「な、なんだよこれ……!?」
アゼルと睨み合いを演じていたヴィータが、信じられないものを見たと驚愕する。
釣られて視線を落としたアゼルが、わずかに表情を引き締めた。
クラナガン全域のあちらこちらから地表を突き破って、悪しき気配を帯びた漆黒の瘴気が噴き出していた。
満ち満ちとした“邪毒”が、近未来的な大都市を異界に塗り替えていく。
死の街を徘徊するのは魑魅魍魎──様々な姿をした“冥魔”の群れ。共通して言えることは、そのどれもが生理的嫌悪を引き起こすカタチをした異形だということ。
「……大魔王パール」
「うん?」
跳梁跋扈する“冥魔”をおもしろくなさそうに眺めるパールの背後に、リオンがいつの間にか現れた。
いつもの、何を考えているか読みない微笑で小さな暴君に呼びかける。
「当初の打ち合わせ通り“限定解除”です。ですが……」
「わかってるって。“やりすぎないようほどほどに”でしょ」
ため息混じりに同胞のたしなめを受け流し、パールがくるりと踵を返す。ツインテールを結った鈴の髪飾りが揺れて、しゃらんと鳴り響いた。
相対していたシグナムは、クラナガンで勃発した急転直下の事態について行けず戸惑い、問い質す。
「どこへ行く! あの黒い煙は一体──」
「きゃんきゃん吼えるな駄犬。そんなに知りたきゃ、あんたの“飼い主”に思念通話でもしてみたら? どーせいまごろ、ルーが説明してやってるだろうし」
文字通り野良犬か何かを追い払うかのように、シッシッと手を振るパール。にべもない。
「なっ、駄犬ッ!?」
「あ、そういえば。リオン、あんたどうすんの?」
額に青筋を立てていきり立つシグナムを華麗にスルー。マイペースに事を進める。
「どうやらルーが負傷していらっしゃるようですので、そちらに」
「ふーん、あっそ。じゃあ、パールちゃんはちょとくら行って、“冥魔”をぶっ潰してくるからっ☆」
「ええ、ご武運を」
リオンの抑揚のあまりない声援を背に、パールは腰を中心点にその場で半回転。マナを虚空で固めて創った足場に両足を付ける。
ぐぐっ、と力を溜めるように屈伸し────ズドン、と耳をつんざく炸裂音が鳴り響く。
反発力で打ち出された巫女服の魔王が、猛スピードで地表へと墜ちていった。
それを見送ったリオンが、シグナムに向き直る。
剣の騎士は、激発しかかった感情を何とか押さえ込もうと肩をプルプル震わせていた。
「パールの言葉ではありませんが……、あなたがたの主に伺いをたてたら如何でしょう」
「──確かにそれは道理だが……、助言のつもりか?」
「いえ、こちらとしても“手”は多ければ多いほど助かりますから。──それが例え、取るに足らない犬畜生の“手”であっても」
辛辣すぎる毒舌を残して、リオンはしゅんと姿を消す。消え去る際に、口元が意地悪く歪んでいたのは見間違いではないだろう。
「…………」
俯いたシグナム。垂れ下がった前髪で表情は窺えない。
「フ、フフフフ……フフフ、犬、犬か……。確かにそうかも知れんな、フフフフフ……」
三日月のように歪んだ唇から怨嗟のような声が漏れ出した。
その後、納剣した状態のレヴァンティンの柄を掴んで「斬る……、たたっ斬る……、斬って捨てる……!」などと割と本気で呟くシグナムを、シャマルが「お、落ち着いてシグナム。クールよ、クールにならなくっちゃ!」とおたおたなだめ始めた。もっとも彼女では、ある意味火事に原油をドバドバと注ぐ結果になっているかも知れないが。
「なあ、ザフィーラ」
「何だ、ヴィータ」
戦闘を切り上げて──うやむやになったとも言う──手持ち無沙汰になったヴィータがグラーフアイゼンを肩に担ぎつつ振り向き、同じく丸太のよいう腕を組んで浮遊していたザフィーラに声を掛けた。
どちらの表情もどこか白けている。
「あんなのが将と参謀で、私ら大丈夫か?」
「……言うな」
鉄槌の騎士の呆れ混じりな問いに、盾の守護獣は気まずそうに目を逸らした。
ちなみにアゼルとエイミーはと言えば、
「リオンってなにげに毒舌だよね、エイミー」
「まあ、“だって聞かれなかったし〜”が口癖の方ですから」
などと、呑気に会話していたりする。
なんだかもう、グダグダだった。
□■□■□■
クラナガン上空。
手を繋ないだまま、分厚い雲の層を突っ切ったフェイトと攸夜の目に飛び込んできたものは、まさしく地獄絵図──“冥魔”の大群に蹂躙される人の営みの象徴だった。
聳え立っていた摩天楼は次々に倒壊し、残されていた乗用車などはひしゃげて爆散する。
それはまるで、世界の終末を記した黙示録のよう。
「クラナガンが……、ひどい……」フェイトが眼下に広がる惨状に呆然と呟き、安心感を求めて攸夜と繋ぐ左手をぎゅっと握る。
すぐさま握り返された手。彼女のさざ波立っていた心の湖面が静まっていく。
自らの気持ちの変化を肌で感じ、フェイトは攸夜が自分に不可欠な存在なのだと改めて思い知る。もう絶対に離れないと、心に強く誓った。
「あの一番大きいのが“災厄を撒き散らすもの”なの?」
「ああ。──野郎、ずいぶんと派手にやらかしてるな」
いくらか落ち着きを取り戻したフェイトの口をついて出た問いかけに答え、攸夜が眉をひそめる。声を落とし、言い捨てるような口振り。
どこか酷薄な横顔を少しだけ心配そうに見上げていたフェイトは突然、「あっ」と声を上げた。
「住民の避難! た、大変だ、どうしよう……」
「それは大丈夫。心配要らない」
「でもっ」
恬としてやけに落ち着き払う恋人に、血相を変えたフェイトは食い下がる。“小を切り捨て大を護る”などと発言していたのだから無理もないだろう。
打算などではなく、心の底から他人を思いやれる──そんな心優しい少女に、攸夜は軽く頬を綻ばせた。そんな君のためだから“力”を揮う気になれるのだ、と。
「フェイト」
まるで睦言のように、少年が恋人の名前を呼ぶ。
そして、今にも飛んでいってしまいそうなおてんばさんの肩に軽く両手を乗せて制した。
「大丈夫だよ、安心して」
諭すように穏やかな声色。
あまり見せない真摯な表情で、大粒の紅い瞳をじいっと覗き込んだ。
惹き込まれるように透き通ったアースブルーの双眸に射抜かれたフェイトの胸は高鳴り、頬が薄く染まる。端正だが美形というよりは精悍で、それでいて気品のある──乙女フィルターを通すとそう見えるらしい──面差しに見惚れてしまう。
ぽーっとするフェイトの胸中を知ってか知らずか、攸夜は気取った風に言葉を紡ぐ。
「何せ、この街には今、一般人なんて一人も居ないんだからさ」
「えっ……?」
言葉の真意がわからず、ぽかんとするフェイト。こてんと小首を傾げて続きを待つ。
「打てる対策はもう施してあるんだ。戦いの勝敗は、始まる前から決まってるってね」
恬然たる“魔王”は少女の期待に応えて、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
首都クラナガンの中心に聳える巨大な超高層建築物、時空管理局地上本部。
各次元世界に展開した地上部隊──いわゆる“りく”を統括する本拠地である。
その一室。無駄な装飾や調度品が省かれた、質実剛健な執務室らしき部屋に初老の男性が一人佇んでいた。
厳つい面差しに切り揃えられた口髭は、恰幅のいい体躯を包むパリッとノリの利いたブラウンの制服と合わさって、巌のように揺るぎない厳格な雰囲気を漂わせている。
「……」
彼の半生を写しとったかのような深い皺が刻まれた顔は、真っ直ぐ魔法の輝きが瞬くガラス窓の外へと向けられていた。
コンコンコン。控えめなドアをノックする音。
「失礼します」
入室したのは聡明な印象のすらりとした二十代ほどの女性。男の副官だ。
「中将、一般市民及び非戦闘員の避難が完了しました。ここに残っている非戦闘員もオペレーターや指揮官など、一部の職員と我々だけです」
「……そうか」
副官の簡潔な報告に男はむっつりと応える。視線はガラスを隔てた向こう側──巨大な黒い体躯を揺らして都市を踏みにじる“冥魔”から離さない。
「……本当に、これでよかったのでしょうか」
「……」
副官は困惑を隠しきれない。
それも仕方ないだろう。お堅い見た目通り、彼女はあまり融通の利く質ではない。
「彼らの行為は明らかに管理局法に違反しています。例え、“アレ”を止めるためだしてもそれは──」
「わかっている。だが、“奴”には命脈を握られているのだ。従う他に道は無い」
不快感を隠さず、苦々しく表情を歪める男。
その脳裏には、数ヶ月前、何の前触れもなく青いドレスを纏った少女を伴い現れた“悪魔”の姿が過ぎる。
どうやって知り得たのか、痛い腹の内を隅から隅まで次々に暴き出した上に、「こちらに協力して下さるなら、貴方の“望み”を叶えて差し上げましょう」そう不敵な笑みを浮かべ、慇懃無礼に言い放った憎たらしい小僧の姿が。
何が“協力”だというのかペテン師め、と男が内心で毒づく。
あの“悪魔”の握る情報がひとたび世間に公開されようものなら、男はすぐにでも失脚。社会的地位も数々の名誉も全部まとめて消し飛ぶことだろう。
別段、男は地位や名誉に固執するタイプではないが、自らの手を“罪”に染めてまで成し遂げたかった“信念”を貫くためには、頷かざるを得ない。最初から選択肢などなかったのだ。
「クッ……! 奴め、管理局を乗っ取り、操るつもりか……?」
本局の上層部も言葉巧みな甘言と教唆によって陥落し、手中に納められているものだと男は当たりを付けている。
事実、廃棄都市地区の一件では地上本部にわざわざ断りが入り、あまつさえ丁重な協力の依頼まで申し込んできたことからも明らかだ。もっとも、事前に戦闘が行われる旨がご丁寧にも通達されていたのだから、対外的な体裁を整えるためのポーズとしか言えないが。
男とて、いい様に使われている現状は業腹ものだ。しかし、“悪魔”が協力するにあたっての対価としてもたらしたモノは、管理局体制を根本から革新しかねないような代物だった。故に、男と本局の高官たち、そして両者の上位機関たる“彼ら”は、半ば望んで“協力”している。
無論、打算と利害で成り立つ空寒い関係ではあるが、“洗脳”や“暴力”などで無理矢理に支配下に置くのではなく、弱みを握って退路を断ち、その上で“道理”を説いて“利益”を示して人心を掌握する──人間の心理を知り、社会という枠組みを逆手に取ったその所業は、少年のような見た目とは裏腹に老獪極まりないものだった。
男は知る由もないが、それこそが“裏界王子”──またの名を“プリンス・オブ・デーモン”と呼ばれる魔王の本領である。
──今回の大騒動でも、さらにシンパが増えることは間違いないだろう。この世界の人間は皆、“冥魔”という未知の存在の恐ろしさに少なからず戦慄を覚えたのだから。
「中将……」
物思いに耽っていた男に、心配そうな視線を送る副官。「ム……」と僅かにばつが悪そうに唸り声を漏らした男は、鋭い眼光を再び窓の外に向ける。
「まあいい。こちらも精々利用させてもらうだけだ。──“魔王”とやらの力を、な」
誰ともなく紡がれた重々しい言葉は、未だ戦いの光絶えない灰色の闇に滲んでいった。