「やっと着いたな」
「予定だともう少し早くつくはずだったんだよね。……ユーヤが道、何度も間違えるから」
「…………。──ごめん」
夕刻。もうすぐ宵の口を迎える頃。
フェイトを引き連れ、遠見市のとある高層マンションの最上階──とりあえずの住処となる一室の前に辿り着いた。
俺たちの手には、夕食となるべく買い揃えられた食材が詰まったナイロン製の買い物用バッグ。今晩は俺の好きにしていい、ということなので純和風の献立にするつもりだ。
道すがら聞いた話によると、ここはジュエルシードの一件の際に彼女が間借りしていたところらしい。フェイトは「偶然だねー」と語っていたが、察するに姉さんは最初から知っていてわざわざ選んだのだろう。俺もそうだが、あの人はこういう細かい演出が好きなところがあるから。伊達と酔狂が裏界魔王の華だ。
「ただいまー、……ここに来るの初めてだけど」
「おじゃまします」
高級マンションらしく、エントランスにしては広々とした廊下に、俺の間延びした声とフェイトの礼儀正しい挨拶が響く。
放課後、調子に乗った若干二名──黄色いきつねと茶色のたぬきに捕まってこってり絞られた俺。ご丁寧にもなのはの実家、翠屋にてである。そこには当然、なのはの家族もいるわけで……。あとは予定調和のようにお決まりのパターンでいろいろと吐かされた。ついでにお代をまるっとおごりらされたし。……まあ、久しぶりに翠屋の味を存分に堪能できたからイーブンだけど。ザッハトルテ、おいしかった。
──そういえば、桃子さんが、最近なのはの様子がおかしいと漏らしてたっけ。「なにか知らない?」と訊かれはしたけど、心当たりが多すぎるので当たり障りのない受け答えではぐらかしたが。
ベルと殴り合ったダメージはまだ抜けきってないらしいし、戦闘の際に交わされた言葉の内容を俺は知らない。ただ、なのはは“魔法”を避けているようにも見える。──大きなお世話かもしれないが、一度腹を割って話してみる必要があるかもな。
「お帰りなさい、攸くん。いらっしゃい、フェイトさん」
俺たちの声を受け、紅いカーディガンをストール代わりに羽織った姉さん──幼女モードじゃなかった──が、優雅な微笑を浮かべて出迎えてくれた。すぐ後ろには、先に到着していたらしいエイミーが澄まし顔で付き従っている。如才ない奴だよ、まったく。
「ただいま、姉さん」
「お、おじゃまします。えと……」
「“ルーさん”、でいいわよ。昔みたいに、ね?」
「あ、はい、ルーさん」
何故か恐縮した様子のフェイトに、姉さんが苦笑混じりに言う。“ルー・サイファー”として一戦やらかした後だから萎縮するのもわからなくはない、のか? それにしたって動揺しすぎだとも思うが。
姉さんの招きで上がったリビングはフェイトの家にも見劣りしない広さだ。相変わらず、家具や調度品はアンティーク調のもので統一されている。姉さんは貴族趣味だからなぁ。
そのあと。
月衣の中に詰め込んでいた私物──プラモとかゲーム、それから本全般──を自室に置き、満を持してフェイトと一緒に夕飯の準備。二人でキッチンシンクに並んで調理した。
「家庭科の成績がいい」となのはが言っていただけのことはあり、フェイトの手付きは危なげない。少し段取りが悪いような気もしたけど、及第点は余裕で越えていると思う。
「本当に料理の腕を上げたんだな。たいしたもんだ」
「うん、ありがとう。……きっと、覚えてなくてもユーヤに食べてもらいたかったからだよ」
「嬉しいことを言ってくれるね。これならいつでもお嫁に来れるかな?」
「も、もうっ、恥ずかしくなるからそういうこと言わないでっ」
「ははっ、ごめんごめん」
このようにじゃれあいつつ調理された夕飯は会心の出来だった。フェイトと一緒に作ったからかもな。
その味は姉さんにも好評だったらしく、近年稀に見る上機嫌さで食べてくれた。これだから料理はやめられない。
……ただ、食事の席でもフェイトの表情はどこか陰りが見えて。居心地が悪そうに──いや、思い悩んだようなその様子がひどく気にかかった。
□■□■□■
食後、時計の短針が九時を指した頃。
風呂で一日の汗を流し、ようやく訪れたまったりできる怠惰な時間。しかし俺は、趣のあるL字型の大きなソファの上で胡座をかいて読書──というか、勉学に勤しんでいた。
フェイトは俺から少し離れた場所にちょこんと座って、牛乳プリンを一口一口噛み締めるように味わっている。ほんと、幸せそうにものを食べる娘だ。見てるこっちまで幸せな気分になってくるよ。
ちなみに、姉さんとエイミーは自室に退がっている。「ごゆっくり」と意味深な笑みを残して。
何がごゆっくり、だ。
「…………」
時折、こちらをチラチラと窺うフェイトを視界の隅に納めつつ、ミッドで買い求めた分厚い政治関連の専門書に目を通す。反芻するように、何度も。
昔、姉さんにも言われたことだけど、俺は俺が思っているよりもずっと頭の出来が悪いから、しつこいくらいに勉強しなきゃな。
「ユーヤ……」
「うん?」
視線を本から上げる。
声の主、フェイトは何やらもじもじして遠慮がちにこちらを見つめている。どうやらプリンは食べきったらしい。
俺は、専門書にしおりを挟んでソファに置いてから「どうした?」と、努めて優しい声色で問い返した。
「あの……、あのね、そっちに行っても、いい?」
「あぁもちろん。おいで」
微笑んで手招きすると、フェイトは嬉しそうに近寄ってきた。すとんと横に腰を落ち着けて、少し躊躇ったあと遠慮気味に俺の腕に自分の腕を絡める。
「遠慮なんかしなくていいのに」
「うん、ありがとう……。でもね、ユーヤ、勉強してたでしょ? だから邪魔しちゃだめかなって」
「そうか……優しいな、フェイトは」
言って、高級なシルクを思わせる柔らかな髪を撫でてやる。フェイトは「やさしいだなんて……、そんなことないよ」と薄く頬を染めて謙遜する。あれか、これが世に言うナデポか。初めて見たぜ。 ぐりぐり。なでなで。
手触りのいい金髪を存分に楽しむ。フェイトもなされるがまま「ん〜」と気持ちよさそうに目を細めている。
「……私の髪、撫でるの好き?」
「そうだな、フェイトの髪はサラサラしてて気持ちがいいからね。触られるのは嫌?」
「ううん。私もユーヤに触れてもらうの好き、かな」
あれ? 何か、空気が……。
「ねえ、ユーヤ」
「な、何かな?」
「……髪を触るって、とくべつなこと、だよね……?」
ルビーの瞳を潤ませ、フェイトが俺の胸に体重を預けるようにしてしなだれかかってくる。襟元から少しだけ覗く白い肌は今や桜色に上気してひどく艶っぽい。
女の子特有の甘いフローラルな香りが鼻孔をくすぐる。
(──!!)
パリン、と何かが欠けたたような音が聞こえた。
一瞬意識を飛ばしていた俺は、フェイトをギュッと思いっきり抱き締めていた。
「んっ……」
女性的で、少し筋肉質で、だけどふかふかで優しい匂い──
同い年には到底思えないフェイトの色香──たぶん天然──に、心中穏やかでない俺だったが、わずかに残った理性をかき集めて何とかそこで踏みとどまった。我ながらよく頑張ったと思う、うん。
脳内の片隅で、薄紫の髪の幼女が「ほらっ、チャンスだよ! 押し倒しちゃえ!」と無責任なことを抜かしたような気がしたが、無視を決め込んだ。
以前、劣情──かどうかは今でも定かじゃないが──に任せてフェイトを押し倒してしまった記憶は俺にとって痛恨だった。今もたまに思い出して、自己嫌悪に悶絶するくらいには。
だから、当分の間は自制して一線を越えない──“穢さない”と決めている。だけど同時に、この娘を穢していいのは俺だけだという強い征服欲があることも否定しない。自己矛盾だな。
リンディさんに言ったのはただの言い訳。自分でも逃げているということは理解しているけれども、こればっかりはどうしようもない。感情はロジックじゃないのだから。
「ユーヤ……?」
気がつくと、フェイトが小首を傾げてこちらを見上げていた。どうやら無言だった所為で、心配させてしまったみたいだ。
──まったく度し難い愚か者だ、俺は。
「何でもないよ」
内心の自嘲を押し隠して、金色の髪に軽く口付けた。
「ふぁ……」
フェイトがくすぐったそうに身をよじる。少し不満そうな雰囲気も感じるが、概ね満足してくれたみたいだ。
同時に、心底白けた顔をして「ヘタレー」と罵る幼女の姿を幻視した。
ヘタレで悪ぅございましたねっ!
ぐりぐりとおでこを俺の胸に押しつけ、じゃれつく黄色いわんこ。いくらか精神も落ち着いたので余裕を持って後頭部を撫でていると、わんこはソファに置きっぱなしだった本に目を付けた。
さすがは若き執務官。目敏いな。
「……“次元世界関係論”? 外交関連の論述書、それもミッドチルダのだよね」
「うん、ちょっと“お仕事”に必要だから勉強してたんだ」
「外交官、目指してるの?」
「そういうわけじゃないんだけどね。ただ、必要なら資格も取るかもしれないな」
──俺は、この“世界”から“冥魔”を駆逐しきったとは思っていない。遠くない未来、奴らは再び現世に姿を現すだろう。ここに巣くった“冥魔”の元凶たる存在は、そういう性質を持っているのだ。まったく忌々しいことこの上ない。
“冥魔”の跳梁跋扈を防ぎ、そして俺の野望──ということにしておく──を成し遂げるため、いくつかのプロジェクトとオプションを推進させている。今のところは極秘裏にだが、いつか俺自身が表舞台で活動する必要に迫られる状況が必ず来るはずだ。
そのための予習というわけである。単に教養を深めるという意味でも無駄にはならないしな。
「そうなんだ、すごいね。……でも──」
「でも?」
楽しそうにしていたフェイトは一転、眉を落とす。どこか悲しみを湛えた表情。胸の奥に鈍痛が走るのを感じた。
「あなたがなにをしてるのか、なにをしたいのか──、ちゃんと話してほしいなって。私、ユーヤのこと、もっと知りたい」
俺の頬に白魚のような指先がそっと触れる。「だって私……、ユーヤのカノジョ、だもん」フェイトが愛らしくはにかんだ。
自分の手を“カノジョ”の手に重ねる。
「フェイト……。君の言う通りだ、ごめん。今は無理だけど、時が来たら必ず話すから──、フェイトの彼氏としてね」
「うん、信じてる」
無邪気で、あどけない笑顔。
誰よりも大切で、大好きな少女が曇りのない全幅の信頼を向けてくれる。
それが何よりも嬉しい。
どんな高価なものよりも尊い、強くて儚い、愛するひとの笑顔を護っていたい。いつまででも見ていたい。きっとそれが俺の原風景。最も純粋な、混じりっけのない欲望だ。
けれども、ただ独りでは何も叶えるなんて出来ない。ただの暴力では笑顔になんて出来ない。
だから、“力”を求めた。暴力ではない“力”を。
そして今、それはここにある。
──彼女は言った。「あなたなら、ぜんぶの人たちを救うことだってできるはずだよ」と。
ならば救ってみせよう、俺なりのやり方で。
飽くなき欲望を満たすため、何よりも愛するひとのため。この“力”で俺は、全てのヒトを────
「フェイト?」
「すー……、すー……」
考え事をしてる間に、お姫様はくぅくぅと気持ちよさそうに寝息をたてていた。安心しきった、幸せそうな寝顔はまるで子どものようだ。はしゃぎ疲れてしまったのかもしれない。
……そんな顔されたら、起こすに起こせないじゃないか。
「おやすみ、フェイト。──愛してるよ」
起こさないように囁いて、もう一度髪にキスをする。
あと少しだけ、このまま恋人の温もりを味わうとしよう。
────全てのヒトを笑顔に。そして、“世界”全てをやさしく暖かいところに。
それが君の想いに報いることになると思うから。