クラナガン中央区。
夜も浅いこの時間、普段ならばまだ人通りのあるはずのその場所に、人の気配はない。あるのは闘争のざわめき。
落雷ような衝撃音が響く。
「く……!」
金色の月牙を閃かせた戦斧を強かに弾かれ、黒衣を纏う金髪の少女──フェイトは体勢を僅かに崩された。
辺りに人気が“なさすぎる”ことを不審に思い、気を取られて生まれた僅かな隙。それを見逃してくれるほど、彼女が対峙する相手は甘くはない。
「おいおい、今の君に余所見している余裕なんてないだろう? もっと俺を愉しませてくれ──君の力で!」
魔力を爆裂させて蒼い“獣”が驀進する。
漆黒の刃が闇に走った。
「っ!」
闇黒を凝縮した槍を器用に操り、体勢の崩れたフェイトへと追撃を掛ける紺青のコートの少年。その精悍な面差しに獰猛な笑みを張り付けて、次々に斬撃を繰り出す。
刺突、袈裟斬り、斬り返し、薙ぎ払い──巧みに放たれる大蛇のように柔軟で、閃光のように鋭く速い刃の舞が唸りを上げる。
もはや遠慮するつもりを微塵もなくした──無論、殺さないように力の加減はしているが──彼の嵐のような舞踏にフェイトは、焦りを帯びた表情と精彩を欠いた動きで受け手に甘んじることしか出来ない。
(くっ、一撃一撃が重い……! だけど軌道はもう読める。対応もなんとか──でも……っ)
それ以前に、彼女が本気で彼を討つことが出来るだろうか。
答えは否だ。
やっと出逢えた、誰よりも、何よりも大切な想い人を討つことなど、フェイトには出来なかった。
だからと言って戦いを止めるわけにもいかない。少年を放っておけばミッドチルダは次元震に飲み込まれてしまう。そもそも一度これと決めたことを翻すようなタイプではないし、彼を止めても次元震を防げはしないだろう。
だが、少なくとも、この少年だけは自分の手で、とフェイトは自らの立場と心情を鑑みて思う。
それに、フェイト個人としても憤りを感じていることがたくさんあるのだ。六年間放置されて記憶はなくとも辛かったこととか、せっかく帰ってきたのにあんまりな扱いをされたこととか────いろいろと。
失った過去を取り戻したのにも関わらず、少年の名前を頑なに呼ぼうとしていないのもその気持ちの現れだった。
──意地を張っているだけ、とも言えるのだが。
そうした複雑極まりない感情を持て余しているフェイトは、バックステップでいったん距離を取ると乱れ切った息を整えた。
思った以上に動揺していることを自覚して、肺に溜まった澱んだ空気を大きく吐き出す。
「どうした? 太刀筋に迷いが映っているぞ」
くるくると槍を右の鉤爪で弄んだ後、肩に担いで気だるく構えた少年が、薄ら笑いを浮かべて惑い続ける少女の内心を覗く。
こうした会話や態度で相手の気を逆撫でて、自分のペースに持ち込むのが彼の常套手段だと痛いほど知っているフェイトは、冷静を保とうと努めて意識する。
そして、昔は私の方が強かったのに……、と内心で不満を感じつつ口を開いた。
「私が、ほんとはあなたと戦いたくないって知ってるくせに」
無意識のうちに、声色に険が表れてしまうのも仕方ない。
「そうだな、俺にも君は殺せない。だけど、こっちは時間を稼ぐだけでいいんだ。あの“楔”が臨界点を超え、次元震を引き起こすその時までね。つまり君は最初から時間というハンデを背負ってるってわけ」
「──! そんなの卑怯だ、ずるいよ」
ぷくーっと頬を膨らましてフェイトが抗議する。鉄火場には似合わない小動物のような愛らしい様子に、少年は薄ら笑いとは違った趣の笑みを漏らす。それでこそいじめがいがある、とでも思っているのだろうか。
「卑怯で結構。世の中に平等なんて都合のいいものはないって覚えておくといいよ」
「……性格、悪いね」
「よく言われる」
くつくつと愉快そうに咽を鳴らして少年がおどける。暖簾に腕押し、糠に釘とはこのことだ。
柳のように飄々と佇む分からず屋を前に、フェイトは瞼を伏せて、ふっ、と小さく息を吐く。それから、ゆっくりと開かれた真紅の双眸は真っ直ぐに澄み渡り、迷いという曇りが残らず消え去っていた。
凛々しさと可憐さが同居した、光り輝くような顔付き。
それに少年は、ほう、と感心したような──いや、むしろ見惚れたようなため息を漏らす。
彼はフェイトのこの表情が好きだった。凛々しく真摯で、一点の曇りもないこの表情が。
彼女の一本気な──悪く言えば融通の利かない──在り様を、この世の何よりも美しいとさえ思っている。
だが、今この場に立つのはただのひとりのヒトではなく、“七徳”を背負って“七罪”を為す裏界魔王“アル・シャイマール”。故に、自ら退くなど“魔王”としての矜持と信条に差し障る。
フェイトと同じくらいに愛している二人──敬愛する“母”と、尊敬する“姉”の名に泥を塗るような真似など彼には出来ない。
「あなたは、この星と次元を犠牲にして、ほかの次元を護ろうとしてるんだよね?」
「…………」
真摯な眼差しを逸らすことなく受け止めて、少年は紅い瞳を無言で見返す。
フェイトは沈黙を肯定と受け取って言葉を続けた。
「でも、この次元に──ミッドチルダにだってたくさんの人が住んでるんだよ」
どんな言葉をどれだけ尽くしても、きっとこのへそ曲がりな少年は自分を曲げたりしないだろう。それでもフェイトは、無駄だとしても言葉を交わすのを止めたくはなかった。
彼との会話はどんな内容でも、彼女にとって何物にも代え難い“たからもの”になるのだから。
「次元を壊すなんて──、そんなことをしたらその人たちがみんな死んじゃう。だから私はあなたのやり方を、認めない」
はっきりと拒絶の意志を示して見せるフェイト。そんな彼女の姿に、少年が目を細める。
「……その犠牲でもっと大勢の命が救えるのなら、それほど悪い選択でもないだろう?」
「っ、そんなの間違ってる!」
少女らしい潔癖さを露わにして、フェイトが叫ぶ。
「そうかもな。だが、小を切り捨て、大を守るのも立派な手段だ。“独り”で全てを護るだなんてのは、身の程を知らない愚か者の戯言だよ。
ヒトは皆、全知全能のカミには成れない。だから、どこかで折り合いをつけて最善じゃなく次善だとしても、選び取っていかなくちゃならないんだ」
「それは……そうだけど、でも、それでもっ! あなたなら、ぜんぶの人たちを救うことだってできるはずだよ!」
「そりゃ、買い被りすぎだよ。俺はそんなに大層なものじゃないさ」
少年はシニカルな自嘲で唇を歪めると、スタンスを広げて体勢を沈めた。槍の柄が両手で強く握り込まれる。
捻れくれた槍の穂先が金色の少女にぴたりと合わせられた。びくりと、半ば反射的にバルディッシュを眼前に構えるフェイト。
すらりとした、しかし練り上げられた総身にぐっ、と力が込められ────
「俺“独り”に出来るのただ一つ……、全てを破壊することだけだ。──今も昔も、変わらずにな!」
耳をつんざく爆轟が、深い夜闇に響き渡った。
□■□■□■
桜の魔力光と黒の虚無が迸る。
なのはとベルの戦闘は、熾烈なドッグファイトへと移り変わっていた。
幾度となく交錯し、炸裂する光────
「そうだよ! 私はあなたが憎い! ユーノくんを傷つけて、悪いことして……勝手なことばかり言うあなたが! 憎くて憎くてたまらない!!」
砲撃を斉射しながら、なのはは喉を枯らさんばかりに声を張り上げ、自らの昏い望みを吐露する。憎悪を剥き出しにした彼女の表情に普段の優しい面影はない。
度重なるダメージに、彼女の白いバリアジャケットは無惨にも半壊。骨でも折れているのだろうか、だらりと力ない右腕は辛うじて柄を握っているだけだった。
「ふん、やっと自分の本性を認めたのね! それで、憎いあたしをどうしてくれるわけ!?」
短めのマントを翻すベルが、強い愉悦で端麗な表情を歪める。多少のダメージはあるものの、まだまだ余裕の様子で嘲笑う。
強烈な火線と罵声をぶつけ合いながら、二人はぐんぐんと高度を上げていった。
「私はっ! あなたを倒す!!」
魔力を逆噴射させたなのはが大きく後退、一気に距離を空ける。
突然の機動にベルの反応がほんの僅か、一瞬だけ遅れた。その隙を突くように、レイジングハートの切っ先に桜色の光が収束。
「ディバイイィィイン! バスタァァアア――――ッ!!」
収束した魔力が、一条の光の柱となった。
光芒一閃。輝きがベルに迫る。
「そんな単調な攻撃が──」
ひらりと砲撃を難なく躱したベルの目に飛び込んできたのは、光の奔流から飛び出した白い少女の姿。
左手と脇を挟むこと構えた金色の突撃槍の先から赤い刃を発生させて、一直線に突進する。
「──馬鹿なっ、自分の砲撃に隠れて!?」
「うああああアアァァッ!!」
獣のような叫び声。咄嗟に展開された障壁。
鈍い激突音。
障壁に突き刺ささり、貫通する真紅の刃。
「!!」
『エクセリオンバスター』
刃の先に、眩いばかりの魔力光が収束する。目の前で膨れ上がる莫大な力に、ベルは余裕の表情を凍らせた。
「ブレイク!!」
尖端下部に搭載されたカートリッジシステムが何度もロードを繰り返し、空薬莢をばら撒く。
マガジンに残ったカートリッジの魔力全てを一身に受け止めるレイジングハートに刻まれた無数の亀裂。だが、なのははお構いなしに全身全霊の魔力を注ぎ込み続ける。
──この一撃に全てを賭けて。戦いに、決着をつけるために。
「シュ――――トッッ!!」
解放された桜色の閃光が、全てを覆い尽くした。
「あーあ、負けちゃったか」
倒壊しかけた高層ビルの中腹。
ゼロ距離砲撃により、左腕と胸から上以外を消し飛ばされたベルは瓦礫に背を預け、至極残念そうに唇を尖らせる。
「あたしを独りで殺した人間は、あんたで二人目よ。誇っていいわ」
満身創痍のなのはが、覚束ない足取りでベルの前に降り立った。額や腕から流した血によって紅黒く染まったバリアジャケットは、すでにドレスの体を為していない。胸元から左肩にかけて大きく破け柔肌が覗き、スカートは無残に千切れ真っ白な太股を露わにしている。リボンの切れた髪は宙を舞っていた。
過剰なまでの大魔力で放たれた砲撃の反動と、3まで使わされたブラスターシステムの影響は深刻だ。確実に少なくない後遺症をなのはの身体に残すだろう。
「それにしても、理不尽な暴力からみんなを守りたい、だっけ?」
精魂尽き果てた様子で呆然とする少女に、死にかけの魔王は唇を紅い三日月に変え、
「あんたがその、“理不尽な暴力”とやらになったら世話ないじゃない」
そう、強烈な皮肉を吐き捨てた。
「──!」
「実力行使で邪魔者を排除するなんて、あたしたち“魔王”と一緒ね」
「それ、は……」
アメジストの瞳を揺らして動揺する少女。魔王は、クスクスと彼女の矛盾を嘲笑う。
妖艶に、酷薄にただ嗤う魔王の像が薄れ始めた。
「ま、あたしには関係ないこと、か。あんたとの殺し合い、それなりに愉しかったわ」
ぼんやりと薄れる“蠅の女王”の見事な銀髪が、端正な容姿が──躯が、数え切れないほどの黒い蠅に変わっていく。
「──じゃあね」
そんな、死に際にしてはあまりにも軽々しい言葉を残して、黒い蠅の群れは四散。深い闇の中へと消え去っていった。
────そして、星の光なき夜空の下に静寂が訪れた。
主の手を離れたレイジングハートが、がらんと大きな音を立てて床に転がり落ちる。それとほぼ同時に、なのはは膝から弱々しく崩れ落てぺたりと床にへたり込んだ。
「ぅ……っ、ううっ……」
両手で覆い隠された顔。押し殺したような嗚咽が漏れ出す。
穢れなき純白にして無垢だった少女の啜り泣く声が、いつ終わることもなく深い闇に響いた。