午前十時だが気温は三十度を超えていた。
朝見た情報番組のお天気キャスターが、「昼過ぎまで気温の上昇は続きそうです」と言っていたのを思い出しながら、坂凪亜門はハンカチで汗を拭う。それでもなお、短くぴんと立った黒髪からは汗が流れ出て、シャツの襟元がじんわり湿る。
「なあ丈瑠、月曜までの課題ってなにがあったっけ?」
「数学のワークと英文の翻訳だな」
「うわ、だる」
亜門は短いため息を吐き、昨日のうちに済ませておくべきだったと後悔する。亜門の横には長身の男がいた。細く流れるような目が特徴の丈瑠と呼ばれたその男は、ズボンのポケットに手を入れながら、背筋をぴんと伸ばし、汗もかかず亜門と並んで歩いている。
「あ、いた」
亜門が短く呟く。そこには、これまた一人の男がいた。四十代くらいで白色の肌に無精髭が目立つ。民家の壁を背にあぐらをかいて座っているその男は、三十度越えの気温であるにも関わらず目深に帽子を被り、黒色のコートを羽織っていた。
見るからに怪しい、不審者と思われても仕方のない格好である。
「……これ、どうする?」
亜門が尋ねる。これ、とは眼前の男のことだった。
「どうするも何も、俺らは命令に従うだけだ」
丈瑠が素っ気なく返す。しかし、それ以外に返事の仕様も無かったのだ。
二人は共に連絡を受けて現場に向かっただけで、その場所に来てみれば得体の知れない男がいた。限られた情報の中では、誰も最善の策など持ち合わせていない。
ましてや今日が土曜で、二人が高校生となればなおさらである。
「ったく、上の連中ももうちょっと指示をくれたっていいのに」
「過ぎたことに文句を言っても仕方ない。さっさと終わらそう」
丈瑠は抑揚のない機械じみた返答をする。
「それもそうだな。えーっとお、もしもし、そこのおじさん聞こえてますか?」
亜門はしゃがみながら男に声をかける。すると、男の肩がわずかに動いた。それから、男はうなだれた首を持ち上げ、帽子の隙間からなめ回すように見つめる。
「……なんだ」
「えと、俺が今からする質問に答えて欲しいんだけど」
「なぜだ」
「なぜ? ……なぜって言われてもなあ」
「私に何のようがあって質問するのか知らないが、理由もないのに答える義務はない。それに、得体の知れない男からの質問に易々と答えるほど私は愛想が良くない。拒否する」
「拒否って。いや、理由はあるんだけど、言えないっつーか、言っちゃだめっつーか……」
男の意外に巧みな弁舌に口ごもる亜門。
男は持ち上げた顔を再び下げ、帽子を深々と被った。亜門はあたふたしながらその様子をただ見ている。ついでに目も泳いでいる。
「どけ亜門」
見かねた丈瑠が亜門のシャツの襟を強引に引っ張る。危うくバランスを崩して尻もちをつくところだったが、すんでの所で体勢を立て直す。
「おい、おっさん。怪異知ってるか?」
亜門と入れ替わるようにして丈瑠が男の正面にしゃがみ込む。丈瑠が正面に現われてもうつむいたままだった男が、「怪異」の言葉に一瞬ではあるが体を強張らせた。
些細な動きだったが、しかし丈瑠はその反応を見逃さなかった。
「急に何を言うかと思えば」
男は先ほどと変わらない調子で続ける。
「なんだそのカイイというのは。 若者の間で流行ってるのか?」
「簡単に言えば人外の総称だ。そいつらは特殊な力を持っていて危険なんだ。そして、俺らはそれを駆除してる」
「駆除? 暇だからか?」
「いや、怪異は一般人に危害を加える。今までにも例外がない。ただ被害の大小はあるけど」
冗談交じりの質問を軽く受け流し、淡々と説明する丈瑠。その後ろで亜門がばつが悪そうな顔をするが、お構いなしに続ける。
「だからなんだ。私がその怪異だといいたいのかね」
「それを確かめたい。コートを脱いで見せてくれ。怪異は体に特徴的な紋様がある」
「なるほど、それなら最初からそうってくれれば」
「手間取らせて申し訳ない――――」
わびの言葉を伝え終えたとほぼ同時に、丈瑠の目の前が真っ暗になる。
急な出来事に一瞬体が硬直するが、すぐに短く横にステップして視界を元に戻す。しかし、コートの奥に男の姿はなかった。
「くそ、どこいきやがった」
「丈瑠、上上」
亜門が上を指さす。見ると、電信柱になにかがいた。この世のどの生物にも分類しがたい異形の様相だったが、肩にある紋様とそばに落ちている帽子からすぐに男だと断定した。
「ばれたか。こうなったらお前らを殺すしかねえなあ!」
男の言葉には熱がこもっていた。よそ見をせず二人を注視するその様は、さっきまでの中年と同一人物なのかと疑いたくなるほどだった。
「んのやろう、やっぱり怪異だったか」
男の眼圧に睨みで対抗する丈瑠。その横では亜門が男を横目で捉えながら、
「なあ、俺がやっていいか?」
その申し出を断るように丈瑠は亜門に手のひらを向ける。それから、ゆっくりと丈瑠の体が膜のようなものに覆われる。ゆらゆら揺れるオーラのようなそれは、丈瑠だけでなく怪異の男も纏っている。
「いや、おれがやる」
その言葉を最後に、しばらく睨み合いが続いていた。
睨み合いの最中、風が吹いて男の帽子が移動した。
その時、男が丈瑠に襲いかかってきた。
一直線なその軌道から丈瑠は体を逸らせ、無防備な脇腹に蹴りを入れる。男は鈍痛を相殺するように短く唸り、すぐさま体勢を立て直して力のこもった拳を振りかざす。
丈瑠はとっさに腕を交差させ、男の渾身の一撃を防ぐ。しかし殺しきれなかった余力に押され、そのまま後ろへ押された。
「ってえ……」
「交代するか?」
「いや、問題ない」
手首を振って痛みを逃がす丈瑠と、戦いを楽しそうに見守る亜門。そして挟まれる会話は昼下がりのような軽快なもので、その裏で怪異の男は自分の拳と相手を交互に見ている。
軽微なダメージで済んだことがオーラ――――つまり魔力による効果だと気付くには、時間がかからなかった。
「よし、今度は俺からだな」
「起術使うか?」
「いや、魔力だけで十分だ。使うほどの強さじゃない」
対面にいた男は、さらりと侮辱されたことにふつふつと怒りが湧くが、それよりも丈瑠の動きは速かった。みぞおちに肘鉄を入れ、痛みに悶え膝を付くその前に顎に膝蹴りを喰らわせる。
男は大の字で道路に倒れた。丈瑠は短く息を吐くときびすを返す。体を覆っていた魔力はいつのまにか消えていた。
「お疲れ、後処理は俺が手配しておくよ」
ねぎらいの言葉と共に、少年のような無邪気な笑顔を見せる亜門。
「お前が率先して言うなんて珍しいな」
「へへへ、お礼は課題の答えで」
「……そんなことだと思った。わかった、後で答え送っておくよ」
小さくガッツポーズをする亜門を横目に、丈瑠はその場を後にする。
帰り道の途中で、先ほどのやりとりを思い出したが、すぐに頭を振って忘れることにした。