
だが今の自分の格好をみて、場違いだとは思いつつも顔が赤くなるのを止められない。ぶっちゃけ恥ずかしい。
さてと、と。祐輔は脱出のための準備が整ったことで、ザビエルに疑問を口にした。
「おややん? どーして何もしないんですかネ?」
それは今まで祐輔と香が放置されていた事。
ザビエルは一切手を出すことはせず、ただ祐輔と香のやり取りを観察していた。
興味深い観察対象であるかのようにニタニタと笑いながら。
「貴様らがどうするつもりなのかと見ていたのだ。
貴様らの命を刈り取る事など羽虫を潰すが如く容易い」
「チート乙」
「? 何を言っているのかはわからんが、せいぜい我を楽しませよ」
ザビエルにとって祐輔と香は玩具なのだ。
香をどうやって殺す(壊す)かを考えていたら、新しい玩具が現れた。
あまりにも脆い人間、壊すだけだった玩具でまだ遊べるというのだ。
余りにもな戦力差に祐輔は現実逃避気味で空笑うしかなかった。
何これ? 光の玉で闇の衣を剥ぎ取ってないゾ○マ様と戦うって事よ?
自分で思いついたあまりにも的確な表現に祐輔は死にたくなった。
「それよりよいのか? 左腕で支えたほうがもちやすかろう」
「それが吾輩、腕が動かないんでござる。若い頃に張り切りすぎた」
祐輔をずっと観察していたザビエルは全く動かない左腕に注目した。
左腕が動かない中で三笠衆の防衛網を突破した。それはかなりの技能を持っているという事になる。
ザビエルの興味は完全に香から祐輔に映った。
ザビエルから見た祐輔の姿はかなり偏っている。
織田忍軍でもないのに織田の忍びの頭巾をかぶり、左腕は麻痺しているのか全く動かない。
手だれである三笠衆の守りを無傷で突破。だが祐輔自身に強者独特の覇気を感じられない。
なんというアンバランスさ。
並外れた実力者であるはずなのに、その出で立ちからは全く強さを感じさせない。
そんな男が魔人であるザビエルと対等の口を聞いているのだ。これが面白くないはずがない。
(左腕が動かない…?)
一方、香の頭にあるひとつの男の顔が浮かんだ。
浅井朝倉との講和の時だ。あの時、香は兄の名代として会談に参加した。
任されたという緊張感とプレッシャーでよくその時の事を覚えている。
「ひょっと、して…森本殿、ですか?」
そう、確かそう使者は名乗っていたはずだ。
平伏している時も左腕が動かないため、苦労していたのを覚えている。
「ごふっ…!? ち、チガウヨ、モリモトじゃないヨ?」
思わぬところから出てきた自分の名前に動揺する祐輔。
祐輔からすればなるべく自分の存在を波立たせず、ザビエルの記憶に残らないようにしたいのだ。
しかしながらその目論見は香の一言でもろくも瓦解してしまう。
「逃げますよ、香様!! 目を瞑って口を閉じて衝撃に耐えてください!!」
もはやここまで。
祐輔は香に注意を促し逃走体制に入る。
何故こうして宣言しなければいけないかというと香に覚悟してもらわないといけない。
「逃げるか。逃げ切れると思うか?」
そしてザビエルに自分を攻撃しようという意思を取らせないといけないからだ。
祐輔の最後の切り札は一にも二にも神速の逃げ足のみ。
神速の逃げ足を発動させるためには敢えて攻撃を誘発させないといけないという条件がある。
ザビエルは祐輔がぐっと脚に力を込めたのを見て攻撃態勢に入る。
祐輔の手は香で塞がっているため、逃走すると見せかけて攻撃するという事はないだろう。
ならば祐輔は宣言通り逃げるのみ――そして追撃者たるザビエルは逃げようとする二人を仕留める。
(脚を裂くか、二人まとめて炎で焼くか。
香は確実に死んでもらわなければならぬが、男は使えそうなら使ってもいい。
どちらにしろまずは――――――)
男(祐輔)を戦闘不能にする。
死なない程度に焼く事に決めた信長は体中から溢れる炎を腕に集約させた。
ボウボウと赤黒い炎がとぐろを巻いて轟音を響かせ、唸りを上げる。
〈ギン!!!!!!〉
祐輔は逃げ足を発動させる前に呪い憑きの能力を発動させる。
1%でも生き延びる可能性をあげるため、この部屋周辺にいる鳥を呼び寄せた。
赤く明滅する祐輔の瞳の力に応じた雀と鴉の編隊が祐輔の空けた障子の隙間から間断なくザビエルに殺到する。
「いけっ!!」
(これが奥の手か)
祐輔の言動や目から何かがあることはザビエルも察していた。
祐輔は何かを狙っており、自分に有利になるように場を導こうとしていたのはお見通しだったのである。
それを敢えて見逃し、祐輔が何をするつもりであるかに興味があったのだ。
「しゃら、くさいわ!!!!」
おそらくこの鳥に襲わせている間に逃げようという魂胆なのだろう。
ザビエルは酷く落胆した。何があるかと楽しみにしていたというのに、待っていたのは鳥の目眩まし程度。
予定を変更し腕に集約された業火で二人諸共焼き払おうとする。
【やめろ!!】
「っく…! 邪魔するか、信長ァぁぁあああ!!」
が、向かってくる鳥ごと祐輔達を薙ぎ払おうとした腕がザビエルの意思に反してピクリとも動かない。
未だザビエルの中で燻っている信長が全身全霊をこめてザビエルの動きを邪魔しているのである。
信長の最後の力を振り絞った抵抗にギリギリとしか右腕は動かず、業火を放つ前に鳥達がザビエルの視界を塞ぐ。
「ッグ…!」
なんという忌々しさか。
こうやって時折抵抗する信長の心を完全に折りたくて香をおびき寄せたというのに。
それがこのような形で裏目にでるとは。
「ガ、アアァァアアア!!」
ついにザビエルは信長の拘束を振り切り、自分を中心に部屋全体に行き届くよう業火を解放する。
腕から放たれた業火はグングンと膨れ上がり、爆発した。
爆圧によって部屋全体の障子が破れて吹き飛び、天井を突き抜けて炎が立ち上る。
それは人間の力を遥かに超えた魔人の炎だった。
「…フン、逃げたか」
轟々と燃え上がる部屋の真っ只中でザビエルは表情を険しくする。
手応えはなし。焼き払ったのは鳥のみだ。もっとも鳥は跡形もなく消え去っている。
突き抜けた天井からパラパラと燃え滓が空へと舞い上がっていた。
追いかける事も考えたが、ザビエルはその場を動かない。
今人の気配というものを探っているのだが、サビエルはちゃんと祐輔と香の気配をたどっている。
だがどういうわけか、信じられない速度で本能寺の中を走り去っているのだ。
今からザビエルが追いかけても間に合わない。
(奴は何を使った、いや何かをしたのか?
成程、これが三笠衆を出し抜いた力か)
祐輔の力の一片を見て(一片だと思っている)ザビエルは笑う。
速度という一点だけとはいえ、魔人であるザビエルを凌ぐ力を有している人間。
ランスに続いてこちら側に引き入れたい人間が増えたと。
「たしか香が言っていたな…森本、と」
いや、待て。
ザビエルは少し思案する。
そして―――――狂ったかのように大声を挙げて笑い始めた。
「ククッ、クハハハハハハッハッハハッハ!!!
そうか、森本! 森本祐輔!! またか、また貴様か!!
鳥! 鳥使いとかこの事か! 貴様は幾度となく我の前に立ち塞がる!」
ザビエルの頭の中でかちりと歯車が嵌った。
一ヶ月も前から自分の復活を予言し、こうしてまんまと目の前から香を奪い去った男。
名前を森本祐輔。得体のしれない、自分の計画を台無しにする男。
「森本祐輔!! 貴様は一体何者なのだ!! クハハハハハハ!!」
嗚呼、なんと可笑しいのだろう。
魔人殺しの剣を持っているわけでもなく、自分と同じ魔人という存在でもない。
だが今まで魔人殺しの剣を持っている人間や魔人といえど、こうも自分を追い詰めた事があっただろうか。
実に、実に愉快―――そして同時に不快だ。
戯れに使徒としてもよいかと思っていたザビエルだが、考えを改める。
「次は殺す。必ず殺してやるぞ!! フハハハハハ!!」
全ての計画を狂わす一粒の砂粒。
完璧に回っている歯車をたった一つの砂粒が狂わせる事もある。
その一粒の砂粒足り得るとザビエルは祐輔を認識した。