夕暮れの聖王医療院、とある病室。
私はベッドサイドのイスに座り、まっ赤なリンゴの皮を剥いていた。
このリンゴ、スカリエッティにお見舞いだと押しつけられたもの。──とりあえず、へんなところはない、と思う。
あっ、皮、途中で切れちゃった……皮を切らさないように剥くのはやっぱり難しい。
はぁ、とため息。リンゴを脇に置く。
かたわらのベッドで黒髪の男の子が規則正しい寝息を立てている。夕焼けに染まる穏やかな寝顔に幼いころの面影を見て、胸が苦しくなる。
着ているものこそ普通の紺色のパジャマだったけれど、シーツから覗くギプスで固められた右腕や、真新しい包帯に包まれた左目が痛々しくて。
……なんだか、目の奥がツンとした。
「ユーヤ……」
名前を呼んで、頬に触れる。
そっと、そっと。けして起こしてしまわぬように。
……指先から伝わる温もりがうれしくて、同時に悲しくなる。
彼がこんなに酷く傷ついたところ、はじめて見る。こうして目の当たりにしてもまだ信じられない。四年前の決戦でも十年前のクリスマスだって、彼の翼はボロボロになりながらも気高く力強く夜闇を制していた。
私はまだどこかで過信していたのかも知れない、私のユーヤはどんなことがあっても負けないと。……あのころから進歩のない自分に嫌気が差す。自己嫌悪で吐き気がした。
──中庭での話し合いのあと、私は六課に戻らずまっすぐこの病室に向かった。一秒でも早く、彼の顔を見て無事を確かめたかったから。
わけもなく不安だった。……“彼女”に出合って、散々になじられて。私の心は弱っていたんだろうか?
あいにく彼は眠ってしまっていて、代わりにそれまで彼の相手をしていたルーさんとすこしの間、いろいろお話した。彼のケガがほんとうはどれだけ酷いのか……とか、いろいろ。
詳しく聞いて、愕然とした。
包帯をしている以外は元気そうに見えるけれど、実際はそう見えるように取り繕っているだけ。ギプスに包まれている右手の中身はからっぽで、包帯でくるまれた右目なんて潰れてて。正しく彼は満身創痍──、それを治す余力さえないのだと。
「……」
少しだけ開かれた窓から忍び寄る秋色の風が、レースのカーテンを揺らす。私にはそれが寂しげに思えた。
そろそろ閉めた方がいいかもしれない。カゼをひいたら大変だ。
「ん……」
窓を閉めていると不意に、意外と長いまつげがしばたたく。私は慌ててベッドのそばに跪いた。
薄く開いた蒼い瞳──、私の好きな星色の宝石。
「──フェイ、ト……?」
「あ……」
声を聞いた途端、名前を呼ばれた途端、目の前が滲んだ。
ぐしぐしと袖で拭うけど、あふれる涙が止められない。そんな私に、すっかり目覚めた様子の彼はほのかに苦笑する。
「少し眠ってただけだってのに、大袈裟なだな」
「だって……だってっ……!」
だって、ほんとうに心配だったんだよ? あなたのこと。
────ルーさんの言葉が脳裏に蘇る。
『崩壊した宇宙の虚数空間でエイミーが見つけたときには、生きているのが不思議なくらい酷い有様だったの。
魔力の欠如や肉体の損壊もそうだけど、一番致命的だったのは“プラーナ”の欠乏……あらゆる存在が持つ根源的なエネルギーが限りなくゼロになっていたわ。一歩間違えば……いいえ、おそらくこの子でなければ消滅していたでしょうね』
ルーさんはさらに、『“慈愛”の魔力がなければ、今頃はこうしていられなかったでしょう。まあ、この子のことだから、そこまで計算に入れての挺身なのだろうけれど』とも言っていた。困ったような、愛しげな表情で。
聞き慣れない単語の意味こそわからなかったけれど、そこに込められたニュアンスならわかる。
……なんで。どうして、そんなにも自分を軽く扱えるのだろう。心配する私の気持ちも、知らないで。
「……ごめん」
ユーヤはそう言い、涙でぐしゅぐしゅになった私の顔に右手を伸ばそうとして、はっとした。たぶん、手が使えないことに気づいたんだと思う。
行き先を失ってさまよう手を取り、胸に抱き寄せる。
ぽた、ぼた。
しずくが落ちて、包帯に跡を残した。
「……もうこんなこと、しないで……」
「フェイト……」
「ぐすっ……やだよ、ユーヤがいなくなっちゃうの、わたしもうやだよぉ……ひぐ」
「ごめんな……」
抱きしめられた私はしばらくのあいだ、子どものように彼の胸を濡らすのだった。
□■□■□■
思いっきり泣いたあと。
寝汗をかいたというユーヤの背中を湿らせたタオルで拭ってあげた。……かなり特殊なシチュエーションに、ちょっとどぎまぎしたのはナイショだ。
それから、中庭で起きた騒動の顛末を説明することになったので事細かく報告した。……スカリエッティについて秘密にされてたこととかの抗議の意味を込めて、いろいろ文句言ったら逆にたしなめられちゃったけど。それはまた、別の話だ。
「それでその、ヴィヴィオって子を預かることになったわけか」
「うん、そうなんだ。なんだかやけになのはに懐いちゃってて、それなのに引き離すのはかわいそうだよね」
「そうだな」
リクライニングしたベッドにゆったりと身を預けたユーヤは、あまり上手じゃない私の話を合いの手まじりで楽しそうに聞いてくれていた。
「あ、でもなのは、かなり困ってたなぁ……。六課で保護するって最初に言い出したのははやてだったんだけどね」
「まあ、見ず知らずの幼児に“ママ”呼ばわりされちゃあな」
「うん、私もそう思う。ちょっといきなりすぎだよね」
彼のすこし投げやりな意見に同意して、苦笑し合う。
縁あって、たまに預かったりしてる孤児院の子たちに「お母さん」と呼ばれることのある私でも未だに違和感というか拒否感を覚えるのだから、なのはが困惑するのも当然だ。
「だけどなおさらフェイトも面倒見てやらないとな。……あのなのはに、子育てなんて出来るとは思えん」
「そうだね、できるかぎり力になるつもり。……それにほら、私って普段けっこうヒマだし」
「仮にも隊長が暇ってのはどうなんだ」
「だ、だって……」
ちょっとした冗談を言っただけのつもりなのにたしなめられた。予想外の展開に言葉がない。
機動六課では捜査官としての活動のない今の私の主な職務は、必然的にデスクワークばかり。同じ中間管理職だけど、教導を受け持っているなのはより時間に余裕ができてしまう。けしてサボっているわけじゃないことはユーヤも承知してるはずなのに……。
ううー。
涙目でにらんでみた。
……だめだ、とってもイイ笑顔を返された。わかっててやってるんだね、ひどいんだから。
「ま、そういうことなら俺も協力させてもらおう。とりあえず上との調整は任せてくれ、力付くで認めさせるから」
「もう……あんまり無茶しちゃだめだよ?」
「あはは、心得てますって」
まったく、笑い事じゃないよ?
不穏なことを臆面なく断言してしまう頼れる私の恋人は、大ケガを負っていてもなんにも変わっていなかった。
しゃり、とリンゴをつまんでかじるユーヤ。おいしい、と言ってくれてうれしかった。うまく切れてるね、とほめてもらってもっとうれしかった。
でもその喜びも、長くは続かなかった。
「──それにしても、ジュエルシードにアリシア・テスタロッサ、か……」
「あ……、ぅ、うん……」
呟くような一言。ガン、と頭を殴られたような衝撃を感じた。
心臓が痛いくらいに激しく脈打って、胸が苦しい。
「てっきりジュエルシードは管理局が保管しているもんだと思っていたんだが……実際のところはわからないな。この十年で散逸した可能性も充分にある。俺の方でも調べてみよう」
「……うん……」
「問題は“アリシア”、か。虚数空間からサルベージしたと言っていたが……“落とし子”にして君にぶつけるとは、下種なことを考えた奴もいたものだな。痺れも憧れもしないが」
「そう、だね……」
考えをまとめているような独り言に生返事しか返せない。
絶望色の感情に、胸のなかが埋め尽されていく──……くるしい、くるしいよ。
「……フェイト、アリシアに“ニセモノのくせに”とでも言われたかい?」
「っ、……どうして?」
「わかるさ、君のことなら」
小さな微苦笑。あたたかく包み込んでくれるやさしさに、心が救われる気がした。
彼はふと真剣な表情をして窓の方を見た。
「──お互い、真正面から向き合ういい機会かもな」
「向き合う?」
「ああ。俺たちが抱えた厄介な業と、さ」
「業……」
重苦しい言葉が、ずん、とのしかかってくる。
彼の言う、私の“業”というものがなんなのかはわかってる。いままさに目の当たりにして打ちのめされているのだから。
だけど、あなたは……?
「情緒が不安定になっている今の君にこれ以上、追究する気はないけどね。……甘いかな、俺は」
「ううん、そんなことないよ。……ありがとう」
ユーヤは自由になる左手で私の手を取る。私は指を絡めて、ぎゅっと握り返した。
……漠然とだけど、感じてた。
いつか“運命”に立ち向かい、乗り越えなきゃって。そうしなければ、きっと私はいつまでたっても前に進めない。
光差す未来になんてたどり着けやしない。
「ふたりで、乗り越えよう」
「ああ。ふたりで、な」
だから、決着をつける。
アリシアのこととも、“母さん”のこととも。
──あなたの笑顔に誓って。
□■□■□■
「ご主人様、宜しかったのですか?」
「何がだ、エイミー」
テスラの姿で廊下の長いすに座り、病室内の恋人たちを黙して見守っていたルーが褐色肌の部下の声に顔を上げる。
「彼女の良質な“プラーナ”を用いれば、若様の傷を癒す助けになったはず。今のままでは復調に時がかかりすぎるのでは?」
フェイトの保有する“存在の力”は傷ついたカミを癒すに相応しいもの。
彼女ほど上質ならば直接魂魄から抜き出すのではなく、生命の危険が少ない血液などの体液摂取で済む。愛するひとのためならそれくらい易いだろう──そう入れ知恵しようとしたエイミーだったが、他ならぬルーに止められた。
彼女はなぜ魔王らしい合理的な方法を採らないのか、その真意を主に問いたかったのだ。
「確かにな」
「でしたらなぜ」
「だが要らぬ」
「しかし」
「諄いぞ」
静かに一喝され、「差し出がましいことを」とメイド魔王はあっさり引き下がった。
ルー自身、その方法を考えなかったわけではない。しかし結局は攸夜に判断を委ねた。
──ヒトに破れ、世界の未来を託した彼女と。ヒトに恋し、世界の未来を信じた彼。その動機はある意味では同質であった。
時に、自分の命すら投げ捨てる行き過ぎた献身を見せる“血”を分けた弟──あるいは息子──が好ましいと思う自分が居ることに、彼女はもう驚かない。
見てみたいのだ。
“シャイマール”や他の古代神のようにヒトを否定するのではなく、ヒトと供に歩む路を模索するカミとその仲間たちの創る“世界”が。
「……行くぞ、エイミー。奴らに目にものを見せてやらねばな」
「はい」
あるいはそれは、失われたエデンなのかもしれない。
──やあ、メイオ、ご苦労さま。手間をかけたね。
『ほんとだよ、まったくもー。酷い目にあっちゃった』
──ボクもまさかあんな自爆紛いの手段に出るとは思わなかったよ。さすが“裏界皇子”と言うべきかな。
『それにしても、よかったの? あのコをさらってこなくて。キミがその気ならいつだってできたのに』
──いいんだ、これでね。全てはボクのシナリオ通りに運んでいるのさ。
『ふーん……?』
──種は蒔いた。後はそれが芽吹いて、実を成す刈り取りの季節を待つだけだよ。
『……ま、あたしはベルちゃんと遊べればなんでもいいんだけどっ♪』
──キミのそういうシンプルなところ、嫌いじゃないよ。
──……さて。絶望の未来に至るトラジリディの第二幕の、開幕と行こうか。