凍り付くような北風が肌を刺す、ぐんと冷え込む秋の暮れ。旧暦では霜月とも呼ばれる頃。
様々な物事の終わりを暗示させる、季節の変わり目────
雲一つない、真っ青な大空から降り注ぐ比較的暖かな日差しを浴びて、少女は家族と旅立ちの挨拶を交わしていた。
「なのは、本当に大丈夫なの?」
姉が心底心配そうな表情で、気遣うような声を出す。
「心配いらないよ、お姉ちゃん。高校生の間、ずっとお休みしたんだもん。充電完了、元気百倍だよ」
身体を酷使していた頃の古傷や“魔王”と孤立無援で戦った代償は深い。だが、健やかに過ごした日々は確かに少女の傷を癒していた。
さすがに完治とはいかない──右腕の感覚は未だに少し鈍い──が、それでも、同じ時間だけ無茶を重ねたのとでは比べようもない。
「……身体には気をつけるんだぞ、特に生水は危ないからな。夜道の一人歩きは絶対駄目だ。それから──」
「だいじょーぶ。なのははだいじょうぶです、お父さん。
フェイトちゃんとユーノくん。クロノくんにはやてちゃん、ヴィータちゃん、シグナムさん、シャマル先生──それから、えっと……あ、あと、攸夜くんもついててくれるから」
そうか、と父が言う。
その声色には複雑な心境が滲んでいた。きっと、愛娘が死地に向かおうとしていることを察しているのだろう。
けれども。決して止めようとしないのは、彼女が自らの意志で決めたことだから。もう彼女は子どもではないのだ。
この無鉄砲な娘が、天下無敵の頑固者なのは父親である彼が一番よく知っていた。
「やっぱり、なのはが行くことないよ! 他の子に任せたって──」
「美由希、よしなさい」
「──でも、お母さんっ」
食い下がる姉を母が諫める。
とんとん、と肩を叩いて宥めると、笑顔のまま少女に向き直った。
「なのはが自分で考えて、考え抜いて決心したことだもの。私たちは応援してあげなきゃ──そうよね? なのは」
「うん。誰かに言われたとか、状況に流されたとかじゃなくて。自分でちゃんと決めたことだから……また、空を飛ぼうって」
押し寄せる漠然とした不安に抗おうと、少女は首から下げた紅い宝石を握りしめた。
不屈と呼ばれた少女の心は、粉々に砕け散った。なくしたのは“勇気”、困難に立ち向かう自分を信じる力だった。
──彼女は、自分の力が、魔法の力が怖かった。
力を振るえば、必ずまたどこかの誰かを傷つけてしまう。誰かのナニカを奪ってしまう。
あの「真っ紅な光景」は、今でも心に絡み付いて離れない。両手が真っ紅な血濡れに見えて、震えが止まらない。
どうしようもなく、自分が穢れてしまっているように感じて。
翼はあるのに、飛ぶのが怖くて────、
「──あっ……」
昏い深みに嵌っていく思考を引き上げてくれたのは、暖かな温もりだった。
「でも……、辛くなったらいつでも帰って来ていいのよ。なんたって、ここはあなたの家なんですからね」
少女を包み込みながら、母が言う。
やさしい響きが乾いた大地に降る雨のように、じんわりと心の亀裂に染み込んでいく。
「……うん」
ふわり──どこか懐かしいにおいが鼻腔をくすぐる。
ああ、自分はこんなにも。こんなにもあったかい場所にいたんだ──家族のやさしさを改めて思い知り、少女は目頭が熱くなる。
なくもんか! と瞼に力を入れたら余計に涙が零れて。母の胸は少女の涙で濡てしまった。──クスリと微笑ましく思われたような気がする。
──あの頃は、
“魔法”に出会ったあの頃は。自分だけ、家族の中で浮いてるって思ってた。
自分にできることはなんにもないって思ってた。魔法だけしかないって思いこんでた。
けど、それは大きな間違い。
ほんとはみんな、私のことを思ってくれてて。
ほんとはいっぱい、私にできることがあった。魔法なんかじゃなくても、誰かのためになにかをできるんだって。
お母さん、お父さん、お姉ちゃんと、いまは留守だけど、お兄ちゃん……みんな、ありがとう。
わがままで、ごめんなさい。
(たしかに私……子どもだったよ、攸夜くん。勝手に期待して、勝手に失望して、ひとりでぐるぐる空回りして──まわりのこと、ぜんぜん見えてなかった。
……そんな私の、私だけの戦う理由、戦う意味……、それがなんなのか、まだよくわかんないけど──)
──でも。だから。今度こそ、
「今度こそ、決着つけなきゃ。いままでと、これからに」
呪文のように小さく呟いて。
ふう、と深く息を吐き、少女は顔を上げた。
永遠の別れなんかじゃない。きっと、必ず、ぜったい──ここに帰ってくる。そんな思いを込めて、彼女は言葉を紡ぐ。
「それじゃ──、いってきまーすっ!」
日溜まりのように朗らかな笑顔を咲かせて、少女──高町なのはは旅立ちの一歩を力強く、踏み出した。
第十三話 「禍福は糾える縄の如く 運命の天秤は表裏の狭間で揺れて」
──新暦75年 一月某日
週に一二度の割合で、“冥魔”や違法魔導師と管理局魔導師の市街地戦が勃発するものの、それ以外は至って平穏なクラナガンの休日。
よく晴れた空の下、自宅マンション近くの公道に停めた蒼と黒のオートバイの側に攸夜はいた。
「〜♪」
鼻歌を混じりでバイク型“箒”、オラシオンを磨く。
ワックスの乗った布切れ片手にひどくご機嫌なのも無理はない。今日は久しぶりに、自分の全てよりもずっと大事な愛しい女の子とデートに行く予定なのだから。
毎日毎晩年中無休でイチャついてるじゃないか、という至極真っ当な指摘は意味を成さない。「愛し合ってる二人が一緒にいることの何がおかしいか」と反論されるのがオチである。
──同棲を始めて約三年。
たまに喧嘩をしたりもするが、彼と彼女の仲は未だにつき合い始めた頃のまま。その病的なまでのおしどりっぷりは、親しい友人たちは「さっさと籍入れろ」と口を揃えるほど。
お互いがお互いを不可欠とする──、それはまさに比翼連理の契りと呼ぶに相応しい絆の在り方。しかし同時に、どこか危うい結びつきのカタチだ。
余談だが、このオラシオンは“箒”コレクターである攸夜お気に入りの一品で、“箒”にも分類される自らの分身アイン・ソフ・オウルの次に大事にしている。
形ある確かなものへの執着傾向がある攸夜は、こういったことでも拘りを遺憾なく発揮。ファー・ジ・アースのメーカーに赴いてデザインを事細かく指定した一品物だ。
“自分の属すると決めた共同体のルールは最大限尊重する”がモットーの攸夜なので、もちろん車検や免許など、ミッドチルダの法律を遵守していることは言うまでもない。──権力を使っていろいろ優遇を受けているのは秘密だが。
なお、機械音痴は相変わらずなので、“箒”の整備やオプションパーツの増設などはほとんど人任せだったりする。こればっかりは相性が悪すぎるので妥協する他ない。
「……んむ、我ながら見事な仕上がりだな。こう完璧だと、思わず世界を破壊する旅に出たくなるね」
ピカピカなった愛車を眺めて、攸夜が満足げに頷く。独り言ちたセリフは割と洒落にならない。
とその時、エントランスから少女──もうそう呼ぶには大人びてい過ぎる──が慌てて飛び出した。
息を弾ませる彼女──フェイトが、ボロ切れで汚れた手を拭う攸夜の前に駆け寄った。
「いつも、ごめんね。待たせてばっかりで」
「ん、いいよ別に。俺は俺でコイツを磨いてたんだし。……それに、女の子の支度を待つのも男の甲斐性だからね」
「そうなんだ〜」大きな瞳をまんまるに見開いてフェイトが関心する。そして少し考えた後、「なんだかカッコいいねっ」とよくわからないコメントを炸裂させた。
一方の攸夜も内側では「実際、二時間も待たされることになったよ」とバッチリ的中した数年前の自分の予想に苦笑していたりする。
過去に思いを馳せることを切り上げ、攸夜はフェイトの柔らかくもすらりとした総身をじっくりと眺めた。──やらしい意味ではない、たぶん。
彼女の今朝のお召し物は、赤いタータンチェックのスカートを主体にした活発な印象の装い。
普段の大人しめな、ある意味清楚な服装ではないのはバイクで出かけることを考慮した結果だろう。黒のサイハイソックスを履いてくるあたり、攸夜の嗜好はしっかり把握していた。
ジーッと見つめられて恥ずかしいのか、所在なさげにもじもじするフェイトを観察──というか愛でていた攸夜が、ふとあることに気づいて口を開く。
「……もしかして、メイクのイメージ少し変えた?」
「あ、う、うん。ユーヤ、あんまり派手なのは好きじゃないって前に言ってたから……ダメ、かな」
金色わんこが不安げな上目遣いでアースブルーの双眸を覗き込んだ。
最近、身だしなみ程度の化粧を覚えたフェイト。密かに義母や義姉、それからたまにメイド魔王からもおしゃれのイロハを学んでいる。
生来の生真面目さと努力家な面を発揮して、それなりに上手くなっているようだ。──その根底には「大好きなひとにすこしでも喜んでもらいたい」という、けなげな想いがあることは間違いない。テスタロッサさん的世界観でいうところの「世界そのもの」である“ユーヤ”のためなら、命だって擲てることは十年前に実証されているのだから。
「駄目じゃないよ。──けど、どんな君でも好きだけど、俺が一番好きなのはありのままの君だな」
フェイトがはっと息を呑む。まるで求愛の言葉に、白皙の肌がほんのり朱に染まうのも無理からぬことだろう。
小さい変化にも目敏く気づき、歯の浮くような言葉を素面で吐けるところがタラシと呼ばれる所以である。何を思って彼の“母”がこういう性質を彼に持たせたのかは定かではない。某フラグクラッシャーの鈍感さに耐えかねたのだろうか。
「よかった、ありがとう。ユーヤにそう言ってもらえると、すごくうれしい……」
安堵したフェイトは、ふんわりあどけなくはにかんだ。羽毛のようにやわらかで、どこか面映ゆい表情がすごくかわいくて、攸夜はほんの微かに紅潮した。
ポーカーフェイスをまるで維持できず、赤らんだ顔を左手が押さえる。動揺を隠しているつもりで全く隠せておらず無様だ。──惚れた弱みという奴だろうか、こうしてフェイトが時折見せる可憐さに、不意打ちされることもしばしばだった。
つまるところ、“フェイト・テスタロッサ”はあらゆる意味において“宝穣 攸夜”の天敵なのだ。
「ユーヤ……?」
「い、いや、何でもない。それより、そろそろ行こうか」
動揺を取り繕い、無理矢理気味の話題転換。一瞬気遣うような様子を見せたフェイトだったが、それ以上の追求はしない。彼女の妙なところで鋭い勘が問題なしと告げている。
「うん、そうだね。そうしよ」
故に、彼女は相好を笑顔に崩して提案を受け入れたのだった。
フェイトが背後の座席に座ったのを確認すると、攸夜は白い羽根を模した飾りの付いたキーを捻った。途端、狭角V型2気筒680ccの魔力エンジンに火が点き、鋼の心臓が唸りを上げる。
十七インチのタイヤにゆったりとした低めのシート、スクーター風のスポーティーな外装はしかし、ニーグリップが可能な本格派。後輪を、左右から挟むように取り付けられた金色の翼のようなスタビライザーが、“箒”であることを強く主張している。
近く、これの運用思想を発展させたオフロードタイプ──人型サポートメカへの変形機構つき──が、陸戦魔術師向けに実戦配備される予定だ。
「ちゃんと掴まったな?」
「うん」
準備万端をアピールするように、指定席に収まったフェイトが大きな背中にぎゅーっと抱きつく。そんないじらしい仕草に頬を綻ばせつつ、攸夜はメットのバイザーを下ろしてアクセルを入れた。
「よし、それじゃあ──」
「──しゅっぱつしんこー、だねっ」
急速回転したホイールが道路に焼け付くような跡を刻み、鋼鉄の騎馬が朝の摩天楼を駆け抜けていった。