クラナガン中央区。
近未来的な街並みが一望できる高層建築物の屋上に、彼女はいた。
「……嫌な空気、反吐が出る」
肌をざわめかすいい知れない不快な雰囲気を吐き捨てる。
緩やかに波立つシルバーブロンド、濃い紫のセーラー服、月と太陽の絵柄が描かれたポンチョ――その全てを強風になびかせ、魔性の美少女が憂鬱そうに愛らしい美貌を歪めた。
少女の名はベール・ゼファー、裏界に名だたる大公にして傲慢なる天空の女王。本人は孤高を気取っているが、最近はなんだか面倒見がいいとか一般ピープルから思われちゃったりしているお茶目さんである。
「――む。なんかヒジョーにムカつくこと言われてる気がするわ。パール(アホの子)かメイオ(ヤンデレ)が噂でもしてんのかしら?」
怪電波を受信して額に青筋を刻みつつ、足を組んだいつものポーズでベルは眼下に広がる街並みを眺める。
そこには、確かな違和感があった。
「……静か、ね」
彼女のもらした言葉通り、活気に溢れているはずの街は不気味なほど静まり返っている。平日の昼前にもかかわらず、だ。
「ゴミゴミしたのも鬱陶しいけど、こうも静かすぎるのも不気味だわ」
ため息混じりに呟いて、ベルは組んだ脚を組み替えた。
あるいは、何も知らないはずの市民たちも感じ取っているのかもしれない。――この都市に満ちた粘ついた気配を。
「……ふむ」
ベルが徐に月衣からコンパクト――“遠見の鏡”という立派な魔法具である――を取り出し、開いた。
小さな鏡には、機動六課隊舎の屋上にいるアゼルの姿が映っている。準備運動のつもりであろうか、突撃槍を手に何やら屈伸らしきことをしている。
薄曇りの空の下でもなお儚げな朋友の姿を、ジッ、と見つめ、ベルは眉間に皺を刻む。身も蓋もないことを言うなら、彼女はアゼルが心配でならなかった。
アゼルは、決して強い魔王ではない。
生まれ持った“プラーナ”吸収能力は確かに強力だが、逆にその生態が災いして戦闘の経験値が圧倒的に足りていないのだ。
何より彼女はかつての大戦を経験していない比較的若い世代の魔王、とてもメイオルティスに対抗できるとは思えなかった。
「ハァ……、心配してても仕方ない、か」
憂鬱になりそうな気分を切り替え、ベルはポンチョを翻した。
□■□■□■
広大な会議場ホールに響き渡る低く重い声、レジアスの答弁が続いている。
意見陳述会は今のところ滞りなく予定を消化している。懸念されていた“冥魔”の襲撃は未だ確認されていない。しかし、会場内に漂う異様な緊迫感は刻一刻と増すばかりで。
そんな中、フェイトはなのはとともに会場警備を粛々と勤めている。はやても同様にVIPの護衛だ。
「……」
レイジングハートを身につけていないからだろうか、なのはがどこか不安そうに胸元で左手を何度も空握りしている。
もっとも、フェイトの心境とて大差はない。
――拭い去れない不安が、彼女の胸中にはある。
それは自分ではなく、恋人、フィアンセとなった攸夜についてだ。
最近の彼は、平静を装っていながらどこかナイーブになっていた。その理由は恐らくこの戦いの黒幕――アンリ・マユ。彼の邪神との対決後、攸夜は酷く思い詰め。あれほど焦燥した恋人の姿を見たのは、十年前の彼の誕生日以来のことであった。
昨夜と今朝の様子では一見普段の調子を取り戻していたようだったが、攸夜はああ見えて自分のネガティブな感情を一人で処理しようとして最後には自滅してしまうタイプ、フェイトと根っこの部分では同類だ。
似た者同士であるからこそふたりは惹かれ合ったのだが、だからこそ自分にもしものことがあれば、彼も共倒れしてしまうだろう。
それはフェイト自身にも言えたことだが、戦闘能力その他の違いから潰れるなら己だという明確な違いがある。
――アリシアとの対決をようやく心に決めたというのに、フェイトの嫌な予感は膨れ上がって仕方がなかった。
「――ッ、きた……」
不意に、フェイトの鋭敏な第六感がささやく。
と同時に、足下から突き上げるような衝撃が会場を襲った。
「っきゃ!」
立つのも難しいほどの強い振動。思わず悲鳴を漏らし、なのはが傍らの壁に寄りかかる。
「なに、なんなの……?」
なのはの戸惑う声。
――それは唐突に、やってきた。
『――次元宇宙に住まうヒトの諸君、初めまして。ボクはアンリ・マユ、この世界の“冥魔”の総領にしてキミたちヒトが有史以来、育ててきた“この世全ての悪”そのものだ』
高圧的な印象を与えるボーイソプラノ。そこに含まれた邪気は、聞くものの背筋を凍らせる。
フェイトやなのはだけでなく、この会場内の――あるいは、全管理次元宇宙のあらゆる人種のヒトに暗黒神の声が届いた。
『最初に言っておこう、ボクはキミたちヒトが嫌いだ。――愛だの夢だの希望だのと口では耳障りの善いことを謳いながら、その一方で平然と他者の命を奪い、犯し、弄ぶ。他人を不幸に落として、何ら恥じる素振りも見せない最低の生き物だ。
そんなヒトに、生きる価値なんてあるのか? いや、ない』
罪を断じる声。身に覚えはあるが、そこまで言われる謂れはないとフェイトは反発した。
ヒトのマイナス面を見つめ、それでも光を信じて追い求める攸夜の傍らにいるからこそ、そう感じたのであろう。また彼女自身も、執務官というヒトと社会の闇に向き合う仕事を通して、確固たる価値観を築き上げた経験がある。
『故に、不出来で不完全な存在であるキミたちヒトを、キミたちヒト自身が育てた悪意によって全ての文明を滅ぼし、平らげて――、ありとあらゆる“世界”に、虚無という名の静寂をもたらすことをここに宣言しよう』
フェイトは漠然と、この演説に虚構の響きを感じ取っていた。アンリ・マユが語る内容には“実”が伴っていない、と。
『まずは前哨戦、デモンストレーションとして管理世界を滅ぼすことにした。せいぜい力の限り足掻くといい、キミたちの絶望がボクの糧になるのだからね』
プツン、とテレパシーが途切れる。
と同時に再び大きな振動がビルを襲い、どこか遠くでいくつもの大規模な爆発が起きているのだろう。また、戦闘による魔力の波動も微かながら感じ取ることができた。
次いで念話式の機械無線から、外の情報が慌ただしく飛び込んでくる。念話妨害がなされているのか、あるいは中継基地が破壊されたのか、ノイズ混じりでひどく断片的な報告だった。
けれども、切迫した状況は伝わってきた。
フェイトは弾かれるようにして、傍らのなのはに視線を向ける。やや呆けていたなのはは、強い意思の灯った紅い双眸に見つめられて我に返った。
「行こう、なのは!」
「うんっ!」
□■□■□■
南駐屯地A73区画、機動六課敷地。
「…………」
鈍鉄の墓標の中心で、背広姿の攸夜が腕を組み、瞼を伏せて“その時”を静かに待っている。
ジッとまんじりともせず黙することで、大気や大地に流れる魔力素(マナ)を取り込み、かつ自身の内裡に備わるある種の生体魔力炉を稼働させ、自らの精神と肉体をベストコンディションへと導いているのだ。
だが、それでも。どれだけ準備を重ねても、消せない不安がある。
――――果たして自分に、アンリ・マユの“遺産”、無限闇(トホー・ボフ・チャザック)を破ることが、出来るのだろうか。
攸夜は、身を持って理解した。
あれこそは七徳と七罪、その両者とも相容れない完全なる虚数に属するもの。“この世全ての悪”などと名乗ってはいるがその実、善悪や正負、聖邪光闇などといった普遍的な概念を超越した場所に立っている極めてネガティヴな存在だ。
まさしく闇黒面(ダークサイド)、反存在(アンチテーゼ)――攸夜の立ち位置が今よりも悪に寄っていたなら、あるいは逆に善を説く存在であったかもしれない。無論、所詮はifでしかないが。
どうしても後手後手に回り、泥縄の対応しか打てない現状、攸夜本来の戦術よりも戦略を重視し「勝てる状態にして勝つ」という戦いがまったく出来ていない
故に、心の片隅に湧く弱気の虫を押し殺せない。勝つ、と自信を持って断言することができなかった。
ヒト並みの脆弱な心を飄然とした仮面と魔王の矜持で覆い隠して、彼は辛うじて立っていられる。――その歪みこそが彼の長所であり、欠点であろう。
「ねーねー、アルぅ」
思考の海に沈む彼の傍らに、特徴的な改造巫女服の少女――パール・クールが降り立った。
「……んっ、なんだ?」
「あのさぁ、ヤツらがきたら、あたしの好きなように暴れていいんだよね?」
「まぁ、そうだな」
「ふふーん、そっかぁ……」
曖昧な相づちを返し、攸夜は金髪ツインテールの暴君。返答に気をよくして、黒目がちな瞳をギラギラと輝かせる。
今回の戦いに、気まぐれが服を着て歩いているようなパールが妙に乗り気なことが攸夜には逆に不安に思えた。
何か彼女なりの理由があるのだろうが、これと言った思い当たるものはない。あるいは、単に特大の闘争を愉しみたいとか、そういう仕様もない理由なら逆に安心できるのだが。
そんなふうにつらつらと益体もない考察していた攸夜の感覚器官が、不浄なるものの気配を捉えた。
「「――ッ」」
ほぼ同時に顔を上げる攸夜とパール。
裏界魔王たる鋭敏な感性が、二人に世界の異変を告げている。
大地が。
海原が。
天空が。
そして宇宙そのものが、恐怖に震え、鳴動している。
「ふん。御大層な演説をぶちあげやがって……」
苦虫を噛み潰したような顔で言い捨てる攸夜。二人にも、アンリ・マユの“声”は届いている。
だが、そのような些末事に意識を割く彼らではない。
「――来たか」
攸夜の視線の先、曇天と濁った海の水平線を埋め尽くす黒い影――破滅と混沌を遍く撒き散らす“冥魔”の軍勢だ。
アンリ・マユのオリジナルだろうか、見たこともない西洋竜を思わせる頭部に、蝙蝠のような皮膜の翼を持つ黒い中型“冥魔”の姿が多い。また、水中にも背徳的で冒涜的な悍しい姿をした怪物が蠢き、軍団を形成している。
ニィ――、パールの可憐な唇が、壮絶な愉悦で歪んだ。
血で血を洗う凄惨な闘争の気配を嗅ぎ取って、魔王の本能が逸っていた。
「……フォトンチェンジ」
闘志を黒き稲妻に変えて漲らせる朋友の傍らで、攸夜は静かに言霊を紡ぎ、巻き起こった蒼白い旋風が彼を包む。
清涼なる光の風が晴れ、姿を現したのは、魔力によって編み上げられたミッドナイトブルーのスーツコートを身に纏う蒼眼の魔王。首もとの蒼いネクタイを締め直すおなじみの仕草で、意識を戦闘モードに切り替えた攸夜は、全天を覆い始めた黒い塊を睨め付けた。
「内心、“魔王女”の予知が外れることを願っていたんだが――」
「んなの、起きるわけないじゃん。あの子の力が外れるなんて、あり得ないってば」
「だよなぁ」
パールのもっともな指摘を従容に応じつつ、攸夜は莫大な魔力を解き放ち、徐に左手を眼前で横に薙いだ。
瞬く間に燐光が弾け、無数に描かれる蒼白い七芒星の魔法陣。
総勢666。いわゆる“獣の数字”と呼ばれる、彼とは馴染みの深い数の魔法陣(ほうだい)に莫大なエネルギーが充填されていき、ついには臨界に到達した。
蒼銀の烈光が瞬く。
強く、激しく発光した魔法陣から光の束が放たれて、それらは箒の穂のように膨れ上がる。幾条にも分かたれた光線が“冥魔”を次々に貫いた。
悍ましい断末魔の声を上げ、滅んでいく怪竜は数千、いや数万に及ぶ。しかし、鈍天を覆い尽くす魔物の群れは、僅かも減少したようには見えなかった。
「結局、こうなる運命か……。上等だッ、来るなら来い! 全て破壊してやる!!」
生臭い海風に、闇色に光る鬣(たてがみ)をなびかせ、“七徳”の光を継ぐ者が今出陣する。
全人類――否、ありとあらゆる生命に訪れた絶望的な“運命”を覆さんと。
――――ここに、次元宇宙の行く末を決する“魔法大戦”の火蓋が、切って落とされた。