「――そこまでだよ、アリシア」
不意に響き渡るボーイソプラノが、二人の間を引き裂いた。
世界が――、常識が瞬く間に塗り替えられていく。
何の変哲もない公園の風景は、真っ黒い影法師のように立体感とディテールを失った高層ビルらしきものが建ち並ぶ、人気のない紅い都市に変貌していた。
攸夜たちが今いるのは、ビルに囲まれた大きな立体交差点の中心。周囲に奇妙な建造物が立ち並ぶ様は“書き割りの街”、そんな印象さえ受ける。
空を染め上げるのは滴る血のように鮮やかな紅、人の世を切り取り閉じ込める非常識の領域(せかい)。見慣れたはずの光景はしかし、強烈な違和感をもって攸夜の前に存在していた。
――――その原因は、紅天に座す純黒の月。
どす黒いとしか言いようのない満月から、コールタールのような粘着いた粘液が垂れ落ちて、大地に降り注いでいた。
「黒い月匣……!?」
驚愕し、攸夜は目を剥く。
月の匣に満ちた見知らぬ――いや、違う、この魔力の質はアリシアの身を蝕む混沌と同じ、既知の感覚だ。
アリシアの主(あるじ)がメイオルティスでないことは、魔力の波動の違いでわかっていた。けれどそれは同時に、“冥刻王”クラスのまだ見ぬ敵が存在するという証左である。
そしてその通り、“彼”は攸夜の前に立ちはだかったのだ。
「なかなか愉快な茶番だったけど、もうお終いの時間だよ」
反射的にアリシアを背後に庇う。
理性が無意味だと訴えていても、篤志家ぶる攸夜にとって子どもとは護るべき大切な“宝”。無限の可能性を秘めた宇宙で一番尊いものだ。
それが、かつての恋人を思わせる娘ならなおさらで。
「あ、アン、リ……」
恐怖に震えるアリシアが呆然と、呻くように、その存在の名を口にする。
二人の目の前、道路に落ちたビルの暗がりから音もなく歩み出たのは、およそ十四、五歳くらいの少年――攸夜は強烈なデジャヴを覚えた。
「キリヒト……?」
「ハハ、やっぱりそう見えるかい? キミにそう言ってもらえると、わざわざこの姿を選んだ甲斐があるよ」
愉快そうに嗤う少年の態度が癇に障り、攸夜は眉を顰めた。
薄紫色のブレザー――輝明学園中等部の制服を身に纏う姿は、志宝エリスのアイン・ソフ・オウルと対消滅した“全てを見つめる者”の化身(アバター)そのもの。差異は頭髪と瞳の色、それから前髪の分け目の左右くらいだろう。
悍ましいほど白い髪と血みどろの濁った紅い瞳、病的に色素の抜けた青白い肌。アリシアと同様の、攸夜のそれと完全に正反対な配色はアンチテーゼを嫌でもイメージさせる。
本能的に攸夜は理解した。
“これ”は全身全霊を賭けてでも破壊しなければならない存在だ、と。
「まずは、彼女を返してもらおうかな」
パチンッ。高らかにハンドスナップが鳴り響く。
「きゃあっ!」
「アリシア!?」
突然発生した透明な壁がアリシアを囲み、攸夜と分断した。
振り向き様、四角柱状の障壁へと手加減なしの裏拳を叩きつける。が、大規模な砲撃魔法すらも殴り飛ばす理不尽な拳はいとも容易く弾かれた。
そうしている間に、少女を捕らえた結晶の檻はふわりと浮かんで離れて行く。
「ッ、貴様、何者だ」
振り返り誰何する攸夜は、一瞬にして解放した魔力を織り上げ、創造したミッドナイトブルーの戦装束を身に纏う。両足を肩幅に開き、重心を軽く落とした戦闘態勢。魔力と“プラーナ”がスパークした。
心なしか、展開したアイン・ソフ・オウルの纏う光さえも普段より赫耀と輝く。――目の前の存在を滅ぼさねばならないと強く訴えて。
「フフ――」
無限光の脈動を感じ取ったかのように、少年は口角をつり上げる。
「ボクは“この世全ての悪”アンリ・マユ――、キミの影、アイン・ソフ・オウルの反存在。――無限に広がる闇の権化さ」
シャイマールの司る無限光、その凄烈な輝きによって生まれた大いなる闇――――
大地を灼き払う悪しき翼。
最後に来るもの、恐ろしい闇。この次元宇宙に蔓延する邪念の源――絶対なる絶望を齎す強大な悪が、“七徳の継承者”の前にその名を顕した。
□■□■□■
透明な水晶の檻に囚われた少女が見守る中、二柱の神が激突する。表裏一体、どちらかがどちらかを抹殺せねば存在し得ないと。
「ハハッ、どうしたシャイマール! キミの力はこんなものか!?」
「っく――」
哄笑が耳朶に響く。
何もない空間から、透き通った鋭い“槍”が幾本も突き立っていく。
アイン・ソフ・オウルの速力と身体操作がなければ、すぐにでも串刺しにされていただろう。この領域を構成する空間そのものが攸夜の敵だ。
「どうだい? ボクの“月匣の槍”のキレ味は!」
「鬱陶しいだけだ!」
アイン・ソフ・オウルを強襲形態から高機動形態に移行させ、バレルロールで突き出す槍を掻い潜り、回転するまま射出して叩き潰す。
アンリ・マユは時折空間転移で距離を取りながら、彼の言う“月匣の槍”で攻撃を仕掛けてくる。攸夜とて空間転移ができないわけではないが、高速戦闘中に使えるような精度はない。
さらに――
「フッ、ディヴァイン!」
「っち、ディヴァイン!」
紅黒と蒼銀。二色二種類の魔法陣が閃く。
「「コロナ!!」」
三重の魔法陣から放たれた同規模の大光球が衝突する。魔法の威力は完全に同等、ともなれば共倒れは必定。
二つのディヴァインコロナに込められた莫大な魔力が解き放たれ、相殺し、炸裂した魔力爆発が紅い夜空を染め上げた。
「ジュエルシードを集めて、何が目的だ!」
「ほぼ全て、キミの考えているとおりだよ。主な理由は、キミらへの嫌がらせさ。――まあ、それだけでもないんだけど、ね!」
超重力の塊を無数に放ち、光の剣軍をけしかけ。あるいは降り注ぐ裁きの閃光や無垢なる混沌で破壊を広げる。
繰り出す魔法は吐き気がするほど同一で、それでいて決定的に対極の“質”を帯びている。
この魔法の撃ち合いで攸夜は理解した。理解させられた。――この敵(アンリ・マユ)が、自分(シャイマール)の反存在であるということを。
「ボクはね、シャイマール! キミが夜天の魔導書の“宿命”を書き換えた、あの時に生まれたんだ!」
「何を!」
「本来なら彼女(リインフォース)は、滅びる定めにあった。避けようのない未来だった。――だけどこの世界線には、キミというイレギュラーがいた――」
刀身に蒼銀の光を纏うデモニックブルームが、真っ向から打ち込まれる。しかし斬撃は、周囲の空間から隆起した“月匣の盾”に阻まれた。
不発と見るやすぐさまその場から後退する攸夜。彼のいた空間を無数の“月匣の槍”が貫く。
――アンリ・マユの“月匣の槍”は決定打になりえず、攸夜の魔法はいずれも“月匣の盾”を砕けない。
「“闇の書の闇”を根底から滅ぼした無限光の輝きが、反存在であるボクを産んだんだ」
「光あれば闇あり、善あれば悪あり――そう言いたいのか、貴様はッ」
「そのとおり。理解が早くて助かる、よッ!」
天光と闇冥。全く等しい魔法を繰り出し、両者は激闘を繰り広げる。その目も眩むような多彩極まる魔法の応酬は、さながら鏡写しのよう。
だが、鏡に写った虚像にいくら殴りかかっても自分の手を傷つけるだけ。無為で無意味な行為でしかない。
「だからだよ! “七徳”たるキミが善性であるなら、その反存在(アンチテーゼ)たるボクはまさしく悪性ッ、絶対悪ッ! この醜いヒトの世に絶対悪を齎す絶望の化身、世界半分の支配者だ!!」
「戯れ言を!」
「一つ、いいことを教えて上げよう! 聖王のクローンを産み出させたのはこのボクさ。キミが切り捨てた技術者を、“説得”してね!」
「……!」
わずかに瞠目する攸夜。
やはりか、という思いもある。事実、ヴィヴィオを狙う二柱の魔王級“冥魔”との戦闘は記憶に新しい。今更、聖王のクローンなどを持ち出す理由は解せないが。
「まぁでも、所詮はキミとボク――、光(きぼう)と闇(ぜつぼう)が雌雄を決する最終戦争(ハルマゲドン)の前の、児戯(ひまつぶし)だけどね!」
「その児戯とやらで、貴様はどれだけの命を弄んだ!!」
「ハッ、よりによってキミが言うか!? ヒトを家畜と見做すキミが!!」
古代ペルシアの拝火教における、光明神と対立する悪性の容認者――、それがアンリ・マユ。
人世では敵対者(サタン)と呼ばれ、地獄の軍勢を率いる悪魔王――、それがシャイマール。
最悪にして最凶、悪魔の中の悪魔。神話における最大級の“登場人物”たる二柱の悪神は絶大な呪詛をぶつけ合う。
次第に激化する魔法戦。両者の戦闘スタイルの齟齬から、自然と様相は撃ち合いとなる。
未だ互いに全力とは言い難いが、それでもなお激突により巻き起こる強烈極まりない余波で月匣内の街並みが崩れていく。
「貴様が俺の、“反存在”だと言うのなら!」
小手先の攻撃の撃ち合いでは埒が明かぬと見て、攸夜は大きく後退し、金色の闘気を解き放つ。
「俺の手で貴様を破壊するッ! ――リミット、ブレイクッッ!!」
爆発する黄金の輝き――、身に纏った戦装束が、純白と金色に染め上げられた。三対の蒼き光翼がその面積を見る見るうちに増していく。
後背に翼のように位置したまま七枚の“羽根”は連結を開始し、結晶製の長柄を伸ばした。
「全てを貫く無限の光――――ッ!!」
背中の長柄を頭越しに掴み、剣形態のアイン・ソフ・オウルを振り下ろす攸夜。身長よりも腰だめに構える。
一撃必殺、アイン・ソフ・オウルの特性と、自身の武力を最大限に発揮できる攸夜が最も頼りとする戦型――
「アイン・ソフ・オウルッッ!!!!」
音速を超え、吶喊する一筋の光。アンリ・マユは微笑を崩さぬまま、おもむろに右手を掲げた。
「全てを呑み込む無限の闇」
掲げた右手を基点に、漆黒の闇が広がっていく。
「――!?」
攸夜は見た。アイン・ソフ・オウルの切っ先が、闇に阻まれた瞬間を。
――漆黒の力が描くのは、無形、虚無、闇の三重円。
夜闇よりもなお冥い、深淵の闇黒。光り輝く白き無限光(アイン・ソフ・オウル)の最果てに位置する極めて近く限りなく遠い、対極の概念――――
「トホー・ボフ・チャザック」
呪文が紡がれ、七つの闇が瞬いた。
「ガッ――!?」
極闇のベールが禍々しく蠢き、まるでアイン・ソフ・オウルの光が――、あらゆるものを貫くはずの“七徳”の光輝が跳ね返されるようにして攸夜を襲う。全身に裂傷を負い、ビルらしき黒い塊に叩きつけられた。
「な……」
息とともに血の固まりを吐き出す攸夜の胸中は混乱を極めていた。
あり得ない。“母”から受け継いだ無限光がこんなもあっけなく、ましてや反射されるなんて。
通用しなかったことなら今までにも何度もあった。だが、今のは――――
「トホー・ボフ・チャザック。キミに無限光(アイン・ソフ・オウル)があるように――、ボクには無限の闇がある」
高らかに宣言する大いなる闇の権化。彼の周囲の空間が、ゆらりと七度、蜃気楼のように揺らめいた。
ただ“七徳”のアイン・ソフ・オウルに対抗するためだけに造られた概念兵装。確固たる形を持たないアンリ・マユの遺産は正しく無限光の闇黒面(ダークサイド)、虚のリアリティを司る三重のヴェールであった。
光が輝けば輝くだけ――、闇もまた深くなるのだ。
「さて、と……そろそろお暇させてもらおうかな。行こうか、アリシア」
「……」
すぅ、と音もなくアリシアの傍らに上昇し、アンリ・マユは彼女に水を向ける。振り返る紅い瞳と視線が絡み合う。
未来を生きる希望を失い、何もかもを諦めたような、虚ろな瞳――ズキリ、と胸に鈍い痛みが走る。それは決して肉体の損傷によるものではないだろう。
「フフ……、ここでキミを討ってもいいんだけれどね。やはりボクらの決着は、相応の“舞台”でするべきだ。――いずれまた会おう、シャイマール」
嘲笑を浮かべた邪神とその虜囚の姿が消え、黒い月匣が解かれる。攸夜に、圧倒的な敗北感を残して――――