カツカツカツ……、とリノリウムの清潔に保たれた床を短めのヒールが打つ。
会議が終わってすぐ、私は資料の入ったケース片手にミッドチルダへ訪れていた。
目的はユーノのおみまい。それから、なのはの様子がどうにも気になったから。慰める……っていうのは言い方が悪いけど、なのはを元気づけたかった。
リズミカルに響く自分の足音を耳に入れながら、会議でのことを思い浮かべて私は思案の海に没頭する。
(……目的は“冥魔”の討伐かもしれない、か)
エリスの推理を要約するとこうだ。
シグナムたちの前に現れたルー・サイファー。そして、なのはと戦ったベール・ゼファー。
この二人はとても仲が悪く、普段は絶対に力を合わせたりしない。むしろ仲違いして、互いに足を引っ張り合うくらい──ちょっと人間っぽいなとも思うけど──らしい。そんな彼女たちが唯一、協力しあうのが“冥魔”の相手をするとき。
どちらも“冥魔”を目障りに思っていて、ときには人間──ウィザードとも共同するのだとか。
といっても、それ以上のことはわからずじまい。“冥魔”の排除は単なるついでで、なにか危険なロストロギアを狙っていたり……もしかしたら単純に、この次元世界を征服しようとしてる可能性だってある。
そもそも、どうして“冥魔”なんてものがこの世界に現れたのかさえわかっていない。エリスもわからないそうだ。
だから、兄さんは上の方に掛け合って“魔王”と“冥魔”に対するなんらかの対策を早急にとるよう、働きかけてみると言っていた。
でも、たぶん結果は芳しくないと思う。
アースラを離れる前、兄さんがぽつりともらしてた。
この件に関して管理局の動きが鈍すぎる。まるで見えない“誰か”の意志に邪魔されてるみたいだ、と。
私もその意見に賛成だ。
“ハイダ”のことだってそう。現場レベルでの捜査はそれなりに進んでたのに、時空管理局全体としてはやっと腰を上げた段階。仮にも執務官の私が、兄さんに資料を見せてもらうまで知らなかったし。これはかなりおかしい。
普通、管理世界広域で殺人が多発したなんて、管理局の威信に関わる事態なのに動きは不自然ほど緩慢で──兄さんの言うように、何者かの妨害が入ってるとしか思えない。
もっとも、いち執務官でしかない私にどうこうできる問題でもないのだけれど。
それに、
(……みんなには悪いけど、私は)
私は“彼”が、ほんとうは“敵”じゃないのかもしれない。争わなくてすむかもしれない。
それがうれしかった。ほっとしてる。
そして、くやしくて、情けなかった。
ユーノの病室の前。
ちょっとためらったあと、軽くノックする。少し間をおいて「どうぞ」と聞きなれた……でも、いつもよりずっと力ない返事が返ってきた。
ゆっくりと戸を引く。
広々とした、真っ白な病室。
まず目に入ったのは、ベッドに横たわり、生命維持装置につながれたユーノの痛々しい姿。
それから──
「──あ、フェイトちゃん」
ベッドサイドの丸イスに座り、ゆらりと振り向く私の親友──かけがえのない友だち。満開のひまわりのような、春のひだまりのような笑顔がかわいらしい女の子。
だけど、今は見る影もない。
赤みがかった茶色の髪はつやを失い、透き通ったアメジストの瞳も今やくず石同然……私の記憶にある彼女の姿は、まるでまぼろしか蜃気楼だったかのよう。
「えっと、なのは……」
少しこけた頬に濃いくま。無理矢理に笑ってるのがわかってしまう。
焦燥しきったなのはの姿に思わずたじろぐ。
「……ユーノくんのおみまいに、きてくれたんだよね」
「あ、う、うん」
慌てて取り繕う私。
声色は明るく、表情は柔らかに。なのはを元気づけにきたのだからもっと冷静に応対しなきゃ。
「ありがとね、フェイトちゃん」
「ううん、いいんだよ。そうだ、これ、その……捜査してわかったこととかをまとめた資料だから、気が向いたら読んでみて」
持っていたジェラルミン製のケースから小冊子を取り出して、紙製の花束──折り紙だろうか──の乗ったサイドボードの上に置く。あ、レイジングハート、返ってきたんだ。
なのはの返事は「うん」とだけ。あまり興味はなさそうだ。
「それで、ユーノの様態……どう?」
ふるふると、力なく首を横に振るなのは。やっぱり、意識はまだ戻ってないらしい。
「そう……。ねえ、なのは」
「なに? フェイトちゃん」
懸念だったことを思い切って尋ねてみることにする。
「なのは、家に帰ってる? なのはの家族、みんなきっと心配してるよ?」
ここ半月、地球に帰ってない私が言えたことじゃないけど、なのはの様子はあんまりだ。ひどすぎる。
「あ、一度戻ったよ? 着がえとか取りに行かなきゃだから」
とんぼ返りだったけどね、と世間話をするような調子でなのはが言う。つまり、それ以外は戻ってないってこと?
私は、頭がカッと沸騰するのを感じた。
「そんな……! だめだよ、なのは。ちゃんと休んでないんでしょ? このままじゃ、なのはが身体壊しちゃうよ!」
親友の無茶に声を荒げる。
すると、なのはは困ったふうにぎこちない苦笑いを浮かべた。
「私は……だいじょうぶだよ」
「だいじょうぶって──」
イスから立ち上がったなのは。私の言葉を背に、サイドボードに近づく。
「この折り紙ね、ユーノが助けた女の子からの贈り物なんだよ」
紙でできたピンクの花に指先で触れながら、噛みしめるような声色で独白する。
「“おにいちゃんがはやく元気になりますように”、だって。あんなに、怖い目にあったのに、あわせちゃったのに……、そんなこと関係ないように笑って──」
「な、なのは……」
なのはの言葉には、痛いくらいにあふれる後悔が詰まってて。
拒絶されてる、そう思った。慰めなんていらないと。
自分を責めて、責めて、責め続けてるはずのなのはの背中は小さくて頼りない。
「だから、私、休んでなんていられないよ……ユーノくんが、目覚めるまでは」
「……っ」
悲壮なことを悲痛な笑顔で言う親友に、私は言葉をなくして口をつぐんだ。
□■□■□■
ミッドチルダ北部、廃棄都市区画。
数週間前に起きた海第8空港の大火災に伴い、放棄および閉鎖された市街地である。
そんな用済みとなって打ち捨てられ、今はひっそりと静寂に包まれたビル群の中心──交差点跡のアスファルトに、突如として青い陽炎と燐光を放つ大きな魔法陣が描かれた。
円陣の中に三角と三つの円を抱き、無数のルーン文字が書き込まれた複雑な魔法陣は、このミッドチルダ発祥の魔法や、ベルカ式と呼ばれる魔法で用いられるものとは全く別種の術式・術理によって生み出されたもの。
遠く、因果の果てにたゆたう世界“ファー・ジ・アース”を発祥とする“夢見る神”の祝福を受けた神秘を操る“魔法”だった。
収まり始める光。
魔法陣のあった場所に、四人の男女が立っていた。
「……。ここに、エリスがいるのね」
艶のある緋色の髪を乾いた風になびかせて、緋室灯が抑揚のない声で言う。
彼女が纏うのは輝明学園の制服──紫のセーラー服に似た印象の黒いジャケットとミニスカート。そして、ニーソックスとコンバットブーツ。
一見、普通の服に見えるそれらは、“強化人間”である彼女の肉体に備わる人外の身体能力を阻害しないよう、特別に用意された品だった。
「それにしてもずいぶんと寂れてますねー。誰かいないんでしょうか?」
碧いポニーテールをゆらゆらと揺らして、真壁翠がおのぼりさんのようにふらふらと周囲を見回す。
いろいろと軽そうな雰囲気を振りまく彼女だが、“伊那冠命神いささかのみことのかみ”という歴とした古き“神”の力を継ぐ“大いなる者”である。……とてもそうは見えないが。
服装は灯とは対照的に、何気に豊かな胸元に水色のリボンを配する、清楚なデザインの白いロングワンピース。“清純派”を自称する彼女らしいチョイスだ。
「周囲に生体反応無し……どうやらただの廃墟ですね。ですが、ファー・ジ・アースと同等か、それ以上の文化を持っていると見て間違い無いようです」
“人造人間”──“ホムンクルス”特有の感知能力を駆使し、油断なく状況を把握、分析するのは、茶髪に青い瞳を持つ二十歳ほどの青年──大泉スルガ。
ファー・ジ・アースを守護するエリート集団“ロンギヌス”に所属するウィザードで、上司であるくれはからくせ者ぞろいのメンバーのお目付役を仰せつかっていたりする。
「それで、これからどうするの、命?」
灯が振り向き、表情の乏しい面差しに隠しきれない親愛を浮かべ、最後の一人に問いかける。
「そうだね……とりあえず、エリスに連絡を入れてみよう。こっちに渡ったから繋がるはずだ」
黒髪黒眼、日本人らしい特徴の少年──真行寺命が答える。
見た目、頼りなさそうな彼もほかの三人と同じく一流のウィザードだ。服装は、シンプルなシャツの上におしゃれなジャケット、ジーンズというラフな格好。
なお、つい最近まで昏睡していたのに高校を無事に卒業できたのは、某下がる男並みの過密スケジュールをこなしたからだとか。
「わかったわ。さっそく0-Phonで連絡を──」
「その必要はないよ」
灯のセリフを遮って、よく通る少年の声が響き渡る。
次いで、塗り変わる“世界”。
「月匣──!?」
彼らの前方、開けた道路の中心に、学ラン風の黒い制服を纏った少年が、紅い満月をバックに立っていた。
「ミッドチルダへようこそ、ウィザードの皆さん」
「君は──シャイマール!!」
命が自らの“通り名”を呼ぶと、彼は飄々と底知れない笑みを浮かべた。
「ふふっ、残念。俺だけじゃないさ。ほら──」
少年が後ろを振り返る。
「──ルー・サイファー!」因縁浅からぬスルガが、その名を強い口調で呼ぶ。
冷たい白銀の瞳で見下ろすのは、幻術で本来の姿を取り真紅の豪華絢爛なドレスを身に纏った“金色の魔王”。鮮やかな紅が、裏界随一の美貌を彩る。
“誘惑者”が目立たぬよう主の陰に付き従っていた。
「ベール・ゼファー……」幾度となく交戦した灯が、最大級の警戒心を露わにする。
“荒廃の魔王”と“秘密侯爵”を引き連れた“蠅の女王”が、妖しく艶やかな笑顔を零す。
本日の御召し物は、かわいらしい漆黒のパーティードレスと、いつものポンチョ。首もとの、紫のバラをあしらったチョーカーがチャームポイントだ。
「ぱ、パール・クールさんまでいるんですか〜!?」あまりの理不尽に、翠がとても情けない声を上げた。
しゃらんと鈴の音を鳴る。白と緋色の巫女服を身に着けた“東方王国の王女”が、尊大かつ傲慢に、その威厳を見せつける。
裏界魔王、七柱が揃い踏み。
まともなウィザードなら瞬時に死を覚悟し、この世を儚む強大な面々。命たちも例に漏れず、身を強ばらせる。
彼らの様子に、“皇帝”の息子を自称する少年は愉快そうに目を細め、口を三日月に歪めた。
「熱烈大歓迎だ。受け取ってくれ」
空に浮かぶのは、血のように紅い月。
満ちる、深き闇の象徴しるし。
太陽は熱を失い、鈍色の地平へ沈み、
月門とびらが開く。
耳を澄ませば、ほら聞こえてくるでしょう?
あえかなる少女たちの囁きが。
それは甘い破滅に彩られた語らい。
いずれ、“世界”に悪徳の華を咲かせるでしょう。
少女たちの名は、魔王──
そのしなやかな腕は命を摘み取るために。
その可憐な唇は死の接吻のために。
その美しい微笑は散りゆく愚者のために。
かくも、破壊と殺戮を愛するものたち。
この“世界”の裏側で、いつも機会を狙っている。
──ほうら、今宵もまた紅い月が昇る。
そして、告げるでしょう。
昏き祝宴の始まりと、死の舞踏の始まりを────