「落ち着いた?」
「……うん、ごめんね。ありがとう」
分厚い曇天の下、金色の少女と黒色の少年が向かい合っている。時空管理局に籍を置く魔導師と、異界より来訪した魔王──今は敵対する間柄であるというのに、二人の間に流れる空気は驚くほど穏やかだ。
先ほどの醜態を思い返し、少女が頬を赤らめて恥ずかしそうに身を縮めれば、あの雨の夜のように感情に身を任せてしまったことを悔いているのか、少年がばつが悪そうに頬を掻いて目を泳がせる。
「……」「……」
緩やかな沈黙。対照的な二色の双眸が絡み合う。
少年は、自らに送られる紅玉の眼差しに込められた感情の質が、今までと違っていることに気がついていた。
戸惑いではなく理解。警戒ではなく恋慕。──神話に登場する女神にも見劣りしないほど美しく成長した容貌は、純粋でひたむきな愛情で満ち溢れている。
やっと思い出してくれたのか、と密かに胸を熱くした少年だったが、当初の予定通り自分から歩み寄る気はない。今までも、意味深な言葉を吐いてちょっかいを出す程度で自制している。豪放磊落に見える彼であるが、公私をきっちりわける分別も持ち合わせているのだ。
ともあれ、それを一時的に曲げて涙する少女を慰めたのは、それだけ彼女のことを心から大切に想っていた故だった。
居心地のいい静寂。
崩してしまうのはもったいないけれど、と少女は胸中で決心し、意識して硬い表情を作り口を開く。
「あなたたちは、“冥魔”を倒すために動いているかもしれないってエリスが言ってた。それは、本当?」
長い間引きずっていた暗鬱とした雰囲気を拭い去り、内に秘めた凛とした美しさを開花させた少女は、管理局の執務官として不敵に微笑む少年へ疑問を投げかけた。
彼女にも、少なからず意地がある。言いたいことを全部言うまで甘えてあげないんだもん、とつんとすまして健気に振る舞っている。
本心は、今すぐ首根っこに飛びついて思い切り甘えたい。だが、それを我慢出来るくらいには少女も成長していた。
向き合う二人の気持ちは同じだ。──まだ全て終わったわけじゃない、と。
「ああ、その通りだ。……志宝エリスを引き合わせたのは正解だったな。うまく踊ってくれているようで安心したよ」
そんな彼女の想いを知ってか知らずか、不敵に飄々と少年が言葉を紡ぐ。
「なら、みんなで一緒に力を合わせて──」
ぱっと少女の表情が明るくなった。
だが、それも長くは続かない。
「無理だな」
「……どうして?」
「大層なものじゃあないが、俺たちにも“譲れないもの”がある。君なら、わかるだろう?」
「っ、でも」
「君はこの“世界”を守る管理局に所属する執務官。そして、俺はこの“世界”を侵略しようとしている悪い大魔王──お互い、闘争以外に取る道はないさ」
持って回った、それでいて茶化したような言い回しに隠れた確固たる意志をくみ取り、少女が説得は無理だと悟る。形のいい眉が悲しそうにしゅんと落ちた。
きわめて冷たく──あくまでも彼女の主観では、だが──振る舞ってはいるものの、やはり少年と敵対しているのは辛いのだろう。
「それに──」
何かを言い掛けた少年が、一転、厳しい顔をして「チ……」と小さく舌打ちした。
「え……?」
突然、二人の周囲を取り囲むようにどす黒い瘴気の柱が、大地を割って吹き出す。
「俺の話はまだ終わってないってのに無粋だな。場所を弁えろよ、阿呆共──といっても無駄か。だからお前らは嫌いなんだ」
少年のぼやきを合図に、瘴気の中からずるりと異形の軍勢が姿を現す。
原形質の頭部を持つヒトガタの結晶体に、複数の頭を持つ無機質の蛇。無数の触手を生やす無機質の身体で構成された魚のようなバケモノ。うねうねと粘着質の身体を粘つかせるスライム状の物体。
巨大な粘性の身体を蠢かせ、人の手足にも似た腕を持つ怪物。瞳のない、黒い煙を吹き出す四足獣。結晶質の体内に、脳髄のようなモノを持つ巨大なヒトガタ。
多種多様、いずれも常人なら吐き気を催し卒倒しかねないほどに醜悪な姿の存在。生きとし生けるものを怨み、憎み、嫉み、滅ぼさんとする破滅の尖兵。
「こ、これ……」
数え切れないほどに溢れ出したバケモノのあまりの醜さに、少女が身体を僅かに強ばらせる。
「“冥魔”だよ。雑多な雑魚の群れに、よどみの沼、無明の獣魔と闇黒晶魔──大物まで揃えてわざわざ俺を潰しに来たみたいだな。まったくご苦労なことだ」
きん、と音を立てて紅の結界が広がり“冥魔”を現実空間から隔離した。
蒼銀の光焔を巻き起こし、紺青の戦装束を創り出す。ばさりとコートの裾をはためかせ少年は身を翻す。
「君は下がって見ているといい」
左手でネクタイを軽く弄り、右手で側の空間に広がった小さな波紋──月衣から“箒”を引き抜いた少年は肩口から背後を窺う。
そこには金色の雷光を迸らせ、漆黒のドレスと純白の外套を纏う少女の姿があった。
「……何のつもりだ。まさか、一緒に戦うだなんて言わないだろうな」
「そうだよ」
「……俺と君は敵対しているというのに?」
「うん」
「また──いや、確実に、君は俺と戦うことになるんだぞ?」
「それでも、だよ。あなたが敵だとしても、もう一緒に戦うって決めたんだ」
金色の大鎌を油断なく肩に担いだ少女は、少年に背を向けたまま決然とした口調で言葉を紡ぐ。
それはいつか“彼”が“母”と交わした問答。会話の細部は違うものの、少女の答えは“彼”と同じだった。
「──私自身が、あなたを助けたいと思った。理由は、それだけで十分だ」
ふと、背中合わせの少年が笑みを零したような気配を少女は感じた。
待ちきれないと異形のバケモノどもが怖気をふるような唸り声を上げる。
──“目障りな魔王の五臓六腑を抉り出し、八つ裂きにしやろう!”
──“その柔らかな血肉を蹂躙し、陵辱し、喰い尽くしてくれる!”
そう言わんばかりに“冥魔”が盛んに吼え猛った。
「フッ……、なら、足手纏いにはなってくれるなよ」
「あなたの方こそ、遅れないでね」
互いを煽るように言葉を交わし合い。
────別かたれていた翼が今、再び大空を舞う。
□■□■□■
魚類に似た“冥魔”──闇魚が、稲妻のごとき斬撃に寸断され、細斬れになって霧散する。
無数の頭かしらをうねらせる蛇の“冥魔”──闇蛇が、蒼銀の光芒に巻き込まれ、ダース単位で消し飛ぶ。
魔力を込められて長大化した金色の大剣が、奇形の四足獣──無明の獣魔を一刀の下に斬り裂いた。
銀色の雨を降らせて対抗するスライム状の巨大な“冥魔”──よどみの沼とお供のスライムは、天から降り注ぐ裁きの光の驟雨で一緒くたに駆逐された。
金色の魔導師と黒髪の魔法使いは、お互いを庇い合い、フォローし、時には息を合わせた絶妙なコンビネーションを魅せる。
獅子奮迅。“冥魔”の軍勢は急速にその数を減らしていく。
縦横無尽に天翔る一対の比翼に向かって、“冥魔”たちが各々が備える魔法を撃ちかける。
七枚の“羽根”が組み合わさって完成した白亜の大楯が、魔法の全てを完全無欠に遮断した。
「トライデント!」
楯の奥から、何かが稼働する機械音と少女の可憐な美声が飛ぶ。弾かれるようにして少年が分離した“羽根”を連れて離脱。
大楯に隠れていた少女の突き出す左手を基点として、金の魔法陣が広がる。
「スマッシャーッ!」
円状魔法陣の中心から一本、続いて上下に枝分かれして三叉槍状に発射された光芒が、ひときわ大きな結晶体のヒトガタ──闇黒晶魔の胴体を突き穿つ。三叉槍が結合、反応し雷撃を伴う大爆発を引き起こした。
わだかまる爆炎の中から進み出た闇黒晶魔が、大きく損傷した透明な躯を激しく明滅させ、お返しとばかりに閃光の魔弾を少女に撃ちかけようと腕を掲げる。
少女は技後硬直で咄嗟に動けない。だが、その表情に恐怖などなかった。
なぜなら、彼女はひとり戦っているわけではないから。
“彼”と共に戦っていて、自分が負けるはずがないのだ。
その期待通り、横合いから紺青の影が遮るように躍り出る。──たったそれだけで、“冥魔”の動きが留まった。
「邪魔だ」
無慈悲な一言。しゅんと蒼白い魔力の刃を纏った長剣が露を払うように振り下ろされた。
ピシ、と闇黒晶魔の体躯がズレる。
太刀筋すら見えない、魔技とも呼べるまで昇華された恐るべき早業で、闇黒晶魔の巨体は真っ二つに両断され、上半身と下半身は見事泣き別れとなった。
黒い砂と化して消滅する“冥魔”には目もくれず、少年はとん、と軽い足取りで大地を蹴って飛び上がり、少女と背中合わせの位置で停止する。
周囲と眼下には未だ勢いの衰えない“冥魔”が蠢く。
「一気に蹴散らす! 行くぞ!」
「うんっ!」
少年のいささか強引な指示に応え、少女が楽しそうに破顔した。ほぼ同時に、ふたりの魔力が練り上げられる。黄金に輝く光の剣が天空に掲げられ、蒼銀に煌めく切っ先が大地を指し示す。
りんと涼やかな音が鳴り、二色の魔法陣が彼らの足下に描き出された。
闇よりなお暗き漆黒の塊が刃先に発生。混沌を司るマイナスのエネルギーを広げ、圧倒的な重圧で敵を圧殺する闇黒魔法が──
灰色の雲が俄かにざわめく。雷鳴轟き、多数の稲光が迸る。元となった儀礼術式を簡略化、範囲を限定した召雷魔法が──
──その力を解放した。
「ダーク!」「サンダー!」
暗闇の塊が爆発的に拡大し、幾条もの雷光が空から落下する。
着弾を待つだけの“冥魔”たちに逃げる術などない。
「「フォールッッ!!」」
少年と少女の砲哮がひとつとなり、重力と雷撃の嵐が“落ちてくる”。
超重力の闇黒が大地を覆い隠して“冥魔”の全てを押し潰し、高電圧の稲妻が天空から降り注ぎ“冥魔”の全てを撃ち貫く。
断末魔の悲鳴を上げ、“冥魔”の軍勢は、数分も経たぬ間に塵芥へと還っていった。
月の匣は解かれ、墓地は再び静寂に包まれる。
少年の左手が長剣の刃に残った露を払う。少女が漆黒の戦斧を軽く抱きしめた。
微風が、沈黙し、向かい合ったふたりの頬を優しく撫でた。
「やっぱり、協力しよう? その……なのはとユーノのこととか、あるけど……、あなたと私ならできるよ、ね?」
やや上目遣いで、少女が懇願する。
「残念だけど手遅れなんだ」
遠くに見える超高層ビルを見やり、少年が心から残念そうに瞳を閉じた。
刹那、遠雷のような地響きが大地を揺るがす。
「!!」
「──ベルの奴、始めたか」
「はじめた、って……?」
意図がわからず、少女がぽやっと首を傾げる。
「“世界”の中心──あらゆる感情が集まる場所であるこの次元を、根付いてしまった“冥魔”ごと破壊する。それで奴らも大人しくなるだろう」
「っ、そ、そんなっ!!」
それを肯定するように、彼女を呼び出す念話が届く。
正体不明の光の柱がクラナガンに現れた、と。
「ちまちま病巣を切り取ってるんじゃ埒が明かない。それに、俺の連れは気が短い連中ばかりでね」
血相を変える少女へ、少年はポーカーフェイスでさもどうでもいいと言い放った。
「ッ──!」
形のいい薄紅の唇が強く噛みしめ、少女はその紅の瞳をキッと鋭くさせる。
彼女の内心では、理性と愛情が複雑に入り乱れている。だが、激しく渦巻く寂寞の想いをねじ伏せて、少女は酷薄に笑む“魔王”と真っ直ぐ向き合った。
大切な人が間違えたなら、正さなきゃいけない──そう、少女は思う。たとえどれだけ辛くとも、間違いは間違いだと言える強さを彼女は持っているのだから。
「場所を変えよう。君だって、いろいろと言いたいこともあるだろう? “俺たちらしい”やり方で──決着、つけようじゃないか」
清々しいほどに一直線なスタールビーの瞳を避けることなく一身で受け止めて、“魔王”は飄々と、気品ある悪魔のように微笑んだ。