夕刻────
各地方から首都クラナガンへと出発した列車が集う鉄道の中心地、巨大ターミナルビル。ここに停車する様々な列車目当てに、某魔王が毎日通っているとかいないとか。
そんな駅前。
おなじみ黒い制服姿のフェイトと並ぶ、桃色の髪と同じ色のワンピースと白いブラウスでおめかしした七、八歳くらいの少女──キャロ・ル・ルシエは、刻々と高まる緊張に身を強ばらせていた。
抱えたバスケットから顔を出した銀色の仔竜フリードリヒが「きゅる、きゅるる〜?」と心配そうに見上げているが、それにすら気がついていない。
(うぅ〜、どうしよう……)
手はじっとりと汗ばむ。ストレスを原因とする生理的反応が、彼女の精神状況を如実に表していた。
「キャロ、どうしたの? おなかすいた? あ、もしかしてお手洗い、とか……?」
そんなキャロの様子を怪訝に思ったフェイトが膝を折りつつ、顔を覗く。
執務官制服のままなのは、仕事を早めに切り上げたその足で、キャロがお世話になっている地方の保護施設まで迎えに行ったためだ。
「ぁ……、だ、だいじょうぶです、フェイトさん」
「そう……?」
腑に落ちない顔をしているフェイトに曖昧な笑みを返して、キャロは抱えたバスケットをギュッと抱きしめた。
──彼女がこれほど緊迫している原因は、これから会う予定のとある男。窮状から救ってくれ、今は強く信頼し尊敬するフェイトから、人となりや馴れ初めをのろけ混じりに聞かされているけれども、まだ見ぬ男性との対面に不安は膨らむばかり。今よりも幼い頃、とある事情から住んでいた里を放逐され、それなりに苦労を経験したキャロが見ず知らずの男性に恐怖と警戒を感じるのも、無理からぬことだろう。
「──あっ、ユーヤっ!」
屈んだままの体勢でキャロを心配そうに見ていたフェイトが、突如立ち上がり、ぶんぶんと大きく手を振った。
クールで物静かだと思っていた恩人のイメージを、粉々にぶちこわす無邪気さに面食らったキャロ。なんとか復帰した彼女は、フェイトの視線の先を遅ればせながら追いかける。
やや遠く、鷹揚に手を振り返しながら近づいてくるスーツ姿の青年が見える。遠くからでもわかる特徴的な黒い癖っ毛を、キャロは「ワカメみたい……」と何気なく思う。密かに彼が気にしていること言い当てるあたり、子どもは残酷である。
青年は、大股歩きで近寄りながら、精悍さと稚気を併せ持った面差しを朗らかに相好を崩した女性にまっすぐ向けていた。
百七十センチ後半の大柄な男の人の接近に、言い知れないプレッシャーを感じるキャロの横、フェイトは驚くほど綺麗な表情で青年を迎えた。
「時間ピッタリ、だね」
「あんまり待たせるのは悪いから早めに出たんだ」
それでもギリギリだったけどね、と苦笑混じりに青年が答え、フェイトがくすりと笑みをこぼす。
短いやりとりだったが、表情や言葉の端々に滲み出る信愛は、聡いとはいえまだ子どものキャロでもわかるほど。
(このひとが、フェイトさんのいちばん大切なひと……)
まじまじと自分を見上げる桃色の少女の視線に感づいた青年は、片膝をついて目線の高さを合わせた。子どもの扱いを心得ているのだろう、キャロの感じていた圧迫感が弱まる。
「君がキャロだね?」
「は、はいっ」
「そんなに堅くならなくていいよ──フェイトから聞いてるとは思うけど、宝穣 攸夜だ」
青年──攸夜は微笑から手を差し出す。ひどく優しい、包み込むような声色にわずかにくすぶっていた恐怖心が雪解けのように、ゆっくりとほどけていく。
恐る恐る、キャロは自分の手の三倍はあろうかという大きな手を握る。柔らかく握り返された手の感触は、とてもゴツゴツとしていて頼りがいがありそうに見えた。
(おっきくて、なんだかあったかい……。これが男の人の手なんだ……)
キャロの胸中に暖かな安堵感が広がっていく。事前に感じていた不安は、いつの間にかなくなっていた。
「きゃ、キャロ・ル・ルシエです。それからこの子は──」
「きゅるる〜っ」
「──あっ、フリードっ!?」
籠から抜け出した仔竜が何を思ったか地面に着地すると、白い腹を攸夜に向けて寝そべる。
それは服従のポーズ。鱗の薄い腹は飛竜種にとっては弱点であり、そこを無防備に見せることは最大限の敬意を相手に示しているのと同意義のこと。初めて会ったひとにこんなことするなんて──愛竜の行動を不思議に思うキャロ。一方、攸夜は、「ほう……」と得心したような顔で目を細める。
「俺の本性がわかるのか。賢いな、お前は」
「ユーヤの本性?」
「昔見たろ、“黒い蛇”。竜種とは遠い親戚みたいなものなんだよ」
二人の間だけにしか通じない会話。「で、キャロ、この仔の名前は?」ひとり置いてけぼりのキャロに攸夜が問いかける。
「あ、フリードリヒって言います、愛称はフリード。わたしが里を出たあともずっとついてきてくれて……」
「そうか、いい名前だな。──フリード、これからもご主人様をちゃんと護るんだぞ」
柔らかい腹をくすぐられてフリードリヒが「きゅるるる〜」と気持ちよさそうに喉を振るわせる。そんな、すっかり懐いてしまったその様子が何だかおかしくて。
くすくす。キャロが控えめな笑い声をこぼす。
和やかな空気が場に流れ、攸夜とキャロが上手く打ち解けたことに満足して、フェイトがふんわりと微笑んだ。
二人に連れられて、キャロは市内にある彼らの自宅マンションへ向かった。
帰宅するなり、攸夜はすぐさま夕食の準備に取りかかる。その際、部屋のあまりの広さにキャロの目が点になったり、妹分にいいところを見せようとしたフェイトが、自分もやると言い出したりと一悶着あったものの、調理は滞りなく進み──
「いただきます」
「「いただきます」」
キャロとフェイトが並んで、その対面に攸夜という形で白いダイニングテーブルに着く三人。
事前のリクエスト通り、夕飯のメインは赤いケチャップたっぶりのふわふわとろとろオムライス。それとかぼちゃのポタージュに具だくさんのサラダ。匂いはもちろん、見栄えも美味しい料理にキャロのおなかは我慢しきれず、くきゅーっとかわいらしい悲鳴を上げた。
「あ……」
「くすっ、キャロ、おなかすいちゃったんだね。食べていいよ」
「は、はい……」
真っ赤になったキャロは微笑むフェイトに促されて、ほかほか湯気を上げる少し小さめのオムライスをアルミのスプーンでそっと崩す。
黄金に輝く卵とパラッと炒められたチキンライスをすくったキャロはそのまま口に、ぱくり。
「わぁ! おいしい、すごくおいしいです!」
十年とないキャロの短い、けれども割と激動の人生のなかでも、これほどおいしいものを食べたことはないと断言できる味だった。
実際、攸夜の料理の腕は一流ホテルのシェフ並だ。食いしん坊なフェイトのために日夜研鑽を重ねた結果である。
「そんなに喜んでくれると、こっちも腕を振るって作った甲斐があるよ」
心からの感想に、攸夜がゆったりと満足そうに笑む。
「あ、キャロ、グリンピースはちゃんと食べなきゃだめだよ?」
「おっと、君からそんな台詞が聞けるとはね。皿の端にどけてたのはどこのどなたでしたっけ?」
「むっ、それは昔の話でしょ? いまはもう食べれますっ」
「じゃあ納豆は?」
「……あんなの、人間の食べるものじゃないもん」
「フェイトさんって、グリンピースだめだったんですか?」
「──あっ」
しまった! という顔をするフェイト。しかし、もう遅い。
「そりゃあもう。すごく苦そうな顔をして食べてたよ、食後のデザートにつられてね」
「へー」
「ちょっ、ユーヤ!」
「フェイトさん、ちょっとかわいいですね。意外です」
「だろう? 自慢の彼女なんだ」
「あ、あうぅー」
お姉さん風を吹かせようとしたフェイトの試みは、一枚上手な攸夜によって脆くも崩れ去り。のみならず、かわいい妹分に昔の恥部を知られてしまう結果に。
慣れないことはしないに限ることをキャロは覚えた。
攸夜と同じ量、大盛のオムライスをペロリと平らげたフェイトの健啖ぶりに、価値観の崩壊を感じたり。女の子二人、一緒にお風呂に入ってたくさん話をしたり。
なお、風呂場で交わした会話は八割がのろけだったという。攸夜はすっごく優しいのだとか、いつも一緒に入浴しているのだとか。
そして、風呂上がり。
膝の上にフリードリヒを乗せたキャロの髪をフェイトが優しく拭き、そのフェイトの髪を攸夜が丁寧に乾かす。
男性にしては、手慣れすぎた手つきの攸夜を不思議に思ったキャロが問うと、ほとんど毎日フェイトの髪をとかしているのだという。
女性にとって髪は命と同じくらい大事なものだ。同性のキャロから見ても羨ましいほど綺麗な髪をいとも簡単に任せてしまうのは、それだけ信頼していることの証。フェイトさんはユウヤさんのことをとても頼りにしているんだな──キャロは漠然と、そう思った。
「ユウヤさんはなんのお仕事をされてるんですか?」
「そうだな……、管理局員が毎日気持ちよく働ける環境を作る仕事、かな」
「……?」
「つまりね、ヒーローってことだよ、キャロ」
「フェイト、お前な……。とりあえずそれは違うからな?」
「召喚魔法か。珍しいね、こっちの使い手は始めて見たよ」
「そう、みたいですね。故郷ではみんな使っていたから、あんまり実感ないですけど……」
「ふむ、召喚……召喚、か。仕込めばアレを使えるか……?」
「ユーヤ、悪い顔してるよ。なにかか企んでるでしょ?」
「ははは、ソンナコトナイヨ?」
他愛のない会話を交わしたり、家にあったボードゲームやテレビゲームで──どれもこれもキャロは初めてのものだったが、攸夜は丁寧にレクチャーしてくれた──楽しく、仲良く遊び。当初、遠慮気味にしていたキャロも、いつの間にか無邪気な笑顔をこぼしていた。
その様子はまるで親子……というよりは、遠路はるばるやって来た姪っ子を遊ばせる若い夫婦といった風情。そう見えたのは残念ながら、本当の意味で“親”になる心構えは二人に──特に、フェイトにはなかったから。
──自分を“子ども”としてしか認識できない人間が、誰かの“親”を務めることなどおこがましい。ましてや、未だに“母”の面影を振り切れていない彼女にはなおさらだった。
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夜更け、草木も眠る頃。
「キャロはこんなに懐いてくれたのに……」
遊び疲れて眠ってしまったキャロを膝の上で寝かしつけながら、眉尻を下げたフェイトがぽつりとこぼした。
「どうして、エリオはユーヤと仲良くしてくれないんだろう……」
さらさらと、桃色の柔らかな髪を撫でる。そんなフェイトの胸中に浮かぶのは赤毛のかわいい弟分のこと。
こちらに移る直前、攸夜と顔合わせするために会食の場を張り切ってセッティングした。けれども、彼はひどく無愛想な表情で素っ気ない態度をするばかり。平時はとことん鈍いフェイトにもわかるくらいの不機嫌な空気を発して。
結局会食は微妙な雰囲気のまま終わってしまい、以来、攸夜も自分から会おうとは一切しない。「俺に会っても悪影響しか残さないだろうから」と苦笑いするだけ。
その攸夜は、フェイトの隣で真剣な顔をして彼女の言葉に受け答える。
「あっちが心を開いてくれなきゃどうにも、な。それはわかるだろ?」
「……うん、でも──」
フェイトには、どうして素直でいい子なはずの“弟”が攸夜を嫌うのかわからない、わかるはずもない。
そもそもの“原因”である彼女には。
「まあでも、あの坊やの気持ちもわからないでもないよ。俺も同じ立場なら気に食わないしな」
「……?」
持って回った意味深な言葉に、フェイトが怪訝な顔で小首を傾げた。攸夜はただ穏やかに微笑み、彼女がキャロにするのと同じように金色の髪を撫で、「いつかフェイトにもわかる時が来るよ」とだけ言うと、フェイトの肩をそっと抱き寄せた。