どこからともなくやってきたぶ厚い灰色の雲の壁が、青かった空を覆い隠している。雨は降らないと天気予報で言ってたけれど、実際のところはどうなるかわからない。
一抱えはある花束を二つ抱えて、私はきちんと掃除の行き届いた真っ白な石畳を一歩一歩確かめるように歩く。
服装はいつもの執務官用の黒いスーツ。“この場所”には、これが一番ふさわしいと思うから。
前触れもなく訪れた強い風。
私は立ち止まり、あおられる前髪を右手で押さえつける。
その間にも気まぐれな風は好き勝手に吹き荒れて、ざざあ……っ、と匂い立つくらいに青々とした芝生のカーペットを手荒になでていく。遠くで、針葉樹の防風林が幹と枝をしならせて大きく揺らいでいた。
いたずらな風が過ぎ去る。
花束がどうにもなってないことにほっと安堵した。
白いセロファンで束ねられた花束には、華やかな色のものがほとんどない。あまり派手なのはふさわしくないと思ったから、選ばなかった。
どの花も質素で、慎ましやかで、奥ゆかしくて……でも、それでいて誘うような甘い蜜の香りを忘れない。ひとつのことでいっぱいいっぱいの、不器用な私にはマネのできない──そんな花たち。
歩みを再開する。
視線の先に、上の部分が緩いカーブを描く白い石碑が、規則正しく並んだ光景が見えはじめた。芝生の青と、木々の緑と、石の白と──一見、きれいに整ったコントラストはどこかもの悲しくて。
きっとそう感じるのは私自身の心境が影響しているんだと思う。
場所はクラナガン近郊、小さな、ほんとうに小さな墓地。
────ここは“母さん”と、“私”が眠る場所だ。
あのあと、私は兄さんたちに断りもせず、逃げるようにして施設を抜け出した。
逃げ出したのは、灯とスルガを見ているのが辛かったから。
自分とは違うんだって────弱くて、情けなくて、甘ったれで、いくじなしだってまざまざと突きつけられているようでいたたまれなくなったからだ。
そうして、私はプレシア母さんとアリシアの眠る場所にやってきた。
悲しいことや、悔しいこと、辛いこと、苦しいことがあったとき──心が折れてしまいそうなとき、私は決まってここに来る。
時の庭園が虚数空間へと崩落するとき、プレシア母さんが“遺していった”言葉を思い出すために。諦めかけてしまう気持ちを叱咤して、無様でもあがき続けるために。
──ひとりでもがんばれるって、自分自身に証明するために。
ほんとは生まれ故郷──と言えるかどうかは定かじゃないけど──のアルトセイムに二人のお墓を置きたかったのだけれど、あそこはミッドチルダの辺境で、こうして訪れるにはちょっと不便だったからここにしてもらった。いつか、いろいろと落ち着いたときに移すつもりだった。
でも、その日が来るのはいつのことになるのだろうか。なにせ、こうして今日も女々しくすがりに来てしまうのだから。
墓地の奥まったところにひっそりと立つ、母さんとアリシアの──中身のない空っぽなお墓が見えてきた。
「あれ……?」
進む先、ふたつ寄り添うように立ち並んだ石碑の前に、先客の姿がある。背が高い、男性?
黒革のジャケットの襟から覗く青いフード、白いパンツというラフな格好だ。
ややうつむき加減の後ろ姿から、黙祷しているの、かな。「私以外がお参りなんて、誰だろう」そういぶかしむ私の胸が唐突に高鳴った。
近づく気配に気づいたのだろう、“彼”がゆっくりと振り向く。
「──や、“魔導師”のお嬢さん。奇遇だね」
強烈なデジャヴ。
深い夜闇のように黒く、艶やかなくせの強い髪を緩やかな風に流し、真っ蒼な海原を思わせるきりりとした瞳は濁りのひとつもなく澄んでいて。
男性と男の子の境目をたゆたう面差しはふてぶてしく、それでいて繊細に見えた。
「ぁ……」
自分でもびっくりするくらいに色っぽい声が口をつく。う……、顔がほてってる。
頭の中が混乱を極めていても、私の視線はきれいなアースブルーから離せない。
「ッ!」
“彼”とは敵対している関係なんだと我に返って、待機状態のバルディッシュをスーツの内ポケットから取り出す。
魔力を一気に練り上げて、セットアップを────
「ここで戦うつもりか? この墓には君の“大切な人たち”が眠っているんだろう?」
「──っ」
そうだ、そうだった。
母さんとアリシアが眠るところで戦えるわけがない。戦意が急速にしおれていくのを感じる。
だけどこちらが戦えなくても、“彼”はそうじゃない。
そうじゃないんだけど──
「心配するな。眠れる死者の魂を──命を冒涜するような真似、嫌いなんだ。今更な綺麗事、だけどな」
心の懸念を読んだみたいに──顔に出ていただけかもしれないけど──“彼”が言う。付け足されたシニカルな言葉は自嘲、なのだろうか。
「どうして、ここに?」
「俺は神出鬼没が信条でね」
捕らえどころのない笑み。
「君を待っていたのかもしれないし、ただ墓参りに来ただけかも知れない」
相変わらずの要領を得ないあやふやな物言いに、知らず知らずのうちに眉間に力が入ってしまう。
「それ、答えになってないよ」
「俺のことはいいじゃないか。それより、ここへ何をしに来たのか思い出してみるといい」
「あっ」
はたと気づいて、足元のお墓に視線を向ける。
母さんとアリシアの名前が刻まれた白い石碑に手向けられた、放射状のスカーレットとピュアホワイトの花弁を咲かせる小さな花々。
リコリス──彼岸花。珍しい白いものまであった。
花言葉はたしか……“悲しい思い出”“また会う日を楽しみに”、それから──“想うのはあなた一人”。
「……手向けの花、これくらいしか思いつかなくてね」
“彼”が軽く苦笑した。
男の子だから、お花とかのことにはあまり詳しくないのかもしれない。
それがなんだかおかしくて。
「……?」
頬をほころばせた私に、“彼”は不思議そうに首を傾げる。それから、すっと何気ない動作でお墓の前から数歩下がった。
場所を空けてくれたのだとわかったので、ちょっとあわて気味に開いたスペースに進み出る。
膝を屈めて、抱えていた花束をリコリスの隣りにそっと手向けた。
「……母さん、アリシア。また、来ちゃった」
届くはずのない言葉で呼びかけて、目をつぶる。
────私は、私が考えている以上に生まれのことを引きずっていたみたいだ。だから、あんな失礼なことを聞いてしまった。
人造人間、強化人間──人造魔導師として生を受けた“フェイト・テスタロッサ”に近しい存在。
だけど、彼らは“望まれて”生まれた。
私とは、違う。
正確に言えば私も“望まれた”のだろう。
だけど、母さんの期待には添えなかった。私が出来損ないの欠陥品だからだ。
振り切ったつもりだったのに、割り切ったつもりだったのに。
私が“彼女”になれるわけないのに。
自分と似た生い立ちの、“弟”みたいに思っているあの子を気にかけて、後先考えずに後見人を買って出でてみたり。身よりのない子たちを何くれとなくお世話をしてみたりしたのも、今ではただの代替行為にしか思えない。
“代替物”にすらなりきれずに捨てられた人形が、生みの親の“代替物”を求めてるなんて、どんな皮肉だろう。
私、バカだ。誰も“母さん”の代わりになるわけないのに。
もちろん、リンディ母さんのこともたいせつだって、家族だって想ってる。想ってるんだけど────
「ぅう……っ」
嗚咽が漏れる。
全身から力が抜けて、ぺたりとへたり込む。
「う、ぁ……」
堰を切ったみたいに涙があふれてくる。
両手で顔を覆って抑えようとしてみても、それはぜんぜんできなくて。
「ふぇ、っ、ひっぐ……」
あとから、あとから、途切れることなく涙がこぼれる。
寒い。
ココロが寒い。カラダが震える。
奥の方から音を立てて凍っていくみたいだ。
──寒い、よ……。
負の感情が広がって、真っ暗な闇を作っていく。そこに光はどこにもない。
「あ……」
不意に、頭の上に大きな手のひらのが乗せられた。
まぶたを開けて、顔を上げる。
目の前には膝を立てて、私と目線の高さを同じにした黒髪の、敵対しているはずなのに、敵だとは思えない不思議な男の子。
そのひとがやさしく、すごくやさしく笑ってた。
「──がんばったんだな」
ただ一言。
たったそれだけで、私のココロを長い間覆っていた暗雲は吹き飛び、寒々として震えていたカラダの芯からあったかくなる。
それはまるで春の雪解けみたいに、私の気持ちを穏やかにしていく。
「──っ!」
私は、よくわからないうちに“彼”の胸に飛び込んでいた。
「わっと、……ったく、しょうがないな」
呆れたような、でも、どこか嬉しそうな声。少しだけためらうようして、背中に両手がかけられた。
そして、ぎゅっと強く、大胆に“彼”の胸の中に抱き寄せられて。
見た目よりもずっと厚い“彼”の胸板と、私の身体に挟まれたペンダントがドクンと脈打って熱を帯びる。
その瞬間────、私の中のなにかがカチリと組み変わった。
……ううん、違う。“元に戻った”んだ。
欠落していた記憶に刻まれたたくさんの想いがこみ上げる。
あったかくて心地いい、言葉にできない想いで胸がいっぱいになる。
切なくて、苦しくて、うれしくて、恋しくて。失くしていた間の時間、そのすべてに価値なんてないって思えてしまうくらい愛しい。
──そっか、そうなんだ。
子どもの頃からちっとも色の変わらないボサボサの黒い髪と、冷たいように見えて、ほんとはとっても暖かい蒼い瞳も。
成長して、ちょっとだけ男らしくなった──でも、イタズラっ子みたいな子どもっぽさも残した面立ちも。
ぜんぶ、“懐かしい”。
一目見て、何度も出逢ううちに惹かれていったのも、当然だ。
名前を呼んでもらえなくてイライラしたことも、どうしてか理解できる。
第22管理世界で出逢ったとき、“フェイト・テスタロッサ”とだけ名乗ってしまった理由も、いまわかった。
私は“彼”を──、愛してるって言い残して消えてしまった“彼”を、無意識のうちに求めてたんだ。
もうなにもかも、ぜんぶ思い出した。取り戻した。
ああ、そうだ……、このひとは、私の────
「ふ……、ふぇ……」
「──え?」
「ふぇえ、ええええん、ぅえええええん」
「ちょっ? ほ、ほら、もう大丈夫だから……泣かないで」
「ぐすっ……ぅ、うぇええええん」
「……まいったな」
「ふええぇぇえええん、うわあ――ん」
愛しい温もりと懐かしい匂いに包まれて────、私は六年間、溜めに溜めていた気持ちを吐き出すように、心ゆくまでめいっぱい、子どものように泣きじゃくった。
けれど、この涙は悲しいから流してるんじゃない。
うれしくて、泣いてるんだ。