「……かあさん……」
深夜。
キングサイズのベッドの上、攸夜は傍らから聞こえたかすかな声に目を覚ました。
声の主はもちろん、フェイト。素晴らしいバランスを誇る理想的な肉体を、扇情的な黒いレースのネグリジェで包む美の女神。
「……リシア……ゆるして……」
固く瞑ったまなじりから一筋の雫がこぼれ落ちる。長いまつげがかすかに揺れた。
「……フェイト」
悲痛な面持ちで、攸夜は苦しむ彼女の名を呟く。おそらく酷い悪夢を観ているのだろう。おおかたの内容は想像できた。
彼女がこうして悪夢にうなされることは珍しくない。
約半年前、荒らされた墓を目撃してから時折うなされるようになり、アリシアと遭遇してからはほぼ毎晩のこと。その度に、攸夜が全身全霊を以て癒していなければその心は粉々に壊れていたかもしれない。
プレシアとアリシアにまつわることは、フェイトの拭い去れない心的外傷(トラウマ)であり、心の深い部分に根ざした源初の感情。攸夜との出逢いから始まる一連の出来事と並んで、彼女の人格を成さしめた根幹とも言える。
その片割れから傷を抉るかのような憎悪を向けられれば、強いが脆いフェイトの精神は簡単に砕けるだろう。それがたとえ、言いがかりじみた理由だとしても。
――――“夢使い”なら悪夢の中でも救いに行けるのに。
攸夜は浮かんだ考えを払うように、頭(かぶり)を振る。
そんな出来もしないこと、考えたって意味がない。妄想以下の余計で惰弱な思考、魔王(おれ)には余分だと。
強く、どこまでも毅く。――でなければ、護りたいものも護れない。救いたいひとも救えない。掴み得たい理想も掴めない。
王が怠れば民は戸惑い、王が誤れば禍が訪れ、王が揺らげば国が滅ぶ。
「……大丈夫、君は俺が護るから」
静かに独白し、攸夜はフェイトをそっと宝物を手に取るように、抱き寄せる。
温もりと、匂いと、優しさと――悲痛に歪み、険しかった彼女の表情も心持ち和らいだように見えた。
半ば落とし子になりかかっているフェイトは、攸夜の魔力との親和性が極めて高い。故にこうして直接接触して肉体に魔力を流してやれば、物質的な側面から精神の安定を図ることも可能だ。他人ではこうはいかない。
――きっかけは十年前。シャイマールの力で砕かれたフェイトの魂魄を再生させた時。その上で、悪魔の中の悪魔、悪魔王たる彼と交わればただではすまないのは道理だ。
しかし、攸夜にフェイトを完全な落とし子とする意図はない。そうなれば、彼女の希有な“才能”の成長を妨げ、歪めてしまうから。
現状は不可抗力である。
「……」
この、可憐な少女の苦しみと悲しみを拭うにはどうしたらいいのだろう。救えるのなら、攸夜は自分の命運を捧げることだって厭わない。
だが、彼に出来ることなど傍にいて惜しみない愛を注ぎ、和らげてやるぐらいしかない。
子を産み、母になれば、あるいは――
(現状、無理だな)
表にはなかなか出さないが、“親”になることをひどく恐れているフェイト。だから攸夜も彼女の複雑な胸の内を慮って変に強制することはないし、行為に及ぶときもきちんと配慮している。
ネグレクトなどの虐待を受けた子どもが親になったとき、自分の子を虐待する側に回るというのはそれほど珍しいことでもない。フェイト自身そういった事例を見聞きして、かつ自らの生まれの特殊性を鑑みて「私はお母さんになれない」と思い込んでいる。それはもはや、思い込みと言うより妄執であろう。
そんなことはない――少なくとも攸夜はそう信じている。普段の生活の中で、あるいは子どもたちと触れ合う彼女を見つめ続けた彼だからこそわかること。
けれどこの問題も、どうしようもない。フェイト自身の心の問題だから、自分自身で乗り越えるしかないのだ。
時には相手を思いやって突き放す“父親”の愛情で、世界を見守る。
「どちらにしても、鍵はアリシア――、か……」
第三十三話 「last moment」
機動六課、空間シミュレータ。
次第に秋めいてきた空の下、今日も今日とてなのはの指導を受け、新人四人とギンガ、そして元ナンバーズの面々が訓練に明け暮れている。
『ちょ、あぶなっ!?』
『大丈夫、いまのは峰打ち』
『砲撃でなにが峰打ちかっ!』
ディエチの“箒”――彼女専用にカスタムされたガンナーズブルームから放たれた物理砲撃を、何とか躱したティアナ。砲手ののたまった戯言に逆上する。
「相変わらず、ティアナはディエチと相性悪いねぇ。いつも調子崩されてるし」
「性格の問題だな。ツッコミとボケ的な意味で」
訓練を監督する教導官副姿のなのはの所感を補足するのは、同じく訓練を観戦していた背広姿の攸夜。彼の傍らには地上部隊制服姿のフェイトがいつものように寄り添っている。さすがにイチャついてはいないが。
一時不安定だったエリオも先日の“決闘”を機に吹っ切れたらしく、より熱心に訓練に――何故か徒手空拳の格闘術に傾倒して――励んでいる。持ち直した彼に引っ張られるかのように、キャロの方も普段の調子を取り戻していた。
とりあえず、教官として懸念材料だった年少組の心理的問題が片づいたことは喜ばしいが、気づいてケアしようと思ったら外的要因によりいつの間にか解決されていた。上官としてはやや複雑な思いだ。
「ところで攸夜くん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
「何だ、藪から棒に」
その起爆剤となった幼なじみに、部下の件とは違う懸念材料について尋ねる。
「ジュエルシードの件、どうなってるのかな。調べてくれてたんだよね?」
ぴく。フェイトが反応を示す。彼女も因縁深いロストロギアの行方を内心、気になっていたのだろう。
両手をポケットに突っ込み、どこかウンザリとした様子の攸夜が二人の視線に応える。
「結論から言えば、全て紛失していた」
「やっぱり……」
フェイトが深刻そうに呻く。
「古代遺失物管理部が保管していたもの、聖王教会に研究目的で委譲していたもの、全てな。……それから、ご丁寧にも時の庭園の動力源まで無くなっていたよ」
担当者はまとめて減俸か左遷だな。やれやれと言わんばかりの仕草で肩を竦め、報告を締めくくる攸夜。彼は有能な人物には慈悲を与え愛でるが、無能者には残虐にして苛烈である。
「時の庭園の動力源って……あれ? フェイトちゃんが預かってるんじゃないんだ?」
「あ、うん。法的には私が相続するべきなんだろうけど、その、いろいろあったし、相続権を放棄して管理局に寄付したんだ」
「ふーん……」
親友の奥歯にものが挟まったような物言いに、なのはは釈然としないものを感じつつも、あまり立ち入るのはよくないなと会話を切り上げた。
フェイトの語った理由は真実ではない。クローンでしかない自分がプレシアの遺産を受け継ぐなどおこがましいという、ネガティブな考えが原因だ。
その経緯を知る人物は当時実際に相談を受けたリンディとクロノ、そして恋人である攸夜のみであった。
「でも、なにが目的でジュエルシードを?」
「さて、な。魔力と、それに準ずる次元干渉型エネルギーの結晶たるジュエルシードだが、俺たちのような人外にとってはそれほど役に立つものでもない。仮に次元世界の崩壊が目的だとしても、全力の俺なら同程度の現象を片手間で引き起こせるしな」
「それ、さらっと暴露する内容じゃないよね……」
なのはは苦笑せざるを得ない。わざわざ使う意味がない、と彼が言いたいのだということは理解できたが。
そも、“冥魔”の目的は六課に対する嫌がらせ、というのが攸夜の見解だ。
根拠は、ヴィヴィオが所持していたジュエルシードのシリアルナンバー。ある意味なのはと攸夜に関わりの深いそれが、自分たちの前に再び現れる――そして、フェイトにお門違いな憎悪を燃やすアリシアの存在も合わせれば、邪推もしやすいというもの。ここまで要素が重なれば偶然とは考えづらい。
「しかしこの分だと、虚数空間に消えたものも連中に回収されていると見て間違いないな」
「えっと、つまり地球に落ちる前になくなった一つと、プレシアさんが最後に使った分?」
「ああ。アリシアの件から考えても、その可能性は高い」
自分の“オリジナル”の名が挙がると、フェイトは目に見えて動揺した。一見平静を装っているようだが、つき合いの長い幼なじみに隠し通せるようなものではない。
あえてその動揺を無視して、攸夜は考察を続ける。
「大型“冥魔”発生やら何やらで延び延びになっていた公開意見陳述会――、ヤツらが決起するならここだな。少なくとも、俺ならそうする」
「どうして?」
「それが即ち戦力の上昇に繋がるからさ」
こてん、と同じタイミングで小首を傾げ、クエスチョンマークを頭上に乱舞させるフェイトとなのは。こういう政治的な問題が絡むとどうも思考を停止しがちな彼女たちへ、攸夜は解説を試みる。
「この次元の“冥魔”は、理由はともかくアジ・ダハーカの特性を色濃く受け継いでいる。要するに、ヒトのマイナスの感情を糧にして増殖するわけだが、ここで問題となるのが件(くだん)の公開意見陳述会は例年通りに一般公開され、管理世界から注目を集めているってことだ。今年は“冥魔”の件があるから尚更だな。
でだ、この現代社会、情報伝播の速度はきわめて速い。各管理世界間に張り巡らされた光量子を用いた情報網は、光の速さを優に超えるほどだ。“冥魔”が決起し、ミッドチルダが戦争状態に突入して、その情報を知った次元世界の人間の全て――、いやその半数でもいいが、たくさんの民衆が一斉に絶望なり恐怖を覚えたら、どうなると思う?」
「……つまり、マスメディアを通してミッドチルダの危機が次元世界中に流れたら、“冥魔”の力になっちゃうってこと……?」
「そういうこと。俺が六課(おまえたち)に、広告塔としてメディア戦略を任せているのと同じでな。目に見えてわかりやすい希望を広げることで、連中の力を削ぐことも目的の一つだった」
フェイトが提示された情報から自分なりに推察した予測を、攸夜は何食わぬ顔で肯定する。機動六課が「客寄せパンダ」になっているのは、やはりこの男の思惑の内だったらしい。
「そこに併せて他の管理世界でも“冥魔”が溢れ出してみろ、無論現地の軍も動くだろうが、もともとギリギリの管理局のキャパシティはオーバーフロー、そして鼠算式に殖えていくバケモノ、犠牲となった人々の阿鼻叫喚の渦――延々と巡る負の螺旋の先に待ち受けるのは次元宇宙の終焉、だな」
「そんな……」
攸夜の語る最悪の未来を想像し、フェイトとなのはは表情を凍らせて絶句した。
「一説には、パンドラの匣に残されたものは“全知”だとも言う。識ってはならない真実を知れば、ヒトは否が応でも絶望せざるを得ない。愚者であろうと賢者であろうと、な」
それに立ち向かう俺たちは愚者よりも愚か者だがな。皮肉げに自嘲する。
攸夜自身、“賢明の宝玉”の力の応用で予知紛いのことは可能であるし、その気になればこことは違う平行世界だって覗けるだろう。もっとも、迂闊に「胸くそ悪い“結末”を迎えた世界」などを覗いてしまうと精神衛生上よくないので、一度も試したことはない。直接介入できるならば話は別だが、手の届かない辛さは六年間の別離で嫌という知っていた。
未来など――“運命”など知ったとしても、害悪にしかならないといういい喩えだ。
「……最悪の事態だけは何としてでも回避したいが――、覚悟だけは、していた方がいいかもな……」
不穏な独白を最後に沈黙し、腕を組んで思考の海に没した攸夜。その真剣な横顔は、精悍で整った造りと相まってなかなかの男前である。
そんな彼をほけーっと、見惚れる金色わんこ。とろんととろけた瞳をうるうる潤るませていた。
途端にシリアスな空気が霧散して、代わりにピンクで桃色な空気が漂ってきて。呆れ顔かつジト目のなのはがバカップルを見やって、ため息混じりにこう呟いた。
――バカばっか、と。