豊臣四兄弟の末弟、豊臣秀頼は複雑な生い立ちである。
母は故太閤秀吉の寵姫、淀君。
父は豊臣秀吉……ではなく、淀君の乳兄弟であった大野治長である。
つまり、不義の子という事になる。
彼は生まれてすぐに、政争の道具となった。実の母の手によって。
結果として、彼の両親は謀反人として処断され、この世を去った。
その後は秀吉の正室であった寧々の手元で育てられた。
彼が秀吉の実子ではないと言う事は、公式に発表されている。
そうしなければ、誰かが秀頼を担いで再び騒乱の種を撒かないとも限らなかったからである。
不幸な生い立ちの少年は、それでもまっすぐに育った。
実子がいなかった寧々が我が子のごとく可愛がった事、そして秀次が「秀頼は血は繋がってなくとも我が甥である」と公言していた事もあり、
彼は謀反人の両親を持ちながらも、幸せに育った。
秀吉の母である大政所もその愛情を分け隔てなく注ぎ、秀次の兄弟である秀勝、秀秋も年の離れた弟を可愛がった。
後に秀頼は「我が母は寧々であり、父代わりは叔父の秀次であった」と周囲に語ったと言う。
成人を迎える前に出家していた秀頼は当代随一の学僧や、細川幽斎、古田織部などに師事し芸術方面にその才を見出していく。
天皇や公家の連歌会でその腕前を披露し、若くして茶の湯の名人として名声を確立していた。
史実の通り、立派な体躯に成長した彼を見て秀次は「武芸もやらせておけばおもしろかったかも」と漏らした事もあった。
最も、穏やかな性格の彼には武芸は似合わなかったかもしれないが。
彼は生涯一度も実の両親の墓前に立たなかった。
秀次も寧々も何度か勧めたのだが、その人生においてただの一度の墓参りすらしなかった。
そして、彼の口から実の両親について何か語られた事もない。
彼にとって家族とは寧々や秀次であり、物心つく前に自らを政争の道具とし、尊敬する兄の腹心を自害に追い込んだ自らの両親を生涯許せなかった
のかも知れない。
あとがき
書籍の発売日が決まったので記念に外伝を……と思ったのですが、秀頼書く事ないわw
と言うわけで稲姫もついでにアップします。
書籍の発売日は5/24。amazonで既に見れるようになってますので、ぜひ一度ご覧下さい。