「ユーヤ……」
どこか呆然としたフェイトは眼をまるまると見開き、ポケットに両手を入れて飄々と構えた恋人の名を呼ぶ。
妙なところで勘の鋭いフェイトのこと、自らの半身の接近には薄々感づいていた。そんな彼女にとって意外だったのはその瞳──、母なる大地と広大なる海原を思わせる蒼い双眸だ。
眼は時として物言うよりも雄弁であると言うが、溶けることのない氷河のように感情を閉ざした冷たいプラネットブルーは、怒りも悲しみも何も映していない。
まるで空虚、仄暗い海溝の底を覗いたかのようで。あの忌まわしい“金色”でないだけまだマシかもしれないが、フェイトの意気地を挫くには余りある。
案の定、フェイトは「う……」と息を飲んでたじろぎ、後ずさる。
するとはやてが、はぁー、といかにもなため息を吐く。これまたいかにも「私は憤っています」という表情を作って見せた。
「いまからお仕事やってのにこんなザマで、ほんとにあんだけの“冥魔”を捌けるんかいな」
お調子者の彼女らしからぬ辛辣なセリフは心配の裏返し。例の模擬戦が確実に響いているであろう二人のメンタルコンディションを鑑みれば、ケアレスミスで失敗する姿は想像に難くない。
フェイトとなのは、どちらも時に頑迷に見えてしまうほど意志の強い女性だが、同時に殊の外脆くて不安定なグラスハートの持ち主。そんな親友たちをどこか冷めているようでいて、人一倍母性本能の強いはやては心配で心配でたまらないのだ。
「だ、だいじょうぶだよはやてちゃん。特に強力な個体は発生してないそうだし、平気だよ。なんとかなるって」
「うん。なのはの言うとおり、私たちなら絶対できるよ」
軽くどもりながらも当たり障りのない意見を述べる教導官と、根拠もへったくれもない自信を滲ませる執務官。「だからよけいに不安なんや……」という呟きは口の中だけに留め、悩める部隊長は“予定通り”の口上を紡ぎ出す。
「ま、その辺のことについて攸夜君からありがたーいお言葉があるんでな。心して聞くように」
「ありがたいお言葉って、お前な……」
こんな時までおちゃらける悪友に頭痛を感じ、攸夜がこめかみを押さえた。
「ったく……」とりあえずため息混じりで気を取り直し、両手をポケットから出して鷹揚に腕を組んだ。
「フェイト、なのは。悪いがお前たちの予定はキャンセルだ」
そして攸夜は“台本通り”の言葉を言い放ち、茶番劇の幕を強引にこじ開けた。
「……それってどういうこと?」
「“冥魔”は俺とはやてで掃除する。俺らの方が遥かに効率がいいし──、何より今のお前たちには任せるわけにはいかないんだ、これがな」
広域破壊・大軍殲滅を特に専門とする二人である。海上という、周りの被害を配慮しなくてもよいフィールドはまさしく彼らのテリトリー、思う存分に暴れられる狩り場となろう。
世界最強を謳う“魔法使い”と密かに“準魔王級”とまで評される魔導騎士の前では、師団規模の“冥魔”と言えどものの数ではない。
──しかしそれは本来、彼らの役目ではないこと。明らかな越権行為である。
「な、なんで急に……?」
任せるわけにはいかない、という言葉に動揺を見せるなのは。それはつまり、機動六課における存在意義の大半を奪われたも同じこと。
「自覚はないのか? あの模擬戦の結果を事前に察知しておきながらみすみす見逃したお前に、大事な任務を任せられるわけがないだろう。……何のために半人前共の自主訓練を見ていたんだ、お前は」
「「「!!」」」
なのはが紫の瞳を大きく見開き、ティアナとスバルの顔色が見る見るうちに変わっていく。後者は自分たちの訓練が知られていたこと、そして作戦が看破されていたらしいことにショックを受けていた。
仮にも教官であるなのはなら、ティアナたちの“自主訓練”の内容から彼女らの意図を正確に読み取れていてもおかしくはない。
事実、でなければあの絶妙な奇襲を往なすことなどできなかっただろう。
休職する以前ならば土壇場でも切り抜けられたかもしれないが、今のなのはの実力では到底無理。戦闘におけるスキルも、危機に対する直感も、闘争に向けた意欲も、当時とは雲泥の差だとなのは自身が自覚しているほどなのだから。
「そ、それは……スバルとティアナを信じてたからで──」
「知ったことかよ」
苦し紛れの言い訳も梨の礫。
「アグスタでも裏切られておいて、今更信じる何もあるか。そんな甘ったれた考えで、よくもまあ教導官などと名乗れたもんだな」
「ち、違うんですっ!」
言い被せる痛烈な当て擦りに辛抱が尽き、スバルが勢いよく立ち上がる。隣でうなだれたパートナーの敵討ちをするかのように潤んだ、しかし真っ直ぐな光の籠もった瞳で黒い悪魔を睨み付けた。
「悪いのは、言うこと聞かなかった私たちで、なのはさんはなんにも悪くないんです! だから──」
身振り手振り、全身を目一杯使って上官の無実をアピールするスバル。必死な声や姿はひどく憐憫を誘うが、その程度で同情してやる攸夜ではない。
自分の役目は終わったと傍観者を決め込んでいたはやてが「あー、そらあかんわぁ」とスバルの行為を誰ともなく評する。今口出しをしても弾劾者にさらなる糾弾の口実を与えるだけ。
「……フン」
読み通り、攸夜は不愉快そうに鼻を鳴らしてスバルと、それからソファに座ったまま俯くティアナを準々に眺めた。
はっきりと見下す視線──、蒼い瞳の湖面にはどんな感情も浮かばない。
「ガキはすっこんでろ。大人の話の最中だ」
冷たい一喝。スバルを文字通り子供のようにあしらった攸夜の叱声は高々と潮を打ち上げる荒波のように、ますますもって厳しさを増す。
「叱責中に口を挟むとは、相変わらず礼儀も教育もなっていないな。……指導者の程度が知れるとは思わないか?」
「ぅぅ……」
度重なる皮肉に堪えきれなくなって、じわ……と紫の虹彩が滲む。
「ゆ、ユーヤ! いくらなんでも言いすぎだよっ」
悔しそうに唇を噛み、俯き加減で立ち尽くす親友を見ていられなくなったフェイトが間に割って出る。キッ、と心優しい彼女には珍しく目尻を怒らせて、いつも以上に乱暴横柄な恋人と対峙した。
「何だ? 何か言いたいことがあるなら言って見ろ」
「……そんな、言い方って……」
「言い方がどうした?」
「……ないんじゃ、ないかなって……その、あの……」
じっ、と。
紅と蒼、対象的な色と反比例な感情を宿した眼差しが見つめ合う。
「……あぅ……」
交わることわずか数秒。
深い色合いの蒼茫たる眼光を前に、フェイトは涙目となって早々に敗退。土台、彼女が自らの想い人に逆らうことなど、天地が三度ひっくり返っても無理というものだ。
つい、と攸夜がつまらなそうにしおれてしまったフェイトから視線を外す。それから、部屋の面々一人一人に目を合わせながら口を開いた。
「突撃しか能のない前衛に、功を焦って自滅するガンナー」
ほとんど名指しされた二人が、身に覚えのある指摘に身を竦ませて。
「未熟で甘ったれな騎士と仲間を信頼しない召喚師」
心外そうに眉をひそめる少年と恩師の罵倒に下を向く少女。
「そして、無能な部下を修正もせずにただ馴れ合うだけの無能な指揮官たち。……まったく碌なモノじゃないな」
最後に、今にも泣き出しそうな年長者二人が頭をしなだれると結尾を切り、攸夜がやれやれと大げさに頭を振るう。その仕草がまた一段と芝居がかっていて、一同の神経を逆なでした。
横目で自分の発言がどれほどのダメージを与えたのかを確認して、攸夜は身を翻す。
目的はほぼ達成したこの部屋に、もう用はない。
そして、おそらくの今まで以上の致命傷になると予想される捨てゼリフで駄目押しした。
「──お前たちには失望した」
その一言で。
「あ……」
ぐらり、とフェイトの全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。まるで立ち眩みでも起こしたかのように膝から床にへたり込む。
「フェイトちゃん!?」なのはが絹を裂くような悲鳴を上げ、急ぎ駆け寄って彼女を支える。「……ありがとう、だいじょうぶだよ」とぎこちない笑顔で答えたフェイトの顔色は、知らずなのはが息を飲むほど血の気が引いていて。
その右手は、自らの胸元──ブラウスの下に隠れたあのネックレスを強く、皺になるくらい強く握っていた。
そんな金色の乙女の様子には目もくれず。漆黒の魔王はやってきた時と同じく、神出鬼没自由奔放に出て行ってしまう。
ご立腹やなぁ……、と小さく呟き、はやてが騒然とする場をまとめるように声を上げる。
「まあそういうことやし。私らでちゃっちゃと片づけてくるから、なのはちゃんも“やること”ちゃーんとやっといてや」
そう笑って、彼女はのらりくらりと攸夜の後を追う。
そうして残されたのは、力なくうなだれた者たちと意味深な言葉だけ。
「…………」
しかし、親友たちのぶっきらぼうな振る舞いに秘められた意図を正しく受け取ったなのはだけは、決然と顔を上げていた。
──堅固な意志を胸に抱いて。
□■□■□■
嵐のような二人組が去った後、室内にはこれ以上ないほど最悪なムードが蔓延していた。
特に酷いのはフェイトで、どよーんとネガティブな効果線をかぶり部屋の隅でうずくまっている。最愛の人に「失望した」と言われたのことが余程のショックだったのか、まるで抜け殻のように真っ白だ。──まあ、放っておけばいつか復活するだろう。
「……怒られちゃったね」
そんな空気を払拭するべく声を上げたのはなのはだった。
にゃはは、とばつが悪そうに頭をかき、いつもの困った笑顔。けれど、いつもの愛想笑いとはどこか違って見える。
「でもまぁせっかく時間を作ってくれたんだし、込み入った話でもしよっか?」
少し冗談めかした問いかけ。
先ほどのやり取りの趣旨を正しく理解しているからこそ、なのははこうして別段打ちのめされることもなく、落ち着いた気持ちでいられた。
「なのはさんは……」
「うん? なにかな、スバル?」
不意に、俯いたまま発言した教え子へと人当たりのいい笑みを向けて、なのはが不思議そうに首を傾げる。
がばりと顔を上げたスバルは、今にも泣き出しそうな情けない表情だった。
「なのはさんはくやしくないんですか!? あんなひどいこと言われて! ……どうしてっ、どうしてそんなに笑ってられるんですか……っ!!」
溢れる涙で瞳を濡らして、スバルが叫ぶ。
血を吐くように、泣き咽ぶように。自分のことのように。
「スバル……」
隣の席のティアナがパートナーを辛そうに見つめる。
一瞬だけ面食らったなのははしかし、すぐにふんわりと微笑む。それは所在ないあやふやな苦笑ではなく、ただ静かに全てを包み込むような微笑──
「くやしいよ? ふがいない自分にムカムカして、なにも言い返せない自分が情けなくて、友だちを怒らせちゃった自分が恥ずかしくって。……でもね。くやしくてしかたないから、だからこうして逃げないでみんなと向かい合おうって思えるんだ。
──だってそれが、私の“お仕事”だもん」
真っ直ぐにスバルの瞳をのぞき込んで、なのはが言う。
何も気負わない透明な心、透明な表情で。
自分の代わりに泣いてくれたことがうれしかった。
自分の代わりに憤ってくれたことがうれしかった。
……だから。こんなにもひたむきな子たちを、自分のように間違った道を歩ませたくなかった。
「お話しよ? これからのこと」
真摯に。ただ真摯に。
教え子たちと真っ向から──本音でぶつかり合うことを無意識に避けてきたツケを、今ここで清算するために。
なのはは皆を見据える。
「いままでみたいに“なあなあ”な関係のままじゃ……だめだと思うんだ、私たちは」