降り注ぐ、怒濤のような火線の間をベルは縫うようにしてすり抜けていく。余裕をにじませた表情でぐんぐんと速度を上げ、砲火の弾幕を作り出すなのはへと急速に迫った。
天空に羽撃くモノ全ての支配者たるベルにとって、“空”はホームグラウンド──自らの領土だ。神の座から墜ち、大魔王として恐れられるようになった今でも、それは何ら変わることはない。
──大空の女王たる自分が、たかが人間の小娘に負けるわけがない。そう言わんばかりに膨大な魔力を惜しげもなく披露する。
「っ……!」
「さっきの威勢はどこに行ったの? さあ、もっとあたしを楽しませなさい、よっ!」
挑発の言葉を吐いたベルは、舞踏を踏むような機動の合間に漆黒の矢を撃ち放ち、距離を取ろうと後退するなのはを執拗に攻め立てる。その冷静で老獪な攻勢は、なのはの体力と精神を少しずつ、だが確実に削り取っていく。
疲労は僅かなミスを生み、ミスは小さな隙となり、隙は大きな致命傷を呼び寄せる。
牽制の魔法を回避“させられて”体勢を崩したなのは目掛けて、先読みで放たれていた虚無の矢──ディストーションブラストが真っ直ぐな軌跡を残して飛翔。反射的に展開された全方位型の障壁──オーバルプロテクションに突き刺さると、八つに飛散して、巨大な空間のうねりを生み出した。
「う、あぅっ」
膨れ上がる空間の歪みの内部で、なのはが苦痛の声を漏らした。幾重にもねじ曲げられた歪曲空間の影響は障壁をものともせず、ギリギリと全身が悲鳴を上げる。
ややあって、終息した歪みから抜け出したなのはは、まただと内心で歯噛みした。
魔力を注ぎ込んだ強固な障壁を張り巡らしているというのに、ベルから撃ちかけられる漆黒の魔法はそれを嘲笑うかのようになのはの身体を徐々に蝕む。
自らの防御能力に絶対の自信を持っているなのはにとって、長年貫き続けていたスタイルの崩壊は、彼女の精神に強い焦りの感情をもたらしていた。
──負の力にて空間そのものを操作する“虚無”の魔法の前では、魔法的な耐性などはほとんど意味を成さない。バリアなどの障壁魔法で辛うじて軽減出来るものの、鉄壁の防御で相手の攻撃を受け止めて戦うなのはには、あまりに相性の悪い攻撃手段である。
仮に、“もう一つのモード”を使用したとしても、ベルのスピードに翻弄され、防御の上から体力を削り取られてただ闇雲に嬲り殺しにされるだけだ。
それをわかっているだけに、あまり得意とは言えない回避重視の戦法を取りざるを得ない。
しかし、最適と思えたその手は、言い換えれば砲撃と防御のパターンを崩され、動揺したなのはの消極的な心が生み出した逃げの一手。
接近されることを嫌うあまり単調になってしまった砲撃など、いくら撃ってもベルには障害にもならない。
「ざーんねん。鬼ごっこの鬼はちゃんと逃げなきゃ、ね?」
金色の光──“プラーナ”を、限界近くまで解放して得た神速で、瞬く間になのはの懐に飛び込むと、胸に結ばれた赤いリボンにとんと右手を当てる。
(しまっ────)
ぐっと一瞬だけ力を込めて、ベルは囁くように術式を発動した。
「──ヴァニティワールド」
ゼロ距離で解放された漆黒の力。
ベルの右手を起点にして、虚無の力が放射状に広がり、立方体状の魔法陣を形成。なのはごと空間を包み込んだ立方体の魔法陣は、人には聞こえない高周波のノイズを放って全てを喰らい尽くす。
“ヴァニティワールド”──立体魔法陣の内部に取り込んだ全てを等しく無に帰す、虚属性の最上級魔法である。
リオンに言った通り、殺さない程度には手加減していたが、その威力は絶大にして無比。“万物を消滅させる虚無の世界”の名に相応しい、破滅の力がなのはに襲いかかる。
「きゃああああっ!!」
悲鳴を上げながら、白衣の魔導師が紅く染まった摩天楼へと墜ちていく。
そのままとあるビルの屋上に墜落。コンクリートを砕いて出来た小さなクレーターの中心から、砂煙がもうもうと立ち昇る。
「く……っ」
震える身体を叱咤して、レイジングハートを支えに何とか立ち上がるなのは。純白のバリアジャケットは見るも無惨にボロボロで、口元からこぼれた紅い血が筋を作っている。
そんななのはの目の前に、ふわりとポンチョをはためかせ、ベルが悠然と降り立つ。
「あなた、力の使い方ってものが全然なってないわね。自分の力を過信して、得意な距離、得意な戦い方にこだわりすぎよ。……どうしてこう、馬鹿魔力の持ち主ってのは揃いも揃って馬鹿ばっかりなのかしら」
こめかみに指を当てて、頭痛を感じているかのような仕草をして、誰かを引き合いに出してなのはを当て擦った。
「そんな、魔力を、持ってる……あなたに、だけは……言われたくない、よ」
「ふん、言うじゃないの」
ダメージの色濃い身体で、なのはは苦し紛れに当て付け返す。
「ま、いいわ。完全なる敗北と、絶対なる絶望の味を心行くまでたっぷり教えてあげるから、ありがたく思いなさい」
漆黒の陽炎を巻き上がる。
ふわりと浮遊したベルの突き出した右手に、漆黒の輝きが瞬いた。
□■□■□■
なのはがベルに追い込まれていた頃、ユーノははぐれてしまった少女を探してショッピングモールの内部を走っていた。
サーチャーで特定した居場所へと奔走する。
「はぁ……、はぁ……っ。これは、もう少し、運動した方がいいかな」
デスクワークが主体だったユーノの運動不足は確定的に明らか。久々の全力疾走に痛みを訴えるわき腹を押さえてぼやく。
そんな自分が情けないと自省しつつ、曲がり角を抜ける。
「ぐすっ、ママぁ……ママぁ……」
少し先、一面ガラス張りの大きな窓のある廊下の床に、ぺたりとへたり込み、ぐずぐずと泣いている十歳前後の少女が見えた。
栗色の髪を短いツインテールに結ったその少女に、初めて出会った頃のなのはの姿がだぶる。
そんな益体もないことを思いながら、ユーノは少女に駆け寄った。
「大丈夫? 怪我はない?」
突然声をかけられて驚き、びくりと肩を揺らした少女は、涙をためた黒目がちな瞳で恐る恐るユーノを見上げる。
「うっ……ひっぐ、おにーちゃん、だぁれ?」
「君のママに頼まれて、代わりに君を迎えにきたんだ。もう大丈夫、一緒にママのところに行こう」
その言葉に、少し間を置いてから──おそらく、幼いなりにもいろいろと考えているのだろう──、こくりと頷いた少女に、ユーノはやさしく笑いかけた。
大きすぎる慢心が災いしたのか、ベルはなのはの仕掛けた遅延型のバインドに引っかかり、空中に張り付けにされていた。
「くっ、しまったっ!?」
「全力全開! スターライトッ!!」
桜色の拘束具に四肢を捕らわれ焦りの表情でもがくベルへ、なのははこの隙を逃しはしまいと金色の切っ先を突きつける。
撃ち放つのは、渾身の一撃────スターライトブレイカー。
きゅんと軽快な音を立てて、無数の“星”が、環状魔法陣を展開するレイジングハートの先に集い──集った“星”が収束して、巨大な光となった。
直径五十メートルはあろうかという桜色の光輝を前にして、ベルは驚愕で表情を染め──
「──なーんて、ねっ!」
一転、薄笑いを浮かべたベルの痩身からごっと金色の光が勢いよく吹き出す。その圧力に耐えきれず、ぱりんとガラスが割れたような甲高い音を立てて桜色の光が粉々に砕け散った。
有り余る魔力と“プラーナ”で、力任せにバインドを破壊したベルは、ひらりと身を踊らせて巨砲の射線から離脱。
「ブレイ────え?」
発射態勢に入っていたなのはは唖然として、目を見開く。
臨界点を越えた大量の魔力は、対象を見失ったとしても、留めることなど出来はしない。
放射された桜色の巨大な魔力の塊は、ベルが捕らわれていた位置の遥か後方にそびえ立つ、四十階建ての高層ビルに向けて一直線に走っていった。
少女を連れ、転送魔法でここを離れる準備していたユーノは、ふと視線を窓の外にやる。
「ッ!!」
そこには、紅い空の下、遠方からとても馴染み深い見慣れた色をした光の柱が、ユーノたちが居るビルへと直撃コースを取って突き進んでいる光景があった。
その極太の光に込められた膨大な魔力に、ユーノの背筋が凍り付く。
(なのはのスターライトブレイカー!? 転送──ダメだ、間に合わない!)
足下には、きょとんとした顔をして見上げてくるいたいけな女の子。
どこか想い人に似た少女の雰囲気に、ユーノの目の前が真っ赤に染まる。
「くそっ!!」
転送魔法を即座に破棄して跪くと、少女の頭を抱え込み、限界まで魔力を注ぎ込んだ最大強度の多重障壁を張り巡らす。
刹那、世界そのものが揺れるような甚大な衝撃波が彼らを襲う。極大砲撃の余波で、多重障壁は簡単に損傷を受け。
中層階は消し飛び、支えを失った上層部が一気に崩落を開始する。重みに耐えられなくなった鉄筋や、コンクリートが雪崩のように降り注ぎ、緑の防御膜の中で身を縮めるユーノの視界を覆った。
「あーらら、崩れちゃった」
崩れた巨大な塔を見やり、ベルが愉しそうにクスクスと嘲う。
そして、その軽薄な態度が不愉快なのか、顔をしかめるなのはへと艶美な眼差しを向ける。
「あんなに派手に壊れて、“人間が中にいたら”どうなったのかしらね?」
「それって……」
「猪武者じゃないんだから、少しは自分の頭で考えたらぁ?」
遠回しな言葉に訝しむなのはに、ベルは馬鹿にしたような猫なで声で促す。
『──マスター!』
「っ!」
レイジングハートの短い警告の意味をすぐさま理解したなのはは、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべるベルを半ば無視して、弾かれたように飛び出した。
コンクリートや鉄筋、その他いろいろな物が積み上がった瓦礫の山。
微弱な生命反応を──いや、“少女の泣き声”を頼りに、なのはは“ソコ”に辿り着いた。
「ユー、ノ……くん?」
祠のように積み重なった瓦礫の下から、紅い“ナニカ”が足下に広がっている。
引き寄せられるように歩を進めると、紅い“ナニカ”がぴちゃりと跳ねてなのはの白い靴を汚す。立ち止まった靴のつま先に、ひび割れたノンフレームの眼鏡がぶつかる。
「どう、して……こんな……」
「──あなたがやったのよ」
地面に突き立った五メートルほどのコンクリートの破片に腰掛けたベル。すらりとした細い脚を組み、冷たく光る金色の双眸でなのはを見下ろす。
「わたっ、私は……っ」
「言ったでしょう? あなたは分不相応な力に振り回されるだけの、ただの粋がった小娘だって」
「ちがっ、ちがう!」
「違わないわ。ほら、見てみなさい」
瓦礫の奥、影になっていたところに紅い月の光が射し込む。
真っ赤な血液を止めどなく垂れ流す数年来の親友──そして、彼から流れた鮮血に汚れ、恐怖に泣き喚く小さな女の子。
流血した友の姿と、痛々しい少女の泣き声がなのはの心を深く突き刺し、容赦なく抉る。
「ぁ、あ……ああ、ああああっ!?」
「クスッ、好い顔。……ねえ? わかったでしょう? “それ”は、あなたが傷つけたの。あなたの力で──あなたのその手で、ね」
なのははレイジングハートを強く抱き抱え、膝から血溜まりに崩れ落ちる。
「い、や………ちがう、ちがうの……私、そんなつもりじゃ……うそ、だって、知らない、知らないよ……。私……、私────」
血の気が失せた青白い顔で長い髪を振り乱し、脈絡のない言葉を壊れたラジオのように繰り返す。
「フフッ、案外愉しいゲームだったわ。機会があったらまた遊びましょう? ……もっとも、あなたが“ソコ”から這い上がれたならの話だけど。……じゃあね──アハッ、アハハハハハハハッ!!」
紅い闇の中に溶けていくベルの嘲笑だけが色褪せ始めた紅い世界と、崩れていくなのはの心に残されていた。