第97管理外世界“地球”。
極東日本。海鳴市のとある空き地。
時刻は夜の帳が下りる頃────
封時結界により封鎖されたその場所には、蒼銀の光が充満していた。
蒼白い燐光を静かに巻き上げる巨大な魔法陣──七芒星を抱いた円状魔法陣を、囲むように張り巡らされた正四角形のライン。各頂点に、同型約二倍の大きさの魔法陣が配置されているそれは、有り体に言えば“ゲート”。この“世界”と、因果地平で隔絶された異なる“世界”とを繋ぐ門だ。
それをコントロールすべく、攸夜が瞳を閉じて一心に精神を集中させている。
彼からやや離れてフェイト、はやてとその一家。そして、エリスらウィザードが勢ぞろいして、固唾を飲んで見守っていた。
────“混沌”の災厄は一時とはいえ去り行き。魔法使いたちの帰還の時は、直ぐそこまで迫っている。
「────ふぅ……、こっちはいつでも行けるぞ」
エリスたちが主八界に帰還するための“ゲート”の構築に専念していた攸夜が軽く息を吐き、ゆっくりと瞼を開いた。額には、玉のような汗が浮かんでいた。
並列宇宙、次元世界間の移動程度ならばお手のものである彼だが、平行世界──確率世界ともなれば話は別だ。地球と各天体の位置関係、月の満ち欠け、時刻などに細心の注意を払い。そして、複雑極まりない術式の構築にも魔力・“プラーナ”・現地の精霊たちなどを微細に調節して初めて成せる大魔法だった。
攸夜は今のところ、“自分と極めて近しい因果を持つ世界”にしか干渉できていない。もっともこの先もそうなのかは彼の成長次第、と言ったところだろう。
なお、エリスたちがこちらに辿り着けた件に関しては、開きっぱなしの“ゲート”を観測が容易なように配慮されていたからである。
「どうもありがとう」
「ただのアフターサービスだ。気にするな、俺は気にしない」
行儀よくぺこりと礼をするエリスと、つっけんどんに素気なく返す攸夜。この二人、つくづく相性が悪いらしい。
エリスたちウィザード一行はクラナガンでの決戦の後、すぐさまとんぼ返り、というわけにはいかなかった。
皆、街中を駆けずり回って疲労困憊であったし、何よりも上記の通り“ゲート”を開くにはそれなりの準備が要る。その間、悠々閑々とクラナガン観光に洒落込んだりしていたのは全くの余談だ。
エリスと翠がおみやげの買い物中に銀行強盗に遭遇したり、灯と命がしれっとデートしていたり、スルガがテスラとばったり出会ったり──そんな、ちょっとしたドラマが生まれたことは、また別のお話である。
態度の悪さに怒ったフェイトから、めっ! されてる攸夜から視線を外したエリスは、はやてたちに向き直った。
「はやてさん、いろいろとありがとうございました。はやてさんに会えなかったら私、どうなっていたことか……」
「そんなんええて。私らもずいぶん助けられたしな、お互い様や」
なあ? とはやてが振り向いて自らの家族に同意を求めた。
「ええ、今回の勝利は我々の力だけで成したものではありませんから」
「エリスのハンバーグ、ウマかったしな〜。あ、あと、マドレーヌ!」
静かに佇むシグナムと、両手を首の後ろで組んだヴィータがそれぞれらしく同調する。
「エリスちゃん、元気でね……ぐすっ」
「帰っても、エルフィたちのこと忘れないでくださいねっ」
「……よき旅を」
シャマル、リインフォース姉妹がそれぞれ感謝の言葉を贈る。シャマルなど感極まって涙ぐんでたり。
最後に子犬モードのザフィーラが、ワン! と一鳴きして締めくくった。
場の空気がしんみりと沈みかえる。誰もが別れの時が迫っていることを肌で感じていた。
「そろそろ行きましょう、エリス」
「……うん」
灯が促す。
名残惜しそうな表情を見せて、エリスは仲間たちの元に──魔法陣の上に歩み寄っていった。
いつまでもここに居るわけにはいかない。少しの間だが、ファー・ジ・アースを離れていたのだ。優秀なウィザードたちがたくさん残っているとは言っても、襲い来る災禍は数知れず。人手は幾らあっても足りることはない。
それに、彼女たちは“異邦人”なのだから。
────魔法使いの出逢いは一期一会。出会いと別れを繰り返して皆、前に進んでいる。エリスが尊敬してやまない“先輩”たちもそうなのだろう。
だから、惑いはいらない。躊躇いはいらない。
魔法陣に一歩手前で立ち止まり、エリスが振り向いた。曇り一つない笑顔で。
「これでお別れ、ですけど……さよならは、言いません」
因果の壁に阻まれたふたつの“世界”は、完全に独立している。住む場所が違うのだ。時間の流れる速さだって違うかもしれない。
けれど、繋がりはきっと消えやしない。絆は絶対になくならない。
この出逢いはほんとうに、奇跡だったから。
「また、いつか。はやてさん、お元気で」
「うん。エリスさんも、身体に気ぃつけてな。あんまり無茶したらあかんで?」
にこりと感謝の微笑み。
巨大な魔法陣が起動を始め、赫耀と光り輝く。間欠泉のごとく立ち上がる蒼銀のベールが魔法使いたちの姿を覆い隠した。
そんな中、はやてに送っていた視線を攸夜へと移すエリス。「えっと……」言いづらそうに、語尾が濁る。
「何だよ」
相変わらずブスッと愛想のない仏頂面で攸夜が応じた。言外に早く帰れ、と言わんばかりに。
取り付く島のない様子に少し迷った後、すっーっと軽く深呼吸して、エリスは二の句を告げる。
「今回は、あなたの思い通りになっちゃいましたけど──」
最初から最後まで、この“自称魔王”の思惑に振り回されてばかりだった。
しかし、それも仕方のないことだろう。“ここ”は彼の故郷。彼の居場所。
大切な場所を救うため、必死になっていたのだろう。
通りすがりのエリスたちとは立場が違う。
だが────
「でも、ファー・ジ・アースではそうはいきません。今度は、私も“ウィザード”としてお相手します。負けませんから、あなたには」
「……そうかい」
鷹揚に答える攸夜。だが、どこか稚気を感じさせる雰囲気は楽しげで。
エリスはなんとなく、このひどく天の邪鬼な──その実、とてもお人好しな“魔王”の本当の姿を垣間見た気がして、クスリと密かに微笑を零した。
煌々とその光量を増していく目映い光の中。五人の姿が漂白されていく。
すると、エリスは何を思ったのか、「あっ、そうだ」と素っ頓狂な声を上げた。
怪訝な顔の攸夜に向けて、彼女が心に残った“忘れ物”を言葉にして紡ぐ。
「フェイトさんのこと、たいせつにしなきゃだめだよ、攸夜君?」
「なあっ!?」
ひどくお姉さんぶったセリフに攸夜は驚き、大いに動揺して目を見開く。柔らかい、春先の陽の光にも似た眼差しの先に“母”の面影が重なって。
一矢報いてしてやったりと表情は、赫々たる蒼銀の輝きに溶けていった。
□■□■□■
雲一つない青空が晴れ渡る。
大海原に面する街には穏やかな海風に乗った潮の香りがわずかに漂う。
聖祥大附属中学校、校門前。
放課後とあって、帰路に就く女生徒たちでごった返していた。
「──やっぱりそういう条件を出してきたか。随分と足元見てくれるね、どうも……」
そんな中に、場違いな男が一人。
癖が強くて少し長い──ありのままに言えばボサボサな黒髪を緩い風に流す少年が、外壁に背を預けて電話をかけている。
服装は青い無地のTシャツの上に黒の半袖のドレスシャツを羽織り、下はクリーム色のカーゴパンツ。ポケットによく日焼けをした浅黒い片腕を突っ込み、何ぞ悪巧みを企んだシニカルな表情を張り付けた姿はどこか様になっていた。
同年代の男子が紛れ込んでいるのが物珍しいのか、それとも浮き世離れした独特の雰囲気が目を惹くのか──道行く生徒たちは、何事かとチラチラ横目で窺っている。
「──ああ、それで構わないよ、アニー。愚か者への制裁はスマートに、な」
そんな雑音をまるっと無視する少年が耳を傾けているのは、シアンブルーの携帯電話──とある“特殊機能”を搭載した0-Phonの最新モデルだ。
その滄海の瞳によく似た色の折り畳み式の携帯には、黒いワンピースを身に着けた黄色いたれ耳の犬のマスコットがぶら下がっている。年季の入った、しかし丁寧に扱われていることが一目でわかる人形が、ぶらぶらと楽しそうに揺れていた。
「──それから、引き続き議会工作と情報操作を遂行するよう、カミーユとファルファルロウへ伝えておいてくれ」
了承の返答がスピーカーから聞こえると、ぱちんと手慣れた手つきで携帯を畳む。それを持った手ごとポケットに突っ込んで、少年は空を仰ぎ見た。
青い絵の具を薄めずそのまま塗りたくったように鮮やかな蒼空──彼の好きな、この惑星ほしの色だ。
────紅い空も悪くないけど、やっぱりソラは青じゃなきゃな。
澄み渡る大空をぼんやりとしばらくの間眺め、感傷に浸っていた少年が不意に視線を落とす。
彼の視線の先、校舎と校門とを繋ぐコンクリート敷きの通路を歩く、ひときわ人目を引く少女たちの一団。
──どうやら待ち人がやってきたようだ。
「あっ、ユーヤーーっ!」
大きく手を振って、ブラウンのブレザーを身に着けた少女が一目散に駆け寄ってくる。端整な顔立ちに屈託のない笑みで彩って。
ぶんぶんと、先に付いた黒のリボンをはちきれんばかりに振り乱す黄金色の髪はまるで、動物のしっぽのようだ。
あれじゃ子犬だな、と頬をほころばせる少年へと子犬と評された彼女は突進の勢いをそのままに、飛びかかるようにして首根っこに抱きついた。
慌てて受け留める少年は、自分を中心に少女の華奢な身体をぐるぐると振り回し、突撃の勢いを逃がす。二周半ほどぐるぐるを楽しんだ後、すとんと着地。
「っと、急に危ないじゃないか。どうした、学校で何かあった?」
「ごめんね……ただ、その、ユーヤと逢えなくて、寂しかったから」
上目遣いで寂しさを訴える金色わんこ。
まさに小動物っぽいその仕草はひどく愛らしく、少年の庇護欲と独占欲を大いにかき立てる。彼の好みは戦場での凛んとした姿であったが、だからと言って甘えられるのが嫌いなわけではない。むしろすごく好きだ。
思わず抱きしめたくなった少年を、ソプラノの声が制した。
「それどこの往年のアメリカンなドラマよ? ていうか、公衆の往来でベタベタしてるんじゃないの!」
つり目がちな金髪美少女が肩を怒らして辛辣にツッコむ。「まあまあ落ち着いて、アリサちゃん」と隣の和風美少女がなだめすかす。
「だ、だって寂しかったんだもん……」
しゅんと恥入りながら少女が言い訳を口にした。依然として少年に引っ付いたままだったが。
「だって寂しかったんだもん、やないで。たった半日、授業の間だけやんか」
「すっごくそわそわしてたけど、ちゃんと先生のお話聞いてた?」
さらに幼なじみたちから次々と畳みかけられて。少女はついにいたたまれなくなったのか、小さくなって肩をすくめる。
ゴシップ好きな年頃の娘さんたちも好奇を眼差しに湛えて、遠巻きに集まりだし──ざわざわと騒がしい。
あー、とかうー、とか唸る少年。自分たちが置かれた状況にようやく思い当たったのか、決まりが悪そうにボサボサの髪を手荒くかき乱した。
そして────
「──行くぞ、フェイト!」
「えっ、あっ、ちょっ! ま、待ってよ、ユーヤっ!」
少女の手を取り、脱兎のごとく駆け出した。文句の付け所のない、見事な三十六計である。
残された彼らの友人たちや野次馬はただ唖然として、逃避行を見送るだけ。
「……逃げちゃった」「ええ、逃げたわ」「いい逃げっぷりだったねー」「さすがやな。逃げ足に迷いがない」
いち早く再起動を果たした幼なじみが口々に感想を漏らす。
呆れ果てた、だがとてもやさしい表情で遠ざかっていく恋人たちを見守っていたのだった。