ミッドチルダ近海。
朱に染まる海原と、波間に揺れる水月を望む黄昏の空に黒き翼が翻る。
「『遠き地にて、闇に沈め」』
赤い表紙の古めかしい書物を片手に魔導の王が祝詞を上げる。
夜を呼び、闇を呼び、破滅を喚び込む聖なる歌声。不浄なる者共を眼下に、主従は破滅の詩を歌い上げる。
「デアボリック、エミッション!」『デュエット!!』
振り下ろされる剣十字の錫杖を引き金に魔法が発動した。
虚空に爆発する“二つ”の闇。響き合い、共鳴し合う漆黒の波動が“冥魔”を飲み込んでいく。
押し寄せる怪異の波、その勢力を大きく削り取った。
“夜天の王”八神はやての十八番──オリジナルスキル“二重詠唱”により威力を相乗した魔法は、AMF領域下でも減衰しないまさしく魔導の極致と言えるもの。十把一絡げの魔導師には及ぶべくもない。
──しかしこの戦場には、彼女の闇をも遥かに凌ぐ冥闇を統べる天光の神子がいた。
「テトラクティス・グラマトン……!」
何かが砕けたような、透き通った音が薄暗い空に鳴り響く。
十三枚の翼アイン・ソフ・オウル高機動形態から光の粒子が一斉に吹き出す。
放射状に広がる光はまるで天壌ことごとくを覆うオーロラ、暗闇を斬り裂く太陽の光冠。
「風よ、火よ、水よ、土よ。汝等、此処に召喚す」
響く霊験な声。
莫大な魔力が渦巻き、青く鮮烈な光が夜空に走る。完成した直径約一キロの巨大な魔法陣が、海上と上空に蠢く無数の“冥魔”全てを包み込んだ。
「風よ、火よ、水よ、土よ。我に従え、制裁す」
アイン・ソフ・オウルが後背から射出され、魔法陣に中心に突き立っていく。
“羽根”が紫に、輝き始めた。
「彼方より此方へ。久遠よりへ刹那へ。来たれ、来たれ、来たれ、始まりの泥より来たれ原初の混沌────!!」
蒼銀の魔法陣の中心から、形容し難いナニカが溢れ出す。あえて人語に訳すなら“泥”に例えればいいだろうか。
うねり、急速に膨れ上がる“泥”は、周囲の“羽根”から発せられる紫光──“正義の魔力”を受け取って、完全な球体へと変貌していく。
それは純粋無垢な“混沌”。
“冥魔”たちが浴びた「余り物」などではなく、世界が産声を上げた時より存在した万物創世の源がここに、招来された。
「彼の者らを在るべき場所へ還せ! ──プリミティブカオス・ジ・エンドッッ!!」
超広域完全殲滅魔法“プリミティブカオス・ジ・エンド”────終焉に相応しい無慈悲で無軌道な破壊が訪れる。
音を置き去りに爆発四散した“混沌”が、数万トンの海水を空高く吹き上げる。“冥魔”は、圧倒的な破壊の濁流に為す術なく翻弄されて消えゆくだけ。
空間が抱えきれない膨大な魔力に軋み、崩壊した。
「うひゃあ〜! 海の上やからってエグいことするなぁ。なんや私、敵さんがかわいそうに思えてきたわ」
『これだけ暴れて次元震が起こらないことが不思議でなりません。概算して“闇の書”の暴走の数倍規模の魔力飽和です』
黒翼の主従が安全圏から人事のように言う。
次元震が起こるどころか、この大破壊を引き起こした張本人にしてみれば、この程度の制御は片手間で出来ること。児戯でしかないのだ。
────蹂躙の時が過ぎ去り、海上にはひとときの静寂が訪れた。
「……なんか悩みごとでもありそな顔してへん?」
一息つき、はやてが上空で浮遊する攸夜を仰ぎ見て尋ねる。
尋ねられた当人は、苦々しく顔付きを歪めてそっぽを向く。
「別に。何にもねーよ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その背中からは苦渋が滲み出ていた。
それを先ほどの一件が原因と見抜き、はやては軽く茶化す。
「……ふぅん。父親の厳しさってやつかいな、立派やなぁ」
「そんな上等なものじゃないよ、俺は。外野がしゃしゃり出ることじゃない、それだけさ」
はぁ、とため息。
「ったく、いったいいつになったら素直になるんかしらこのコ」
「うっせ。大きなお世話だっつの」
憎まれ口を叩き、攸夜が連結した大弓の弦に蒼銀の矢を番えた。
大きく弦を引き取る不器用な悪友のリアクションは予想の通りで。こだぬきが白々しく大げさに肩をすくめて見せた。
「フェイトちゃんも、こないなへそ曲がりのどこがええんやろか。……黙ってればけっこうイケてんのに」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもないですー」
さり気に本音をこぼしつつ、じゃれ合う様子はわずかな気負いも張り詰めた緊張感もない平時そのもの。元よりこの二人、真っ当な神経などどこかに置き忘れてしまったような人種だ。
例え絶対的な絶望を前にしても、挫けることなく真っ直ぐ立ち向か──それが攸夜とはやての持ち味。故に彼らは、“自分”という領土を治めるただ一人の“王”たりえるのである。
『敵第二陣、来ます! 前方、距離3000!』
オペレーターの報告。
太陽はすでに水平線の向こう側へと沈み、暗い夜の帳が世界を覆い隠す。これからは、夜天の女王と夜闇の魔王──この世の半分を統べる王者の時間だ。
「──さぁて、もういっちょドデカい花火かましたるか!」
はやての叫びに合わせ、吹きすさぶ冷気が広大な海原に白い雪原を生んだ。
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ところ変わって隊舎本館、多目的レクリエーションルーム。普段は職員がクラブ活動などに使用している部屋に、場所を移して。
「とりあえずみんな、好きなところに座って?」
促され、四人は白いソファに横並びで座り始めた。まだぎこちない雰囲気は残っている。
部下たちが着席したのを確認し、なのはは彼女らと背の低いテーブルを挟んだ反対側のスツールに対座した。茫然自失から何とか自己修復したフェイトも同様だ。
「…………」
暗い沈黙が続く。
道すがら、一同は一言も言葉を交わさずにここまで来た。空気は未だ最悪、少なくとも朗らかに話し合いをするような雰囲気ではない。
そんな中、
「ええと……まず最初に、昨日のことについて謝るね。訓練を中途半端にしちゃって、ごめんなさい」
言って、深く頭を垂れるなのはに驚きが広がる。
そして、トレードマークのサイドポニーを手ぐしで直しながら「大人げないところ、見せちゃったよね」と苦笑して見せた。
こうなると困るのが、彼女に“大人げないところ”を見せさせた張本人たち。どういう顔をしたらいいのかと視線を泳がせる。
そんな二人に、なのはは柔らかく穏やかに笑いかけた。
「だいじょうぶ、ちゃんと聞くよ。頼りないかもだけど、私はみんなの“先生”だから」
はっ、と瞠目したのはティアナ。その想いが届いたのか、わずかに逡巡してから重い口を開いた。
「……あれから一晩、考えたんです。アタシたちのなにが悪かったのか、そしてどうしてなのはさんはあんなに悲しんでたのか、って」
「うん」
訥々とした独白に、なのはがやさしく相づちを打つ。
ティアナは賢明な少女だ。追いつめられてヒステリーさえ起こさなければ、きちんと理論立った思考をできる。
「……いろいろ考えて、考えて……それでその、一番間違ってたのは、スバルを捨て駒みたいに扱ったことじゃないかって、思ったんです」
キュッ、と下唇を噛みしめて俯いてしまうティアナ。彼女の脳裏には、ホテル・アグスタでのフレンドリー・ファイアの瞬間が過ぎる。
親友と呼んでもいい友人が危機に晒された瞬間、自分は何をしていたのだろう──冷静に我が身を振り返り、愕然とした。自己嫌悪で吐き気がした。自分は、夢のためなら親友を犠牲にするような、そんなクズみたいな人間だったのだろうか、と。
今にも泣き出しそうな表情で、制服の裾を固く握りしめる。
「あれが実戦で、相手が凶悪犯だったらって考えたらアタシ……」
「──もういいよティアナ。ティアナの気持ちは、よくわかったから」
小刻みに震え、声を絞り出す教え子が不憫で思わずなのはは口を挟んでしまう。
ティアナが顔を上げた。
「言うことを聞いてくれなかったのもショックだったけど、もっとショックだったのは二人が捨て身みたいなマネをしたこと。……あの作戦自体の是非はともかく、命を軽んじるような戦い方、訓練でも実戦でも認めるわけにはいかないの」
「……! で、でも、だけどっ! 命がけでがんばることって、そんなに悪いことなんでしょうか!?」
口調こそ柔らかいが、きっぱりとした叱責にスバルが食ってかかる。いつもよりずっと小さく見える友の代わりをするかのように。
珍しく──それこそ初めて自分に刃向かう彼女の変化をうれしく思い、なのはは思い違いを正してやる。
「そんなことないよ、スバル。私にだって命がけで戦った経験、何度もあるし。でもね、その結果取り返しのつかない失敗や、命に関わる大けがしたことだってあるんだよ」
「なのはさんが大けが、ですか?」
エリオが声を上げる。
「そう。四年前の“冥王の災厄”事件のときと、十歳のときにちょっとね」
気恥ずかしそうに頬を掻く。
“エース・オブ・エース高町なのは”──その完全無欠な偶像にそぐわないエピソードを聞かされ、驚く四人。個人個人の差はあるものの、驚愕の色は一様にして濃い。
「かいつまんでいうと、調子に乗って限界以上のオーバーワークして、あげくこっぴどく撃墜されちゃってね。──もう二度と空を飛べないかもってお医者さんに言われて、それでも空が飛びたくて……一年くらい、死に物狂いでリハビリしたっけ」
けっこうツラかったなぁ……。
人事のように壮絶な過去を語る影には、無鉄砲で無遠慮で、“勇気”と“蛮勇”をはき違えていた過去の自分への後悔がある。
そんな心の裡を敏感に嗅ぎ取り、フェイトが「なのは……」と心配そうに彼女の肩をそっと触れた。
「うん」気遣ってくれる親友に笑みを返して、なのはは苦い思い出の詰まった昔語りを締めくくる。
「家族や友だちにたくさん心配とか迷惑かけて……、それだけリハビリしても完治できなかったんだけどね──っと、ごめん、なんか話が脱線しちゃった」
サバけた笑いを零すなのはとは対照的に、動揺を見せる新人たち。ひどく極端な例ではあるが、これから長い人生を歩む彼女らにとっても他人事ではないかもしれない。
「だからじゃないけど、みんなには私みたいな思いをしてほしくないの。命は誰にもひとつしかないから、大切にしてほしいの。自分のものでも、ほかの誰のものでも」
その言葉を神妙な面持ちで聞いたティアナは、まるで自分に誓っているみたいだ、と思った。──事実それは、魔導師として再びを“杖”を執ったなのはが、他ならぬ自分自身と交わした誓約だった。
会話が途切れ、しんみりとした空気が流れる。
「……あのね、私からもみんなに言っておきたいことがあるんだ」
そんな静寂を乱したのはフェイトの声だ。
皆からの視線を一身に集めると彼女はにわかに赤面するものの、「負けるもんか!」と密かに奮起して四組の瞳を見つめ返す。
「誰かに頼ることは悪いことじゃないし、助け合うことも悪いことじゃないよ。──人間ひとりができることって、ほんとうにとっても小さいんだ」
静かに語りかける声はひどく澄んでいた。
焼き付いた恋人の背中を思い浮かべながら、紡ぐべき言葉を心の海より汲み上げる。
「その……うまく言えないけど、だから私たちは、絆を繋ぐんだと思う。ひとりじゃ立ち向かえないことに向き合うために。そして、倒れてしまわないように支え合うために」
祈るように。願うように。恋うように。
両手を胸元で──思い出のネックレスの上で組み、フェイトはゆっくりと長い睫毛を伏せる。
まだまだ頼りないけれど、いつかきっと光り輝く希望のたまご──その可能性を正しく導くのが自分たちの役目なのだと。
「──いっしょに戦おう? 私たちにはみんなの力、必要なんだ」
白百合の笑顔とともに開かれたスタールビーの瞳は、ひたむきに真っ直ぐ“仲間”たちを見つめていた。
──この時の四人の返答を改めて記す必要はないだろう。
それは誰しもがきっとわかりきっていたことなのだから……。