名護屋城。肥前国松浦郡名護屋に秀吉が築かせている城である。
明・朝鮮へと出兵するための最前線基地とも言える場所であり、普請奉行となった加藤清正が忙しく働いていた。
完成は十ヵ月後を目指していた。
その間、秀吉は朝鮮に対して史実通りに対馬の領主宗氏に命じて李氏朝鮮の服従と明征伐の先導を命じようとしたが、秀次に「無駄です」の一言で止められていた。
どうせ李氏朝鮮が明に対して背くわけないし、と秀吉に進言して戦力・兵站の充実と忍を先に朝鮮に入れて調査をしておくことにしたのだ。
鶴松死去から二ヶ月、長く体を患っていた秀長の命がとうとう費えた。
秀次にとっても覚悟はしていたが、やはり受け入れがたいことではあった。
それを乗り越え、秀次は秀長の遺言を果たすために邁進する。
秀吉はその生来の建築好きにより名護屋城建築に注力しているため、軍の編成や渡海する水軍の船をまとめる作業は秀次が行っていた。
なお、秀長の領地は秀秋が継いだ。
津島と伊勢湾に建造された造船所からは次々と津島級が生まれた。
秀吉が惜しげもなく金銀を投じたおかげで秀次が考える以上に多くの津島級を建造することが出来たのだ。
秀次は完成した津島級六番艦~十番艦に国崩し四門と元から使われていた大筒三十門を装備させた。
李舜臣率いる朝鮮水軍への備えである。
焙烙火矢を放てるようにした大筒なら十分に使えると判断したからである。
これに一番艦と四番艦と五番艦を加えた十三隻のガレオン船が水軍の要となる。
毛利に送った四番艦が旗艦となり水軍の総大将は小早川隆景。
脇坂安治、長宗我部元親、九鬼水軍等、水軍兵力だけで二万。
ガレオン船以外の船舶も千以上の数を用意した。
上陸軍の総司令官は徳川家康。三河から四万の兵を率いて指揮を執る。
他に前田利長、宇喜多秀家、加藤清正、小西行長、細川忠興、黒田長政、大谷吉継、石田三成、増田長盛らが動員。
秀次の配下から家康への客将として舞兵庫、立花宗茂が総勢六万の兵を率いてゆくことも決まった。
陸軍の総数はおよそ十六万。
津島級一番艦と五番艦は砲門の数は他の半分以下だが、その輸送力で大量の兵糧と弾薬、国崩しに建築資材を搬送することになっている。
持ち込む鉄砲の数は実に十万丁。津島・堺で大量生産された鉄砲と大鉄砲、すなわち抱え鉄砲と呼ばれていた二十匁の弾丸発射用の鉄砲も千丁以上持ち込むことになった。
秀次の構想としては、釜山に上陸した後、史実と同じように速攻で漢城まで落とし、そこで進撃を止める。
漢城を落とした後、補給線を分断されないように水軍で制海権を握り、増援部隊で補給線を維持することにする。
平壌まで攻め込んで行って、深入りして明と戦うよりは漢城で防衛線を築いて戦ったほうが補給線も短くてよい、と思ったのである。
秀吉はその作戦説明を聞いた時、初めは難色を示すが「明の大軍を漢城で迎え撃って打撃を与えれば、後の明征伐もやりやすくなりましょう」との秀次の言を入れて了承した。
秀次は対馬に兵站基地を設営することにした。
大量の兵糧、弾薬等を積み上げておく。後は釜山~漢城の補給線を途絶えないように維持すれば負けることはないと思うが・・・。
国崩しを野戦砲として持って生かせているので、砲撃戦になっても戦えるはず。
そもそも鉄砲の数、つまり火力で圧倒して相手を撃退するのが基本戦略だが、ひょっとしたら明が史実以上の大軍を送ってくるかもしれない。
そのために後詰は名護屋城にある程度置いておく必要がある。いざと言う時は渡海させて補給戦の維持に投入できるように。
名護屋城には秀吉直属部隊一万に加えて秀次の弟である秀勝に兵を与えて送ってある。
秀勝には対馬での補給基地防衛を主な任務として、一万五千の兵を持たせて宗氏の居城に入らせることにした。
島津と大友は、現在琉球攻略中である。津島級十一番艦と十二番艦がその任についている。
琉球を攻略した後は台湾である。ただ、島津は最悪の時を考えて戦力の半分と島津義弘は薩摩に残した。
関東の大名は国換えを行ったところであり、戦には駆りだせない。
東北の大名は蝦夷・樺太へと勢力を伸ばしているところであり、これも出戦できない。
自然、近畿・四国・中部それに加えて元から秀吉が唐入りのために国を与えた肥後の加藤清正と小西行長らが動員されることになったのだ。
それでも秀次と秀吉の領地にはまだ余力があり、前田利家は大坂にあって政務を補佐している。
さらなる動員を行うことも可能だが、兵站の問題によりこれ以上の増員はできない、というのが秀吉と秀次の一致した見解であった。
秀次はそれ以外にも関白としての仕事も行わなければならない。
朝廷や公家との付き合いが主なものだが、おろそかには出来なかった。
中々の激務だったが、なんとか秀次は仕事を片付けていく。
あーもー、公家との付き合い面倒くせぇ!
俺の切腹迫ってる状況でなんで連歌会とか出なきゃならんのだ!
つーかさ、天皇陛下ですよ、相手。
二十一世紀の感覚だと、沿道から見るくらいしか実際に会う方法ない人だよ。
まあ、この時代の庶民だって普通は絶対会えない相手だが。
緊張するし、精神力使う・・・。
そういえば秀吉は名護屋城にも茶々を連れて行くんだと。
風魔が順調に侍女の中に紛れ込んだって言ってたから、どうにか歴史ミステリーを紐解いて貰いたいもんだ。
まあ、もし本当に誰かと浮気してたらどーする? と言われても何も考えてないけど。
秀吉に言ったら何が起こるかわからんし・・・でも俺は茶々は怪しいと思うけどなぁ・・・。
伊賀者と風魔の忍を朝鮮に送り込んだけど・・・どうなることやら。
この戦争自体、別に無理にやる必要ないと思うけどねぇ。
まあ、朝鮮の釜山~漢城くらいまでの地域を制圧できればいい程度で考えておこう・・・。
天正19年、秀次は多忙な日々を過ごす。
関白としての仕事と朝鮮出兵への準備、領内の政事とやることは山積みであった。
史実では朝日姫はすでに亡くなっているが、徳川に嫁いだりしなかったためか、副田吉成と幸せに暮らしており病気などにもなっていなかった。
大政所も健在であり、秀長と鶴松以外の豊臣家は概ね安泰と言えた。
秀次とあまり関係ないところでは、千利休の切腹などがあった。秀次の下にも古田織部らの助命嘆願はあったが秀吉はこの件に関しては聞き入れなかった。
背後関係が見えない秀次も強く言えず、結局史実通りに千利休は切腹。筆頭茶道は古田織部が継いだ。
そして文禄元年。
いよいよ文禄の役の幕が上がる。